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Trees/On The Shore/1993 Sony Music Entertainment (UK) Ltd. 484435 2



1969年に結成されたフォークロックの4人組トゥリーズは、フェアポート・コンヴェンションが開拓した分野と似たような道を歩んでいた。フェアポートからの影響は、1970年CBSからリリースされた彼らの2枚のアルバム、‘The Garden Of Jane Delawney’、‘On The Shore’を聴けば容易に想像できる。

もっとも明らかな相似点は両者とも女性ヴォーカリストがいたことだ。つまりフェアポートのサンディ・デニーとトゥリーズのセリア・ハンフリーズである。2枚のアルバムのトゥリーズのメンバーは、ビーアス(Bias:トバイアス、Tobiasの略)・ボシェル(1stでベース、セカンドではキーボードも)、バリー・クラークがリード・ギター、デヴィッド・コスタが12弦ギター、アコースティック・ギター、ダルシマー、マンドリンなど、そしてアンウィン・ブラウンがドラムスだ。デヴィッド・コスタは現在デザイン事務所、Wherefore Art?を経営しているが、グループ結成について回想する。

“他の60年代のバンド同様、偶然の連続だったね。大学を去ったちょうどその時バリー・クラークと出会った。僕も彼もぶらぶらしてて、二人とも当時のいろんなバンドに興味を持っていたんだ。僕はギターを持っていて、数時間のうちに僕らはバンド結成を決めた。それからあっという間にみんなが集まってきて、収まる所に収まったというわけだ。ビーアスはバリーと同じアパートに住んでいて、ベーシストを目指してた。ドラムスのアンウィンは、当時銀行で働いていて、ビーアスと同じBedales Schoolに通っていた。セリアはスー・ハンフリーズの姉妹で、スーのことは僕が在学中とそれ以前から働いていたフィリップス・レコードで知っていて、彼女は宣伝係だったんだ。

僕はバンドより音楽業界の方に関心があった。僕らが集まってまず打ち込んだのは、それぞれみんなの違いを解り合うというより、どういうバンドにしたいかっていう方向性も決めないで、当時興味を持っていたものをミックスさせたらどうなるかってことだった。僕らはみんな未熟だったけど、自分たちの好みに関してすごく頑固だった―フォークロックが流行りだして人々は興味深いトラディショナル・ソングをかき集めていたね。”

実際コスタはメンバーの中で唯一のフォーク・ミュージシャンだった。“おそらく僕がトゥリーズにフォークの要素を持ち込むことができたんだと思う。まあ衝動的な興味だったけど、みんなの協力もあった。特にセリアの声は素晴らしく純粋で、それに彼女は演劇の経験もあった。”ハンフリーズ(現在はDJのピート・ドラモンドの妻で、彼は有名なナレーター)はインタビューの中で、メンバーはみな自分がバンドの主役になりたがっていたと打ち明けている。“彼女のいっていることは正しいかもしれない―3人のギタリストが前面にいたからね。

僕のスタイルはバリーとビーアスとは全然違ったから、決してフロントじゃなかったけど。で僕がヴォーカルを取らない理由はどこにもなかった。僕はバンドに自分のような違ったタイプのヴォーカリストがいることに面白みを感じていた。バリーのスタイルはすごく現代的で、とっつきやすくてギュンギュンいうようなとても巧みなロック・ギタリストだった。感覚的なギタリスト―リチャード・トンプソンの表現方法と同様の領域にいた―でも物真似じゃなくて自分の言葉と美しいフレーズを持っていたね。僕らはいつもフェアポートの動向を気にしていた。彼らのしたメンバー補強という点を判断の基準にはしなかったけど、彼らは技術的にも音楽的にも前進していって、僕らより自信に満ちて才能があったね。フェアポートは僕らが持っていなかったヴィジョンと方向性を持っているように見えた。

