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V/A / White Bicycle/2006 A Wing & A Prayer Ltd. Fledg’ling FLED 3061



Crossroads
Eric Clapton & The Powerhouse
このセッションは全く好運にめぐまれて始まったものだった。マンフレッド・マンのリード・シンガー、ポール・ジョーンズがエレクトラ・レコーズの私のオフィスにやってきて、彼がプロデュースしたガイアナ人のゴスペル・シンガーを聞かせてくれたんだ。そして彼はオールスターのブルース・バンドのメンバーを集めてくれることに賛同してくれて、私はニューヨークのオフィスと契約してWhat’s Shakin’っていうコンピレーション盤を制作することになった。私たちはスティーヴ・ウィンウッド、エリック・クラプトンその他のラインナップを集めたあと、私はクラプトンといっしょにエレクトラのソーホーのオフィスで土曜の午後を過ごしていた。彼のギターを引き立たせるような曲を選ぶためにね。私はアーバンなエレクトリック・サウンドの中にカントリー・ブルースを持ち込むことを提案して、私たちはすぐにロバート・ジョンソンのお気に入りナンバーに目をつけた。

私は“Standing At The Crossroads”が好きだったんだが、エリックは“Travelling Riverside Blues”を気に入っていた。最終的には“Crossroads”となっているかもしれない。それは最初のヴァースでそう歌われるからだけど、残りの歌詞と有名なギター・リフは“Riverside”からのものだ。セッションはジョージ・セントの古いオリンピック・スタジオで始まって、そこのエンジニアがキース・グラントだった。彼はのちに伝説的なストーンズ、フー、ツェッペリンのセッションで仕事をしていくことになった。全員素晴らしい時間を過ごしたよ、私を除いては。なぜなら私はエレクトラのボス、ジャック・ホルツマンがミックスのために4トラック・テープを無事にニューヨークに持ち帰るのを見守っていたからね。

Way Back In The 1960s
The Incredible String Band
ロビンとクライヴがスコットランドのトラディショナル・ミュージックを再解釈し、インクレディブル・ストリング・バンドがフォーク・サイケデリアのシュールな世界に足を踏み入れた過渡期の頃に、ロビン・ウィリアムソンは一握りの比較的因襲的な歌を書いた。“October Song”、“Smoke Shovelling Song”、“No Sleep Blues”、そして“First Girl I Loved”は全てその頃の実験的な時代を表わしていて、彼らの詞に見られるウィットとインテリジェンスは当時のスコットランドのシンガー、バート・ヤンシュ、ジョン・マーチン、ドノヴァンその他とは一線を画していたね。しかしこれが僕のお気に入りだ―特に詞においては。ここではたしかに生きいきとしたパフォーマンスも聞くことができるが、マイクのブルース・ギターのフレーズは決していいとはいえない。全く預言的ではないね。最高のSF小説のように、歌は未来というよりその時代について多くのことを語っている。

Because It Would’t Pay
Johnny Handle
一方でこれは預言的だ!これはデヴィッド・ヘア(David Hare 1947- :英劇作家・演出家)のナショナル・シアターでの“The Permanent Way”でインターヴァル・ミュージックとして使われてもおかしくないだろう。この歌は自らの利益のために人々を輸送する政治家の真意を巧妙に暴いてみせる。私は概して現代のシンガーソングライターは好きではないが、この時代のトラディショナル・スタイルの歌には好奇心をそそられたね。ジョニー・ハンドルはニューカッスルのブラックゲート博物館にあった管理人のフラットに住み、地元の歴史にどっぷり浸かっていたタイン川沿岸地方出身者だったんだ。私はLP、A Cold Wind Blowsで録音した4つの彼のトラックを気に入っているよ。こういったソングライターの流派にはあまりまともな敬意は払われてないんだけどね。私のプロデューサーとしての初仕事はクラプトンのものだといわれているけど、パワーハウスのリハーサルとレコーディング・セッションがあった週に、私はニューカッスルとグラスゴー(これはマット・マッギンを録音するため)へ行ったかもしれない。

