2016.12.04

ご挨拶 いつのまにか師走

 すっかりご無沙汰してしまいました。みなさん、お元気にお過ごしでしょうか。12月に入り、暦の上では大雪も間近。東日本では先月末から季節外れの大雪に見舞われ、とても寒い冬が到来したようですが、こちらは木枯らし一号がいつ吹いたのやら、いったい吹いたのやら、11月末恒例の庭木の剪定も穏やかな天気のもと無事に終わり、いつの間にか冬に突入、といった感じです。寒さが苦手な私には、この連日の暖冬の日々がとてもありがたく、できればこのまま年越ししたい・・・と思っていた矢先、今日はしとしとと冷たい雨が降り続く中、急に寒さが到来しました(その中、近くの中学校では朝から日が暮れるまで、ちびっ子サッカー大会が行われていました。絶対に風邪を引いてしまったよね、ひどい!)。今、この文章を打っている手はすでに鉄のように冷え、数日後には赤い斑点がポツリ・・・などとなるのではなか、と恐れているところです。年末に向けて、何かと慌ただしい時期を迎えますが、体調を崩すことなく乗り切りたいものです。みなさんも風邪などひかないように、どうか気をつけてくださいね。



フォトエッセー 大村智氏文化講演会

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(左)石橋文化センター。奥の建物は私がよく利用する図書館で、美術館は右奥にある。センター内は四季折々の花々がいつも美しく咲いていて、何度訪れても飽きることなく、いつも元気をもらえる大好きなスポットだ。この日は早朝まで激しい雷雨に見舞われたが、予報に反して雨はすっと降り止み、日も差し始めた。それでも天気は不安定で、いい写真が撮れず残念! しかも、肝心の美術館の写真がない。

(右)久留米市美術館 開館記念 文化特別講演会。70分ほどに及ぶ大村智氏の講演が終わり、これから花束贈呈が行われるところ。会場はセンター内にある文化ホール。大村氏は舞台左側でパソコン操作をしながら、舞台バックのスクリーン上にさまざまな写真等を投影してお話された。


 1956年以来、長年愛され続けてきた石橋美術館が、このたび石橋財団から久留米市に運営が移管され、11月19日に久留米市美術館として新たなスタートを切った。その開館記念として、同日、文化講演会が行われた。講演者は、昨年ノーベル生理学・医学賞を受賞された北里大学特別栄誉教授の大村智氏。私も応募した結果、めでたく抽選に当たり、貴重な講演を聞く機会に恵まれた。

