Welcome to my homepage


The Woods Band/The Woods Band/2001 Demon Music Group Ltd. EDCD 687



ゲイ・コーコラン(1948年9月生)とテリー・ウッズ(1947年12月生)は、ダブリンで幼なじみとして育った。やがて共に音楽を始め、1963年にはダブリンのネプチューン・ロウリング・クラブで一時的にステージを務めたのち、二人は1968年に結婚した。テリーは1967年6月、プログレッシヴ・アイリッシュ・フォーク・グループのスウィーニーズ・メンに参加した。1969年11月にグループが終焉を迎えるまで彼はジョニー・モイニハンと共にグループに在籍した。スウィーニーズ・メンはしばしばブリティッシュ・フォークロックの草分けとして引き合いに出されてきた。その称賛は、グループのリリースしてきたレコードを通じてのみでなく、1968年の夏の間に渡ってのラインナップ、これはレコーディングこそされなかったが、エレクトリック・ギタリストのヘンリー・マッカロウが在籍していたことがそういった評価につながっている。

マッカロウはジミ・ヘンドリックスの子分的バンド、エール・アペアレントの元メンバーであり、シンガー、ソングライター、12弦ギタリスト、そしてバンジョー・プレイヤーであったリーダーのテリー・ウッズを別とすれば、スウィーニーズの融合的な音楽スタイルを代表する存在として最も知られているかもしれない。抜け目のない輩は、ウッズのオリジナル曲からファーストの“Sweeney’s Men”(1968)LPの内容を取るに足らないと決めてかかるかもしれないが、ウッズの姿勢はどんなスタイルに対してもオープンなものであった。

スウィーニーズ・メンのフォークロックに対するアプローチは失敗に終わったが、グループの解散は逆にテリーに次なるコンセプトを求め追求することを促したのだった。彼はそれを実行に移し、パートナーとしてゲイを選び二人でスティーライ・スパンの最初のラインナップに名を連ねた後、自らのグループ、ウッズ・バンドを立ち上げた。このアルバムが唯一のその証である。単なる重要作品としてブリティッシュ・フォーク・リヴァイヴァルの歴史におけるパズルの断片などではなく、ウッズの卓越したヴォーカルと音楽的パイオニアとしての飽くなき探究心が発揮された作品である。

1969年の後半、テリー・ウッズとフェアポート・コンヴェンションのベース・プレイヤー、アシュリー・ハッチングスの二人による一連の話し合いにより、最初の計画はスウィーニーズ・メンのオリジナル・ラインナップ―つまりテリー・ウッズ、ジョニー・モイニハン、そしてアンディ・アーヴァイン―を復活させ、スティーライ・スパンを結成しようというものであった。しかし最終的なラインナップは―アシュリー・ハッチングス、ゲイ、テリーにティム・ハートとマディ・プライアが参加する形となった―メンバー間の個人的な問題からグループ内に緊張感が生まれることになってしまったのだが・・・ 唯一のラジオ・セッションと1枚のスタジオ・アルバムを制作したのち―1970年の1月〜4月の間であったが―事実上バンドは解散してしまった。

一般にはゲイとテリーに由来する問題によって解散したかのような印象があるが、それは正しいとはいえない。少なくとも彼ら参加の唯一のアルバム“Hark! The Village Wait”は、イングランドとアイルランドのトラディショナル・ソングの見事な融合であり、そのロック的アプローチによりバーズやザ・バンドがアメリカにおいて達成したのと同様のモデルとなったのである―ある意味、続く2枚のアルバムについても同じようなことがいえる。すぐにマーティン・カーシーがスティーライに加わり、名作“Please To See The King”が生れることとなった。一方ゲイとテリー・ウッズは1年後“The Woods Band”を引っさげて復活した―このアルバムは残念ながらレアな存在として運命づけられしまい、その結果過小評価されることになってしまった。

スティーライ・スパンの分裂に引き続いてすぐにゲイとテリーは、しばらくの間テリーの姉(妹)の住んでいたノッティンガムに引きこもった。古い友人でもあり仲間であったダブリナーズ、ドクター・ストレンジリィ・ストレンジらとの北ヨーロッパ・ツアーに参加する直前のことである。その間に起こった興味深い出来事は、キング・クリムゾンのメンバー、イアン・マクドナルドとマイク・ジャイルズとのリハーサル・セッションだ。この時はデュオとして1970年11月BBCトップ・ギアのセッションでレコーディングしている―このセッションは一度きりだったのかどうかははっきりしていない。演奏されたのは、“I Feel Concerned”、“A Nobleman’s Fair Daughter”、“January Snows”、そして“Van Dieman’s Land”であった。“January Snows”のみウッズ・バンドのアルバムに再録されたナンバーだ。