Spanish Ladies Medley
Dave Swarbrick, Martin Carthy & Diz Disley
私は廉価レーベルの“Bounty”を立ち上げるためにエレクトラを説得した。そこからは過去の作品のリイシューと何枚かの低予算のレコードをリリースした。まず最初に実践したのがデイヴ・スウォーブリックをフィーチャーしたレコードだった―私がサウンド・テクニクスのジョン・ウッドといっしょに働いた最初のレコーディングだ。彼はスワブとカーシーがその週末にプレイしたようなフォーク・ミュージックを全く聞いたことがなかったんだけど(セッションはたったの1日半だった)、その音楽をとても好きになって、そこから私たちの長いパートナーシップは始まったんだ。ここではイングリッシュ・ダンス・ミュージックが演奏されているけど、それに加えてスワブはジャンゴ・ラインハルトに影響を受けた友人のギタリスト、ディズ・ディズレィのギターと共にステファン・グラッペリ・スタイルのジャズも提供している。

Arnold Layne
Pink Floyd
ピート・ジェナーとアンドルー・キングはロンドン・フリー・スクールの私の仲間だった。そこはロンドン・アンダーグラウンド・シーンの発祥地だ。彼らはケンブリッジのピンク・フロイドを知っていて、Powis Square Church Hallの私たちの基金調達パーティーでプレイしてもらうために彼らを招待した。彼らがフロイドのマネージャーになった時、私は彼らが唯一知っていたミュージック・ビジネス界の人間だった。そこで彼らはエレクトラのボスのジャック・ホルツマンにデモ・テープを送るために私をつかまえたんだ。ところがホルツマンは彼らと契約しなかったばかりか、私を解雇した。バンドを探し出すのにあまりに時間をかけ過ぎたのと、私たちが調査したマーケティングが十分じゃないって理由でね。

私はフロイドをポリドール・レコーズと契約させて、バンドはジョン・ホプキンズと私が始めたばかりだったUFOクラブでレギュラー出演していた。しかし契約が交わされる前に、彼らの新しいエージェントがEMIに売り込むことをもくろんで、シングル1枚分の資金を出すと申し出た。EMIは英国で最も威信あるレーベルだが、私の新しいプロダクション会社のウィッチシーズンから取引を搾り取ったんだ。私は怒り狂ったが、私がアルバムの権限を確保できるような成功を期待して、プロデュースすることに同意した。

セッションはうまくいったね。唯一の問題はB面の“Candy and a Currant Bun”の詞、“僕はハイなんだ 僕の楽しみを台無しにしないでくれ”っていう部分なしの別ミックスを作れっていうエージェントの主張だった。結局は“パンティーをクンクン嗅ぐ”っていうA面の方が問題になって、それはBBCによって放送禁止にされてしまい、そのレコードは悪名高い1枚となったね。残念ながらそれが実際ヒットしたことが、アルバムのために自分たちのプロデューサーとエンジニアとスタジオを使うっていうEMIの主張を曲げることにはつながらなかった。唯一の慰めは、“Arnold Layneのサウンドを再現するために”、次のシングルのレコーディングで彼らがジョン・ウッドとサウンド・テクニクスへ戻ってきたことだったね。

