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The Undertones/The Undertones/2004 Sanctuary Records Group Ltd. SMRCD023



1978年までに主なパンクバンド―セックス・ピストルズ、クラッシュ、ダムドらは既に破綻していた(解散でないにしても)。パンクはより実験的に型破りな方向へ向かっていた。例えばギャング・オブ・フォー、ワイヤー、PILなどは従来のギター、ベース、ドラムの概念を飛び越えようとしていた。しかしそれはストレートで飾り気のないパンクシーンが終わりを告げたという事を意味してはいなかった。遠く離れてマンチェスターでは、バズコックスが自らのノコギリ(buzzsaw)ギターの魅力を放ち、その甘いサウンドを響かせていたし、北アイルランドのデリーでは…正確に言えば5人の若者が自分たちの3分間ポップパンクドリームを磨き上げていた。その5人とは:フィアガル・シャーキー(vocals)、オニール兄弟のジョン(guitar)、ダミアン(guitar)、マイケル・ブラッドリー(bass)そしてビリー・ドハーティ(drums)だ。

彼らはお互い1970年代初頭には顔見知りだった。マイケル、ビリー、フィアガルはセント・ピーターズ校の生徒だったし、ダミアンとジョンは学年は違ったが、セント・コラム校に通っていた。ジョンが最年長(1957年生まれ)で、一番下の弟Toneは4つ年下だった。ダミアンが入る前は真ん中の弟ヴィンセントが一年半バンドに在籍していた。1976年1月にダミアンがヴィンセントと交代した。その時ダミアンの母親は彼にもっと勉強して‘O’レヴェルを取るよう望んでいたのだったが。

アンダートーンズは1978年9月、デビューシングル‘Teenage Kicks’で一夜にしてセンセーションを巻き起こした。しかし実際には1974年から約4年間ずっとライヴ活動を続けていた。全員すでにギターを持っていて、ギタリストになることを夢見ていた―まだバラバラにプレイしていたが。“最初の2年間は一緒に演奏するのは難しいと思ったね。”マイケルは言う。“ゆっくり技術を磨いていったよ。”

グループの最初の演奏はかなり厳しかったようだ。レパートリーはフェイシズの‘Ooh La La’、ディランの‘I Want You’、そしてリンディスファーンのナンバーなどであった。彼らが今日の5人組The Undertones(または単に、ヴィンセントではなくwith Damian)としての初の本当のコンサート(僕らは‘ギグ’って言葉は使ったことがなかったよ―ダミアン)は76年初頭クリーガンでボーイスカウトハットを被って行われた。フィアガルはボーイスカウトのリーダーで、その夜はその場凌ぎ的なステージによって多くの子供たち(みんな8歳程度であった)が飛び跳ねていた。“みんな狂ってたね。”―マイケル。何週間か後、バンドはセント・ジョセフズ・スクールの午後のショーに出演した。―1976年3月16日―マイケル・ブラッドリーはその日付を鮮明に覚えている。なぜならその日は労働党党首ハロルド・ウィルソンが再選した日だからだ。同時にマイケルはコンサートの中身もはっきり覚えている。ストーンズ‘Jumping Jack Flash’をまず演り、続いてパブロックの雄、ドクター・フィールグッドの演っていたR&B‘Back In The Night’クリーム‘Badge’チャック・ベリー‘Carol’再びストーンズのあの呪術的なコーラス‘ウーウー’抜きでの‘Sympathy For The Devil’、これは「ゲット・ヤ・ヤーヤーズ・アウト」のバージョンだ。締め括りはフリートウッド・マックの‘Shake Your Money Maker’。“あの頃の曲は思い出すだけでゾッとするね。”“でも本当にああいった音楽が今でも大好きなんだよ。”―マイケル。

1976年前半、アンダートーンズは学校やクラブで4つのライヴを行った。そして76年冬、パンクムーヴメントが巻き起こった。デリーの最盛期に関する限り、それはセックス・ピストルズの出現とラモーンズのデビューアルバムであった。アンダートーンズのメンバーはストゥージズの「ファンハウス」と60sガレージパンクのコンピレーション「ナゲッツ」にハマッていた。つまり全てに共通するのは誰でもバンドができるということであった。

1977〜8年は何でもすることができた。アンダートーンズの曲はほとんどがジョン・オニールの手によるものだった。彼は最年長で、幅広くロックの知識を持っていたし、音楽誌を読むのに熱心だったから、明らかにグループのソングライターに相応しかった。彼は、弟によれば“賢いリーダーだよ。NMEに入ってロックンロール神話的人物だったからね。”1978年はグループ初の自身の手によるデモテープのレコーディングで幕を開けた。その多くはデビューアルバムに収録されることになる。その年後半は徐々にバンドは上向きになっていった。まずはベルファストのバトル・オブ・ザ・バンドというコンテストで脚光を浴びた。続いて6月、独立レーベル、グッド・バイブレーションでデビューシングルをレコーディングした。シングルは7000枚プレスだった。