その年の終わりに向けてテリーはバンドの方向性と構成メンバーについて吟味を始めた。その結果召集されたメンツが二人―以前有名なアイリッシュ・ビート・グループ、グラニーズ・インテンションズに在籍していたギター・ヒーローのエド・ディーンとドラマーのパット・ナッシュだ。‘もう一人参加してほしかったのが、パディ・キーナンだった。’テリーはいう。‘僕はパディと会って話したんだけど、彼はまだとても若かったから父親が引き止めたんだと思う。’パディはのちにボシー・バンドのイーリアン・パイパーとして、その激しい演奏で世界的に有名になった。彼が1975〜78年に残したレコーディングの数々は今日においてもアイリッシュ・トラディショナル・ミュージックのお手本として存在し続けている。もしウッズがウッズ・バンド結成のためにキーナンを獲得することに成功していたら、アイリッシュ・ミュージックの歴史と彼ら自身の立場はかなり違ったものになっていただろう。

‘僕らはウォーリングフォード郊外にあるベンゼンの英国空軍基地の近くに古い家を借りた。’テリーはいう。‘モーガン・スタジオに入る前にそこでリハーサルしたんだ。1971年の春だった。曲はそろっていたから、あとはリハーサル次第だったね。いくつかはストレンジリーズと一緒にプレイしていた曲もあった。[’Dreams‘]に関してはスウィーニーズで既にレコーディングしてたんだけど、もう一度バンドとして取り上げたかったんだ。’低予算で録られたスウィーニーズ・メンのラスト作“The Tracks Of Sweeney”収録曲同様の、‘Dreams’に関するテリーの考えであるが、このアルバムはレコーディングには至らなかったグループのエレクトリック路線の時期を最もよく表している。スウィーニーズ・メンのレコーディングに比べてウッズ・バンドのヴァージョンは、アレンジ面において確かに豊かでよりルーズだ―明らかにザ・バンドのアンサンブルを思い出させるような魅力的なルーズさがあり、このグルーヴはアルバム全体に幅を利かせている。

しばらくテリーは1969年の終り頃、スティーライ・スパンに並ぶような納得のゆくレコード会社を探していた。1971年には‘フォークロック’は英国において一時熱い旋風が吹き荒れていた。CBSやEMIなどのメジャー・レーベルを巻き込んでの大きな波が押し寄せていた。テリーは彼の新しいバンドに興味を持ついくつかのレコード会社を知っていたが、全く新しいレーベル、グリニッジ・グラモフォン・カンパニーと契約することを選んだ―デッカ傘下でレス・リードにより出資され、キング・クリムゾンの一派でもあったトニー・リーヴスによってマネジメントされていた。このレーベルは三つのバンドによってスタートした―ウッズ・バンド、元サンダークラップ・ニューマンのギタリスト、ジミー・マッカロクの新しいバンド、そして元コロシアムのオルガニスト、デイヴ・グリーンスレイドの新しいグループ、グリーンスレイドだ。‘トニーは僕らの友人だったし僕らのことも気に入ってくれていたんだ。’テリーはいう。‘彼は確固たるアイデアを持っていたし、それは共にスタートするに納得のいくものだったよ。でも残念ながらトニーにとってうまく事が運ばなかった。三つのバンドは損害をこうむってしまった。’

The Woods Bandのカタログ・ナンバーはGSLP1004だった。これは少なくとも4枚の(ステレオ)リリースがあったことを示している。しかし調べてみると他のリリースについては謎がある―確かにこのレーベルでグリーンスレイドのアルバムが存在しないのである。トニー・リーヴスはThe Woods Bandでベース・プレイヤーとしてゲスト参加した―来るべきワーナー・ブラザースでのグリーンスレイドのデビューの時も同様であった―その間はゲイの兄(弟)であったオースチンがベースとアコースティック・ギターを担当し、オルガニスト/ピアニストのジョン・ライアンもまた手を貸していた。アルバムは1971年後半頃にリリースされた。濃い紫の見開きジャケットで、金色のケルトのブローチのデザインで飾られていた。ジャケットの内側には4人のプレイヤーのムードある写真がフィーチャーされていた。

翌1972年はプログレッシヴ・アイリッシュ・フォークあるいはフォークロックが三つのグループの出現によって花開き、様々なスタイルと方向性が示された―プランクシティ、クラナド、そしてホースリップスである。しかしウッズ・バンドのサウンドはそれらに比べると、より風変わりで個性的であった。イングランドの彼らの拠点から活動していたため、アイルランドでは限られたライヴだけにとどまっていた。しかしながら後のホースリップスのマネージャー、マイケル・ディーニーが、ダブリン・スタジアム含めいくつかのウッズ・バンドのコンサートをプロモートした。1971年の冬、UKツアーをグリーンスレイドとジミー・マッカロクと共に行い、その後ウッズ・バンド単独でヨーロッパ・ツアーに出た。テリーはこの時のことを楽しい思い出として覚えている。‘ところがその時レコード会社の活動が停滞してしまったんだ。僕らは前進するためにレコード会社を必要としてた。ところが突如レコード会社がなくなってしまった。契約が本当になくなってしまったんだ。’その結果、ミュージシャンとして経済的に維持するためにいたずらにテリーがそのままグループのマネージャーとなった。