Granny Takes A Trip
The Purple Gang
トランスアトランティック・レコーズの故ナット・ジョセフはインクレディブル・ストリング・バンドと契約を結ぼうとしていたんだけど、彼は‘コマーシャルな’フォーク・ミュージックの世界では、エレクトラの最大のライヴァルとして一目置かれていたんだ。私が仕事を失ったあと、ナットと私は友人同士になって、私がトランスアトランティックでプロデュースができるようなプロジェクトを探してくれることに同意してくれた。その結果が、キングス・ロード(通りの名でなくバンド名か?)がロンドンに来た時のツアーで、私が引き受けたマックルズフィールド(イングランド北部)出身のうまくいきそうもない一つのジャグ・バンドだった。この曲は彼らがその同じ名前(キングス・ロード)のチェルシーのブティックを訪ねた時にできたものだ。私たちはArnold Layneをミックスしたあとに夜遅くレコーディングして、これはカルト―商業的でないとすれば―的な成功を収めた。当時、私はその1週間の仕事をうまくこなしたと考えていて、その後ももっとうまくいくと思っていたね。しかし悲しいことに、ヒット・シングルはプロデューサーとしての私のキャリアの中ではわずかなものになってしまった。パープル・ギャングのリーダー、ジョー・ビアードはブダペストとモスクワでのこのレコードのリヴァイヴァルと成功についての最新情報を今でも欠かさず知らせてくれるよ。

She’s Gone
Soft Machine
フロイドと並んでソフト・マシンはUFOクラブの看板バンドだったから、ピンク・フロイドを失ったあと私が彼らと契約しようとしたのは、必然的な成り行きだった。私はドラム・キットの後ろから聞こえてくるロバート・ワイアットのしわがれ声が大好きだったし、ケヴィン・エアーズの才気ある歌も大好きだったね。でもデーヴィッド・アレンのヴォーカルとギター・プレイはいいと思ったことはないな。結局彼らは勢力を増しつつあったマイク・ジェフリーのマネージメントの一員として、ヘンドリクス、アニマルズとともに加わったから、私はそれで話は終わったと考えていた。しかし1967年の6月、私はジェフリーから電話をもらって、雇われプロデューサーとして1枚のシングルを作る気がないかと尋ねられたんだ。私はその曲も、ヴォーカルがエアーズとワイアットだったことも気に入っていた。すごく楽しいセッションだったことを覚えている。特にグループ名の由来になったウィリアム・バロウズの短編小説の朗読をピアノ・ソロの中にミックスした時は楽しかったね。私はそのシングルについては楽観的に考えていたが、それがリリースの段階になった時までに、グループはヘンドリクスのアメリカ・ツアーのサポート・アクトとして同行していたから不在だったんだ。ポリドールは全くプロモーションをせず、シングルは跡形もなく消えてしまったね。

If I Had A Ribbon Bow
Fairport Convention
結局その夏、私が契約することになったグループが―UFOでのライヴを見たあとの―フェアポート・コンヴェンションだった。私はリチャード・トンプソンのギター・プレイと彼らのアプローチは好きだったが、ジュディ・ダイブルの声については違和感を持っていた。それからエリック・アンダーソンのような末端のアメリカのシンガーソングライターに対する彼らの熱狂ぶりにもね。最初のレコーディング・セッションにとりかかる時、私は彼らを私のフラットに招待して、みんなにLPを聞かせたんだ。彼らは私のジャズ熱を気に入って、ブリティッシュ・フォーク・ソングを1930年代のニューヨークの洗練された解釈に仕立てたマキシン・サリヴァンのこの曲に興味を持った。私たちはこれをファースト・シングルに選んで、私はヴィブラフォン奏者のトリストラム・フライを雇った。リチャードはチャーリー・クリスチャンを彷彿させる見事なソロを弾いた。私はグレイトなシングルだと思っていたが、ポップ・ラジオのプロデューサーたちはそうは思わなかったようだね。

Seven Yellow Gypsies
Shirley Collins
ジョン・マーシャルという男がオブザーバー(英日曜紙)で働いていたんだが、彼はインクレディブル・ストリング・バンド、フェアポート・コンヴェンション、そしてUFOクラブについて熱狂的に記事にしてくれて、私の最初の支援者の一人になってくれた。彼はまた、シンガーのシャーリー・コリンズと結婚していて、私に執拗に彼女の歌を聞くようにいい続けていたんだ。私のシャーリーの第一印象はそれほどでもなかった。私は彼女の声はそういったマテリアルを歌うには軽すぎると思ったんだ。しかしジョンを喜ばせるために私が耐えているうちに、彼女がいかに素晴らしいアーチストであるかを理解し始めたね。私がソロ・アルバムをプロデュースすることをポリドールに説得したのはジョンか私かどちらだったのかは忘れてしまったが、私たちは素晴らしい時を過ごした―ロビン・ウィリアムソンとマイク・ヘロンは手拍子で参加した―でもそのオリジナリティにもかかわらず、レコードは以前のシャーリーのデイヴィ・グレアムとのコラボレーション・アルバム(訳注:1964年の‘フォーク・ルーツ・ニュー・ラウツ’)の上にさらなる称賛を積み上げることはできなかった。