ある人がいうには、振り返ってみて方向性の欠如は僕らの純真さに起因しているけど、多くの点でルールを持たない僕らの強さでもあったということらしいよ。もし僕らがある体制の下に曲を取り上げるとするなら、全員がリードを取りたがるんだ。だから制約なしにみんなで一か八かでやってた。ビーアスはリード・ベース・プレイヤーだったんだが、今回アルバム・リイシューのリマスタリングで気づいたのは、以前思ってたよりはるかに素晴らしいってことだった。彼は才能溢れるミュージシャンだね。メンバーの誰も彼ほどの技量はなかったから僕らは彼にあやかってたよ。

僕らはみんな自分のアイデンティティを持っていた。そしてフロントの3人のギタリストはよく統合されていた―カール・ダラスがいうには、ラーガ(インド音楽)的性質が僕ら3人お互いに働いていて、それが展開されていく傾向にあるということだ。それはすごく濃厚な融合で、僕らは他の最先端のバンドたちと比較された。僕らが望んだのはそこだったし、それがフェアポートとの違いを生んだ。フェアポートは最もイングランド的なバンドになった。確実に僕らとは違っていた―フェアポートはもちろん聴いていたけど、同じくらいジェファーソンも好きだった。”

コスタはマーティン・カーシーと出会った1960年代初頭、学生時代の終わりにフォーク・クラブに出演している頃に、セシル・シャープ・ハウス(ブリティッシュ・トラディショナル・フォーク・ミュージックの総本山)をすでに知っていた。“僕が自分でよい友人だと思っている人―彼は僕の結婚式に現れたんだ―僕はマーティン・カーシーの異常なまでの崇拝者なんだ。僕が知らない曲はなかったよ。彼のプレイはぞくぞくしたね。彼の発明の才とギターの弾き方はほんとにぞくぞくさせてくれた。僕らがいつも使っていたフレーズと、話していたことは全て彼への崇拝からきていたよ。彼の未開のプレイ・スタイルは、僕がトゥリーズに持ち込んで生かそうとしたことだった。アシュリー・ハッチングスは、それをはるかに早く完成させてフェアポートに持ち込んだんだ。僕らはいつもフェアポートに高い関心を持っていた―1〜2回前座もしたし、フォザリンゲイ、マシューズ・サザン・コンフォート、スティーライ・スパン、そしてトレイダー・ホーンのサポートも最初の頃のギグから務めたよ。みんなフェアポートの分裂バンドだ。”

しかし残りのメンバーはフォーク出身ではなかった。“僕らは民俗音楽的イメージは持ってなかったし、それを求めようともしなかったと思う。好きな言葉ではあったけどね。”とりわけビーアス・ボシェルはそういったスタイルで曲を書き始めたが、彼が書いたアルバム収録曲の多くはトラディショナル・フォーク・バンドのアレンジではなかった―いくつかの点でははっきりしないが、いずれにせよトラディショナルな風味は彼のそのジャンルに対して直感的能力があることを示している。

グループ結成後すぐに彼らはクリアウォーターと契約した。クリアウォーターは新しいマネージメント会社で、そこにはホークウィンド、コーチーズ、ハイ・タイドその他が所属していた。会社のトップはダグ・スミスで今なお音楽界で活動中だ。“ダグラスは大親友だった。すごくおもしろい奴だったけど、誰も彼のことを知らなかった―60年代半ばのノッティングヒルでは誰もお互いのことは知らなくても、毎週土曜日ポートベローでダグのような人に挨拶すればたちまち友達になってパーティーにくるようになるんだ。そうやってよく一緒にパーティーを開いたよ。彼はいつも音楽に関心を持った企業家だった―最初に彼と僕らのマネージメントについて話し合った時は、誰も彼のしてきたことは知らなかったよ。

