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Traffic/Traffic/Island Records Ltd. IMCD 265 546498-2



トラフィックのオリジナル・ラインナップ―スティーヴィー・ウィンウッド(ヴォーカル/ギター/オルガン)、デイヴ・メイソン(ヴォーカル/ギター)、クリス・ウッド(サキソフォン/フルート)、そしてジム・キャパルディ(ドラムス/ヴォーカル)―は、1968年の1月までにメイソンの脱退によって3人になっていた。それにもくじけず、残りの者たちは3人編成としてロードに出かけ、並はずれた結束力を見せていた。

必然的に、ペダル・ベースでオルガンをあやつり、驚異的なヴォーカルを聞かせるウィンウッドにスポットライトが当たることになったが、キャパルディによるタイトでリズミックなドラミングと、ウッズのセンスのいいフルートやサックスがサウンドに彩りを添えていた。(原始的で初歩的なレコーディングではあるが、トリオとしてのトラフィックの特色は1969年にリリースされた‘Last Exit’収録の2曲のライヴ・トラックでとらえられている) その頃、ほとんどスタジオ・ワークはなかったが、アイランドはギャップを埋めようと新しくレコーディングされた‘40000 Headmen’とのカップリングで、ファースト・アルバム‘Mr. Fantasy’から‘No Face, No Name, No Number’をリリースした。しかしそれまでのシングルとは違い、チャート入りには失敗してしまった。

その合間に、メイソンも同様に生産的な活動をするようになった。彼はFamilyのファースト・アルバム‘Music In A Doll’s House’のプロデュースを手がけ、そこには彼の作品である‘Never Like This’がフィーチャーされていた。また同グループは彼のソロ・シングル、‘Little Woman’(1969年2月)のバッキングを担当した。5月までに彼はギリシャの“ダチ”(“mellow”:キャパルディがそう呼んでいた)のところから、新曲一群を携えてトラフィックに戻ってきた。士気の高まった4人は、バンドの名を冠したセカンド・アルバムのレコーディングにとりかかった。アルバム‘Traffic’は、共同体としてのグループのベストをとらえている。

メイソン作の素晴らしい‘Don’t Be Sad’、フォーク・スタイルの‘You Can All Join In’、そしてスワンプ・スタイルの‘Feelin’ Alright’は、名作の重要なパーツとしての位置を占めている。‘Feelin’ Alright’はジョー・コッカーにカヴァーされ、アンセム的なステイタスさえ獲得した。たしかにどの曲も勝利を手にしていた―猛烈なパンチ力のある‘Pearly Queen’から、瞑想的な思考の表れた‘No Time To Live’、‘Crying To Be Heard’まで。あるいは‘Who Knows What Tomorrow May Bring’がハイライトかもしれないが、このダイアモンドの詰まった壺の中で比較する意味などないだろう。‘Traffic’の各トラックからは、冒険精神とバークシアでの初期の日々の姿が伝わってくる。

逆説的になるが、アルバムをプロモートすることになったのがメイソンの作品だった。‘You Can All Join In’はヨーロッパでシングルとしてリリースされ、英国ではアイランドのサンプラー・アルバムのタイトルとなった。こういった経緯もあって、‘Feelin’ Alright’は英国でシングル・カットされることが決まった。しかし両シングルのB面を飾ったのは、ウィンウッドが表現力豊かなヴォーカルを存分に発揮した焼けつくような‘Withering Tree’だった。これはたしかに伝記的な内容をもっていた―68年10月までにメイソンは再びバンドを抜けた。「僕たちはトラフィックとして活動したけど、僕には手に負えなくなったんだ」 のちに彼は説明している。「僕はあの形態の中で音楽を創りたかったんだけど、そこに生き甲斐を求めていたんだ」 「デイヴと僕は違うものを見ていた」―ウィンウッドは謎めいたことばを残している。

短期間の楽天主義は終わりを告げ、サンフランシスコの野外コンサートでグレイトフル・デッドとジャム・セッションをくり広げ、USツアーを成功裡に締めくくったあと、トラフィックはトリオに戻った。しかし孤独なフロントマンでいることのストレスがウィンウッドに影響を及ぼし始め、1968年の終わりに彼はグループを抜け、オランダに旅立つことをクリス・ブラックウェルに告げた。‘最後の’シングル、‘Medicated Goo’ c/w ‘Shanghai Noodle Factory’が時宜的に掘り起こされた。A面はスティーヴィーが自由に全ての楽器を担当し、プレイを楽しんでいるが、B面の整然としたナンバーは、セミ・ファンク的なバンドの姿をとらえている。

これらトラック、プラス‘Withering Tree’が、1967年にトラフィックがレコーディングした最初の2曲とともに今回このCDに収められた。その2曲は当時の‘成人’映画、‘Here We Go ‘Round The Mulberry Bush’の挿入歌だった。そのタイトル・トラックについてはほとんど紹介する必要はないが、もうひとつの‘Am I What I Was Or Am I What I Am’は、以前までサウンドトラック・アルバムの中でしか聞くことができなかった。不思議なことに、これは後期スペンサー・デイヴィス・グループでのスティーヴィーの作品から、それほど遠くかけ離れたものではない。スティーヴィー以外のラインナップのスペンサー・デイヴィス・グループもその映画に出演していた。

ウィンウッドがみずからの未来を思案する間、クリスとジムはデイヴとキーボード・プレーヤーのミック・ウィーヴァー(別名:ウィンダーKフロッグ)と組み、Mason, Capaldi Wood and Frogとして活動した。彼らもまたコテッジへ引きこもったが、今回はウスターシア(イングランド西部)だった。しかしユニットは2ヵ月後に、数回のギグとジョン・ピールのラジオ・セッションを置き去りにしたまま崩壊してしまった。それからメイソンはアメリカに渡り、素晴らしいソロ・アルバム‘Alone Together’を制作した。

オランダから帰国したウィンウッドはギタリストのエリック・クラプトンと再び親しくなった。彼らは1966年にパワーハウス(訳注:ジョー・ボイド・プロデュースによる企画バンド)として短期間共に働いていたが、スティーヴィーはクリームには参加せず、スペンサー・デイヴィス・グループにとどまることを選択していた。しかしクリームが解散した今、ニュー・グループ結成のアイデアが浮上し、こうしてブラインド・フェイスが誕生することになった。しかしながら、ラインナップにジンジャー・ベイカーと元Familyのリック・グレッチを加えたグループは、残念ながらそのポテンシャルを具現化することはできなかった。

悲惨なUSツアーはウィンウッドの情熱を奪う結果となり、1969年9月までに、バンドの短いキャリアは幕を閉じた。翌年、スティーヴィーはジンジャー・ベイカーのAirforceに加入したが、それはとうてい実行不可能な大所帯バンドだった。そこには偶然にもクリス・ウッドが加わっていた。しかしウィンウッドはフルタイムのメンバーではなく、USレーベルに2枚のアルバム契約を残していた彼は、ソロ・プロジェクトにとりかかった。彼は滞りなくプロデューサーのガイ・スティーヴンスに協力を求め、‘Mad Shadows’のレコーディングをスタートさせた。

ブライアン・ホッグ


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