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Wilson Pickett/The Definitive/2006 WMTV/Warner Music UK Ltd. WPCR-12325/6



WILSON PICKETT
1941年3月18日-2006年1月19日

むき出しのバックビートに乗って火山の噴火のようなヴォーカルを浴びせるウィルソン・ピケットは、栄養の行き届いた豹のようだった。どう猛で肉付きがよく、そして時おり誤解されていた。信義の厚さを印象づける彼は、感情のほとばしる動きと止められない力強さを持ち、その野太い叫びの中に常に喜びと痛みを保持したすばらしい男だった。それはウィルソン・ピケットにとって中途半端さなど存在しない所以だった。不屈の“悪ガキ”(Wicked)ピケット。サザン・ソウルの血と度胸だ。

メンフィスでMGs、マーキーズと組み、その後アラバマ、マッスル・ショールズで一流のリズム・セクションと組んだピケットは、世界に向けてソウルのスタイルを決定づけた。“In The Midnight Hour”、“Mustang Sally”そして“Funky Broadway”は、最高に強力なファンクであり、毒気に満ちあふれたワルの真髄だ。彼は回想する。“ある朝早くにオレは突発的に大声で叫んだんだ。オレの声は沼地に響き渡った。オレは思った。‘ああ、これなんだよ’ってね。”(訳注:危なすぎる人です)

ソウル・スターラーズ、スワン・シルヴァートーンズ、デヴィッド・シスターズを呼び物としたワゴン車で田舎を行き来していた10代のピケットは、ヴィリオネアーズというゴスペル・グループで自分の声を鍛えていった。サム・クック、リトル・アーチー、ビッグ・ルースそして彼のヒーローだった牧師のジュリアス・チークスたちとのジャム・セッションを通じて、この大人ぶった少年は十分なスクリームを出せる喉のテクニックを身につけていった。

“日曜になるとシスターたちがいう。‘あなたたちもきっと歌えるようになる’ってね。そして彼女たちはバスケットの中に1ペニーを入れて、その10パーセントが牧師の取り分になるんだ。” 彼は回想する。家族を養おうと奮闘し、汗でずぶ濡れになったシャツでうんざりするほど歌っていたピケットは餓死寸前だった。サム・クックとアレサ・フランクリンが世俗音楽を歌うことを決める時、彼はこう考えた。「もし悪魔が彼らをさらっていくなら、自分も同じ目に会ってもかまわない」と。

彼は教会を去ったが、神を捨てるようなことはなかった。田舎の説教師のようにステージをうろつき回るピケットは、けた外れなテンション、興奮と、気絶するほどの静けさの瞬間をミックスさせた。そして彼は強硬にカヴァーしたメローな“Hey Jude”のように、その渦巻くようなリズムの中に聴衆を引きずり込み、ぶちのめしてしまった。“ウィルソンは狂気の才を持っていたね。” スタックスのトランペッター、ウェイン・ジャクソンはいう。“彼のソウルの一片をテープに変換する才能だ。偉大なシンガーはみなそれを持っていた。アレサとオーティス、レイ・チャールズとリトル・リチャードなんかだ。”

彼は毎日スクリームを始めた。ピケットとともに雨の中を走ったことのあるソングライターのドン・コヴェイはいう。“僕が隣の部屋から‘ピケット!何やってるんだい?!’って聞くと、彼はこういったもんだ。‘昨日のことを歌にしようとしてるんだ!’”

ウィルソン・ピケットは1941年3月18日、11人兄弟の4番目の子供としてアラバマの田舎、プラットヴィルという小さな町に生まれた。綿の十分な収穫が彼の家族にとって何よりも大切なことだった。好むと好まざるとにかかわらず、それが生きる糧だった。“3日間は農場にいて、2日間は学校だった。” ピケットはいう。“オレは十分な教育は受けなかったが、辛いことに耐えることを学んだな。” 彼らはラバとくわを持ち、草で手を切り血が滲むまで綿をつんだ。“オレはよくいったもんだった、‘おばあちゃん、何が不満なんだい?’ってね。すると祖母さんは‘不平をいったって悪魔(黒人俗語で「白人」の意味もある)は聞く耳を持たないんだよ。’っていったな。”

1955年、彼は父親と一緒に住むためにデトロイトの休養施設に移り、そこでピケットはファルコンズと出会った―ポピュラー・ソングの中に強固なゴスペル・フィーリングを持ち込んだ最初のヴォーカル・グループのうちの一つだ。未来のスター、エディ・フロイドとサー・マック・ライスをフィーチャーした彼らは、ハンク・バラード・アンド・ザ・ミッドナイターズのあとのひな形となったが、ピケットの存在によって、よりハードに肉感的な響きを持つようになった。フロイドはピケットの歌を聞いて身震いするほどだった。“彼のヴォーカルのパワーには勝てないと思ったね。” 彼はいう。“ウィルソンはすごく攻撃的だった。彼は否定しようのない存在になっていたよ。彼はミスター・ウィルソンになるべく運命づけられていたんだ。”

