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Willie Hightower/Willie Hightower/2004 Astralwerks ASW 77136



アシッド・ハウス全盛の昔、私はロンドンで最もヒップなクラブのうちの一つの奥の部屋で、よくDJをやっていた。あの頃、私が最もよくターンテーブルに載せていたのが、ジョー・サウスの‘Walk A Mile In My Shoes’のウィリー・ハイタワー・ヴァージョンだ。毎週それを聞いていたキッズたちの多くは、‘サザン・ソウル’の意味はいうまでもなく、ウィリー・ハイタワーもジョー・サウスもおそらく知らなかっただろうが私がそのシングルをかける時、いつもダンス・フロアは上下に揺れることになった。それは跳ねるような申し分のないファンキー・ビートを伴った抗しがたい推進力あるレコードだった。合唱部はホーン、リズムそしてヴォーカルの爆発だ―特に最高の栄誉を受けているのがヴォーカルだ。

サム・クックとリトル・リチャードが交差したかのような声を持つウィリーは、言葉を歌同然にプリーチする。歌はサム・クックのヴォーカルをざらっと仕上げたようなウィリーの最高の歌唱と共にスタートするが、歌が進行するにつれ、彼はベース、ドラムスそしてピアノが彼の周りでダンスする中、スクリームし始める。個人間の感情に関するジョー・サウスの詞は、人種間の相互理解への賛歌へと変容する。それはレイ・チャールズが歌ったパーシー・メイフィールドの‘You’re In For A Big Surprise’とちょっとした親戚関係だ。音楽的に、感情的にそれはあなたが今まで聞いてきた中で、完璧な3分半の音楽だろう。それは私のような記憶力あるソウル・ファンが群がるよりも、はるかにいい運命を授かるに値するレコードである。それは暑い夏の日にラジオカセットプレーヤーのスピーカーからパチパチと音を破裂させながら、開けっ放しの窓から活気づき、聴かれ始めたのである。

ウィリーによる‘Walk A Mile In My Shoes’のレコーディングは、プロデューサーのリック・ホールのアイデアだった。1969年にスウェーデンのテレビ・ドキュメンタリーが、フェイム・スタジオでこの曲のレコーディング風景を撮影した時に、リック・ホールは言っていた。“僕はこの曲のオリジナル・レコードのプロダクションはすごくいいとは思ってないんだ。たとえそれが大ヒット・レコードであってもね。で、僕はこれのR&Bヴァージョンを作りたいと思った。僕は基本的にR&Bレコードとして作ったけど、彼がほしがっている人気とセールスを望んでいるよ。実際、僕はジョー・サウスのヴァージョンよりいいレコードができたと思っている。” この意見に異を唱えることは難しい。

ウィリー・ハイタワーは1940年、ガズデン(アラバマ州北東部)に生まれた―今や彼は6人の孫を持つ誇り高き祖父だ―彼は今でも歌うことを稼業としている。“僕の孫たちは僕の作ったレコードが大好きなんだ。” 彼は私にそう言う。“すごく多くの若者たちが古い音楽を好むなんて驚きだろう?僕は6歳の時から教会の聖歌隊で歌っているんだ。それ以来今までずっと歌い続けているわけさ。” 彼は1958年にプロに転向し、続く6年間南部で小さなギグをこなしていった。“僕は18の時にクラブで歌い始めた。サム・クック・タイプの曲を歌っていたね。僕はサム・クックがソウル・スターラーズでゴスペルを歌っていた時から好きだったんだ。彼の声の響きが好きだったね。”

地元のDJがボビー・ロビンソンを呼び寄せた時に事態は変化した―彼はレコード会社のオーナーで、ニューヨークではプロデューサーをやっていた。ウィリーはこう語る。“僕のマネージャーになったシェリー・スチュワートがニューヨークに電話をかけて、ボビーに僕を強く勧めてから、僕はボビーと一緒に働くようになったんだ。シェリーはWENNでR&Bとソウルをかける黒人DJだった。結局彼は僕のマネージャーになって、一緒に素晴らしい10年間を過ごしたよ。” ボビーはシェリーが歌を聞かせるためだけにウィリーをニューヨークへ送ったことで、シェリーの言葉を信じていた。