 大村氏といえば、美術の分野にも造詣が深く、数々の美術品をコレクションされ(2千点もあるそうだ)、氏の出身地には自らが初代館長を務められた美術館もあるということだが(以前、テレビでこの美術館が取り上げられ、氏自らが片岡球子や小倉遊亀などの作品を紹介していたが、ここが日本で唯一、女性画家の作品ばかりを展示しているという美術館だろうか?)、今回の講演依頼には、更に興味深い経緯があった。大村氏は久留米市生まれの洋画家青木繁の代表作の1つである「海の幸」とゆかりが深く、NPO法人 青木繁「海の幸」会 の理事長を務められているそうだ。「海の幸」はこの美術館で長年、常設展示されてきたが、油絵として初の重要文化財だということを今回初めて知った。創作舞台は千葉県館山市のマグロ漁で栄えた漁村(布良)の上層漁家だった小谷家で、「海の幸」会は、損傷がかなり進んでしまったその住宅の復元、保存(加えて、房総半島一帯の景観の保存活動)を目的として発足したらしい。そして2014年4月から2年かけて修復工事が行われ、今年4月に『青木繁「海の幸」記念館 小谷家住宅』として、一般公開が始まったのだという(一部、会のサイト参照)。この活動に対し、石橋財団からも助成金を受け、それが縁で大村氏は今回の講演の話を快諾されたということだった。大村氏が久留米市ゆかりの画家の作品に深く関わっていらっしゃることを知り、私はとても嬉しかった。当日配布されたこの記念館のパンフレットによれば、青木繁はこの周辺にある神社の祭礼で、神輿が夕陽の海に入っていく光景に感動して「海の幸」の構想を得たのではないかと考えられている。初めて耳にするこの美しい創作秘話とそこに掲載された実際の神事の写真(沢山の男衆が神輿を担いで浜辺を歩いている)を見た途端、この「海の幸」の光景が新鮮な感動と懐かしさを伴って、私の脳裏に蘇った。実は「海の幸」は久留米市の旧市民会館大ホール(昨年閉館。新たな総合施設の中に今年4月新設された。)の緞帳に大画面で描かれていて、子供の頃から幾度となく接してきたのだ。というのも、旧市民会館は私が通った小・中・高校のそばに位置していたので、演劇鑑賞や合唱コンクールやコンサートなど、各種イベントでよく使われていたからだ。どんなに楽しい舞台の合間でも降ろされる、この寂しく薄ら暗い緞帳を私はあまり好きではなかったが、その後、美術館で実物に触れたときには印象がガラリと変わった。勢いのある確かな筆致、複雑な色彩にアクセントを与えつつも不思議な調和を生み出しているオレンジの縁取り、海岸の湿気やひんやりした空気感、漁師たちの息遣いや足跡まで聞こえてきそうなリアルな光景には緊張感が溢れていて、改めて作品の素晴らしさに見入ったことを思い出す。


 私自身の思い出と絡み、一作者の一作品のことばかりに触れ、あまりにも寄り道してしまった。そろそろ本題に入りたい。講演会の演題は「私の半生を振り返ってーストックホルムへの道」。大村氏のサクセスストーリーは、ノーベル賞受賞時にテレビや新聞等から概略を知ったが、今回の講演の中で新たに知り、印象に残ったことなどを以下に述べてみたい。但し、内容を補うために、ノーベル賞受賞時の新聞等からの情報も一部含まれている。(聞き違いがあるかも知れないことを、どうかご了承ください。)

 大村氏は農家の5人兄弟の長男として生まれ(父は村の世話役もし、母は教師をした経験がある)、高校までに農業のノウハウをほぼすべて身につけるほど、小さい頃から家業を手伝って育った。大学進学を考えたことなど全くなかったが、高校3年の時、10日ほど入院した際に、本を読んでいる姿を見た父親が大学に行く選択肢を与えてくれた。大学について何の情報ももたない大村氏は、隣の席の友人と同じ大学(山梨大学)を受験することにし、先生からは絶対に無理だと言われる中、ぐんぐん実力をつけ見事合格した。大学時代はスキーに明け暮れたが(勉強はそこそこ取り組んだらしい、高校時代もスキー部の部長)、オリンピックに行くほどレベルの高い人たちとの交友もあり、その中でその後の研究人生における指針をすべて学んだという。また、大学時代、尊敬する教授から事あるごとに言われ続けた「卒業後の5年間が勝負、最も大切な時期」という言葉を胸に、教職を得て教員生活を送っていたある日、勤務先の夜間高校でひとりの生徒の油まみれになった手を見て、これまでの自分の学問に対する態度を反省し(教師としては生徒を思いやる素晴らしい先生だったと思う。担任になったクラスでは全員一緒に卒業することを目標に掲げ、ほぼそれを達成できたのだ、夜間高校で。とてもすごいことだ。)、一から学び直すつもりで大学院に入り、猛勉強を始めた(夜はこれまでどおり教師を続け、更にその後、日本に2台しかない最新機器を借りての実験?、それは機器が空いている時間帯に限られていたので、土日も返上して取り組んだ・・・を繰り返す日々)。その凄まじい努力の甲斐あって次第に実力が認められ、米国留学を勝ち取り、留学先では希望した教授の研究室のもとで充実した研究生活を送るに至る。その間、帰国後を見越して、日本での研究費を確保するために大手製薬会社との共同研究も始めた。帰国を促され、実際に戻ってみると、大学側の方針の変更で、突然、研究室の閉鎖を言い渡され、窮地に立たされるが、大村氏は大学側に独立採算制で研究室の存続を交渉し、以後、ずっとその運営方式を貫いているという(研究室賃貸料や研究室に欠かせないポスドクの人件費などをすべて、特許料から得た自己資金から拠出してきた)。産学連携は当時、日本の研究者の間で抵抗が強かったようだが、米国レベルの研究を続けるために、大村氏はそれを貫き通し、研究室は次第に大きくなっていった。そして優秀な人材が次々に育ち、その方々が今、世界各地の第一線で活躍されているという。大村氏はそれが何よりも嬉しいとおっしゃっていた。そして、これら心強いネットワークに支えられて、今も天然物から新規物質を探るという「砂山から砂金を探すような」(神奈川大学 上村大輔教授)地道な作業を続けているという。「効率のよい人工化合物に頼らず、手間のかかる天然物を創薬に繋げる研究を続ける理由は、自然界からは人が考えつかないような全く新しいものが出てくる大きな可能性を秘めている」(福島弘明ファーマコンサルティング社長)からだそうだ。大村氏の子どもの頃の厳しい農業体験が、研究の中で大いに活かされていることを強く感じた。

