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Tomorrow/50 Minute Technicolour Dream/1998 RPM Records Ltd. RPM 184



1967年4月、ロンドンのアシッド色の夜明けである‘Fourteen Hour Technicolour Dream’から、黒いまぶたをチラチラさせながら現われたグループの中にピンク・フロイドとトゥモロウがいた。彼らは明らかに大きな可能性を秘めていた。しかし奇妙なことにトゥモロウは元々この草分け的なイヴェントに出演広告を打たれてはいなかった。彼らは押しかけバンドとして送り出されていた。

その年最高の革新的シングル、都市のほとんどのアンダーグラウンド・マニアから無視された“My White Bicycle”と“Revolution”リリースの数ヵ月後、そのホットなアルバムはすでにEMIの優柔不断なリリース予定の中、今か今かと世に出ることを待ち望んでいた。彼らはその時までに最も大きなギグを経験した。ジミ・ヘンドリクス、ピンク・フロイド、そしてソフト・マシンと共にオリンピアで12月に開かれたサイケデリック狂想曲‘Christmas On Earth Continued’での彼らの演奏は、飛躍的な成功を予見させるに相応しいものとなった。一般的に有力となりつつある説では、緩慢なプレイで無感動なギグとなったヘンドリクスとフロイドより、彼らの方が輝いていたということだ。

残念ながら彼らは短命に終わってしまった。その数年前にはボブ・ディランがリリシズムあふれる‘Tomorrow Is A Long Time’を書いていた。しかしながらキース・ウェスト、スティーヴ・ハウ、トゥインク・アルダー、そしてジュニア・ウッドにとってはそれどころではなかった。1968年の春までに若者特有の忍耐力のなさとレコード会社のへまによって致命的な打撃を受け、彼らは経済的に行き詰まってしまった。ウェストのソロ・キャリアへの関心もセールス的に失望するものであった。それは前代未聞の年、サマー・オブ・ラヴのまばゆいばかりの希望が、沈滞した冬の不機嫌な季節に打ち砕かれてしまったのと同じようなものだった。それより1年前の状況は全く違っていた。この待ち望まれていた未発表の至宝の数々及びライヴのコンピレーションは、興味深い時代の産物であることを証明するものだ。


1966年後半/1967年初頭における既存のものに代わる非体制的な文化を持つに至ったロンドンは、灰色の戦後のまゆから出現したけばけばしい蝶のようなものだった。‘スウィンギン・ロンドン’メディアの物質主義的商業主義は飽和状態となり、展望力に欠けた後期のモッズたちはあっという間にその見透しを曇らせてしまった。

最初は奇妙で予期できないようなふるまい、それはまるで秘密結社の神秘的で不可解なおきてのようであった。その魅惑的な変化の匂いは、コベント・ガーデン、ワールズ・エンド、そしてノッティンヒルの街角にこっそりと佇んでいた。それはカーナビー・ストリートのLord Johnの領域から拡がっていった。MarqueeとTilesで金曜の晩に行なわれるアンフェタミンの儀式、あるいは一塊のヤクとEel Pie Island近くの安宿で始まったものだ。その母体となったストーンズ、フー、そしてプリティ・シングスがおびき寄せたものは、それに比べればほとんど節度あるもののように思われた。前衛アートと朗読批評集会は、最初ロンドンのインディカ・ギャラリーと書店によって創始され、それはノッティンヒルのLondon Free School、チョークファームの不気味なラウンドハウス、そしてトッテナム・コート・ロードのBlarney ClubのUFOの巨大な拠点を通じて、インターナショナル・タイムズのアンダーグラウンド通信として町に発信された。そしてカウンター・カルチャーという怪物が大評判となった。それは隅から隅までサンフランシスコのコピーであり、今やロンドンを席巻しつつあった。

1967年初頭には、ロンドンの成功を夢見るモッド・バンドThe In Crowd(トゥモロウの前身として知られる)は行き詰まっていた。彼らは捻じ曲がった新しいサウンドを身につけ、ビートルズとバーズが始めたサイケデリックなヴィジョンを発し始め、曲は複雑な構造を持つようになり、以前のソウルやモータウンのレパートリーは間違いなく陳腐なものとなりつつあった。外向的で炎色の頭髪をした彼らのドラマー、トゥインクは、ヒップな洋服屋Granny Takes A Tripを経営し、ポスターのデザイン・チーム、Hapshash and The Coloured Coatの一員だったNigel Waymouthと共にチェルシーのフラットで暮らしていた。新しい流行の兆しを感じ取ったトゥインクは、ビッグで何かゾクゾクするようなものを期待するようになっていた。

“Nigel WaymouthからUFOのことを聞いた僕はすぐにそこに向かったね。そこではピンク・フロイドが長い即興演奏をしていた。前に聞いたことのないようなね。クラブは小さかったけど液体ライト・ショーを使った雰囲気は最高だった。マリファナの強烈な匂い、ステージはクレイジーだったね。すごくファンタスティックだったから、僕もあそこでプレイしたいと思った。僕に強烈なインパクトを与えたね。僕は何かマイムのような新しいアイデアを探し始めた。よりフリーフォームなやつをね。”

