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Wizz Jones/When I Leave Berlin/2007 sunbeam records SBRCD5037



‘ウィズ・ジョーンズは目が眩むほど巧みなギタリストであり、今日のブリティッシュ・フォーク・シーンで最も伝説的な人物である。’The Legendary Meが1970年12月にリリースされた時、タイム・アウト誌そうまくし立てた。1ヵ月後サウンズ誌は、‘ウィズ・ジョーンズは長い間フォーク・シーンで活動を続けついに途方もない人物となった。’と書いた。この称賛はウィズ自身が苦労して手に入れたものであり、彼は本当に60年代を通じてフォーク・サーキットでたゆまず働いてきたのである。1950年半ばのクロイドンで10代だった彼はギターを弾き始めた。そしてすぐにソーホーにあるたくさんのパブやコーヒー・バーでウディ・ガスリーとジャック・エリオットの歌を演奏し始めた。その雰囲気は同趣向の型にはまらない若者たちが集う絶対的な場所といったものであった。彼はすぐにグラフィック・デザイナーのアラン・タンブリッジを含む気の合う仲間たちと出会った。“アランは昼は代理店で働いて夜はソーホーでぶらぶらしてたよ。”ウィズはいう。“でも彼はいつもグレイトなライターで、僕らは実存主義的なライフスタイルに憧れていた。1959年僕らはヒッチハイクでコーンウォールに行って、夏の間海岸でうろついたり牧歌的な日々を過ごした。曲を書いたり歌ったりホテルのキッチンで働いたりね。で、ある晩僕は彼にギターのコードをいくつか教えてあげたら、たちまち彼は曲と詞を作り上げてしまったんだ。”

1960年代を通じて二人の交友関係は続いたが、アランは自分のキャリアをアートに専念することに決め、ウィズは続く数年間をフランスでソーホーの同志たち―クライヴ・パーマー、デイヴィ・グレアム、ミック・ソフトリィ、そしてあのロッド・スチュワートらと過ごした。それは実存的なボヘミアン期であり、ウィズの優れたフィンガー・ピッキングの重要な熟達期間だった。しかし彼とパーマーがSunday Pictorial誌に憲兵隊がバンジョー、ギターを持ってイギリス海峡を渡るビートニクの一団を取り締まる記事を載せた頃、ウィズは南へ下り彼のヒーローがよく通ったフランスのリヴィエラとモロッコへ行くことを決心した。そして最後にロンドンへ戻り、バンジョーの巨匠ピート・スタンレーと出会うことになった。今日伝えられるところによると、彼らはライヴを遂行するために週平均1000マイルの旅をし、ついに1枚のLPを作るオファーを受けたのだった。その結果、カントリーに影響を受けた魅力的な16Tons of Bluegrass(Columbia SX 6083)が1966年にリリースされたが、この時にはすでにウィズはソロ活動に戻る決心をしていた。

彼は間もなくもう一人のパートナーと組むことになった。この時すでに古い友人だったクライヴ・パーマーで、彼はスコットランド、インドそしてアフガニスタンで一定期間を過ごしたのち、結局彼もロンドンに戻ってきていた。クライヴは才能あるアレンジャー、解釈者であり同じくケルティックと東洋の民謡に興味を持ち、すでに結成したインクレディブル・ストリング・バンドを去っていた。二人のパリ時代以来、クライヴはウィズ自身の音楽に決定的な影響を及ぼしていた。彼らの唯一のコラボレーションはパーマーの1967年の未発表アルバム、Banjolandで聴くことができる(現在Sunbeam SBRCD004で入手可能)。ウィズはこのアルバムがクライヴの最高作だと考えている。“なぜ僕らが活動を止めてしまったのかはよく覚えてないんだ。”彼はいう。“多分お互いうんざりしたんだろうね。でもクライヴは僕に大切なことを教えてくれた―シンプルさこそ芸術だって事だ。彼はどんなテクニックだって自由に操ることができたけど決してそれを使わないんだ。過度に飾り立てるのは簡単なことなんだよ。”

