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Traffic/Mr. Fantasy/Island Records Ltd. IMCD 264 546496-2



1966年と1967年の間、ロックはポップから進化し始めていた。目の前に現れた新しい可能性は、ビート・グループ守旧勢力の中で騒動を引き起こし、ポール・ジョーンズはマンフレッド・マンを去り、エリック・バードンは‘ニュー・アニマルズ’へ進み、そしてスティーヴ・ウィンウッドはスペンサー・デイヴィス・グループに別れを告げた。


1948年5月12日にバーミンガムで生まれたウィンウッドは、13歳になるまでに地元のパブやバンドで、ピアノ、ギター、オルガンなど様々な楽器をプレイする神童となっていた。しかしそういった多様な才能にもかかわらず、すぐに注目を浴びるようになったのがスティーヴィーの声だった。いわばそれは甲高いレイ・チャールズの声とモーズ・アリソンのスウィング感覚を兼ねそろえたものだった。

ウィンウッドの兄マフとドラマーのピート・ヨークは、ギタリスト/シンガーのスペンサー・デイヴィスとともに、英国最高のR&Bグループのひとつとなるべく1963年にバンドを結成した。4年後にその形態が消滅するまでに、カルテットはスリルあふれる驚くべきシングルの数々―“Keep On Running”、“Gimmie Some Lovin’”、そして“I’m A Man”などだ―と、3枚の優れたアルバムを発表した。しかしながら、1967年初頭までにバンドに対するスティーヴィーの不満のうわさが広まっていた。彼は自分の名前ではなく、そのキャラクターを広めるグループの支柱となっていたし、彼がもっと自由に冒険的な音楽をプレイしたがっていることは明白となっていた。バーミンガムの仲間のミュージシャンたちとともに、深夜のジャム・セッションが繰り広げられているといううわさが広がることとなり、4月になると音楽プレスは公式に彼の新しいグループ、トラフィックの誕生をアナウンスした。

残りのラインナップについては‘無名’とされていたが、それでも彼らは、スペンサー・デイヴィス・グループが腕をみがいてきた同じサーキットの中で、それぞれベテランといえるミュージシャンたちだった。ドラマーのジム・キャパルディは、ギタリストのデイヴ・メイソンとヘリオンズで活動する前に、サファイアーズのリード・シンガーを務めていた。ジョン‘Poll’パーマー(のちにエクレクション((トレヴァー・ルーカス、ジェリー・コンウェイ、パット・ドナルドソンがいたフォークロック・グループ))、モット・ザ・フープル)とルーサー・グローヴナー(スプーキー・トゥース、モット・ザ・フープル)は、3枚のシングルを出して解散したが、当時有望だったバンドのメンバーだった。

メイソン、キャパルディ、そしてパーマーは短命に終わるディープ・フィーリングを結成したが、その後まもなくデイヴが去った。彼はクラブの人気者だったジュリアン・コヴェイ・アンド・ザ・マシンに加入すべくロンドンに移ったが、リハーサルをすっぽかすことでクビを宣告され、スペンサー・デイヴィス・グループのローディーに納まった。トラフィックは1965年にメイソンがウィンウッドの気をそらし始め、バーミンガムのクラブ、エルボウ・ボウ・ルームが新しい活動の中心となった時に、第一歩を踏み出していた。そしてキャパルディが元ロコモーティヴのサキフォニスト、クリス・ウッドと出会った時、彼らが公式のバンドとなる1年前に、その新しいバンドの種がまかれていた。彼らの友好関係は揺るぎないものとなり、スペンサー・デイヴィス・グループの最後のヒット、“I’m A Man”では、メイソン、あるいは他の者も多数参加しているのではないかと長くささやかれている。

ウィンウッドとスペンサー・デイヴィス・グループ時代からの彼のマネージャーであるアイランド・レコーズ社長のクリス・ブラックウェルとの関係はそのまま続き、その新しいユニットはジャマイカ音楽の専門レーベルからロックのそれへと発展するレーベルのいしずえとなった。羽根の生えたばかりのグループのために、バークシア、アストン・チロルドのコテッジを確保したのもブラックウェルだった。それはポップの世界でバンドの決まり文句のひとつとなった、‘田舎に集まろう’のスローガンを確立させることになった。しかし共同体としてのトラフィックの期間はきわめて短かったといえるかもしれない。実際、唯一スティーヴィーだけがパーマネントなメンバーだった。それでもこの期間に彼らはポップ、ソウル、R&B、そしてジャズを融合し、独特なサウンドを創り上げた。

