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Spencer Wiggins/The Goldwax Years/2006 Ace Records Ltd CDKEND 262



【少年時代、弟と共に】

スペンサー・ウィギンスは42年メンフィスに生まれ、73年にフロリダに移るまで、ずっとその町で過ごしてきた。彼の母レジーと、父スペンサー・シニアは歌手であり、弟パーシーもレコーディング・アーティストとなった。彼の孫娘も今R&Bを歌っていて、この一家の伝統は現在も続いている。40〜50年代にかけて一家は、ポーター・ストリート805番地に住み、幼少期にはJ.ブラックフットの名で知られるジョン・コルバートや、ジェイムス、ホーマー・バンクスが近くに住んでいた。ウィギンス兄弟はジェイムス・カー、モーリス・ホワイトらと共に幼少期を過ごした、ルモアーヌ・ガーデンズの住宅計画によってつくられたポーター・ストリートでボビー・ブランドが生計を立てていたのを覚えている。両親は子供たちに音楽教育をする事が、悪への道へ陥らないための最良の方法だと考えていた。一家はゴスペルを始め、R&B、ジャズ、そしてカントリー&ウェスタンでさえラジオで聴いていた。

ウィギンス一家はイースト・ジョージア通り724番地のニュー・フレンドシップ・バプティスト教会に参加し、そこの牧師が51年以上に渡って務めていたW.M.ブラウンだった。スペンサーの母は聖歌隊で歌い、父はその教会の案内人を務めた。そしてスペンサーは兄弟と共に聖歌隊に加わったのだった。スペンサーは弟パーシーの勧めによって歌い始めた。“パーシーは僕の歌に興味を持ったんだ。彼はサム・クック愛好家で、本当に夢中だったよ。一方僕といえばB.B.キング、レイ・チャールズ、ボビー・ブランドなんかが好きだった。この3人は僕のアイドルで彼らのほとんどのナンバーを歌ったものだよ。外で歌っていると弟が言うんだ、こっち来てこれを聴けよって。で彼は僕を巻き込んで歌い始めるんだ。小学校から高校までずっとこんな感じだったな。” 10代を通じて兄弟は彼らのヒーローに会うためにメンフィスで行われるショウへ出かけ、自分たちもそのヒーローのようになることを夢見ていた。“僕ら兄弟はいつも一緒だったから双子みたいなもんだったよ。そういつも一緒さ、常に一緒に行動してたね!”

【ニュー・ライバル・ゴスペル・シンガーズ】

ウィギンス一家は兄弟の最年長マキシンと兄弟を含む‘ニュー・ライバル・ゴスペル・シンガーズ’という5人組のゴスペルグループを結成した。グループは約5年間地元の教会を始め、プレザント・グリーン・バプティスト、ペンテコスタル・テンプル・ガイディング・ライトやメンフィスの様々な教会でライヴを行った。彼らは100マイル近くも離れた町の教会からも招待され、1957年にはWDIAの週一度放送される15分枠の番組にも出演した。そしてDJのP.O.‘ブレス・マイ・ボーンズ’ウェイドのショウにも出演した。彼はニュー・ライバル・ゴスペル・シンガーズをフィーチャーした数々の番組の司会を務め、ゴスペルグループの手助けに力を注いだ人物であった。ただグループのレコーディングは行われなかった。スペンサーは言う。“僕らは様々な学校で歌ったよ。モーリス・ホワイトはドラムを叩いてた。50年代後半〜60年代あたまにかけては本当にいい経験をしたね。僕とダン・グリア、パーシーは緊密な関係だったよ。みんな一つのことに向かって突っ走っていたよ、とても親密だった。“

【ハイスクール時代−ブッカーT・ワシントン・ハイスクール】

50年代後半までに、ブッカーT・ワシントン・ハイスクールはメンフィス・シーンに突如現れる才能の温床となっていた。兄弟はブッカーT・ジョーンズ、ウィリアム・ベル、デヴィッド・ポーター、モーリス・ホワイト、バーケイズ、アンドリュー・ラヴ、マッドラッズ、J・ブラックフット、カール・ハンプトン、ジェイムスとホーマー・バンクスの双子の兄弟、そしてジーン・ミラーと共に通っていた。これらの才能を育んだ教師の一人にナット・D・ウィリアムスがいた。彼は歴史を教えていた。彼はメンフィスのビール・ストリートでアマチュア・コンテストをスタートさせ、多くの実績を作り上げた。またかの有名なメンフィスWDIAラジオの最初のDJにもなった。そこで多くの黒人シンガーの発掘に貢献した。子供たちに個人的な音楽レッスンや、楽器の習得に参加させる余裕のなかったコミュニティにおいて、教師たちの役割は子供たちに特徴を持たせることになったようだ。