“ニューヨークは好きだったよ。以前にあんなところに行ったことなんてなかったね。ボビーとの仕事も素晴らしかった。彼は一緒に働くに全く相応しい男だった。僕の生活とは大きな違いがあったけどね。僕はスタジオなんて入ったこともなかったんだ。僕はニューヨークでアポロのようなところでも歌った。以前は小さなクラブでしか歌ったことのなかった僕がね。”

ボビーと契約する前のウィリーは、たったの1曲しかオリジナル・ソングを持っていなかった―悲しみを帯びた‘It’s Too Late’だ。これは彼のファースト・リリースとなった―ボビー・ロビンソンが所有していたいくつかのレーベルのうちの一つ、Enjoyからのリリースだった。ウィリーがいうように、それはボビーと組む前に彼が書いた歌にもかかわらず、そこには二人の名前がクレジットされていた。ウィリーが続く6年間にレコーディングしたマテリアルのほとんどからは大きく異なる印象を受ける。それはサム・クックの影響を全く感じさせず、ウィリーの個性を強く感じさせるのである。

ライターのバーニー・ホスキンズの忘れられない描写がある―彼の古典、‘Say It One Time For This Broken Hearted’の中だ―そこには‘あの夜遊び以後のサム・クックのような’響きがある。ウィリーはサム・クックに大きな影響を受けていたが、単なるコピーとは程遠いシンガーだった。それはちょうどメンフィスのグループ、ジ・オヴェイションズのルイス・ウィリアムズのように、ウィリーはサムのような超人的な声を持っていたが、サムのトーンと響きを思い起こさせるだけでなく、彼はいつもスピリットとソウルが横たわっていたサム同様、偉大な伝達者だった―優しさ、悲しさと一瞬の傷つきやすさ、そして次には喜びと楽観さを表現できた。彼の最も成功した二つの歌はサム・クックが死ぬ前に作った音楽と親しく話を交わすのである。

‘It’s A Miracle’はウィリーがリリースした中でもお気に入りのナンバーだ。ウィリーとボビー・ロビンソンによる共作であり、この威厳あるゴスペル風バラッドは愛による救済の力をたたえている。“僕が作った全レコードの中で‘It’s A Miracle’は特に誇りに思う1曲だね。アレンジメントがすごく好きなんだ。今までレコーディングしたどの歌よりも気持ちよく歌えるんだ。”

‘Time Has Brought About A Change’―これはフェイムからリリースされ、今回はウィリー単独で書かれた曲だ。サム・クックの有名な公民権アンセム‘A Change Is Gonna Come’の続編として考えられている。“変化は実際に訪れていたから、あの歌は気に入っていたね。あれで歌っていることを信じていたよ。あの頃大きな変化が起こったんだ。その変化は確かに進行中だった。黒人たちにとって今はずい分と良くなったよ。僕らは行きたいところへ行ける。望めばいい仕事を見つけることだってできるようになった。すごく良くなったね。”

ウィリーがライヴをやっていた頃、時にオーディエンスは人種で分離され(人種差別され)、彼はその肌の色によってクラブへ裏口から入らねばならないことさえあったに違いない。なるほどウィリー・ハイタワーの歌を当時政治的に起こっていたことと無関係に聴くことは難しい。それらの歌はあからさまに公民権運動に関係したものではなくとも、間違いなく影響は受けていた。1人の男が感じたことと、ウィリーが歌った内容は関連性があるのであり、それは普遍的なテーマなのである。60年代にウィリーは故郷のアラバマで公民権に対する意思表示の一役を担っていたし、その精神の行程は当時彼がレコーディングした音楽の中に多く聴くことが出来るのである。あの時のスピリットは今も大きな力を与え続けているのだ。