Chinese White
The Incredible String Band
“闇の中でたわんだ小枝が朝には花びらへと変わる” いくらかあざけるような比喩的表現だけど私は好きだったね。自然に対する畏敬、世の中への新しい視点、ありふれた外見の下に潜む精神的感覚―マイク・ヘロンとロビン・ウィリアムソンはこれら全ての特徴を持ち込んで、それは1966年から1969年の間に彼らの並外れた作品となって結実した。マイクは小さなギターをわざとすごく大きな音で弾き、ロビンはgimbriを狂ったように弾きまくるっていうイメージが、私にとっての永遠なる60年代のベストのひとつだ。それは私が確信するインクレディブル・ストリング・バンドの全盛期の姿だ。ローズとリコリスが加入してデュオの素晴らしさが薄まってしまう前のね。これはスタジオ・ライヴ形式で録音されていて、彼らのコラボレーションの取り組み方の長所がよく表れている。楽曲は作者でない方が、ハーモニーか自分の好むギター・アレンジをうまくつけられた時にレパートリーに加わることになったね。

Autopsy
Fairport Convention
Unhalfbrickingを聴くのは本当に辛い。私はあの春、フェアポートの画期的なアルバムを作ったと確信した。あのアルバムは全てを揃えていた―サンディとリチャードのグレイト・ソング、イングリッシュ・トラディショナル・ミュージックの革命的なアプローチ、ディラン・ソングの堂々たるカヴァーだ。彼らはグループとして成熟していたし、私がその秋に計画していた大きなアメリカ・ツアーを控えていた。しかしそれが実現することはなかった。致命的な交通事故によって、ドラマーのマーチン・ランブルとリチャードのガールフレンド、ジーニー・フランクリンの命が奪われてしまった。以来、彼らはこのレパートリーを二度と取り上げなかった(autopsy:解剖・検視)。このサンディ作の歌の背景にある4分の5拍子の滑らかさと自信が、この時のセッションのムードを要約している。彼らはグレイトなバンドになっていたし、彼ら自身もそれを分かっていた。リチャードのような精巧さを持ったブリティッシュ・ロック・ギタリストは当時いなかったね。‘リージ&リーフ’のラインナップで革命的なアルバムを作ったけど、この時のバンドが生きていれば、イングリッシュ・ミュージックはさらに違うコースを辿っていたに違いないね。

The Deserter
Fairport Convention
有名な‘リージ&リーフ’のトラック、“Tam Lin”と“Matty Groves”は、通常フェアポートがどうやってイングリッシュ・トラディショナル・ソングをロックの形式に当てはめたかを示す曲として引き合いに出される。しかしこの至宝の1曲が私のお気に入りかもしれない。なぜならデイヴ・マタックスのドラミングがグループにもたらした影響が他のどれよりもくっきりと表れているからだ。彼のダンス・バンドでの経験は、主役の運命を左右するリズム・セクションのあり方をここで明白にしている。スリリングなソロは存在せず、無類のアンサンブルとして完璧に調和しているだけだ。リチャードのヒリヒリするようなギター・フィルとサイモン・ニコルの非の打ち所のないアコースティック・ギターのリズムの中から、サンディの堂々としたヴォーカルが浮かび上がっている。