彼はザ・ドリフターズ、ベンEキングらニューヨーク・スタイルで最初のソロ・シングル(“Let Me Be Your Boy”を含む)を吹き込んだ。彼のドン・コヴェイとの最初のコラボレーション、“I’m Gonna Cry”は、マーサ・アンド・ザ・ヴァンデラスの“Heatwave”にあやかって書かれた。彼はまた世俗とディープで神聖な説教スタイルをブレンドさせた(“If You Need Me”)。ピケットはアトランティック・レコーズとのレコード契約を望んで、ニューヨークにデモ・テープを送った。レーベルのジェリー・ウェクスラーはその歌を気に入ったが、それをソロモン・バークに与えてしまい、ピケットはがっかりしてしまった。“人生で初めて泣いたね。” ピケットはいう。

ピケットの“It’s Too Late”がチャート入りした時、ウェクスラーはピケットが契約していたダブルL・レコーズから権利を買いとったが、残念ながら二人のコラボレーションはうまくいかなかった。ウェクスラーは途方に暮れてしまった。しかしピケットの思いはストリートに向かい、彼の不屈の精神は彼をスタックスに導いた。

1965年メンフィス。イースト・マクレモア通りの物騒な黒人居住地区スタジオで、ピケットは3つの画期的セッションによって、ポップのメインストリームに向かって進撃を開始した。1968年に殺されることになるキング牧師を狙う暗殺者がロレイン・モーテルに身を隠す中、ピケット、エディ・フロイド、そしてMGsのギタリスト、スティーヴ・クロッパーは“Don’t Fight It”、“634-5789”、“Ninety-Nine and A-Half”を創り上げた。うち何曲かは当時のソウル・シーンにおいて最も爆発力ある革命的音楽であった。これがメンフィス・サウンドの全盛期だった。ピケットの肉感的な叫びと、クロッパーのすばらしく繊細なソロと、MGsの卓越したプレイが見事にブレンドされバランスがとられ、それはほとんど超自然的といえた。

ピケットの創造性はピークに達していた。“オレは歌うだけじゃなかった。オレは何でもやらなきゃならなかったね。曲作り、アレンジメント、プロデュース、オレたちで全てをやったんだ。共にね。ライヴもだ。ここで聞けるのは、オレがマイクに向かった時に起きることなんだ。歌詞をただ読んだってソウルはつかみ取れないのさ。”

公民権運動とヴェトナム戦争の大激変のさなか、ピケットは政治的表明を避けていた。しかし彼がロサンゼルスのワッツ地区にあった5/4ボールルームで行なわれたスタックス・ショーで、強烈な“Midnight Hour”を歌った時、彼はダイナマイトの栓を抜いた。MGsと、これまでマーキーズに在籍したホーン隊の優れた何人かに緊急にサポートをうけ、ピケットはラジオ・パーソナリティのマグニフィセント・モンタギューの叫び、“BURN, BABY, BURN”に駆り立てられた。72時間後、モンタギューの例のスローガンは新しい局面を呈し始めた。ワッツは火に包まれた。

不意にスタックス社長のジム・スチュワートは、1965年の12月に全ての外部プロダクションを締め出してしまった。この決定はピケットの権力が大きくなり過ぎていたためであるが、あるいはアトランティックがあまりにスタックスのサウンドを利用したことがスチュワートにはおもしろくなかったからかもしれない。

ウェクスラーはディープ・サウスのもう一つの場所の成長に注目していた。とりわけ、マッスル・ショールズ近くのフェイム・スタジオで、そこではアーサー・アレキサンダー、ジミー・ヒューズのような黒人シンガーや田舎育ちの白人ミュージシャンたちが、タバコ倉庫の中で新種のむき出しのソウル・サウンドを創り上げていた。1966年5月、千鳥格子のコートを着たピケットが空港に降り立った時、彼はアラバマの黒人たちが綿をつんでいるのを見て震え上がってしまった。“オレは思った。この飛行機から降りたくない。北へ連れて帰ってくれってね。” 著者のピーター・グラルニックはSweet Soul Musicの中で伝えている。しかしプロデューサーのリック・ホールはいった。“来いよピケット。いかしたヒット・レコードを一緒に作ろうじゃないか。”

ピケットは最初のセッションから決定的なマッスル・ショールズ・サウンドをとらえてしまった。彼はサー・マック・ライスのオリジナル、“Mustang Sally”を自分のものにしてしまった。そして彼は“Land Of 1000 Dances”をソウル・チャートのトップに送り込んだ。“Funky Broadway”では燃えるような弾丸を発射した。彼の“ダーティーでみだらな”チャート・トップ作品だ。ジェイムス・ブラウンは―“Cold Sweat”を録音した時、彼はピケットの影響を自ら感じていた―感銘を受けていた。

