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The Who/BBC Sessions/2000 Polydor Records Ltd (UK) 547 727-1



THE WHO AT THE BBC

ザ・フーとラジオはほとんど矛盾した存在のように見える。彼らの本能的でアナーキックなサウンドをどうやってとらえ、どうやって小さな無線機器に伝えることができようか?

それでも1965年4月から1970年4月まできっかり5年間、ザ・フーはもっぱらBBCの電波に乗せ放送するために、10ほどのセッションをレコーディングした。ついにこれら歴史的なパフォーマンスは初めて公式にここに姿を現わすことになった。ついに彼らはザ・ビートルズ、ジミ・ヘンドリクス、レッド・ツェッペリンによる似たような貴重な‘Beeb’(BBC放送のこと;Auntie)アンソロジーと並んで、ふさわしい場所を確保した。皮肉にも私たちはまず第一に、まさにその存在に感謝せねばならない厳格な性質を持った機関(BBC)を保持している。それはザ・フーや、彼らに似た者たちによって時代遅れにされてしまったのであるが。しかし当時、事態は大きく異なっていた・・・

34年を経て、今日の超現代的なマルチ・メディア情報伝達構造の中で理解するのは、不可能なことのように思われる。ミュージシャンズ・ユニオンのおかげで、録音テープ、あるいは‘needle time’(レコード放送番組の時間)は、戦後の英国で毎週82時間、厳格に供給されてきたのである。British Broadcasting Corporation(BBC)のまじめな電波に乗ってプレイされたポピュラー音楽は、匿名のシンガーやダンス・オーケストラによる陳腐なカヴァー・ヴァージョンだった。みなが厳格な組合の指導の範囲内にある‘安全’なものとみなしていた。

この哀れな状況に代わる唯一の選択が、日没後の時間帯にヨーロッパ中に発信されていたラジオ・ルクセンブルグのかすかな信号をキャッチしようと、ダイヤルを回転させることだった。こっそりと背を丸め、トランジスタラジオに耳を押しつければ、パチパチ・ノイズとヒス・ノイズの彼方からかろうじて聞こえてくるビートルズの最初のレコード、あるいは誰も知らないR&Bナンバーに出会えるかもしれなかった。

さもなければ、多くのポップに飢えた10代の既存のオーディエンスは自分たちの欲求を満たそうと、‘Easy Beat’、‘Go Man Go!’、‘The Joe Loss Pop Show’そして‘Saturday Club’といったBBCの‘Light Programme’(娯楽番組)にチューニングを合わせていた。‘Saturday Club’は毎週土曜の午前10時から正午まで放送され、1回の放送につき900万近くのリスナーたちを魅了していた。General Overseas Serviceが最後の30分間に伝える世界の話題では、少なくともその倍の人々が聞いていた。60年代半ば、共同して‘ライト・プログラム’に出演し、そのようなオーディエンスの前に姿を現わしたザ・フーのようなグループの重要性は、あくまで強調されることはなく、刺激的に伝えられるはずもなかった。しかしながら、それはかなり違った方面へ作用することになった・・・。

“重苦しくておもしろくない”、“将来性はこれが限界”、“全体にオリジナル性に欠け、水準以下”。この3つが、ザ・フーが1965年2月12日にBBCの7人の審査員の前で、いらいらしながらオーディションを受けた時に下された辛らつな評価だった。実はこれが最初ではなかった。グループは1964年4月9日に、前身バンドのザ・ディートゥアーズとしてオーディションを受け、失敗に終わっていた。ドラマーはキース・ムーンの前任ダグ・サンドンだった。
かろうじて賛成4、反対3によって、ザ・フーは‘The Joe Loss Pop Show’(ロスは当時人気のあったバンドリーダーだった)のランチタイム・セッションに初めて招かれ、4月2日、チャリング・クロス駅近くのノーサンバーランド通りにあるプレイハウス・シアターでのライヴが放送された。