あるいはウィリーの公民権運動についての最も明白な言及は彼が取り上げたカヴァーにあるのかもしれない―もう一つのボビーのレーベル、Furyから―ピート・シーガー/リー・ヘイズ作の‘If I Had A Hammer’がリリースされた。この曲はトリニ・ロペスによって1963年に大ヒットを記録していた―このことはこれがプロテスト・ソングとして書かれた曲であることを忘れさせてしまうほどであった―しかしウィリーはこの曲をサム・クックの1964年のコパでのライヴ・アルバムから学んだ。コパはニューヨークの高級ナイトクラブであり、これがレコーディングされた時は、大半は白人の富裕階級のオーディエンスだった。‘Live At The Copa’は、サムの声が耳を捉えて離さないものの、サム・クックの持つソウル・ミュージックからはかけ離れている。ウィリーはサムのこのヴァージョンを愛し、自分のステージで取り上げ、ウィリーの大ヒット曲の一つとなったのである。

ウィリーはボビー所有のレーベルから3枚のシングルをリリースしたのち、キャピトルと契約を結んだ。彼は引き続きキャピトルでもボビーと一緒に仕事をし、レーベルでの彼のアルバムは彼がボビーと共にリリースした6曲のうちの4曲が収録されていた。キャピトルとの契約が終わると、ウィリーはアラバマのフェイム・レーベルに拾われた。フェイムはリック・ホールが所有し、彼はその時すでにアレサ・フランクリン、ウィルソン・ピケット、オーティス・レディングそしてエタ・ジェイムスらソウルのビッグ・ネームとの仕事で名声を打ち立てていた。彼は60年代の終わりにマッスル・ショールズのような田舎を、その催眠性ある豊富な音楽で、メンフィスやデトロイトほど重要なソウルの中心地にしてしまった。“あの頃、キャピトルとフェイムは一緒にビジネスをやっていた。フェイムはリズム&ブルース・レーベルとして見なされていたね。なぜなら僕はリズム&ブルース・アーチストとして入ったから。リック・ホールと仕事をするのは楽しかったね。一緒に働きたいと思うようないい男なんだ。おまけに彼は僕のスタイルを変えた。キャピトルでは僕はよりポップに近づいていったけど、リックはかなりのリズム&ブルース・スタイルだった。”

ウィリー・ハイタワーはフェイムで3枚のシングルしかリリースしなかった。しかしその3枚はグレイテスト・ソウル・レコードであり、その純粋な6曲はサザン・ソウルの持つマジカルな魅力を全て含んでいる。それらはリック・ホールの小さなスタジオから生み出された全ての歌と肩を並べるものだ。例えばクラシックスとして挙げられるエタ・ジェイムスの‘I’d Rather Go Blind’、オーティス・レディングの‘You Left The Water Running’、アレサ・フランクリンの‘Do Right Woman, Do Right Man’らとも並ぶのである。そしてリックが自身のフェイム出版からリリースしたレコードには入らないものでも、キャンディ・ステイトン、スペンサー・ウィギンス、ジョージ・ジャクソンらのレコードがある。

一定期間フェイムに在籍した後、ウィリーはマーキュリーと契約を交わし、そこで彼は多くの優れたシングルをレコーディングした。“リックは3枚のシングルを作ったあと僕を手放した。彼は同様に何人かのR&Bシンガーを手放したね。僕が思うに、彼はクラレンス・カーターみたいに違うことに乗り出そうとしていたんだ。彼はジ・オズモンズでヒットを飛ばした。” マーキュリーを去った後のウィリーは、散発的にレコーディングをするだけであったが、彼は歌うことを決してやめなかった。彼の現在のプランは待ちに待ったセカンド・アルバムだ。“僕は今でも古い歌を歌っている。実際その多くがすごく古いものだ。もちろん‘Walk A Mile In My Shoes’も歌っているよ。” ウィリーが現役であることは素晴らしいことだ。なぜなら世界は彼のようなシンガーを今も必要としているからだ―そう、真の勇気と信念、そして本物のソウルである。

Tim Tooher


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