【フォー・スターズとサザン・ワンダー・ジュニア】

学生時代、兄弟はグリー・クラブでも歌っていた。グリー・クラブは60人のメンバーからなるより大きな聖歌隊のための劇場だった。兄弟はダン・グリア、デヴィッド・ポーターと共にオーディションを受けた。そしてデヴィッドと、タイロンと呼ばれる一人の男と共にR&Bグループを結成し、それはフォー・スターズと名付けられた。彼らのバックには、モーリス・ホワイト、ブッカーT・ジョーンズ、アンドリュー・ラヴがいた。グループは資金稼ぎのために、自分たちの学校や他のメンフィスの学校で多くのライヴを行った。そしてブッカーT・ワシントンのハイスクールバンドのためにユニフォームや機材を買えるだけの資金を作り出したのだった。50年代後半を通じて兄弟は、メンフィスのサザン・ワンダーズというカルテットにオマージュを捧げたサザン・ワンダー・ジュニアズと名乗るグループで、もう一人の兄弟と3人の男性と共に歌っていた。サザン・ワンダーズは50年代半ば、ピーコック・レーベルに吹き込んだ、ソロモン・オースティン、アーネスト・マッキニーに率いられたグループである。

【フラミンゴ・クラブと大ブレイク】

兄弟はスペンサーが一つ年上であったが、共に61年学校を卒業した。スペンサーは病気によって一年間休んでいたためであった。スペンサーは一つの目標を持って学校を卒業した。それはシンガーとして成功することであった。“学校を出て大学に行く事なんて考えてなかったな。ビッグなシンガーになりたかったしいつもそのためにトライしてたからね。” 60年代初頭、彼はメンフィス・クラブ・シーンで仕事にありついた。“歌っていたクラブはフラミンゴ・ルームっていって、違うクラブの2階にあって1階はサウンダーラマっていうクラブだったよ。僕らは二つのクラブを上がったり下がったりしながら歌ってたんだ!アイザック・ヘイズがオルガン、ハワード・グライムズがドラムス、トランペットはジーン・ミラーだった。ボビー・ブランド、リトル・ジョニー・テイラー、トップ40なんかを演ってたね。ラジオでかかる曲は何でもね。”フラミンゴ・クラブは500〜600人もの観客を収容でき、1階のクラブも350人を収容できた。彼らは週5日働き、ギャラは一晩9ドルだった。最終的には15ドルに達した。

スペンサーはその頃とても幸せな時期を過ごしたようだ。毎晩違う女の子たちと楽しみ、入っては出ていくお金のこともそれほど気にかけてはいなかった。フラミンゴのショウは夜10時にスタートし、夜中の2時ごろ終了していた。ある晩にはWCハンディ・クラブに移動したこともあった。当時について彼は、“いつも練習してたよ。ショウの後はいつもね。ショウが終わっても2〜3時間は練習してたな。昼間もずっとね。”スペンサーは60年代のメンフィス・ソウル・シーンのエキサイトぶりをよく覚えている。“本物だったね。とてつもなく大きなね。振り返ってみるとクラブはハプニングだったんだ。どこにも他にいくところがない人々にとってはね。クラブは大人気だった、今と違ってね。アル・グリーンやエルヴィスのようなビッグな連中とも一緒に歌ったし、もちろんパーシーともたくさんステージに上がったよ。”兄弟はサム&デイヴのナンバーも取り上げていた。スペンサーはメンフィスではアイザック・ヘイズとオヴェイションズのルイス・ウィリアムズと仲が良かったそうだ。

【ゴールドワックス・レコーディング】

スペンサーがクイントン・クランチと出会ったのは、フラミンゴで活動していた頃だった。“僕がクラブ周辺で歌っていたところ、ゴールドワックスの目に留まったんだ。クイントンがやって来て契約しないかと言った。もちろん僕は二つ返事でオーケーといったよ。”最初のシングル‘Lover's Crime’は64年初めにバンドスタンド・レーベルからクイントンによって発売された。他のゴールドワックス・セッション同様、クイントンはメンフィスのあらゆるレコーディング・スタジオを使用していたが、主にマディソンにあるサム・フィリップス・スタジオを使っていた。67年12月29日ひとつのセッションが設けられた。ギターにレジー・ヤング、ドラムスにボビー・ウッド、キーボードにボビー・エモンズ、ホーン隊はチャールズ・チャルマー、ウェイン・ジャクソン、フロイド・ニューマン、トム・マクルーアで、ジーン・クリスマンによって指揮されていた。スペンサーによると全ての楽曲についてクイントンが人選を握っていたという。