彼は今にもバッグから人や設備や契約、そしてレコード会社なんかの書類を取り出す用意があるように見えたね。僕らはギグをやる前に瞬く間にCBSと契約してしまった―ダグラスが準備してすぐにデモテープを作った。ダグについて何も知らない状態で、彼は数週間のうちにマネージャーになるように事を進めていったんだ。クリアウォーターとは短期間しか続かなかった。9ヶ月かな。彼らの欠点はすぐに明らかになった。つまり僕ら自身が欠点でもあるんだけど。彼らはバンドを抱えすぎていて充分なバックアップや経験がなかった。僕らはただのアマチュアだった。僕らはみな自分たちのしていることをちゃんと知らなかったし、戦略もなかった。CBSはいつもクリアウォーターにかなり批判的だった。僕らのファースト・アルバムを共同プロデュースしたCBSの指導的、伝説的人物で今は高名なPWL(?)のデヴィッド・ハウエルズはいつも、才能なんて問題じゃなくて、バンドの成功はそのマネージメントにかかっているといっていたよ。

今は賛成しないけど20年後には彼は正しかったことが明らかになった。当時はバカげたことのように思えたんだけどね。結局はマネージメントが僕らの最大の問題になった。最後にはグループが解散する要因になったね。クリアウォーターの後、あと知恵をもってすれば、僕らはプロというものになっていて、再び大親友のニック・ハリスとつきあうようになり、彼は僕らにとってすごく大きな力となってくれた。僕らは2年目はよく働いたけど、ついにはCBSは僕らの限界を悟って、マーチ・アーチスト(CBS傘下のマネージメント会社)のバート・カマーマンを送り込んできた。でも時すでに遅しだったよ。”

ファースト・アルバム、“The Garden Of Jane Delawney”は4曲のトラディショナルが入っていたが、多くの人にとっては異なるタイトルで馴染み深いだろう。コスタはうち3曲について説明している。“僕は‘She Moved Through The Fair’は10〜11歳の頃から知っていて、いつも世界中で最も美しい曲の一つだと思ってた。フォーク・クラブや学校なんかで、‘The Great Silkie’と共にアカペラでよく歌ってた。‘Lady Margaret’は、シングル‘Buffy Sainte-Marie’のB面で、ぞくぞくさせるような曲だ。‘Glasgerion’についてはどこからもってきたのか覚えてないんだ。バート・ヤンシュが‘Jack Orion’としてやってたけど、その前から僕らはやってたよ。”ファースト・アルバムは大絶賛を受けたが、激しい競争の中でその内容の素晴らしさに見合うだけのセールスは成し遂げられなかった。“僕らは70年代のCBSサウンドのひとつだったし、早くからある程度一貫した活動をしてきた。僕らにとっては最も重要なことをしてきたと思う。ライヴにおいてはある部分はアルバムより面白いと思うし、逆にいいライヴじゃなかったとしてもアルバムは面白いと思う。カール・ダラスはとても感銘を受けてくれた―彼はその筋で偉大な人物になって、専門分野を超えて孤高の存在になったね。”

最近のインタビューでセリア・ハンフリーズは、タイトル・トラックを自分のハイライトだと語っている―ごく最近にはオール・アバウト・イヴがカヴァーしている。一方ボシェルのソングライティングのルーツについてコスタはどう思っているのだろうか?“あの頃僕らはずっと一緒に住んでて、すごく仲が良かったからそのことについて彼は話してくれたと思う。‘The Garden Of Jane Delawney’は僕らがバンドを始める前からあった曲だ。まだちゃんと形にはなってなかったかもしれないが、彼が書いた古い曲だ。彼はシュールでとても暗い一面があったから、フォークの持つ特徴が彼にフィットしたんだと思う。そういう歌には不可解な性質があって、本質的にシュールで、口承で伝えられるうちにどんどん他の要素を引き入れて変容していくんだ。ビーアスは自分のムーディで暗い一面を音楽的に上手く表現することができたし、彼は詞を音楽に乗せる能力も持っていた。彼がバンドの中でスターだったのは疑いようがないね。”