 近年、自然科学分野のノーベル賞受賞は、短期間での成果が重視される傾向にあるとよく耳にする。今年、大村氏と同じ分野でノーベル賞を受賞された大隅良典氏も、短期間で成果が出にくい基礎研究が軽視されている事態をとても危惧されているお一人だ。先日の新聞でも、大学が国からもらえる運営費交付金が10年前より1割ほども減り、教員の削減に追い込まれていると書かれていた。大隅氏はそのことを大変憂慮され、ノーベル賞金をもとに若手の研究者に奨学金や研究費の支援をする仕組みを作ると表明された。自然科学の道を究めたい若い研究者にとって、どれほど大きなやる気と励ましになる試みだろう。翻って、同じ基礎研究への資金提供と言えども、昨年度、防衛省によって始められたのは、防衛装備品への応用を見据えた研究という条件つきの「安全保障技術研究推進制度」。先の戦争の反省を踏まえ、大学はこれまで軍事研究と距離を置いてきたというが、上述したような大学側の苦しい財政情勢から、大学の研究者たちはこの制度に大いに関心を寄せ、多数の応募がよせられているという。この事実に、私は言いようのない不安と脅威を感じている。

 元来、自然科学における新発見とは真理への飽くなき探求心から生み出されるものであろう。だからこそ、研究者たちはこの発見のもつ両刃の剣の脅威を常に自覚し、理性的な判断のもと、それが間違った方向に進まないように導く努力をしなくてはいけないはずだ。優れた才能は、将来に負の遺産を残すもののために使われるべきでは決してない。たとえそれが、自己の探究心を一時期に満たし、ある組織のある目的のために有効だとしても、それが人類社会に大きな禍根を残すことに荷担するのであれば、大切な時間と労力(ともちろんお金)を費やして研究する意義は一体どこにあるだろう。武力をもって国力を高めようとする国策が、経済最優先という言葉に隠れて、次第に行動へと移されつつある今の日本において、それを食い止めるせめてもの方法はひとりひとりの良心に基づく選択と行動以外にないだろう。それは最先端の研究に取り組んでいる組織であればあるほど、とてつもなく困難なことに違いない。けれども科学がこれからも人類にとって信頼できる大切なパートナーであり続けるためには、どうしても乗り越えなければならないハードルであり、それに携わっている人々の特権であり使命ではないだろうか。それでは一体、どうすればいいのだろう。大村氏のように「人の役に立つ」という明確な前提にたった研究であれば、企業の利益に大いに貢献する可能性も高く(それは同時に社会の役にも立つ)、企業との共同研究により必要な資金を得ることができるだろう。けれどもより本質に迫る基礎研究であればあるほど、応用分野も広く、企業の即戦力となることは難しい(なにより巨額の資金が必要だ。)。そうであれば、今こそ私たちは、世界の潮流に逆行し、経済的価値よりも学術的、文化的、精神的価値に重きを置く社会を忍耐強く求め続けるしかない。武力ではなく知恵で物事を対処し、破壊ではなく創造を求め続けることで、国の形も少しずつ変わっていくのではないだろうか。あまりにも甘すぎるだろうか。それでも私はその力を信じたいと思う。