“彼らがやって来て言ったよ、‘スペンサー、この曲を歌ってほしいんだ’僕はオーケーと応えるんだ。”スペンサーは契約後間もなくマッスル・ショールズのフェイム・レコーディング・スタジオに行ったことを回想する。“ホーンのうちの一人がアンドリュー・ラヴだったな。‘スカイマン(スカイドッグ?デュアン・オールマンか?)’がギタリストだった。で‘Uptight Good Woman’を共作したスプーナー・オールダムに会ったよ。”スペンサーはその時のレコーディング方法を教えてくれた。“スタジオに入って5,6テイクかそれ以上録るんだ。一晩中スタジオで過ごしたな。僕がスタジオに行くと彼らは曲のキーを書き取るんだ。そして最初にトラックダウンして次に僕がヴォーカルを入れる。

トラックに合わせて歌っていくんだけど、ゴールドワックスのスタジオ・ミュージシャンとは本当のつながりは築けなかったな。僕は出たり入ったり、彼らとは会ったり会わなかったりでね。僕がスタジオに入って、彼らがキーを書き取ると彼らはそこに残り、自分たちでトラックを仕上げてしまうんだ。で僕が戻ってきてヴォーカルを入れるだけだよ。”スペンサーのゴールドワックス全作品はおそらく5〜10回のスタジオ入りでレコーディングされたと思われる。フェイムが所有する、フェイムから発売されたものと、それ以降のマスターもそれに含まれている。スペンサーはゴールドワックスが彼のアルバムを作らなかったことについていぶかしく思っているようだ。“なぜ僕のアルバムが作られなかったのかは今日に至るまで謎なんだ。仕事を失った後、一人の日本人が僕のところへやって来たんだ。彼は全ての僕の音源を持ってるって言った。クイントンから受け取ったらしいんだ。彼は僕にCDを送ってくれたよ。それが僕のファースト・アルバムって訳さ。”スペンサーお気に入りは‘Old Friend’‘Uptight Good Woman’‘Once In A While’‘Power Of A Woman’そして‘I Never Loved A Woman’だ。

【ジョージ・ジャクソン】

ジョージ・ジャクソンはゴールドワックス・セッション中にスペンサーと仲良くなり、彼に名作‘Old Friend’を贈った男だ。当時ジョージはリヴィング・ルームにピアノのある大きな古い家に住んでいた。彼の大家は彼に作曲のためにピアノを使うようすすめた。いくつかのキーはピアノでは出せなかったが、彼は機能しないキーをうまく周辺のキーを使って対応させることができた。ジョージは自分の家にスペンサー始め、オヴェイションズ、ジェイムス・カーらシンガーを連れてきた。ゴールドワックスは自身のスタジオを持っていなかったためだった。スペンサーは回想する。“ジョージは沢山僕に曲を書いてくれたよ。彼のうちへ出かけていくと彼は僕の声を真似て作った曲を歌うんだ。一日で曲を身につけるためにね。彼とは60年代初めに会っていたよ。彼もクラブで歌っていたからね。彼のうちは僕のうちから近かったからよく立ち寄ったよ。彼は曲を書くとき一本のビールを一日かけて飲むんだよ!彼は偉大なソングライター、アレンジャーだね。僕は彼の書いた棚上げにされていた‘Hit And Run’という曲を歌ったんだけどそれはひどかったね!救急車のサイレンみたいな音が入っていたんだよ!彼は素晴らしいアイディアの持ち主さ。”この曲はフェイム・スタジオで録音されている。