‘これがナンバー・ワン・レコードの写真だ’―トラフィックのデビュー・シングル、“Paper Sun”のリリース広告は、このように高らかにぶち上げられた。少しだけ過大評価すれば、誇大広告するだけの価値ある作品だった。‘サマー・オブ・’67’ソングの真にグレイトな1曲は、ウィンウッドの大胆なステップがゆるぎないものだったことを証明していた。タブラとシタールがトラフィックの脈動するサウンドをさらに高め、よりオープンで意気のいいB面の“Giving To You”と好対照をなしていた。トラフィックが共にレコーディングした最初の曲である“Here We Go ‘Round The Mulberry Bush”(グループの3度目のトップ10ヒットをもたらした)の前には、デイヴ・メイソンの“Hole In My Shoe”―ウィンウッドは強制的にレコーディングさせられた―が続いた。

しかし不幸なことに、これはウィンウッドに新たなプレッシャーをかけることになった。彼はチャートに縛られた思考から逃れることを望んでいたし、トラフィックはアメリカとヨーロッパではロック・アクトとして歓迎されてはいたが、英本国では単なるロックとは異なるポップ・グループとして見なされていた。またスティーヴィーとメイソンの間の緊張関係が表面化していた。彼らはトラフィックの方向性(とコントロール)について異なる意見を持っていた。たしかにデイヴを除くメンバーはみな、グループのセカンド・シングルとして、風変わりではあるがバンドを代表するものではない“Hole In My Shoe”よりも、グループの力強さが発揮された“Coloured Rain”をリリースしたがっていた。

その忘れられないジャケットによって田舎のくつろいだ様子が伝わってくるにもかかわらず、メイソンと他のメンバーたちの大きな隔たりは、トラフィックのデビュー・アルバム‘Mr. Fantasy’に反映されている。たしかにデイヴの怒りがまき散らされた作品、“Utterly Simple”はそれ自体魅力的ではあるが、まるでソロ・トラックのように聞こえる。

しかしながら、他のところでバンド内の共感を広く聞くことができる。それは例えば、刺激的でスリルあふれる“Heaven Is In Your Mind”であり、“Berkshire Poppies”(スモール・フェイシズの面々が力を貸した((訳注:スティーヴ・マリオットの笑い声と掛け声が聞こえる)))は最高に陽気なグループの姿をとらえている。“Dear Mr. Fantasy”はバークシアの田舎で共にプレイした晩に生まれた激しい情熱を見せてくれるし、一方で、誰かによってレコーディングされた最も痛切なバラッドの1曲、“No Face, No Name, No Number”の中には、はっきりと認識できる悲しげな叫びが聞こえる。

‘Mr. Fantasy’はイギリスで1967年12月にリリースされたが、その時までにデイヴ・メイソンが脱退していたことが明らかとなった。その少しあとにリリースされたアメリカ盤には、彼の脱退が反映されていた。ジャケットはトリオとしてのトラフィックを示し、はぐれたメンバーの名前はクレジットから外されていた。また内容も変えられたが、多くの意味で、その改訂された中身は、グループの姿が素晴らしくとらえられたUKヴァージョンよりも、トラフィックの最初の半年間をより広く概観したものだった。

用意されたハサミで“House For Everyone”を除く、全てのデイヴの作品が切り取られ、グループ最初の2枚のシングルから、“Hole In My Shoe”のB面でパンチのきいた“Smilin’ Phases”と、アルバムの‘タイトル’トラックの冗談風な繰り返しである“We’re A Fade You Missed This”が加わった。これらを念頭において、このCDにはブリティッシュ・ヴァージョンはステレオで、USAヴァージョンはモノラルで収録されている。ややこしいと思われるなら、それもまたこれ以降のトラフィックの歴史そのものであり、それは続くアルバム‘Traffic’と‘John Barleycorn Must Die’で詳しく述べられている。

ブライアン・ホッグ


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