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Wizz Jones/The Legendary Me/2006 sunbeam records SBRCD5015



‘ウィズ・ジョーンズは目が眩むほどのテクニックを持つギタリストであり、今日のブリティッシュ・フォーク・シーンで最も伝説的な人物である。’

The Legendary Meが1970年12月にリリースされた時、タイム・アウト誌はこのように絶賛した。1ヵ月後サウンズ誌は、‘ウィズ・ジョーンズは長い間フォーク・シーンで活動を続けついに花開いた。’と評した。この称賛はウィズが1960年代を通じて、フォーク・シーンで苦闘しながら活動を続けた結果、手に入れたものだ。彼は10代の1950年代半ば、クロイドンでギターを始めた。やがてソーホーのパブやコーヒー・バーでウディ・ガスリーやジャック・エリオットの曲をやり始めた。彼らはしきたりにとらわれないような、似たような風貌をもっていた。ウィズはやがてグラフィック・デザイナーのアラン・タンブリッジを含む数多くの同志たちに出会った。“アランは昼は広告代理店で働いて、夜はソーホーの町をぶらぶらしていたね。”ウィズはいう。“でも彼はグレイトな作家で、僕らは二人とも実存主義的なライフスタイルに憧れていた。1959年僕らはコーンウォールにヒッチハイクで出かけていって、海岸をほっつき歩いたり、曲を書いたり歌ったり、ホテルのキッチンで働いたりして牧歌的な夏を過ごしたよ。ある晩僕は彼にギターのコードをいくつか教えたんだ。すると彼はたちまちそれに詩をのせ始めたんだ。”

二人の友人関係は1960年代を通して続いたが、アランは芸術の道に進むことになり、ウィズは以後の数年間をクライヴ・パーマー、デイヴィ・グレアム、ミック・ソフトリィ、ラルフ・マクテル、そしてあのロッド・スチュワートらソーホーの仲間たちとフランスで過ごした。いわばそれが彼の実存主義的なボヘミアン期であり、ウィズのフィンガーピッキングの目覚ましい成長期であった。しかし彼とパーマーがサンディ・ピクトリアル誌に、ギター、バンジョーを持ってガラガラ声で歌いながら(イギリス)海峡を群がって渡る英国ビートニクスの一団を弾圧する憲兵についての記事を絵に描き投稿した頃、ウィズはバンジョーの名手ピート・スタンレーと共にロンドンに戻る決心をした。最近の情報によれば、彼らはすぐにライヴを実現させるために週平均1000マイルの旅に出て、ついにはLPを作るオファーを獲得したということである。その結果1966年にカントリーに影響を受けた素晴らしい出来の16 Tons of Bluegrass(Columbia SX 6083)をリリースするに至った。

ウィズはまもなくもう一人の相棒と組むことになった。古い友人だったクライヴ・パーマーで、彼はしばらくスコットランド、インド、アフガニスタンにいたが結局ロンドンに戻っていた。彼は才能あるアレンジャー、解釈者であり、ケルト、東洋の伝統音楽に関心を持っていた。また彼はインクレディブル・ストリング・バンドを結成し、彼らのパリ時代にすでに脱退していた。パーマーはウィズの音楽に決定的な影響を与えた。その時の唯一彼らのコラボレーションが、未発表に終わった1967年のアルバム、Banjolandで聴ける(現在sunbeam SBRCD 004で入手可能)。ウィズはこれが今までで最高のレコーディングだったと考えている。“なぜ僕らはやめてしまったのか覚えてないんだ。”彼はいう。“多分お互いにうんざりしたんだと思う。でもクライヴは僕に重要なことを教えてくれた―純真なるアートだ。彼はあらゆるテクニックを持っていた―でもそういう巧みな技は使わないんだ。そういうことで飾りつけるのは実際簡単なことなんだよ。”

それを証明するいい手本が、1969年に出たウィズのデビュー・アルバムだ。Wizz Jones(United Artists ULP 1209)はある部分は素晴らしいが、ブラス、コーラス、ストリングス、そしてエレクトリック・ギター含めて不必要なオーヴァーダブによって散漫な出来だ。しかしアレンジメントによってその曲の魅力を完全に覆い隠すことはできない。多くは彼の友人アラン・タンブリッジのペンによるものだ。アランは1970年のタイム・アウト誌にソングライティングの仕事から退くことを伝えている。“曲を書くことはあくまで絵を描く以外の僕の趣味だったから。”1960年代後半には彼はすでに優れた作詞家であり、際立った作曲家として確固たる地位を築いていた。1969年6月、彼はメロディ・メーカーに次のように語っている。

“デッサン画家として的確な判断をすることに興味を持っている。そのことが僕の曲に影響を与えていることは間違いないね。僕は感傷的で独善的な詩は嫌いだ―問題に答えるよりも問題を提起する方が好きだね。”

一方ウィズは今日こういっている。“アランはライヴをやるミュージシャンじゃないけど、彼の曲は彼自身が一番うまく歌えると思ってきたよ。僕は彼の曲の繊細さや拍の複雑な変化を100%表現できたことはないね。でも1960年代のフォーク・ブームの中で僕はそれを多くの聴衆に向けて生きいきと伝えてきたと思っているよ。”