Poor Boy
Nick Drake
私はクリス・マクレガー・セクステットのレコーディングをミキシングするためにこのセッションの午前中を過ごしていた。マクレガーは午後のニック・ドレイクのセッションを聞くためにそこらでくつろいでいた。クリスは特にマリファナ・パイプをくわえている時はどんな音楽でもよく聴いていた。彼はニック、デイヴ・ペグそしてマイク・コワルスキが曲をリハーサルし始めた時に、満足そうにプーッと吹かしていたよ。私の頭の中では午前中のセッションでのクリスのピアノがずっと鳴りっぱなしだった。それでスピーカーから“Poor Boy”のジャズ風なコードが流れてきた時に、私はクリスのピアノ・サウンドが頭の中に重なって聞こえたんだ。結局、私は辺りを何気に見回したあと、彼も私と同じことを考えているかどうか聞いてみた。彼はニヤッと笑ってソファから起き上がってきたから、私はインターカム・ボタン(訳注:ミキシング・ルームとスタジオをつなぐ相互通信装置)を押して、ニックにもう一人ピアニストが加わることを伝えたんだ。

彼らはすぐに通しリハーサルをしてこのテイクをレコーディングした。二人の最高のミュージシャンの出会いに私が居合わせたことは、スタジオの中での最高の瞬間のひとつだね。

The Sea
Fotheringay
私はサンディがフェアポートを去って結成したフォザリンゲイにはフラストレーションを感じていたが、このトラックは彼らのうちの1曲ではないね。ここでグループは彼女のギター・パートの例にならって満ち潮と引き潮の詞を表現するように、流れるようなストロークをプレイしている。私は時々、Unhalfbrickingのラインナップでのちのサンディの曲をプレイしたらどんなサウンドになっていただろうかっていう想像にかられることがある。ここでは、この完璧なヴォーカルに対する完璧なバッキングに改良を加える余地はないだろう。サンディの写実的な詞がめいっぱい表れた1曲だ。

Flowers Of The Forest
Mike Heron
1970年までに私はインクレディブル・ストリング・バンドにちょっと不満を感じていた。私はメンバーを増やしたことが、マイクとロビンの才能の素晴らしさを後退させてしまったと感じていたんだ。それでマイクがソロ・プロジェクトに興味を示した時、私は即座に飛びついた―それはミュージシャンとしてふさわしい楽曲をレコーディングするチャンスだった!制御を要する固定メンバーがいないセッションでベストな人選ができるっていうのは、ニック・ドレイクとのレコーディング経験で私の欲求を満たしていたんだ。

しかしこれは皮肉な結果となっている。マイクのアルバム“Smiling Men With Bad Reputations”の私のお気に入りのトラックは、ローズ・シンプソン(訳注:マイクの恋人でリコリスと共に入った新メンバー)がベースを弾いているんだ。ローズはベース・プレイヤーじゃなかったんだけど、彼女とマイクはいっしょに取り組んで、彼女はハードワークと集中力でベースをものにしてしまったよ。これは彼女のベストの1曲だ―すごくいいね。実際(最終ミックスでほとんど聞こえないが)オルガン・パートをプレイしていたスティーヴ・ウィンウッドは自分のセッションに彼女を誘ったんだ。でも彼女は予定とぶつかってしまうと言い訳して断った。本当のところ、彼女はマイクと一生懸命リハーサルしたから何とかできたことを分かっていたんだ。

この歌自体がとても感動的な1曲だ。マイクは思いやりのない男に傷つけられた恋人に向けて話しかける男を演じている。最後のヴァースで中心的な関係は終わりを迎え、友人関係へと発展し、それは当時のマイクとローズの状況を反映していることが明らかになる。このロマンチックな関係はオーソドックスではないかもしれないが、60年代後半のマイクのベスト・ソングのいくつかはローズへのラヴ・ソングだ。