【ジェイムス・カー、そしてゴールドワックス・アーティストたちとの仕事】

ジェイムス・カーとスペンサー・ウィギンスのゴールドワックス作品が比較されるのは致し方ないことであろう。スペンサーはジェイムスについて良い印象を持っているようだ。“僕はジェイムスとはたくさん一緒に仕事をしたし、とても親しかったよ。僕たちはフロリダで多くの違うショウに出ていた。僕らは15〜20回くらい町を出たり入ったりお互いすれ違ってたと思うよ。”スペンサーは他のレーベル・メイトとも仕事をした。“バーバラ・ペリーと僕はちょっとした事でフロリダに来たんだ。ウィリー・ウォーカーもエディ・ジェファーソンも知ってるよ、同じレーベルだからね。パーシー・ミレンにも会った、大男でね。もう40年間会ってないよ。何かあったのかなといつも思ってんだけど。ジーン・ミラーは偉大なライター、アレンジャー、バンドリーダーだった。ホント最高だったよ、彼は。僕には特別に‘I'll Be True To You’を書いてくれたんだ。僕は彼のバンドにいたし、いつも一緒に仕事をしてたよ。ホントいつもセッションにはいたな。バンドがマッスル・ショールズに行った時、彼がホーンのパートを仕上げたんだ。グレイトだった。自分のすべきことを良く分かっていたね。トランペットも吹くし、どえらいアレンジを付けることもできた。ティミー・トーマスも覚えてるよ、彼はマイアミで学校の先生をやってるよ。たまにショウを演ってるって聞くよ。“

【ツアー】

スペンサーは60年代、ツアーに多くの時間を費やした。“オヴェイションズ、O.V.ライト、ウィリアム・ベルとも演ったな。たくさんの人たちとショウに出たけど、ひとつジャッキー・ウィルソン、ボビー・ブランド、デニス・ラ・サール、ブルック・ベントンそしてジョニー・キャッシュと一緒のショウもあったよ。ただ2ヵ月間くらいの町から町へのパッケージツアーには出られなかった。そのチャンスは掴めなくてブレイクする事はなかったよ。僕はプレイしたことのないシカゴのような町へ行きたかったんだ。僕のレコードはそういう町でビッグだったんだよ。” 66年彼はバンドの一員になった。“僕のレコードが凄くヒットしたから一度ニューオリンズへ行ったんだ。66年僕には‘Old Friend’っていうナンバーワン・レコードがあったんだ。4人組の小さなバンドを持ったよ。ワゴン車でニューオリンズへ向かったんだ。メンバーの一人、ケニー・レイ・カイトはギタリストで、彼はデニス・ラ・サールのバンドで弾き始めてバンドを去ったんだ。僕が持った初めてのバンドだったよ。ケニーを見つけた時、彼にはドラマー、キーボード・プレーヤーの知合いもいたね。僕は二人のホーン隊もしばらく持ってたけど、彼らに見合うだけの報酬を稼ぐ事ができなかったな。バンドを持つと一週間かそこらは給料を支払わなくちゃならないからね。“

【マネジメントの欠如とその影響】

スペンサーがブレイクしなかった理由のひとつに彼が感じるところでは、マネージャーが不在だった事がある。つまり彼自身のプロモーションの問題があったという。“ゴールドワックスはレーベルとしてのショウを行わなかった。これは僕にとってもっとも大きな課題で、同時にレーベルに価値を見出せなくなった理由なんだ。誰も僕をマネージしなかった。僕は若かったよ。僕は誰も知らなかったし、誰も僕の事を知らなかったね。僕のレコードは海外にまで渡ってプレイされてたのにね(海外に行った事も全くないよ。僕はいつも行きたかったんだけどね)。海外でレコードは有名なのに誰も僕と連絡を取る手段がなかったんだね。なぜマネージャーがいなかったのか分からないね。僕は未熟だったし、誰も導いてくれる人や、僕に興味を持ってくれないことに失望したよ。一緒にやってきたアイザック・ヘイズとデヴィッド・ポーターはスタックスという活発で最適な場があった。ゴールドワックスも活発な活動をしてたけど僕らにとっていいディストリビューターとは言えなかったな。”

【フェイム・セッション】

スペンサーは以下の曲がゴールドワックスが倒産した後フェイムから発売されたいきさつについて詳しく述べてくれた。“全曲を一度のフェイムスタジオ訪問で録り終えたね。弟のパーシーがバッキング・ヴォーカルをやってくれた。僕らは録音のためクイントン・クランチによってマッスル・ショールズに送られたんだ。フェイムがたくさんのアーティストを抱えていた頃、ヒューストンの大きなショウでこれらフェイム・ナンバーを歌ったよ。 ‘Double Lovin'’‘Love Machine’‘I'd Rather Go Blind’―僕はショウの時、自分の持ち歌3〜4曲を歌っていたけど、殆どはレコード化されなかったな。クイントンになぜレコーディングをやめたのか聞いたけど、彼は何も言わなかったね。だからわからないままさ。” 70年代初頭の短期間、アール・ケイジとダン・グリアがやって来るまでスペンサーにはレコーディング契約が無かった。