録り直しやグッド・ドラム・サウンドなど全く望むべくもなかった。バンドのライヴは‘Beeb’のお気に召すよう、1人のプロデューサーと1人のエンジニア、モノ・マシン、最小限のスタジオ技術と時間と経費によって行なわれた。こういった原始的な環境のもとで、ザ・フーは‘I CAN’T EXPLAIN’を猛然とプレイした。そのデビュー・シングルは当時、NMEのトップ30の中で14位を記録していた。

残念ながら、この重要なセッションは、アーカイヴに対するBBCの先見の明のなさのおかげで、もはや現存していない。(注:Corporation’s Transcription Service((録音放送))の一部として、毎週海外向けに放送されていた‘Top Of The Pops’((同名TV番組とは別))のために割り当てられたパフォーマンスは消去から免れた)

1965年半ばまでにトップ10ヒットを手に入れていたザ・フーは、ブリティッシュ・ポップ・シーンに登場した中で、最もオリジナリティにあふれ、わくわくするグループの1つとしてその地位を確立しつつあった。マネージャーのキット・ランバートとクリス・スタンプに鼓舞され、彼らの歯に衣着せぬ発言は、週刊音楽紙や全国日刊紙に定期的に載るようになった。前身のザ・ディートゥアーズ、ザ・ハイ・ナンバーズとして、マーキー・クラブへの伝説的な出演含む、ロンドン中のクラブで数え切れないほどの修行を積んだことで、バンドは驚くべきライヴ・アクトとして1つにまとまっていた。5月24日、ザ・フーは‘I CAN’T EXPLAIN’に続くシングル、‘ANYWAY, ANYHOW, ANYWHERE’をプロモートするためにBBCへ戻った。そのコマーシャル性に欠けるシングルは、典型的なザ・フーのパフォーマンスである計算されたカオスをうまく要約していた。それは2分半の簡潔なポップ・アートだった。

先に述べた理由によって、ピート・タウンゼンドがオーヴァーダブに頼らずに、生でキーキーというフィードバックを伴ったソロを再現していたことを考慮すれば、‘Beeb’ヴァージョンは注目すべき聴き物だ。彼らの最新の売り物を宣伝するために測り知れないほど貴重な場を提供したことに加えて、‘Saturday Club’(ブライアン・マシューが司会だった。彼の独特でよく響く声が全体に聞ける)は、グループにステージでのハイライトである(必ずしもコマーシャルなリリースをする予定のなかった)マテリアルを紹介する機会を与えた。

ジェイムズ・ブラウンの無名のUSシングル、‘Just You And Me, Darling’(1961)は、ザ・フーのステージで取り上げられていた典型的なカヴァーだった。それは主に、当時‘ゴッドファーザー・オブ・ソウル’に大きな影響を受けていたグループのボスでシンガーのロジャー・ダルトリーをなだめるためにプレイされていた。また1963年12月にUSでリリースされた、これも無名のモータウンの珠玉のシングル、エディ・ホランドの‘Leaving Here’も威勢よくプレイされた。そのサウンドには、てらいも生ぬるさも感じられない。このナンバーはこれ以降のあらゆるモッド・グループの定番レパートリーとなった。そして‘Good Lovin’’だ。これはソウル・コーラス・グループ、ジ・オリンピックスのナンバーであり、1966年にアメリカのグループ、ヤング・ラスカルズがカヴァーし大ヒットさせた。とりわけこの2曲のハイライトといえるのは、キース・ムーンの信じられないようなタムとベース・ドラムのフィルだ。彼はこの時まだ18歳だったが、世界中に存在するドラマーの誰とも違うサウンドを出していた。

タウンゼンドいうところの‘ANYWAY, ANYHOW, ANYWHERE’の“規則的な混沌”は、バンド内に蔓延していた意見の衝突を正確に反映したものだった。1965年11月22日にザ・フーが再び‘Beeb’のためのレコーディングにやってくる時までに、音楽プレスはグループの分裂をほのめかしていた。その一方で、グループ3枚目のシングル、‘MY GENERATION’は、チャート2位に達していた―ザ・フーのそれまでの最高位だった。そのオープニング・コード一発目から、‘MY GENERATION’は究極のロックンロール・アンセムだ。BBCヴァージョンもオリジナル録音と同じように、上昇するキー・チェンジ、手拍子、どもり、そしてベース・ソロが入り、電気ノイズを伴った大混乱へと崩壊していく後半部がとらえられている。もしザ・フーが他の旋律を奏でなかったとしても(この時点で彼らは明確な音楽的可能性を秘めていた)、彼らはロックの殿堂入りを強固なものにしていただろう。これは1つの挑戦的な声明であり、後年長きに渡ってグループ、とりわけタウンゼンドを苦しめることになった。