彼らは長い期間共に住み働いていたが、コスタは多くの摩擦が生じたことを回想している。“それは少なからずあった。ビーアスと僕は音楽的に張り合うことはなかった―ビーアスは僕をとても支えてくれたし、僕の邪道的なアプローチに興味を持っていた。彼はクラシックの素養があったけど、僕は全くの独学だった。僕はギターを始めて半年間、スタンダードなチューニングで弾いたことがなくてそれが彼の興味を引いたみたいだ。彼がとった手法は僕のモーダルなアプローチに歩み寄るか、もしくは自分のプレイで味付けるかというものだった。彼はリズム面で想像力を要求していた。それが少しアーウィンにごまかしをさせることにつながってたけど。もちろんバリーはビーアスと僕の間に位置していて、一定の大きさで音量を保っていた。たまにビーアスの激しいギターとバトルさせたりね。”ビーアス・ボシェルはトゥリーズの中で後に唯一短期間ではあったが、キキ・ディー・バンドのメンバーとして1974年のトップ20ヒット、‘I’ve Got The Music In Me’を書いた。

トゥリーズの2枚のアルバムは1年以内に作られた・・・“そういう契約だった。みんな音楽に対して貪欲だったし、この大きな世界でプレイしていた。CBSは僕らがハードに働いて自らの進展につまずいてしまったのが分かったんだ。当時の僕らにはほんの短時間のスタジオ入りでもたくさんやりたいことがあったよ。”2枚のアルバムのプロデューサーはトニー・コックスだが、彼は今なんとアンドリュー・ロイド・ウェバーの音楽ディレクターらしい!‘Jane Delawney’は共同プロデューサーとしてデヴィッド・ハウエルズも参加している。しかし‘On The Shore’ではコックスが独占的にプロデュースしている。

“セカンド・アルバムはリマスターしてみてすごく新鮮に感じたね。このアルバムはずっと自分の中ですごく大事なものだったんだ。このアルバムの曲をプレイするのはいつも楽しかったけど、ファースト・アルバムには少しまごついたところが感じられるね。いくつかはとても素晴らしいけど。ただ僕はずっと何年間もセカンド・アルバムの音質については批判的だったんだ、特にサウンド・プロダクションの点でね。それで時々僕が思うような理想の形にリミックスし直せたらいいなと思ってたんだ。マルチ・トラックが手に入らなかったからリミックスとはいえなかったが、当時より多くを学んだね。再びあの頃の日々が始まったようだったよ。僕はサウンド・プロダクションに不満を持っていたんだが、そこにはある理由があったんだ。僕はトニーがどういうことをして僕らのためになることをしてくれたのか少しわかったんだ。それは僕らの欠点によるものだった。

あのアルバムはフォークロック作品のベストの一枚としてかなり現代的だった。僕らはフェアポートがジョン・ウッド、ヴィック・ガムと一緒に‘Liege & Lief’を作ったスタジオと同じ、サウンド・テクニクスにいた。僕らは自分たちにはできない理由があろうとなかろうとああいったサウンドにすべきだった。僕らにはトニー・コックスも絶賛していたジョー・ボイドはついていなかった。過去僕はいつもああいうサウンドにならないことをトニーのせいにしてたけど、今は彼は単に僕らの欠点をカヴァーしてくれたと考えている。それでもリマスタリングのときに、ニック・ワトソンは日の目を見ることのなかったサウンド・クォリティにまで戻すことができたんだ。

僕はいつもあのアルバムは中音域が空っぽだと批判していた。低音は渦巻いたようになっていて、高音は安定性に欠けすぎでドラムスがほとんど聞こえないとね。多分理由はトニーがアンウィンをドラマーとしてあまり評価していなかったからだと思う。アンウィンはドラマーとしてグレイトだったしずば抜けた資質を持っていたけど、自信に欠けていた。そして僕らも彼に必要な方向性を与えるような建設的なことができなかった。彼は歌心があって創意に富んだドラマーだった。ただアタック感あるいはドライヴ感がほとんどなかった。もっともそれは僕らみんなもそうだったからバンドに合っていたんだ。フェアポートは道を示してくれた:マタックスはある時はすごくハードに叩くことができた。僕らはいつもそういうのを欲しがってた―けたはずれでパーカッシヴな切れ味のあるドラムだ。トニーは中庸なものは求めていなかったと思う。でもあの状況では多分そうすることが正しかったんだろう。”