【サウンド・オブ・メンフィス】

ダン・グリアが言うには、スペンサーは‘サウンド・オブ・メンフィス’と仕事をしたがっていた。スペンサーは‘サウンド・オブ・メンフィス’とどうやって契約を取り付ければいいのか分からなかった。“覚えてないな、多分社長のアール・ケイジと話をしたんだと思うよ。彼は言ったよ、スペンサー、君と契約するかもしれないよってね。そんな感じで提携するようになったんだ。ダンも会社の重要なポストにいたよ。”彼のレーベル最重要曲‘I Can't Be Satisfied’をレコーディングした時の事をスペンサーは覚えている。“エルヴィス・プレスリー通りで録ったよ。そこに新しいスタジオがあったんだ。3,4テイク録ったはずだ。ダン・グリアは僕に自分で歌って歌唱指導してくれたよ。詞を教えてくれて僕は何の問題も無く片付ける事ができたね。”スペンサーは付け加える。“実際、僕がゴスペルソングに仕上げた曲が2曲ある。‘Old Friend’と‘I Can't Be Satisfied’がそうだ。僕はゴスペルに作り変えたよ。“神は君のひとかけらの愛では満足されないのだ、すべての愛を必要とされるのだ’ってね。”

【メンフィスを去る】

73年、スペンサーは成功することもなく幻想から目覚め、メンフィスを去る決心をした。“メンフィスを出た時は、マネージャーもいないし何もかもがボロボロの状態だったね。僕がいたこの特殊な環境は、僕にとって憂鬱で自分が終ってしまうかのようだったね。でフロリダにやって来て新たなスタートを切ることにしたんだ。しばらくそこでブルースを歌おうとしたけど事はうまく運ばなかったよ。バンドはショウの時間になっても現れないし。そこで僕は教会で働く事になったんだ。最後にメンフィスでブルースを歌ったのは73年だった。75年には歌うのをやめていたね。”

【神への誓い】

スペンサーは世俗音楽をあきらめる決意をした。“僕の中からそういった音楽を追っ払ったんだ。そして皆に神への畏れ、敬いを説くようになった。残りの人生を神に捧げる事を誓ったからね。”スペンサーの決意は固かった。76年頃のことだった。“外でブルースを歌ってた時は、僕に曲が書けるとはとても思えなかったよ。教会で歌うまではね。77年に神はソングリストを僕に与えてくれた。僕はアル・グリーンのスタジオに行き、レコーディングしたんだ。彼は僕が書いた全てのゴスペルソングについてあらためて僕と連絡を取るつもりだったが、結局連絡はこなかったよ。まだ彼はそのマスターを持ってるはずだ。”スペンサーは2000年に至るまで何もレコーディングしなかった。

【失踪】

2003年の彼のインタビューまで、彼の失踪については様々な噂が飛び交っていた。“僕は全くきちんとした人間でね。多くの人が手を出して失敗するタバコも酒もドラッグもやらなかったし、それは今も続いてるよ。そして常に希望と祈りを持っているんだ。81年からエヴァーグルーズ港で船に燃料を積み込むためのトラックの運転手をしてたんだ。そして会社は買収されて早期退職希望者を募ってきた。僕は2001年6月いっぱいで退職したんだ。僕はゴスペルの分野での希望をまだ持ってたから、その仕事に戻ろうとは思ってないよ。”

【ジャンプ・フォー・ジーザス】

70年代後半から様々なゴスペル・ショウでずっと歌い続けてきた彼は、99年にゴスペル6曲入りカセット‘Jump For Jesus’をリリースしている。これはローカルエリアでかなりのヒットになった。“何もしてなかったし、契約もなかった。僕の恩師である牧師のところのシスターが録音したがっていて、二つ返事で実現したんだ。タイトル曲ともう1曲は僕が書いたんだ。デジタル・スタジオでレコーディングしたよ。ドラムマシンにギター、ベース、オルガンをのっけてね。この辺りの二つの町ではラジオでもかかってナンバーワンにもなったよ。”

【キーズ・トゥ・ザ・キングダム】

2002年春、スペンサーはタヴェット・レコードの社長と会った。結果14曲入りニューCDはスペンサーの新しい側面を示すこととなった。それは新しい若い世代にも訴えかけると同時に、古くからのファンにも充分アピールするよう作られていた。ニューアルバム‘Keys To The Kingdom’はエネルギッシュで気持ちの高揚するCDだったが、残念ながらフロリダ以外で配給されることはなかった。