 話が大きく飛躍してしまった。話を再びもとに戻そう。大村氏が美術への造詣が深く、数々の作品をコレクションされていることは冒頭に述べたが、今回の講演で特に感銘を受けたことは、それらの作品が大学や病院など、美術館という枠を超えて至るところに展示されているということだ。建屋の通路や休憩の場としてちょっと一息つけるような広間(談話室)など、日常の至る所にさまざまな絵画が並んでいる光景を想像するだけで、胸が躍る。医療という人道的な仕事に将来就くであろう若い学生や研究者たち、医療の現場で今現在、患者さんに接している医師や看護師さんなど、いろんな立場の人たちがこれらの作品と日々向き合う中で、あるときは癒やされ、あるときは元気をもらい、あるときには圧倒され・・・知らず知らずに豊かな感性が育まれていることだろう。これは大村氏から後進への心からの願望であり、言葉を超えたメッセージ、新しい教育の形でもある。さまざまな病気を抱えた患者さんにとってもこれらの作品から受ける影響は大きいようで、自殺を思いとどまった方もいらっしゃるそうだ。真の芸術に秘められたパワーの大きさを改めて思い、ほんとうに素晴らしいと思った。私も大村コレクションをいつの日か是非、この目で見てみたい。あっという間に70分が過ぎ、大村氏の貴重な講演会が終わった。


 この講演会には嬉しい特典が幾つかついていて、そのひとつが改装オープンしたばかりの久留米市美術館への無料招待だった。「九州に生まれた、あるいは九州にゆかりの総勢65名の洋画家たちの作品約110点を通して、現代に受け継がれる洋画の流れをたどるとともに、九州の豊かな文化と魅力を伝える」ことをテーマとする展覧会。石橋美術館は、青木繁や坂本繁二郎、古賀春江など久留米ゆかりの画家たちの作品を多く扱っていたが、今回は九州各県の今まで名前さえ全く知らなかった画家たちの素晴らしい作品にも沢山触れることができ、本当に楽しく有意義な時間を過ごすことができた。


 最後に、これまでお世話になった石橋美術館のことに触れて、終わりにしたい。今まで所蔵されてきた960点の美術品はすべて、9月から東京の石橋財団アートリサーチセンターで一元的に保存管理されることになった(内、約200点は石橋財団から久留米市に寄託という形で、2年契約で地元に残されるそうである。)。実は、父親が(株)ブリヂストンに勤務していたこともあり、知らず知らず石橋美術館には深い思い入れがあった。家の壁にはいつも石橋財団コレクションの美術カレンダーが掛かっていたし、大学時代にはわずか1ヶ月だけだが、バイトした経験もある。(株)ブリヂストンが行ってきたさまざまなメセナは子ども心にも誇らしくとても嬉しかったし、これまで高く評価してきたので、今回の話を聞いたときにはちょっとがっかりし、一抹の寂しさも感じた。けれどもこれまで常設展示されてきた優れた作品の数々が、あまり注目されることもなくひっそりと佇んでいることは、常々とても残念でもったいないなぁと思っていたので、今後、新たな場所でさまざまな人たちに鑑賞される機会が増えることは本当に良かったと思っている。私としては、生まれ変わった久留米市美術館の今後に大いに期待したい。まずは次回企画の展覧会「吉田博」展(石橋財団のコレクションには 全然 or ほとんど なかった?)を心待ちにしている。