UAからのアルバム(1st)が失敗に終わり、ウィズはコーンウォールに戻った。その時フォーク・シーンは凄まじい活況を呈していた。彼は多くのギグをこなし、自身のオリジナルに加えタンブリッジのナンバーを磨き上げていった。1970年頃、彼は新興の独立レーベル、ヴィレッジ・シングからレコーディングのオファーを受けた。このレーベルはSaydiscのジェフ・ルーセナとギタリストのイアン・A・アンダーソン―現フォーク・ルーツ・マガジンの編集長―によってスタートしていた。彼らの拠点はグロスターシア(イングランド中南西部)のイングルストーン・コモンの村にあったが、ウィズのアルバムはその村のホールで録音された。セッションのレイドバックした雰囲気がウィズの最良の部分を引き出していた。彼は巨匠として称賛を追い求めることはやめていた。“僕はとうの昔に輝かしい未来について考えることは諦めていた。暮らしていければ充分だったんだ。”ウィズはサウンズ誌に語っている。“僕はバート・ヤンシュやジョン・レンボーンのようにできるわけがないと思いながらステージに上がっていたよ。彼らに追いつかなきゃって考えていた。でも自然体でいることが逆に有効だと分かった。ギターを弾く以上に音楽にはもっと多くのことがある。”

タイム・アウト誌にはこうもいっている。“僕は以前よりうまくプレイできていると思っている。”確かに彼の素晴らしいプレイはアルバムを通して披露されている。このアルバムはウィズが評した60年代半ばの“ソングライティング能力の爆発”期に、タンブリッジが書いたSee How The Times Is Flyingで幕を開ける。“ピート・バリーマンは僕の乏しいギター・スタイルに知的な装飾を施してくれた。”彼はつけ加える。Willie Mooreはウィズが最初フォークウェイズのハリー・スミスのアンソロジーで聴いたトラッド・ナンバーだ。オリジナル・ヴァージョンはバンジョーとフィドルがフィーチャーされていた。ウィズはこれにオープンDGDGGDチューニングのギターを当てはめた。

The Legendary Meもタンブリッジ作だった。ウィズはこれをアルバム・タイトルに使うことをためらっていた。“もし人々が詞の内容を聞かなければこのタイトルを誤解してしまうと思ったんだ。”彼はいう。“でもイアン・アンダーソンがこれをタイトルにすべきだと主張したんだ。以来このタイトルは僕の脳裏を離れなくなったね!”When I Cease To Careはラルフ・マクテルのエレクトリック・ギターがフィーチャーされている。Nobody Told You Soはウィズが呼ぶところの‘アランのいつものシニカルなユーモア’のハイライトだ。一方Beggarmanは(ウィズによると)、“携帯電話、インターネットその他の身の回りの電器用品のない時代に書かれたグレイト・ソング。時代遅れ?ナイーヴ?君次第だな。ピートはいつものように定刻きっかりにそこにいたよ。”Keep Your Lamp Trimmed And Burningはウィズがゲイリー・デイヴィス師のレコードから学んだ古い黒人霊歌だ。ここでの演奏はウィズがいうには、‘ドスン、ドスンといった全盛期のビッグ・ビル・ブルーンジーのサウンド’だ。

Dazzling Strangerもタンブリッジの傑作だ。もう一つのヴァージョンはWizz Jones(1stLP)に収録されていた。それはロン・ギーシンの家のスタジオでレコーディングされた。“僕は彼が見せてくれたことを覚えているよ。一つのスイッチをひねると6チャンネルのRevoxのテープレコーダーが2台同時に動き出して12トラック分作ることができるんだ!”ウィズはいう。‘Dazzling’はラルフ・マクテルもフィーチャーされている。“僕は彼の頼りになるギブソンのギターを期待してたんだけど、彼は当時購入したばかりの年代物のハルモニウムを持って現れたんだ。必然的に教会の雰囲気を吹き込むことになったね。”If Only I’d Knownはアルバム中唯一のウィズ作品だ。彼は現在控えめなコメントをしている。‘初期のうちの一つで僕の典型的なソングライティングのむなしい努力’ アルバムはさらに2曲のタンブリッジ・ナンバーで終わる。Slow Down To My Speedは素晴らしいシンガー、レアナ・ジェイムスのピアノがフィーチャーされている(後にウィズのCBSでのアルバム、Right Nowにゲスト参加する)。一方Stick A Little Label Onはブリストルのトルバドールでのライヴ・レコーディングだ。こういった和やかなコンサートは近年、中堅どころのミュージシャンたちに見直されてCDやその他媒体で聴くことができる。

ヴィレッジ・シングの方針によって、ウィズはアルバムのコントロールを全て自由にできる権限を与えられた。“レコーディングが終わった時、僕はマスター・テープをもらって好きなようにしていいといわれた。”彼はサウンズ誌に語っている。“僕は自分が満足できるようにアルバムをいじることができたんだ。つまりこのアルバムは本当の意味で僕がしたかったことを反映したといえるね。”LPはウィズの生きいきとした仕事によって実を結んだ。サウンズ誌はこう評する。‘穏やかで堂々としたマジックだ。’一方タイム・アウト誌は、‘The Legendary Meは今日のウィズ・ジョーンズを作り上げた―目が眩むほど巧みなギタリスト、そしてその忘れられない曲を大部分作った隠れた名ソングライター、アラン・タンブリッジによるものだ。’ジョン・ピールはDisc誌でクリスマスの日に彼の年間アルバムの1枚に選んだ。彼は‘真に素晴らしい歌と、シンプルで偽りのない演奏だ’と称賛している。

ウィズはしかし満足することなくすぐに活動を始めた。1971年、ライヴのためにドイツに旅に出た(この一時滞在でのレア・トラック3曲がこのCDのボーナスだ)。彼は1972年CBSから素晴らしいLP、Right Nowをリリースした。そしてペンタングルと共にツアーした後、ヴィレッジ・シングに戻り1974年、When I Leave Berlinをリリースした(まもなくサンビームから発売予定)。そこでは彼は次なるプロジェクト、レイジー・ファーマーの原型となったバンドを用いている。唯一のその見事なLP(Sunbeam SBRCD005)は翌年ドイツで発表された。が、これはまた別のストーリーだ・・・


リチャード・モートン・ジャック 2006年3月


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