“僕らのようにみんながリードを取りたがるバンドをまとめるのは大変なことだ―間奏部分は鼻につくだろう。リマスタリングでニック・ワトソンは中音域を強調して明るくした。ベースの高音域を明確にして、ドラムスは暖かみと音色に鮮やかさを加え、セリアのヴォーカルと僕のギターは少しやわらかくして、かつより力強くしたんだ。僕らはより普遍的でとっつきやすいサウンドを見出していたんだ。”

アルバム中最も見事な一曲が船乗りの歌で有名なシリル・タウニーの書いた‘Sally Free And Easy’だ。“これは学校に行っていた頃から歌っていた曲で、何か頭の中に大きな緊張感が漂うような気がしていた。叙事詩とか映画を見ているような感じの絶望感があるんだ。シリルのヴァージョンが僕らにとって決定的だった―彼はピアノのイントロをサイレント・ムーヴィーのサウンドトラックのように感じていたんじゃないかと思う―これは最後に録ったトラックで、セリアのセカンド・ヴォーカル以外は一切ダビングなし、スタジオで完全に一発録りでうまくいったものだ。セリアはもう一つヴォーカルを入れたがっていたけど、どちらがいいか決められなくて両方のテイクを残しておいたんだ。人によっては馬鹿げてると思うかもしれないが、僕にとっては叙事詩的な大作になった。ある人は僕らのベストだと考えているみたいだ―同感だね。”

“実際ベストを尽くして演奏したよ。この歌は僕らの全てが詰まっていると思っている―曲の構造、間、長さ、詳細に渡って完全な構成になった。ビーアスは本来キーボードがふさわしいパートだった―僕らは最初の年、ベーシストを入れるつもりはなかった。このトラックのベースはリズム・セクションに活気を与えている。全員が最高の表現をしたね。その時はトニー・コックスがベースを弾いて、結果この曲に広がりができたんだ。その後考え直してベーシストを加えた。最後の時期ビーアスはキーボードに専念した。”

一曲目‘Soldiers Three’は、いくらかスティーライ・スパンの究極的アルバム、‘Hark The Village Wait’のオープニング・ナンバー‘A Calling On Song’を思わせる。“これは僕がフィリップス・レコードで働いていた時に知った曲で、デイヴ・スウォーブリックがあるアルバムでインストゥルメンタル・ヴァージョンをやっていた。詞を聞いた時―これはエリザベス一世時代の美しくて率直な歌だと感じた―針をレコードに落とした瞬間からね。重要なのはそれぞれのパートが強力だってことだ。みんなが前面にフィーチャーされている。短い曲だからいっそう規律が感じられるんだ。全員が自分の特別な役割を持っているところはスティーライに似ているかもしれない。”‘On The Shore’のもう一つのトラディショナル・ソングが‘Streets Of Derry’だ。“以前シャーリー・コリンズがフォーク・クラブで歌っていたのを聴いたことがあると思う。頭の中ではぼんやりしたイメージの曲だったけど、ビーアスの素晴らしいリズム感によってとても優れた一曲になった。”

ボシェル作ではないのが‘Adam’s Toon’で、これは13世紀の吟遊詩人、アダム・デラ・ホール作だ。コスタは60年代に持っていた中世の音楽を集めたアルバムでこれを知った。‘Fool’は珍しくコスタとボシェルの共作としてクレジットされている。“ビーアスと一緒に詞を書いた。僕は長い間全体像はつかんでいたんだけど、どうしていいのか分からなかったんだ。ビーアスはすごい奴でアイデアを出してはそれをさらに形にしていく方法を分かっていたよ。そしてすぐに曲をつけてしまった。僕らは互いに詞を出し合った。”いかにボシェルが新しい時代のトラディショナル・フォーク・ソングライターかを示すのが‘While The Iron Is Hot’だ。これは彼が、犯罪人としてオーストラリアに送られた人々について書いた歌である。しかしコスタはボシェルらしさが出ているのは‘Murdoch’だと感じている。“大きなうねりのあるおぼろげな曲だね。‘巨人’とか神話的な雰囲気のあるコード感があってこれも叙事詩的だ。ビーアスの曲で最もバンドはタイトで的を得ていて、セリアの高揚するヴォーカルを支えている。”