また‘MY GENERATION’は、ザ・フーの音楽的方向性を変化させるナンバーとなった。ダルトリーは不本意だったにもかかわらず、モータウンとジェイムズ・ブラウンのカヴァーは、ピート・タウンゼンドの開花しつつあったソングライティングの才能によって次第にき、き、き、消えていくことになった(f-f-faded away)。このセッションでピートの最新作2曲が前もってプレイされていた。‘THE GOOD’S GONE’と‘LA LA LA LIES’は、どちらも12月にリリースされたデビュー・アルバム、‘MY GENERATION’に収録のヴァージョンに似ていた。後者はセッションマンのニッキー・ホプキンズによる特徴的なピアノの連打は入ってないが、前者ではピートの毒のあるファズ・トーンのソロがフィーチャーされている。

1965年が終わると同時に、ボールルーム、劇場での一夜限りの公演、海外ツアー、TV、そしてレコーディング・セッションのあわただしい1966年が始まった。これに加え、グループは彼らのレコード会社デッカとプロデューサーだったシェル・タルミーとの法的論争に巻き込まれた。なんとかして彼らは、狂気じみたスケジュールの中に2つの‘Saturday Club’セッションを押し込んだ。このうちの最初のセッションは、3月15日にグループのニュー・シングル、‘SUBSTITUTE’を宣伝するために行なわれた。このシングルはデッカがグループの承認なしで勝手にアルバム(‘MY GENERATION’)からカットした‘A LEGAL MATTER’とチャート上で直接対決することになった。そのシングルのタイトル(‘法的事項’)を考えれば、執念深いデッカが皮肉として選択したものといえた。

レコード上でピートは、‘SUBSTITUTE’の特徴的なイントロを巨大な12弦アコースティック・ギターでプレイしたが、このエレクトリック‘Beeb’ヴァージョンでは、彼のブロンドのテレキャスターがフィーチャーされた。この時のセッションで特筆すべきは、当時ザ・フーが公式にリリースしなかった2つのナンバーだ。

ステージで新しいマテリアルを取り上げようと、ザ・フーはエヴァリー・ブラザーズの‘MAN WITH MONEY’をカヴァーし、マーサ&ザ・ヴァンデラスの‘DANCING IN THE STREET’をそっくりのアレンジでコピーした。そこでは彼らの卓越したハーモニーを聞くことができる。同時期の曲であったが、エヴァリーの精巧さは容赦のないパワー・コードと激しいフィードバックに取って代わられている―ブライアン・マシューがいみじくも語っているように、“ザ・フー流料理法”だ。‘MAN WITH MONEY’は、ジョン・エントウィッスルの猛烈なリード・ベースを前面にフィーチャーしている―山積みにされたマーシャル・アンプのヴォリューム・レベルによって、メーターの針はレッド・ゾーンへと振り切っている。同時期にレコーディングされたわずかに抑制の効いたスタジオ・ヴァージョンは、CD‘A QUICK ONE’リマスター版のボーナス・トラックとして収録された。エヴァリー・ブラザーズのオリジナルは、彼らのアルバム、‘Rock ‘N’ Soul’と‘Beat ‘N’ Soul’に収録されている。どちらも1965年リリースだ(‘Love Is Strange’と‘Love Hurts’も当時ザ・フーがステージで取り上げた)。