‘結局いったよ。’生きてくにはもっと良い方法を考えなきゃいけない’ってね。それがお終いにすることを決めた時だ。そうしてアイルランドに戻ってきた。すごく失望したよ。ウッズ・バンドのアルバムは成功しなかったが、いい評価はたくさんもらった。ゲイと僕にとって不思議なことのひとつには―いい評価をたくさん受けた、でも評価を食べて生きてはいけないってことだ。それは食えないのさ!僕はいつもたしかに成功者の一部にはなりたいって思ってたけど、一方では成功のために魂を売るのは絶対嫌だと思ってた。ちょっと変わり者だったんだね。人と違うことをするのが好きだったんだ。’

ゲイとテリーは田舎のカウンティ・ミーズに小屋を借り、住むことにした。そしてデュオとして再出発した―リチャード&リンダ・トンプソンに対するアイルランドからの回答といえる素晴らしいデュオになった。4枚のデュオ・アルバムが1975〜78にかけて制作された。“Tender Hooks”(1978)は2000年にCooking Vinylからリイシューされたが、これはCDで入手可能な唯一のアルバムだ。その時期のBBC In Concertは1995年Windsongからリリースされ、2001年に追加トラック収録でまたリイシューされるかもしれない。The Woods Bandは、1977年にMooncrestの出版社Rockboroughからリイシューされた。その時のカヴァー・デザインは、70年代半ばモイニハンの所有する小屋の前でゲイとテリーが写っているものに変えられていた―そして曲順も変えられている。

印税はそれほど発生しなかったのかもしれないが、オープニング・トラックとして新しく並び替えられたテリーの壮快なトラッド風インスト‘Noisey Johnny’は、その後何年かの間BBCラジオのフォーク番組、Ulsterのテーマ曲として使われた。今回新たに手に入るこのCDは、おそらく再びささやかな役割を担うことになるのかもしれない・・・ どちらにしろこの曲順で再度登場だ。オリジナル・アルバムは現在コレクター市場では70ポンドの値が付けられている。77年のリイシュー盤でさえ15ポンドだ。最近ヨーロッパで現れたこのアルバムのブートレグCDは、明らかにレコードからの盤起こしで、カルト・クラシックになるようなレベルのイラストが描いてあるのみだ。

ゲイとテリーは1980年、夫婦としてもデュオ・アーチストとしても別々の道を歩むことになった。その後二人は音楽的に根本的変化を求める新しい方向へ取り組むことになった。ゲイはすぐにシアトリカルなニュー・ウェイヴ・グループ、Auto Da Feを結成した。1980〜86年にかけて独立系レーベルからアルバム1枚と数枚のシングルをアイルランドでリリースした。そして信じられないことに1994年、スティーライ・スパンに再加入することになった。マディ・プライアの代わりとして3枚のスタジオ・アルバムをグループと共に制作し、その後2000年の終わりにまたしてもうまくいかなくなり脱退してしまった。現在はソロ・アルバムが計画されている。テリーはその間工場労働者として真面目に地道に過ごした後、1986年パンク・フォーク・バンド、ポーグスに参加したことにより、彼のキャリアは一気に若返ることになった。グループの悪名高い行き過ぎたライフスタイルによって崖っぷちで戯れるような10年間を過ごしたのち、現在はダブリン近郊で若いロック・バンドのマネージャーとしてユニークな活動をしている。

一方ゲイはまるでじらすかのようにウッズ・バンド再編の見通しについて思いをめぐらせている。テリーはそういった見込みはないと見ているが。彼は過去に起こったいろいろな事柄については受け入れているし、彼らの過去も現在も肯定的に見ている。彼にウッズ・バンドについて今どういう視点を持っているか尋ねたところ、あたりさわりのない言葉で受け流してしまった。‘暗いもやがかかったようだ!でもひとつだけいいたいのは―僕はいつもゲイの声はすごく特別だと思っていたし、彼女が歌うのを聴くことは大きな喜びだってことだ。彼女の声は永遠のものだね。’そう、まだ時間はたっぷりある。

ウッズ・バンドの栄光に乾杯!

コリン・ハーパー 著書:Dazzling Stranger : Bert Jansch and the British folk and blues revival
(ブルームズベリー 2000年)

ゲイ・ウッズ、テリー・ウッズに感謝する
それからNorman ShukerにはオリジナルLPのためのローンに感謝
今回はジャケットだけレコードからコピーさせてもらった・・・



ホームへ