事実上のタイトル・トラック‘Polly On The Shore’はセリア・ハンフリーズが大いに嫌っている曲だ。“最後に彼女と会った時話したんだ。自分の声が気に入らないらしい。僕はいつも彼女の歌い方が好きだったが、何年経っても覚えている感触は、セリアの歌が引っ込んだ時にバンドは自由に解放されて素晴らしいアドリブと共にメンバーお互いが感じながらもテンポはタイトに保たれていたってことだ。僕はいつもセリアが歌うのが好きだったが、この曲は彼女に合わなかったんだ。明らかに彼女が歌う歌じゃないんだ。性差別でいっているわけではないよ。なぜならサンディ・デニーもセリアも男向きの歌を美しく上手くやってのけていたからね。この曲は他の要素と調和しない特性がある―この曲の残酷性と皮肉っぽさがセリアの声に合わないんだ。彼女はいつも嫌ってたし、僕はいつもこの曲には辛辣さを喚起させるようなところがあると思っていた。実はこれはカーシーから教わった。彼はこれをすごく気に入っていて、僕は多分あまりに忘れられないから彼から露骨に盗用したんだと思う―彼がこの曲について‘服従’を感じさせる特質があると話していたのを覚えている。僕らにとってはとても大事な曲だった。セカンド・ヴァージョンはB面か、CBSのサンプラー・アルバム‘Fill Your Head With Rock’で発表された。”

2枚のアルバムはその後とてつもないコレクター好みの対象となった。そしてグループはCBSを去った。“セカンド・アルバムは僕らが素晴らしいライヴを展開していた頃を反映していた。大きなイヴェントもいくつかこなしていた。ただ僕らにはツアーに出ていた時にいつも話し合っていた大きな技術的問題があった。ステージ上でのアコースティック楽器とエレクトリック楽器のバランスの問題だ。僕らは自分たちが必要だと思う機材を買うお金は持ってなかった。それに自分の思うことをうまく表現できるミュージシャンでもなかったから、いつも予測不能だったよ。充分なリハーサルもしなかった。僕らはビーアスの母親のうちで二日間のリハーサルを追加したんだ。これは北ウェールズでのいい思い出だ。カダー・イドリス(ウェールズ北西部の国立公園)のすぐ南だ―‘Murdoch’の山かって?ビーアスの母親が家を売ったときにピートとセリアがその家を買った。

2年目は目立ったライヴがいくつかあった。たくさんの大学サーキット、サセックスでの熱い夜、セント・アイヴズ、フリーと一緒だったリヴァプール・スタジアム、エアフォース、ピンク・フロイドとのパリ、すごく若かったジェネシスとのプランプトン、マシューズ・サザン・コンフォートとのクイーン・エリザベス・ホール、イートン校―僕らは盛り上がらなかったけど、まだピーター・グリーンがいたフリートウッド・マックと回った短期間の忘れられないスコットランド・ツアー。そのツアーではマーク・エリントンが参加してくれた。最後の時期は彼と多くの仕事をした。再びフェアポート・ファミリーだ。マークはフェアポートに資金提供してたな。確信してるんだけど、多くのディラン・ナンバーは彼の帽子から次々と取り出されていったんだよ―おそらくそれが彼が決して帽子を脱がなかった理由だ・・・”