半年後、長引いていたシェル・タルミーとの問題は解決し、ザ・フーは自由なレコーディング活動を再開した。1966年9月13日、グループはその年2度目の‘Saturday Club’セッションを行なった。‘DISGUISES’が未加工のむき出し状態でプレイされた―スタジオ・ギミックなしでキット・ランバートはこれを録音し、EP‘REAY, STEADY, WHO!’に収録し、11月にリリースした。グループの最新シングル、‘I’M A BOY’は‘MY GENERATION’同様、もう少しのところでナンバー1になるところだった。これは怒りから異常なトラウマを持った現代病の描写まで、タウンゼンドのソングラティングの幅広さを物語っている。両曲ともあり得ないようなキースのタムとシンバルをフィーチャーしている。しかしプロデューサーのジミー・グラントによるザ・フーにふさわしいラウドな処理だ(このセッションでは‘SO SAD ABOUT US’も録音されたが、あまりに不完全で耳障りなサウンドだったため、このコレクションからは外された)。

ザ・フーは3枚のトップ5シングル(‘SUBSTITUTE’/‘I’M A BOY’/‘HAPPY JACK’)とEP(‘REAY, STEADY, WHO!’)、そしてアルバム(‘A QUICK ONE’)によって、イングランドではビートルズとローリング・ストーンズに次ぐ地位を強固なものとして、1966年を終えた。

1967年、グループは本格的なアメリカ進出へ向けて手筈を整えていた。しかし最初の仕事は例によって、‘Saturday Club’のセッションだった。このセッションは1月17日にブッキングされた。番組は‘RUN, RUN, RUN’でスタートしたが、そこではピートのフェンダー・ストラトキャスターによる歪んだ長い演奏がフィーチャーされた。それはアルバム‘A QUICK ONE’オープニングのスタジオ録音よりも実験的なサウンドだ。まるで名うての大槌のようなズシンズシンと響くキースのタムをフィーチャーした‘HAPPY JACK’がシングルとしてリリースされた。“シングルとはならなかったグレイト・フー・シングル”である‘BORIS THE SPIDER’で、ジョン・エントウィッスルに光が当てられた。このナンバーはすでにステージではずっとお気に入りのレパートリーとして取り上げられていた。アルバム‘A QUICK ONE’へのロジャーの貢献であるバディ・ホリー風の‘SEE MY WAY’は、間違いなくアルバムでのはっきりしないデモのようなヴァージョンよりも優れ、より具現化されて聞こえる。

1967年8月15日、Marine Broadcasting Billが終了し、それはPirate Radio(海賊ラジオ)の終焉を告げる鐘となった。海賊放送は1964年に入ってからの日曜日以来、領海域外から初めて放送されたラジオ・カロラインを始めとして、英国の音楽産業に大変革をもたらしていた。BBCの新しい全国ポップ・ネットワーク、Radio1は、海賊ラジオで経験を積んだDJを配置し、増加しつつあった‘needle time’(レコード放送の時間)を請け負った。皮肉なことに、この新しい‘体制’のもとでのザ・フー初のセッションは、‘THE WHO SELL OUT’からのトラックがフィーチャーされていた。それらのトラックには、官僚支配によって打ち負かされてしまった海上放送への親愛の情が表されていた。

ザ・フーは使用許可をめぐって争っていたスタッフ・プロデューサーのバーニー・アンドリュースと共に、独立スタジオでのレコーディングを主張し、この官僚支配とうまく渡り合った最初のグループだった。ホルボーン駅(カムデンの一部)向かいのDe Lane Leaスタジオは、ステレオ・マシンの設備を備え(番組はモノ放送のみだったにもかかわらず!)、グループは10月10日に‘Top Gear’セッションをそこでレコーディングした。

ザ・フーは4つのIDジングルのレコーディングが示すように、しきりにラジオ・ショーをやりたがっていた。そのジングルとは、1つが‘Top Gear’のため、3つがRadio Oneのためで、使われた曲は‘HAPPY JACK’、‘BORIS THE SPIDER’、そして‘MY GENERATION’だった。