Come Wind Come Rain
Vashiti Bunyan
ヴァシュティ・バニヤンは1966年、私の契約のオファーを巧みにかわした。その4年後、私は彼女が夫、犬、馬、赤ん坊といっしょにキャラヴァンでカンブリア(イングランド北西部)を旅していて、新曲をかなり持っているっていうメッセージを受け取った。私が興味を持ったかって?もちろん。でも正直いうと、ニック・ドレイクのファーストLPがツアーとラジオ出演のプロモーションがなかったために失敗していたことに気が動転していたから、ヴァシュティが離れ島へと地平線の彼方へ消えてしまえば、彼女のLPにも同じことが起こるだろうと絶望的になってたね。

当時そのレコードが直面した困難はまさに私が思っていたとおりだったよ。でも最近私はロンドンのコンサート・ホールを満員にして彼女を出演させることができた―マイク・ヘロンのサポートでね!当時レコード・レーベル(訳注:フィリップス・レコード)の熱意のなさによって、レコードは極少量しかプレスされなかった。その結果、数少ないレコードは中古市場に出回ることになり、インターネットでは目の玉が飛び出るような値段で取引されるようになったんだ。彼女は今新しいキャリアを楽しんでいるし、私は若いリスナーが“Diamond Day”を楽しんでくれるのを知ることと、それがいかに時を越えたアルバムかってことにコメントすることに喜びを感じているね。

Primrose Hill
John & Beverley Martyn
私の会社ウィッチシーズン・プロダクションズは1968年にアイランド・レコーズと契約を交わした。で、クリス・ブラックウェルは私にジョン・マーチンの最初の2枚のソロ・アルバムをくれて、彼のプロデュースをしてみる気はないかと尋ねたんだ。私はジョンのそのレコードをすごく気に入っていたわけではないし、他にやるべきことが山ほどあると感じていた。しかし私が取り組み始めた新人アーチストの一人がベヴァリー・カットナーだったんだ。そして彼女は突然ジョンといっしょに音楽的にも個人的にもパートナーになることを宣言した。そういうわけで私はついにジョンといっしょに働くことになった。
最初のアルバム“Stormbringer”は、それまでのウィッチシーズンの中で最もコマーシャルな作品として多くの人たちに称賛されたが、その期待に応えることはできなかった。ジョンとベヴはデュオとしての道を歩んでいくことはなかった―通常ジョンはソロ・ギグをやっていたし、ベヴァリーは子供たちの世話をしていたからね。しかしレコードはとても楽しめる最高の瞬間を見せてくれるし、このトラックはそんなうちの一つだ。偉大な南アフリカ人のアルト・サックス・プレイヤーのDudu Pukuwanaがソロをとり、英米のリズム・セクション―ポール・ハリス、アラン・スペナー、そしてウェルズ・ケリーが素晴らしく脇を固めてくれている。私はプリムローズ・ヒル近くのフラットでジョンとベヴ、そしてニック・ドレイクと多くの楽しい夜を過ごしたのをよく覚えている―この歌をミックスしたことも―大きな思い出だ。

I Don’t Mind
The New Nadir
私たちが1969年と1970年の間に散発的にレコーディングしたザ・ニュー・ナディールのレコードは、結局完成しなかった。エド・カーターとマイク・コワルスキはビーチ・ボーイズのツアーの一員としてイギリスにやって来て、そのままとどまることにした。私たちはみんなヨーロッパでの成功とアメリカへの凱旋帰国を想像していた。しかし実際プランの多くはこのグレイト・ソングを中心に立てられていったんだ。彼らの残りのマテリアルは、この“I Don’t Mind”ほどの期待には応えられなかった。しかしこれは何てトラックなんだろう!ついに日の目を見ることができて私はうれしいね。