“ついにCBSは僕らがいくらか切迫状態にあるのを悟った。2年経てからやっと彼らにお金を要求してついに支払ってくれた。多くはなかったけど彼らは機材もいくらか引き受けてくれて、2台のCBSで使い古されたトラックもくれた。苦心した末、リハーサル期間中にトラックが到着し始めた。その中には僕らが欲しかった機材が全て揃っていた―巨大なPA、それは中枢部分だ。僕は6弦のリッケンバッカーを弾き始めた。12弦やアコースティックもね。僕らは突然、いつも望んでいたことができるようになった。いつ死んでもいいと思ったね。それは僕ら全員にとっても、レコード会社にとっても、前進することにとっても、すごく大きな責任となった。そして同時に大物のマネージャーを引き込むことになった―僕らは2番目のマネージャー、ニック・ハリスとは契約が切れていた。

CBSはアメリカ人のバート・カマーマンを送り込んできた。突然その役割は広範囲に及んだ―驚くべき事にザ・バーズとのアメリカ横断ツアーが計画された。でも最後の最後にそのチャンスをつかむことはできなかった。なぜならリタ・クーリッジがジーン・パーソンズと共に参加したからだ。彼女のギグは当時僕らのスピリッツと合わなかった。まさにそのスピリットこそが僕らを団結させ、最後にはバラバラにさせたんだ。僕らは皆違う考えを持っていて、それぞれ独立していたという事実があったからね。僕らは皆結びついたけど方向性はバラバラで、全員プレッシャーを抱えていたね。巨大な責任義務無しにそれは持続しなかったね。僕は結婚したばかりで、二つのことが同時進行していることに不満だった。そういった責任に対する覚悟ができてなかった。僕らは最初の年は未熟で孤立してたけどCBSに支えられていた。でも彼らは方針を色々と変えるようになって僕は脱退した。すごく後悔したけど、今考えればあの状態で維持できたとは思わないね。”

コスタが去った後、アンウィンもすぐに抜けた。トゥリーズは2人のフォーキー、Mr. Foxからバリー・ライアンとアラン・イーデン、そしてフィドル・プレーヤー、チャック・フレミングを加入させた。グループは崩壊するまでの1年あまりをよろよろと進んでいた。

デヴィッド・コスタはその間プロとしての音楽活動をあきらめ、最初はDJMレコードでデザインとアート指導のキャリアをスタートさせた。これは最終的に彼とロケット・レコードとの関係が長く続くことを促した。このレーベルはエルトン・ジョンが中心となって発足した。コスタの父親サム・コスタは1940年代名高いコメディアンで、1950年代はBBCのメインの番組でDJを務めDJM(Dick James Music)のオーナーのディック・ジェイムスを知っていた。“僕の親父はディック・ジェイムスと仲のいい友人だった。僕がトゥリーズを抜けた時にやりたかったのは、セカンド・アルバムの結果を見ての通り、プロデュース業だった。

その後いくつかのレコードをプロデュースしたけど心身を保つためにデザインもやっていた。僕はディックに専属プロデューサー職の空きがないか手紙を書いた。するとアート・ディレクターの仕事がひとつだけあることが分かったんだ。僕は大学でアート史を学んだことを伝えてDJMのアート・ディレクターの職についた。エルトンはその頃波に乗っていた―僕が最初にした仕事は‘Don’t Shoot Me’のタイトルをいくつかのロゴ・タイプで書くことだった。ロケットとの仕事で次にしたのはカサブランカと契約することだった。トゥリーズ・ストーリーに新しい章が加わった。”カサブランカは1973年に結成された。13人という大編成で唯一のアルバムは1974年エルトン・ジョンが中心となって設立されたロケットからリリースされた。

“カサブランカはアンウィンを除く全員が在籍しスタートした。セリアも最初のリハーサルにはいたんだ。2〜3年の間にバリーと僕がアイランド・ミュージックのために作った2曲のデモはばかげたアイデアだった。僕らは何かデカくて派手なことをしたかったんだ。カサブランカは元々ナビゲーターといった。その時はセリアもいたんだが、最初のリハーサル期間だけだった。あとビーアスも。ときにラインナップはサンダーハイズの女性シンガーやポール・ヴァイグラスとゲイリー・オズボーン(バリー・クラークはトゥリーズ消滅後リード・ギターを弾いていた)、バリーとビーアス、そして僕、2人のドラマー、テリー・スタナードとブルース・ローランド(彼はアラン・イーデンと代わった)、パーカッションにルイス・ヤーディン、ヴァイオリンにグレアム・プレスキット、サックスにロル・コックスヒル、そしてベースにフィル・チェンなどを含んでいた。