‘Teenage Kicks’―77年夏ジョン・オニール作―はすぐにラジオ1のDJジョン・ピールの耳に留まり、様々な英米レコード会社同様、お気に入りの曲として太鼓判を押された。サイアー・レコードが5枚契約を申し出た。“よかったかって?ノー、ひどかったよ。”契約についてダミアンは言う。“マイケルとフィアガルはデリーのサイアーの連中と契約について話したんだ。ジョンとビリーと僕はそれにサインしたが、マイケルとフィアガルはそれを弁護士に見てもらったんだ。弁護士は問題ないと言った。僕らには情報がなかった。彼らはバックストリートにあるセイモア・スタイン(サイアー社長宅)に出向いたよ。セイモアは自分の20年のキャリアについて出版、前金、特許権使用の控除請求の話をした。結局僕らは残りの人生にサインすることになっちゃった!”マネージャーが不在だったためアンディ・ファーガソンが雇われた。“彼は僕らが困っていたから全てを再交渉したんだ。”

78年10月バンドはサイアーからの再発、‘Teenage Kicks’収録のためにトップ・オブ・ザ・ポップスに出演することになり、ロンドンに出向いた。そのシングルは6週間トップ31内に留まった。彼らのプロとしての裏話に、初の北アイルランド・ツアーで、SF漫画風パンク、The Rezillosがサポートのアンダートーンズを残して途中で解散してしまい、アンダートーンズが残りのツアーを単独で敢行しなければならなかったというのがある。1979年1月、5人は1ヵ月をロンドンで週30ポンドで過ごした。彼らはロジャー・ベキリアンと共にデビューアルバムに取り掛かった。彼はニック・ロウとエルビス・コステロの知り合いで、場所はアクトンのイーデン・スタジオだった。そこは1ヶ月前にコステロの「アームド・フォーシズ」がレコーディングされたスタジオだった。“エキサイティングだったよ。”マイケルは言う。“僕らは奮起したよ。パディントンとスモールブルック・ミューズに部屋を持っていてみんなで住んでた。まるでビートルズの「ヘルプ!」の中にいるような気分だったね。車もあったし、サンドイッチを買いに行くこともできた。でも無茶はしなかったよ。”

ダミアン・オニールはバンドがしばしば崩壊の危機にあった時でさえ、楽観的だったことを覚えている。“僕らはいつも崩壊してたよ!”彼は笑う。“Teenage Kicksは自分たちの遺産だと思ってた。僕とマイケルはいつもとどまっていたけど、いつも誰かがバンドを抜けていたよ。いいかい?マイケルまでもがファーストアルバムの後去った時、彼はもう遣り残したことはないって言ったんだ。”“ファーストアルバムに限っちゃそれは信じられなかったね。”彼らの成長についてのダミアンの見解はこうだった。“そんなの何のキャリアでもなかった。いつもそう思ってたよ。明日はもっとよくなるってね。” “ファーストアルバムは彼らのライヴのレパートリーがフィーチャーされていた。彼らはプレイヤーとして熟達していたし、慣れ親しんだ曲をうまく演奏することができた。ダミアンの言葉で言えば、”猛スピードでかます“だ。アルバムに先だって2枚のシングルがリリースされた。‘Get Over You’(79年2月57位)と’Jimmy Jimmy’(5月16位 彼らの初のトップ20で、ジャケットはフィアガルが少年時代、名声あるソングコンテスト芸術祭で優勝した時の地方紙に載った写真が使われていた)であった。

79年5月、アルバムがついにリリースされた時、各音楽誌は多大な賛辞を送り、13位まで上がった。これら1ダースと少しの楽曲群はアドレナリンと苦悩を爆発させていた。“僕たちは何を大騒ぎしているのか分からなかったよ。”全曲を手がけたダミアンは言う。彼は完璧なるポップのキングとして絶賛されていた。“ファンは(NMEの)ポール・モーリーが僕らについて書くのを好んでた。僕らはどこに載ってるのか知らなかったけど。”

彼は少なくとも評論家たちが正しいレコードを取り上げたことに納得している。“お気に入りだよもちろん。”ダミアンは言う。彼の書いた‘Family Entertainment’は彼が初めて書いた曲で、偶然にもこの強烈なナンバーはアルバムの冒頭を飾っていた。“お気に入りナンバー?たくさんあるね。‘Male Model’‘(She's A)Runaround’‘I Know A Girl’…このアルバムは僕たちをよく捉えているよ。今なお新鮮だね。うん、この時点で解散すべきだったとは思わないよ。だってまだ‘Wednesday Week’も‘Love Parade’も生まれてないからね。実はね、マイケルが抜けそうになった時、ジョン・ピールはバンドはもう終焉したと思ったんだ。”

ファーストアルバムは79年10月に再発され再プロモートされた。再発には‘Teenage Kicks’と‘Get Over You’が追加収録された。ダミアン同様ベーシストもこのアルバムの大ファンだ。彼はグループのイメージについての非難を否定する。そのイメージとは、断固とした反ファッション、反クールでC&A(英国衣料品チェーンストア)ニットウェアを着て、不恰好なコールテンのズボンをはくといったもので、マーク・E・スミス、あとはジャーヴィス・コッカーだった。フレーズは‘Ke's chic’と考案された。

“僕らはいつもアンチ・ファッションだった。”マイケルは言う。“考え抜いた訳ではないんだ。僕らはただ、ロンドンに行って最新のファッションでデリーに戻って来ることだけはしたくなかったんだ。何かを凄く意識してたとすればそれは‘変わらない’‘影響を受けない’ってことかな。レコード会社も同意してくれたよ。でもいいかい?それは多分彼らが僕らの言ってることを理解できなかったからだろうな!”

ポール・レスター/Uncut誌 専属編集者


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