それがよく分かるのはとりわけ彼の1969年のソロ・デビュー作Wizz Jones(United Artists ULP 1209)で、立派なアレンジが多く施されているがブラス、コーラス、ストリングス、エレクトリック・ギター含む不必要なオーヴァーダブがなされていた。しかしその不必要なアレンジは楽曲の素晴らしさまでを覆い隠すことはできなかった。多くは彼の古い友人だったアラン・タンブリッジによるものだ。タンブリッジは1970年タイム・アウト誌にソングライティング稼業から身を引くことを語った。“図面に向かっていない時の趣味なんだ。”彼は実際1960年代後半には極めて優れた作詞作曲家となっていた。1969年6月彼はメロディ・メーカー紙にこういっている。“デッサン画家として僕は正確な観察に関心を持っているんだ。そのことが僕の曲にも反映されていることは間違いないね。僕は感傷的あるいは独善的な詞が嫌いだ―問いに答えるより問題提議する方を好むね。”ウィズはそれに対し今日回想している。“アランは自分でプレイするミュージシャンじゃないけど僕はいつも彼の曲は彼自身がプレイするのが最高だと思っていたよ。僕は彼の曲の微妙で複雑な拍の変化をうまく完全に表現できたとは思ってないけど、60年代のフォーク・ブームの中で支持してくれた、より多くのオーディエンスたちに伝えることができたと思いたいね。”

ファースト・アルバムが不発に終わりウィズはコーンウォールに戻ってきた。そこのフォーク・シーンはすでに活況を呈していた。そこで彼は精力的にギグをこなし、自身のレパートリーに加えてタンブリッジ作の楽曲群にさらに磨きをかけた。1970年初頭、彼は当時新進の独立レーベル、ヴィレッジ・シングからのレコード契約のオファーを受け入れた。このレーベルはSaydiscのジェフ・ルシーナ(Lucena)とギタリストのイアン・A・アンダーソンによって興され、後者は現在フォーク・ルーツ誌の記者だ。彼らの本社はグロスターシア(イングランド中南部の州)のイングルストン・コモンにあり、ウィズのアルバムは彼らのスタジオ、ウィズの回想では簡素な村のホールでレコーディングされた。セッションのそのゆったりとした雰囲気はウィズのベストを引き出すことに成功した。しかしウィズは巨匠としての名声と喝采を追い求めることをやめていた。“僕はとうの昔に将来についてあれこれ考えるのはやめにしたんだ。生きていくことだけを考えることにしたよ。”彼はサウンズ誌に語っている。“僕は自分が今までバート・ヤンシュやジョン・レンボーンのようないいプレイヤーになれるとは信じられないようなステージを踏んできて、いつも彼らに追いつかなきゃと思っていたよ。でも自然であることが有効だと悟ったんだ。ギターを弾く以上のことが音楽にはたくさんあるってね。”一方タイム・アウト誌にはこうもいっている。“僕は以前よりも上手く弾けるようになったと感じている。”

ヴィレッジ・シングの方針によってウィズはアルバム全体に渡って完全な権限、完全なアーチスト・コントロールを与えられた。“レコーディングを終えた時、僕はマスター・テープを渡されて好きにしていいよって言われたんだ。”彼はサウンズ誌にこう語っている。“僕は自分の思い通りにミックスすることができたからこれが本当に自分のやりたいことだったんだ。”そのLPはウィズの生の姿を豊富に捉えていた。サウンズ誌はこう評した。‘この作品には静かで印象的なマジックがある’ 一方タイム・アウト誌はこう書いた。‘The Legendary Meは今のウィズ・ジョーンズそのものだ―目眩のするような巧みなギタリストであり、アラン・タンブリッジという無名の注目すべき才能を持ったソングライターの多くの印象的なオリジナル作品が歌われている’。ジョン・ピールはその年のクリスマスにディスク誌で彼の‘アルバム・オブ・ジ・イヤー’の一枚に選んだ。彼は次のように称賛した。‘真に素晴らしい歌の数々だ。シンプルで明確なパフォーマンスだ。’

ウィズはしかし休みなくすぐに動き始めた。1971年いくつかのライヴ・ショーのためにドイツに向かい(この一時滞在時のレアな3曲がここにボーナスとして収められている)、1972年にはLP、Right NowをCBSで制作した。彼は再びヴィレッジ・シングに戻り1973年10月、レーベルの教会ホールのスタジオでレコーディングする前に、ペンタングルとともにツアーを行った。“その頃はアラン・タンブリッジの曲に頼らずに自分でも曲を書こうとトライしていたよ。”彼はいう。“アルバムは1/4インチのステレオ・レヴォックス・テープ・レコーダーでライヴ録音したんだ。ほとんど二つのコンデンサー・マイクのみで録った。バート・ヤンシュと一緒に僕のFreudian Slipっていう曲を録るために、僕の古いフォルクスワーゲン・ビートルに乗り込んだ時のことを覚えているよ。僕らは土砂降りの雨の中ロンドンに戻ってきた。でバートを降ろした後気がついたんだが、バートの座っていたシートの床には1〜2インチの雨水が溜まっていたんだ。でもバートはずっと何も言わなかったんだよ。なんて寡黙で頼れる奴なんだろうって思ったね!”