最初のデモは2曲、‘Burning Love’と‘I’ve Got The Music In Me’のオリジナル・ヴァージョンだった。これは素晴らしかった。ツアーではさらに盛り上がった―2人の女性シンガー、アリキ・アシュマン(元エアフォース、グレアム・ボンド)とジョアンナ・フランクリンはサンダーハイズ出身の素晴らしい黒人シンガー、ドラムスはチャーリー・チャールズとブルース・ローランドだった。エリー・スタナードはすぐ抜けてココモに入った。短期間だったがすごく桁外れで楽しいバンドだった。ただツアーではお金がかかりすぎた。バリーと僕が共作で全曲書いてアルバム全てをプロデュースした。ロケットが要請したガス・ダッジョンによるいくつかのプロデュースを除いてはね。僕らのいくつかの曲は明らかにトゥリーズをほうふつとさせた。多分トゥリーズのしてきたことを弁護したかったんだと思う。”

1974年ボシェルはキキ・ディーに加入した。続いて彼はシーナ・イーストン、ムーディー・ブルース、そしてバークレー・ジェイムス・ハーヴェストらと仕事をした。一方デヴィッド・コスタはカサブランカ消滅後、ロケット・レコードで働いた。その後エルトン・ジョンのアルバム、ジョージ・ハリソンの‘Cloud Nine’、トラヴェリング・ウィルベリーズ、エリック・クラプトンの‘24 Hours’その他フィル・コリンズ含む多くの有名なアルバム・ジャケットでデザインのキャリアを積んでいった。

他のメンバーの現在の行方は?“バリーは今宝石と時計の商売をしていると思う。少なくともここ何年かはしていたよ。ボンド・ストリートでばったり会ったこともある。彼は数年前リオでひどい交通事故に巻き込まれたんだけど、僕は今でもいいギタリストだと思っている―誰よりもはるか先を行っていた。でも再び何かやるかどうかはわからないな。彼は極度に皮肉屋だから、また音楽の仕事をやりたいと考えているとは思わないね。アンウィンは教師になったけど毎週パブでセミプロ・バンドでプレイしているよ。

上述のようにこれからの音楽的展開は彼ら同士の話し合いを必要とするだろう。トゥリーズ復活についてのコスタとハンフリーズの思いには確かに熱いものがある。“セリアと僕はこの20年間切望しているし、ちょうど今2曲の再レコーディングに興味を持っているんだ。”これは興味深いことだ。フル・タイムの再編とまではいかなくとも、レコーディング・バンドとしては実現しそうだ。1993年にデヴィッド・コスタは1970年の2枚のアルバムをリマスターした。彼はバンドの創設者の一人でありリーダーであった。ハンフリーズはバンドの中心にいた。コスタがいうようにユーロヴィジョン・ソング・コンテストで優勝したABBAと同世代で、解散した中年のバンドが、果たしてそのナイーヴな魅力を取り戻すことができるか、という問題はあるが彼らの真正さは何も問題にならないだろう。

何が起ころうとフォークロックの全盛時代を研究する者たちはその時代の伝説的なカルト・バンドを常にチェックしたがるだろう。現在コレクターの間ではオリジナルLP、‘The Garden Of Jane Delawney’と‘On The Shore’(‘Dark Side Of The Moon’を手がけたジャケット・アーチストのストーム・トルギソンによる有名なジャケット・デザインで北ハムステッドの‘The Old Bull & Bush近くのヒル・ガーデンで撮影された)は、それぞれ60ポンドを超えているとされる。今回デヴィッド・コスタによるリマスタリングと監修の初のCD化はオリジナルLPの過熱ぶりを冷まし、同時に新しい世代に向けて長い間入手困難だった音楽を堂々と示すことになったわけである。

ジョン・トブラー、1993年


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