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Spencer Wiggins/Feed The Flame : The Fame and XL Recordings/2010 Ace Records Ltd CDKENT 340



私は実際に聞く前に、それらのことについては耳にしていた。私たちはスペンサー・ウィギンスのゴールドワックス後のレコーディング・キャリアを押さえたコンピレーションの制作についての可能性を探っていた。そこには十分なマテリアルは存在しないかのように思われたが、マッスル・ショールズのフェイム・スタジオに保管されていたテープのリストには、以前にはリリースされたことのない7つのタイトルが記入されていた。私たちは分析を依頼したが実際には聴かなかったので、それらが良好なのか、フル・ヴァージョンなのか、そして本当にスペンサーの音源なのかさえ確信が持てなかった。

今年の3月、アレック・パラオとトニー・ラウンスのエース・レコードのチームは、テープをコピーするために大胆にもフェイムへと消え、トニーは移動が正解だったことをほぼ確信した。私たちが北西ロンドンにあるエース本部の小さなリスニング・ルームでヴォリュームを上げた時、見通しは固まった。‘Make Me Yours’の勢い、痛烈なサザン・ソウルの‘Hit And Run’から、クールなダンスフロア・マジックの‘I’m At The Breaking Point’まで、そこにはサザン・ソウルの正典としてとてつもない発見があった。私たちは宝を掘り当てていた。唯一残念だったのは、‘This Time’と‘Our Love Will Be True’の正体が、実は1曲の‘This Love Is Gonna Be True’だったことだ。

スペンサーは典型的な南部の男だ。彼は世俗音楽、クラブ、レコーディング契約へと進む前に、教会で歌って育った。時に素晴らしいレコードを作ったにもかかわらず、彼のレコードはプロモーションとふさわしいマネジメントの欠乏によって、特定の地域以外ではほとんど売れなかった。長年にわたって彼のレコードは廃盤だったため、手に入れるには中古レコードのエサ箱を漁るか、オークション・サイトで競り落とすしかなかった。実際の話、私たちの近年のケント・ボックス・セット、“Take Me To The River : A Southern Soul Story”に対する評論家の不満を読んだ私の友人はそれに同調し、不信感をあらわにしていた。ボックス・セットにはスペンサーの曲が少なすぎるとその評論家は言っていた。友人はこうコメントしていた。「僕は20年間、CDでスペンサー・ウィギンスの音源を手に入れたくてしょうがなかったんだ」 実際家であるスペンサー・ウィギンスが、自分のレコーディング・キャリアは実を結ばないと悟った時、彼は音楽を廃業し、フロリダで第二の人生をスタートさせた。

1942年にメンフィスで生まれたスペンサーは、ブラック・メンフィスのストリート、学校、教会が才能たちであふれていた時期に弟のパーシーとともにポーター・ストリートで育った。幼少時代の友達には、J・ブラックフット、ジェイムズ/ホーマー・バンクス、ダン・グリアらがいた。近くにはボビー・ブランドとモーリス・ホワイトが住んでいた。彼の両親スペンサーとレジーは、子供たちが悪の道へと踏み外さないようにと、音楽に興味を持たせようとした。ウィギンス一家はニュー・ライヴァル・ゴスペル・シンガーズという自分たちのファミリー・ゴスペル・グループを持っていた。グループは地元のメンフィスの教会で歌った。学校に通う日々のスペンサーにとっては、ゴスペルが全てだった。彼が1961年に学校を卒業したと同時に弟も卒業したが(スペンサーは病気のため1年間遅れた)、彼にはひとつの野心があった。彼はコリン・ディルノットに語っている。「ハイスクールを出ても大学に行くつもりはなかったんだ。心の中で僕はいつもビッグなアーチストになりたいと思っていた」

60年代初頭から半ばごろのメンフィスのクラブ・シーンはとりわけ熱く、彼はコンスタントに活動を続けた。彼の大ブレイクは、フラミンゴ・ルームズでジーン“ボウレッグズ”ミラーのグループで歌った時に訪れた。そのグループはドラムスに未来のハイ・リズムのメンバー、ハワード・グライムズとオルガンにアイザック・ヘイズを擁していた。フラミンゴはびっしり入れば1000人以上を動員できるかなり大きなクラブだった。ショーは午後10時から午前2時までで、そのあとは決まってジャム・セッションが行なわれた。ハウス・バンドの一員として、スペンサーは最新ヒットのカヴァーを求められていた―「僕はボビー・ブランドやリトル・ジョニー・テイラー、トップ40なんかをやっていた。ラジオでかかっていたホットな歌なら何でも歌ったね」