そのアルバムの注目すべき点は、レイジー・ファーマーのデビューとなったところだ。まだ名前のついていなかったバンドは南ロンドンのウィズの家で彼の妻サンディ、ジョン・ビドウェル(元COB)そしてジェイク・ウォルトン(二人とも地方の中等学校でギターの講師として働いていた)らと集まってはブルーグラスを中心に気軽にセッションを楽しんでいた。“僕がドイツに行っている間、サンディはジェイクとジョンと一緒にジョン・バークの教則書Fiddle Tunes For The Banjoの曲を練習していたんだ。”ウィズは回想する。“僕はすでに古いフォークウェイズのアルバムに入っている曲を知っていたし、ピート・スタンレーとブルーグラスをプレイしていた。その後すぐサンディと僕は北ロンドンのあるパブでドン・コギングという若い男が素晴らしいバンジョー・プレイをしているのを聞いたんだ。で彼もすぐに参加したよ。”ウィズとサンディの9歳になる息子シメオンがある日、彼らの弾く‘Lazy Farmer’を聴いてそれをバンド名にしたらいいと提案した。それはまさにぴったりであった。元々は純粋に楽しむだけであったが、彼らは1973年夏、ふたつの大好評となったギグを行い、ウィズにとってはニュー・アルバムを作るべき時が来ていた。彼は数曲のナンバーで飛び入り参加することを提案していたのだったが、その素晴らしいコンサートによって、共演していた人たちと共にドイツでプレイすることになり、1975年彼らはそこで1枚の秀逸なアルバムを制作するに至った(SBRCD5005が入手可能)。

When I Leave Berlinはウィズの傑作であるタイトル・トラックだ。“これは1972年の復活祭(イースター)に書いたんだ。ベルリンの壁が48時間だけ開かれた時だ。”ウィズは説明する。彼は当時ドイツのフォーク・シーンで次第に人気が出始めていた。“この曲はベルリンで過ごした当時の‘鉄のカーテン’を僕に思い出させるんだ。街のネオン・サインに溢れた雰囲気はクリストファー・イシャウッド((英国生まれの米国作家 1904-86:Goodbye to Berlin (1939) ))のスパイの諜報活動と退廃のイメージを彷彿とさせるね。その意味ではミュージシャンにとっては40年代、50年代のパリがメッカだった。僕はThe Steve Clubでギグをやって毎晩The Quartier LatinやThe Go-Innのようなところへ行っては音楽を吸収していたよ。多くの素晴らしいミュージシャンが毎晩プレイしていた―信じがたいほどのFranz De Byl、Sammy Vomachkaのようなギター弾き、Saxophone Joe、彼はJesus Christ Superstar(ミュージカル、73年映画化)に出演した後ミュンヘンから辿り着いたんだよ!”

アルバムの他のナンバーにはウディ・ガスリーとミシシッピ・ジョン・ハートのスタンダードと並んでロビン・ウィリアムソンのFirst Girl I Loved、ジェシ・ウィンチェスターのSkip Rope Songそしてアラン・ハルのWinter Songのようなコンテンポラリーな傑作のカヴァーも見られる。さらにWinter Song は大変レアなドイツのみのEPのタイトルとしてアルバムの直前にリリースされた。“フィリップスのデモスティック・テープ・レコーダーで録ったんだ。ドイツのノットゥルンにあるWilly Schwenkenの家でベッドの上に座ってね。”ウィズは回想する。“ウィリーはドイツ人のフォーク・ミュージック・プロモーターで、1969年の彼のインターフォーク・フェスティヴァルに僕を出演させるために初めて僕をドイツに連れてきたんだ。”今日のウィズにとってWhen I Leave Berlinには楽しい思い出ばかりが残っているようだ。“フェイヴァリット・アルバムの1枚だよ。”彼はいう。“このアルバムに入っている曲は当時の僕の折衷的なレパートリーを見事に反映しているよ。今回再びリリースされることを本当に嬉しく思うね。”

リチャード・モートン・ジャック 2007年6月


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