タイトでパンチのある‘PICTURES OF LILY’は、ピートがアルバム、‘SELL OUT’のトラック(主に‘RELAX’、‘RAEL’など)で初めて見せたきらめくような素晴らしい効果のあるオルガンが被せてある。‘TOMMY’でピートがひらめきを見せることになるように、グループは‘ミ二・オペラ’の‘A QUICK ONE(WHILE HE’S AWAY)’をフィーチャーした。その夏、ハーマンズ・ハーミッツの不釣合いなサポート・アクトとして初めてアメリカへ旅立ち、プレイしたおかげで、このナンバーは7分間に短縮されたが、アルバムでの試験的なヴァージョンよりもライヴ感覚あふれるものとなった。

ザ・フーは翌年の1968年の大半を、アメリカ・ツアーと‘TOMMY’のレコーディングに費やした。‘TOMMY’は彼らの運命をほとんど一夜にして一変させてしまった。彼ら以前のビートルズやローリング・ストーンズ同様、ザ・フーは突然ラジオ・コマーシャルの必要性がなくなるほど大きく成長した。過去5年間、徹底して働いてきた彼らは、今やそういったオファーを断る余裕があった。

1970年初め、ピート・タウンゼンドと評論家/ジャズ・シンガーのジョージ・メリーは、Radio1と2の取締役ダグラス・マガリッジと共に危険な状態にあった日中のコマーシャル・ラジオに関する討論に参加した。マガリッジがザ・フーの望むものならどんなマテリアルでもオンエアすると申し出るほど、憂慮すべき事項だった。

4月13日、ザ・フーはまさにその目的で、ポートランド・プレイスにあるBBC放送会館(本部)近くのI.B.Cスタジオに集まった。‘TOMMY’に続く作品だった‘THE SEEKER’が最初にプレイされ、シングルでのハードなエッジとは違い、より明るいアコースティックなリズムがフィーチャーされている。‘I’M FREE’はアメリカとヨーロッパのコンサート・ホールやオペラ・ハウスでエネルギッシュにプレイしていたザ・フーの演奏をあますところなく反映している。ちなみに両曲ともピートの猛烈なダブル・トラックのアコースティック・ギターが前面にフィーチャーされている。これは並ぶ者のいない卓越したリズム・ギタリストとしての彼を示している。‘SHAKIN’ ALL OVER’のロジャーのヴォーカルにはテープ・エコーがかけられ、途中に短くウィリー・ディクソン(シカゴ・ブルース界の重鎮)の‘SPOONFUL’が挟み込まれている。このテイクはザ・フーの直観力ある伝説的なアンサンブルがとらえられ、その8週間前にリーズ大学で録音された爆発的なライヴ・ヴァージョンと張り合える出来だ。

このコレクションは3年飛んで、1973年1月29日に録音されたテレビのサウンドトラックのための2曲で幕を閉じる。そのテレビとは、BBC2の深夜ロック番組、‘The Old Grey Whistle Test’だ。これは‘Don Kirshner’s Rock Concert’(ドン・カーシュナー:モンキーズを企画した米ポピュラー界の中心的人物)の英国版だった。2曲とも前もって録られたバッキング・トラックに生のヴォーカルが被せられている。頓挫したプロジェクト‘LIFEHOUSE’から救い出された‘RELAY’は、シングル三部作の最後に当たるものだった。注目すべきは、フル・ヴァージョンでプレイされていることで、ちょうど5分となっている。ピートとロジャーは‘LONG LIVE ROCK’の詞、‘ROCK IS DEAD ― LONG LIVE ROCK’の部分を交互に歌っている。‘LONG LIVE ROCK’のコンセプトは、タウンゼンドが‘QUADROPHENIA’に着手する方を選んだため破棄された。ちなみによく聞いてみると、最後のヴァースでピートは歌詞をしくじっている!

さて、これで全てだ。26のラジオ・トラックと特別な思い出から成り立ったこの歴史的コレクションは、どんな状況においてもザ・フーがいかにグレイトなサウンドを響かせていたかを示すものだ。ある者はザ・フーを甲高いAMラジオの音で初めて聞いた時の忘れられない瞬間に引き戻されるかもしれない。そうでない人もヴォリュームを上げて、60年半ばのイングランドの土曜午前を思い浮かべてみてほしい。ザ・フーはまさに国民のラジオをどろどろにメルトダウンさせようとしていたってわけだ!

アンディ・ニール (1999年3月)


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