マッスル・ショールズのリラックスした雰囲気と仲間意識あふれる中にいた一人が、セッション・ギタリストのデュアン・オールマンだった。彼はピケットにビートルズの“Hey Jude”をカヴァーしてみてはどうかと提案した。“オレはいったね。‘スカイマン(デュアンのこと)、それはオレには向かないよ。ヘンテコ過ぎる’ってね。” しかしピケットはそれを見事に自分のスタイルにしてしまった。それはオーティス・レディングがローリング・ストーンズから“Satisfaction”をひったくってしまうやり方と似ていた。1967年にプロデューサーのトム・ダウドとともにメンフィス(訳注:今回はスタックスではなくアメリカン・スタジオ)に戻ったピケットは、歌手としてはややディープな、当時もがき苦しんでいたボビー・ウーマックを発掘した。ウーマックは情熱的な自作曲を持つ完璧なサイドマンだったが、その頃、彼のかなりの才能は彼の師であるサム・クックの未亡人バーバラ・クックと結婚した結果、かげりが見え始めていた。ピケットは彼の苦悩を感じていた。“僕は毎日が地獄だったよ。” ウーマックはいう。“制作者たちは僕のレコードをゴミ箱に放り込んでいた。で、誰かがいった。‘ピケットは君が手にしているチケットなんだよ。君の全エネルギーを彼の中に注ぎこむんだ。’ってね。”

ピケットのパフォーマンスは“I’m In Love”の喜びと悲しみの両側面を最高に引き出した。この歌は彼が歌った多くのウーマック作品の最初にあたるものだ。“僕が彼にデモ・テープを聞かせた時、” ウーマックはいう。“彼はスタジオの中を走り回ってこう叫んだ。‘この痛みは全て君の中から出てきたんだ!オレはこの物語を伝えたいと思う。’いいかい?彼のクレイジーな気質の下にある複雑さと不安は、一人の傷つきやすい男を表しているんだ。”

彼にまつわる多くの話がある。自己中心的で辛辣で疑い深いピケット。全ては自分のためであり、自分のことしか頭にない。ピストルに夢中になった男。悪魔と結託した男。しかしながら、親友たちはそれとは違った面を見ている。スイカズラの花についた朝露をたぐり寄せるピケットの姿だ。

“ウィルソンはクレイジーなアラバマの少年たちの一人だった。彼は行く先々で敵を作っていた。” ヴェテランのレコード業界人、ボビー・ロビンソンはいう。“でも彼は思いやりのある男だった。君が欲しいものを何でも買ってくれるようなやつさ。ただし酒を飲むまではね。” クロッパーはピケットがスタックス・セッションで手に入れたボーナスを貧しい人々に分け与えたことを覚えている。ドン・コヴェイは彼と限りなくケンカをしたことを認めるが、ピケットは注意深く自分の近寄り難い神秘性をコントロールしていたという。“僕たちはラフ・ライダーズ(荒馬騎兵隊員)だった。若くてワイルドで。僕らがドアをロックしてバーテンダーにいうことといえば、‘酒くれ/ほっといてくれ/いつまで待たせんだ!’だったね。いつもすぐ逃げられるようにロールス・ロイスを止めていた。”

ピケットはマイアミでのレコーディング、“She Said Yes”と“Sugar Sugar”で、より甘くトロピカルなファンクに挑戦した。フィラデルフィアでは1970年にギャンブル&ハフのプロデュースによって、滑らかではあるが強力なレコーディングの数々を行なった。“Get Me Back On Time, Engine Number9”では、ピケットはシグマ・サウンドのプレイヤーたちによる生き生きとしたバッキングに乗って、悪魔にとりつかれたようなスネーク・ダンスを踊った。1970年暮れには、プロデューサーのブラッド・シャピロ、デイヴ・クロウフォードとともにマッスル・ショールズに戻り、“Don’t Knock My Love”でその猛烈な激しさをまき散らした。ピケットは西アフリカのガーナに飛び、アメリカ人とアフリカ人のミュージシャンたちによるフェスティヴァルでトリを務め、それはSoul to Soulとしてフィルムにドキュメントされた。そして1971年マッスル・ショールズで彼は“Funk Factory”をアルバム用に録音したが、このアルバムはお蔵入りとなった。

他の多くの同時期のソウル・スターたちと同様、ピケットもアトランティック以降、何年かの険しい道を歩んだ。しかし彼は忠実なオーディエンスを保持し、自身のレーベル含むいくつかのレーベルでレコーディングを続けた。そして1991年、彼はロックンロールの殿堂入りを果たした―彼は今まで見せたことのない正装で現れた。彼のキャリアは大ヒット映画ザ・コミットメンツでも称賛を受けた。これはアイルランドを舞台に、ピケットを崇拝する頑固なソウル・バンドが主役の映画だった。

朝に彼を称えよ。夜に彼を称えよ。そして真夜中にも(In the midnight hour)。彼は悪魔と戦い、頂点に立った現代のStagger Leeだった。

レオ・サックス


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