【考証・結び】

スペンサーは自らの音楽的キャリアについて非常に達観した考えを持っている。“自分の人生を変えようと思ったら、その人生は自分にとって幸福であるべきだ。でも自分の過去に見切りをつけられるとは思えないし、過去を忘れることもできないさ。僕だって過去のレコードを忘れることなんてできないし、続けられればなぁと思う。自分のやって来た事をどこまでも追いかけたいと思うからね。”スペンサーの、神と彼の歌に対する責務はまだ残されている。そしてそれは今も続く彼の信条に捧げられているのである。

コリン・ディルノット、2006

ゴールドワックス・レコーディング

70〜80年代にかけて発売された、日本のヴィヴィッド・サウンドの彼のCD、LPの殆どの楽曲のマスターテープ貯蔵庫には、驚くべきものはもう殆ど残ってはいない。しかしながらここには、“Once In A While”の未発表1/2” 4トラック・マスターが収められた。これはシングル・ヴァージョンよりも30秒長く、スペンサーの猛烈なヴォーカル・パフォーマンスを聞くことができる。我々はボーナストラックの一曲目に彼の歌唱力を示すナンバーを入れた。コリン・ディルノットとのインタビューで、スペンサーは彼のブルース唱法について語っている。彼はゴールドワックスでいくつかの正真正銘のブルースを吹き込んでいる。これら発売に至らなかったレコーディング・ナンバー、‘Sweet Sixteen’と‘My Love Is Real’はソウルというよりむしろブルースに狙いを定めた‘Walking Out On You’‘Anything You Do Is Alright’のようなナンバーとして浮かび上がってくる。

‘The Kind Of Woman That's Got No Heart’と‘Who's Been Warming My Oven’は当時作られながら発売されなかったナンバーだ。この2曲はよりジャズ的アレンジが施されてあって、オヴェイションズが同時期にレコーディングしている。そのヴァージョンはサパークラブ(小規模なナイトクラブ)・ジャズ・スタイルで録音された。おそらくゴールドワックスは所属するアーティストの作品を幅広くアピールしたかったのだろう。レーベルは既に得た栄冠に甘んずることはなかった。カントリー&ウェスタンの影響は、サザン・ソウル史において重要な意味を持つ。とりわけ指揮を執るクイントン・クランチは元カントリー&ウェスタン出身であった。完全な別テイク・ヴォーカルが聞けるのはこのCD最後の2曲‘I'm A Poor Man’s Son’と‘That's How Much I Love You’である。いくつかのナンバーではまだ全ての楽器が加えられていない。しかしヴォーカル・パフォーマンスが同じであればそれらは何ら支障にならないと考えた。

フェイム所有音源

このCDはウィギンス作品のうちゴールドワックス所有のものは完全に収録してある。しかしいくつかの混乱もあるかもしれない。‘We Gotta Make Up Baby’‘Let's Talk It Over’‘Cry To Me’‘Water’‘Love Works That Way’‘Love Attack’そして‘Love Me Tonight’に関しては、69年スペンサーがフェイムと契約を交わした時にフェイムに売り渡されている。その7曲のうち不思議なことに‘Love Me Tonight’だけが2枚のシングルとして発売された。これらのもっと遡って発売されていたかもしれないシングルは、それぞれ69年11月と70年7月までリリースを待たねばならなかった。そして例えば‘Let's Talk It Over’は明らかにダンス・ナンバーで、60年代半ば頃に酷似している。

あいにく日本のヴィヴィッド・サウンドが70年代、80年代にこの7曲を発売していて、それらがゴールドワックス作品として考えられ、本当は既にフェイムに売り渡されたものだとは分かっていなかった。この、間違ってはいるが理解はできるいくつかのゴールドワックスのマスタ−テープは、別テイクもまだ含まれていて、我々Aceが内々に関与してきた売買契約のコピーをヴィヴィッドは見たことが無かったのである。Aceレコードはフェイムから、このCDを含むライセンス契約、または購入を試みたが、未だフェイムの承認を獲得するに至っていない。もちろんこれからもトライし続けるが。ウィギンスと彼の弁護士は、この問題についてフェイムと接触したが、残念ながらモノにはならなかったようだ。このCD収録曲含む現在入手可能なCDは、フェイム、ゴールドワックス、エース、そして他の傘下レーベルいずれからも正式な認可を受けていないのが現状である。

アディ・クロースデル、2006


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