シンガー/フロントマンとしての技術をみがくうちに彼は注目を集め始め、地元の代理人との契約に同意した。それがきっかけとなり、彼の元にゴールドワックスとの契約の話がきた。レーベル・オーナーのクイントン・クランチは回想する。「スペンサーはセイモア・ローゼンバーグと契約していたんだが、彼がレコード制作に入る前に、セイがゴールドワックスを勧めたんだ。それで私たちは彼と契約した」 ゴールドワックス傘下の短命に終わったバンドスタンドUSAレーベルからリリースされた彼のファースト・シングルは、フラミンゴのハウス・バンドの仲間たちによる参加で制作されたようだ。A面はアイザック・ヘイズの手による‘What Do You Think About My Baby’で、B面はわずかにボビー・ブランド・スタイルを模倣したヘイズとミラーの共作によるナンバーだった。

今日ゴールドワックスは、ジェイムズ・カーによる一連の60年代の堂々たるレコーディングの数々によって最も記憶されている。しかしそれ以上に、スペンサー・ウィギンスはオヴェイションズと並んでレーベルの大黒柱だった。ゴールドワックスは、例えばスタックスよりもはるかに小さかったが、そのサイズにふさわしいクリエイティヴな強力企業だった。ゴールドワックスのシンガー、ライターたちは切っても切れない密接な関係を築いていた。中でもダン・グリアとジョージ・ジャクソンは重要人物だった。彼らの名は、スペンサーの全キャリアを通じて何度も飛び出すことになる。

1965年初頭に契約してから、スペンサーはゴールドワックスが消滅するまでほぼ籍を置いていた。1969年初頭に彼が最後のシングルをリリースしてからほぼ1年後に、レーベルはついにドアを閉めた。その間に彼は8枚のシングルをリリースし、レーベルの中でのスターの地位を確立した。シングルはバンドスタンドUSAレーベルでのまずまずの作品に始まり、まさにサザン・ソウル全盛期に差しかかっていた一連のゴールドワックス・レーベル固有の無類の作品群に至っている。ゴールドワックスでの1枚目は、崇高さを帯びたダン・ペン/スプーナー・オールダム作の‘Take Me Just As I Am’だった。次に続いたのがジョージ・ジャクソン作の‘Old Friend(You Asked Me If I Miss Her)’と、同様に印象的なB面の‘Walking Out On You’だった。さらなるシングル群―‘The Power Of A Woman’、‘Once In A While(Is Better Than Never At All)’、そして‘I Never Loved A Woman(The Way I Love You)’の壮大なヴァージョンこれら全ては、あなたの望むベストが詰まっている。

トニー・ラウンスは“The Complete Goldwax Singles”のヴォリューム2のライナーノートで次のように書いている。「彼のゴールドワックス時代に次々にリリースされたシングルは、どれも人目につかなかった。1人のアーチストによるこれほどグレイトなシングルの数々がレコード購買層にアピールせず、チャートに入らなかったのは全く驚くべきことだ」 スペンサーはコリン・ディルノットにこのことを、ゴールドワックスのプロモーション不足と、彼にマネージャーがいなかったことに起因していると言っている。つまりそれは、ある者が彼と出演契約を結ぼうとしても、彼を見つけ出すのさえ難しかったということを意味する。今日では、これらレコーディング作品はサザン・ソウルの殿堂の中でその地位を保証されているが。

ゴールドワックスは自身のスタジオを持っていなかったため、地元メンフィスのあらゆる施設を使っていた。ほとんどは定期的にサム・フィリップスのマディソンかロイヤル、そのあとには新しくできたサウンズ・オブ・メンフィスのスタジオを使用した。それから徐々にアラバマ、マッスル・ショールズにあるリック・ホールのフェイム・スタジオを使うようになっていった。スペンサーのレーベルでの最後のセッションはそこで行なわれた。レコーディングされたナンバーは、ノーザン・ソウル・クラシックとなったアップテンポのキラー・ナンバー、‘Let’s Talk It Over’、ジェイムズ・カー・クラシック‘Love Attack’のジャンプ・ヴァージョン、‘We Gotta Make Up Baby’、‘Love Works That Way’、‘Water’、ソウル・スタンダード‘Cry To Me’のファンタスティックなヴァージョン、そしてカントリー・ソウルの‘Love Me Tonight’だ。これは以前にこの曲を書いたカーモル・テイラーが、ゴールドワックスのカントリー・レーベル、ティミーで録音していた。