Church Mouse
Dudu Pukuwana & Spear
未リリースに終わったプロジェクトのひとつが、Duduといっしょに挑戦した私の‘ロック・クウェラ’(kwela:アフリカ南部のBantu族の間で行なわれる一種のビート音楽)だった。南アフリカで、あるヴァージョンがリリースされたんだが、Duduと私はうまくいかないことを分かっていたよ。このセッションのハイライトのひとつが、リチャード・トンプソンとサイモン・ニコルがサウンド・テクニクスに現われた時だった。彼らは私があげたクウェラのコンピレーションを聞いて、それをDuduとその他のアフリカのミュージシャンに披露してみせたんだ。みんな大口を開けてびっくりしてたね―それはこのトラックを聞けば分かるよ。いかにも未完成な感じだが―Duduのソロもないしね―しかしその潜在的可能性ははっきりと聞くことができる。残念ながら私は未完成のままアメリカに発ってしまった。

Andromeda
Chris McGregor’s Brotherhood Of Breath
南アフリカのプロジェクトが成果を結んだのがBrotherhood Of Breathだった。クリス・マクレガーは1970年に初めてこの国際的なビッグ・バンドを編成し、クリスが若くして死ぬまで、17年間に渡ってツアー、レコーディング、何度かの再結成を行ないながら活動を続けた。今でも時々再編されて、彼のアレンジメントでプレイされている。多くの偉大なミュージシャンたちが全てピークにある時に共にスタジオで過ごすなんて喜びはめったに出会えるものじゃなかったね。ソロはクリスの南アフリカ人の仲間で、最初のがMongezi Feza、最後がDuduだ。英国人のニック・エヴァンスは中間部のトロンボーン・ソロをとっている。

Afraid
Nico
私はエレクトラからのニコのアルバム、Marble Indexを聞いた時は驚いてしまったね。それと同じように、エレクトラが彼女の次のアルバム制作を放棄してしまったのを知った時もびっくり仰天したよ。私はジョン・ケイルにさらなるアレンジメントの依頼と、リプリーズ・レーベルのモー・オースチンに資金の提供を依頼した。私たちはニューヨークでオリジナル・トラックを録ったあと、レコーディングとミックスを完了させるために、ケイルがロンドンにやって来たんだ。この時期の彼の忘れられない貢献が、ニック・ドレイクの“Bryter Layter”とマイク・ヘロンのソロLP(訳注:Smiling Men With Bad Reputations)に対するものだった。このレコードは大半でニコのハーモニウムをフィーチャーしているが、ジョンはこの典型的なこわばったような意固地なニコ・ソングで、エレガントなピアノとヴィオラをプレイしている。

Way To Blue
Nick Drake
当時認められなかった豊かな音楽は、最後にはリスナーを獲得するものだということを教えてくれたニックと、このトラックについて述べるのは気分のいいものだね。これは私にとってスタジオ内での忘れられない瞬間だった。私はニックのファースト・セッションでプロフェッショナルなアレンジャーを使おうとしていたんだけど、それはうまくいかなかったんだ。そこで私はひと息ついてから、譜面どおりにプレイするミュージシャンたちを部屋が埋まるほど雇い入れた。その譜面はケンブリッジ大学のニックの友人、ロバート・カービーが書いたものだった。私は実はレコーディング当日まで、この歌を聞いてさえいなかったんだ。なぜかというと、ニックはこれをギターなしでレコーディングしようとしていて、事前に私にアカペラで歌うことを拒否したからなんだ。ジョン・ウッドと私がスタジオのスピーカーから流れてきた歌を初めて聞いた時の安堵と喜びは簡単に想像できるだろう?素晴らしい瞬間だったね。

Brazil
Geoff & Maria Muldaur
“Way To Blue”で最後を締めくくるのは憂鬱すぎるだろうからね。このトラックは1969年にジョン・ウッドと私が、ジェフとマリア・マルダーのPottery Pieを制作するためにボストンに行った時にレコーディングされた。もしあなたが以前どこかでこれを聞いたことがあると思ったら、それは正解だ。テリー・ギリアムが同名映画のバックグラウンド・ミュージックとしてこれを使ったから。のちに“Midnight At The Oasis”で忘れられないギター・ソロをプレイしたエイモス・ギャレットが、ここでも同じように最高のプレイを提供している。
Sleevenotes written by
Joe Boyd
London, February 2006


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