ゴールドワックスがもがき苦しむようになると、彼らはフェイムのオーナー、リック・ホールがスペンサーの契約を買い上げる申し出をした時に、それを受け入れた。その時の購入によって7曲の未リリース作品が生まれることになった。そのことはスペンサーにとってショックだったかというと、彼はそれほど気にしていないようだった。彼は私にこう言っていた―「僕はそれでよかったんだ。マッスル・ショールズで録音するのは好きだったしね。僕はメンフィスから車で南下して、夜中にレコーディングを始めていたんだ」

7曲のトラックがリリース待ちだったにもかかわらず、リック・ホールは新曲のレコーディングにとりかかり、ゴールドワックス音源のうち‘Love Me Tonight’だけを採用した。この曲はフェイムでのスペンサーのファースト・シングル‘Love Machine’のB面としてリリースされた。‘Love Machine’を書いたのは、スペンサー、オスカー・スミス、アール・ケイジ、そしてジョー・レイノルズだった。これはシンガーに新しい方向性を示すサザン・ファンクの要素を持っていた。次のリリースであるジャクソン・ファイヴ・スタイルの‘Double Lovin’’は、さらにその路線を推し進めることになり、これはスペンサーの唯一のR&Bチャート入りをもたらし、1970年に44位まで上がった。ジョージ・ジャクソンが書いたこの曲は、のちにオズモンズによってUKトップ10ヒットとなった。

ジャクソンはスペンサーがフェイムでリラックスするためには欠かせない人物だった。スペンサーは回想する―「ジョージは(フェイムの)中心人物だった。ほとんど全ての曲を書いていたからね」 60年代初頭のメンフィスで、スペンサーはポンティアック・ストリートにある下宿屋のジョージの部屋を訪ねていたうちの1人だった。「僕が夜遅くに彼のうちに行くと、‘スペンサー、曲が書けたよ、ヒット曲だ。’って言ってたね」 ‘Double Lovin’’のB面はエタ・ジェイムスのマッスル・ショールズ録音‘I’d Rather Go Blind’のカヴァーだ。スペンサーが歌ったフェイム・ヒッツの中では珍しくスロー・テンポだ。

スペンサー・ウィギンスはフェイムのために、厳密にいえば3つの異なるセッションでトータル9曲をレコーディングした。最初のセッションが1969年10月、最後が1971年初頭だった。彼はリック・ホールのことをこう回想している―「まさにナイス・ガイだったね。僕はよく彼のことを感心したものだった。僕はいつもあそこに行くのを心待ちにしていた。“スカイマン”(デュアン・オールマン)といっしょにレコーディングしたんだけど、彼といっしょにスタジオにいるのは楽しかったね。リトル・リチャードと居合わせた時は、そりゃすごかったな!」

私たちはフェイムのシングルとしてリリースされた3曲をここに収録し、その他6曲をフィーチャーさせた。‘Make Me Yours’はベティ・スワンの素晴らしいヒット曲だ。ここでのテイクは、ブレイクとちょっとしたグレイトなハモンドの伴奏でギミックが仕掛けてある。‘Holding On To A Dying Love’はタフなサザン・ソウルだ。ここでスペンサーは恋人に向け、ロマンスを持続させるために嘆願している。ジョージ・ジャクソン作だ。ジャクソンはブルージーな‘Hit And Run’で、もう1人のゴールドワックス時代の盟友ダン・グリアと共作している。快活な‘This Love Is Gonna Be True’は、ジョージとユージーン・ウィリアムズの共作だ。スペンサーの情報によれば、‘I’m At The Breaking Point’の作者もジョージ・ジャクソンかもしれない。‘Breaking Point’はファンタスティックなトラックだ。ある部分はサザン・グルーヴ、ある部分はタイロン・デイヴィスのヒット曲のようだ。

私たちが埋もれたテープを解放して以来、それは今年のレア・ソウル・シーンの新発見として最も話題となった。これは1つの傑作として記憶されるようになるかもしれない。最後のナンバーが‘Ooh-Be Ooh-Be-Doo’だ。これはタイトルから想像するよりもはるかにいい出来だ。しかし作者がクラレンス・カーターであることを知れば、あるいは驚くことではないのかもしれない。

スペンサーをレコーディング・アーチストの最前線へ送り出す責任を感じていたフェイムだったが、ヒット曲を出すことはできなかった。彼は依然として、ゴールドワックスが抱えていた問題を被っていた―プロモーションとマネジメントの欠乏だ。彼によれば―「車輪が空回りしているように感じていたけど、僕たちはどうすることもできなかった」 幸い、メンフィスでもう1つのチャンスが訪れた。ジーン・ラキージが彼のレーベル、サウンズ・オブ・メンフィスのA&Rマンとしてダン・グリアを雇った。グリアはすでにレーベルにオヴェイションズを招き入れ、彼の学友であったスペンサー・ウィギンスも連れてくれば完璧だと考えていた。

サウンズ・オブ・メンフィスは最新のスタジオを備えていたし、その時MGMから出資を受けていた。ダン・グリアはスペンサーとともに、シングル3枚分である6曲をレコーディングしたが、そのうち1枚しかリリースされなかった可能性が高い。サウンズ・オブ・メンフィス・レーベルでのそのシングルは、グリアの‘I Can’t Be Satisfied’で、彼はオヴェイションズでも同曲をレコーディングした。スペンサーのものが決定的ヴァージョンだ。彼はシンプルに、最初から最後まで歌を思いのままにしている。B面はアール・ケイジ/ロバート・オーウェンズ共作のみごとな‘Take Time To Love Your Woman’だった。

何年もの間、XLレーベルからさらに2枚のシングルがリリースされていたと噂されていた。XLはサウンズ・オブ・メンフィスが地元でのリリースで使っていたレーベルだった。その2枚として挙げられていたのが、‘I Can’t Get Enough Of You Baby’ b/w ‘You’re My Kind Of Woman’と、‘Feed The Flame’ b/w ‘El Paso’だった。しかしながら、どちらかのシングルはプレスされなかったようだ。加えて、スペンサーによる‘El Paso’のレコーディングが行なわれた形跡はない。それは、ダン・グリアがMGMからリリースした‘Hell Paso’である可能性が高い。他の3曲は80年代後半に日本でリリースされたが、ライセンス元は非公式な組織のように思われる。最後の1曲、‘Best Thing I Ever Had’は、サウンズ・オブ・メンフィスの貯蔵庫からハイ・クオリティな状態で見つかったが、これがスペンサーの世俗レコーディングを締めくくることになった。

1973年、スペンサーは音楽ビジネスを捨て、フロリダに移り住んだ。彼は教会の中で歌い続け、時折ゴスペルのレコーディングを行なっていたが、彼の声は依然健在であることは確かだった。しかしついに去年、彼は弟のパーシーとともにポレッタ・ソウル・フェスティヴァルに出演し、世俗音楽を歌うことに同意した。目撃情報によれば、彼の声はとても素晴らしかったらしい。今年、彼はイングランド東部のクリーソープス・6Ts・ソウル・ウィークエンダーに出演し、このCDからのナンバーを多く歌う予定になっている。それは、その価値がありながら当時リリースされなかった音楽への敬意であり、現代の精密さの中においても十分有効であるということだ。私たちはこの先もスペンサーに歌い続けてほしいと願っている。そうすれば彼は素晴らしい作品をさらに増やすことができるのだから。

ディーン・ラドランド/2010年

参照
2010年4月スペンサー・ウィギンスへのインタビュー
“Spencer Wiggins the Goldwax Years”のコリン・ディルノットによるライナーノーツ
トニー・ラウンスとディーン・ラドランドによるThe Complete Goldwax Singles Vols 1/2/3のスリーヴノーツ

感謝
このプロジェクトはケント・チームが愛情を持ち続けた努力の成果であり、私たちはテープ貯蔵庫へのアクセスを許可してくれたリック・ホールとロドニー・ホール、そしてマスター・テープ及びスタジオでのスペンサーのリラックスした写真を提供してくれたリンダ・ラキージに感謝します。


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