またヴォーカリストのキース・ウェストはもっと良くなるような変化に飢えていた。“僕らはオーティス・レディングなんかをやるソウル・バンドから変化し始めていた。曲を書き始めていたし。” 彼は最近になって回想している。トゥインクはあるロンドンのギグを覚えている。“僕らは新しいグループ名を用意していた。僕が提案したバンド名の一つが‘NOW’だった。” “クイーンズゲイトのBlaisesクラブだったな。” キースは回想する。“ベース・プレイヤーのジュニアがTomorrowって名前を思いついたんだ。音楽は以前のスタイルと即興部分がクロスオーヴァーしていた。スティーヴはジャズと多くの奇妙な音楽にのめり込んでいて、僕らは彼にもっと自由にプレイするように仕向けたんだ。当時としてはすごくフリーフォームで好き放題なやり方だったね。僕らは当時あった音楽は何でも聴いていた。ザ・バーズ、ボブ・ディラン、ブルースとジャズ、で、それを全部ミックスしようとした。トゥモロウはあらゆるスタイルの混成だった。全てを吸収して、でっかいスープ・ポットでミックスしたような。好きなスタイルを見つけると、それを曲に取り入れて仕立てていたよ。” スティーヴも賛同する。“僕らは全ての音楽トレンドから影響を受けていたし、本当に何か違うものになりたいと願っていたんだ。”

トゥモロウの新しい最初の試みの一つがバーズのラーガ・ロックの草分け的傑作“Why”のカヴァーだった。これはとりわけスティーヴ・ハウがジョン・コルトレーン/ラヴィ・シャンカールにインスパイアされたギター・ブレイクを使った決定的瞬間だった。“僕らはそれに夢中になって本当にうまくいったんだ。” キースは回想する。“スティーヴは主にウェス・モンゴメリー、タル・ファーロウやなんかのジャズ・ギタリストにハマっていた。僕はスティーヴみたいに弾くギタリストなんて聞いたことがなかったね。” ウェストは真剣に語る。広くは知られていなかったミック・ハッチンソン(Sam Gopal Dreamのメンバーでのちのクラーク-ハッチンソン)とシド・バレットを例外として、ハウは自ら戦地に赴き、当時のブルース・ロック熱のはるか彼方の新しい領域へと踏み込んでいった。“僕は当時シタールを持っていた。ほとんど弾けなかったけどね。” スティーヴは思い出す。“僕らはラーガ的なものにハマっていた。でもシタールってのは思ってる以上にドローン・サウンドなんだ。インプロヴィゼーションはジャズを通じてだね。当時はオーネット・コールマンとローランド・カークを聴いていた。たまに自分が一体何をやっているのか分からなかったけど、みんな気に入ってくれたね。”

ウェストの新しいソングラティング的方向性は66年の後半にまだ彼らがThe In Crowdだった頃に形をとり始めた。バンドは映画監督のミケランジェロ・アントニオーニとThe Savoyで会食する招待を受けた。“僕は映画Blow Upの曲を書かないかっていわれて、僕らの映画出演も依頼されたんだ。彼らは元々ザ・フーを使いたがっていたんだけど、ザ・フーはつかまらなかったんだ。デヴィッド・ヘミングスは前にTilesで会っていて、バンドを気に入ってくれていた。僕はアントニオーニと会って何曲か書き、リハーサルしてデモテープを作った。彼は気に入ってくれたよ。” しかし彼らは契約破棄となってしまい、不当にも大きな失望を味わうことになってしまった。“僕らは浮かれ騒いでいたとは思うけど、スティーヴがギターを壊すことに納得していたとは思わないな。彼は自分のギターをすごく大切にしていたから。それで彼らはヤードバーズを使うことにしたんだ。” スティーヴはこの時のことをよく覚えている。“彼らはボール紙を使って僕のギターのコピーを作ったんだ。映画でジェフ・ベックがギターを壊すシーンを見ると、数秒前に彼が弾いていたギターじゃないことが分かるよ。僕は誰のためにも自分のギターを壊すつもりはなかった。” ここにはBlow Upセッションでレコーディングされながら使用されなかった2曲、“Am I Glad To See You”と“Blow Up”が収録されている。両方とも新しいトゥモロウを予兆させるものだ。興味深いことに、これが彼らの最後の映画への関わりとはならなかった。彼らは1968年のスウィンギン・ロンドンのヘンテコな映画、Smashing TimeにLyn Redgrave、Rita Tushinghamと共にちらっと出演している。彼らはおかしなポップ・グループ、The SnakesをGranny Takes a Tripの仕立屋John Pearceと共に演じた。Johnは病気だったベースのジュニアの代役だった。おかしなことに彼らは音楽は要求されず、前衛発明家のブルース・レイシーと彼の発明したすてきなマシンと共にはしゃぎ回ることになった。

シンプルなコード展開に基づいていたが、新しいサウンドと色調に変容したウェストの歌は、次第に個人的体験が反映されるようになり、しばしば異常な切り口が見られるようになった。“ドラッグが影響したんだと思うけど、僕は本当に曲作りを楽しんでいたね。僕らがオランダにいた時に、僕は白い自転車に乗る少年たちを見たんだ。みんな頭がぶっ飛んでしまって、僕は素晴らしいアイデアだと考えた。” トゥインクはこの歌が過激派青年がつけていたバッジにインスパイアされていたことを覚えている。これは前にNigel Waymouthによってオランダから帰国させられる原因になったものだった。Tomorrowのファースト・シングル“My White Bicycle”は、共産主義アジテーションとプロパガンダに基づき、過激派青年の自由の自転車は実験的象徴だった(今では当時の音楽的象徴だ)。しかし考えられないことに、これは当時の大衆のイマジネーションを刺激することに失敗してしまった。他の曲も似たような経験からきていた。“僕は初めてLSDをやった時のことを覚えている。僕はチェルシーのボーフォート・ストリートにあったトゥインクのフラットにいたんだ。僕は変な気分になってキングス・ロードへ出かけていった。そして道の真ん中でウォルト・ディズニーのキャラクターたちが飛び跳ねているのを発見したんだ。それが‘Three Jolly Little Dwarfs’って曲になった。それからLSDは僕を幼少時代へと引き戻したね。その結果出来上がったのが、‘Shy Boy’や‘Colonel Brown’だ。” ウェストの他の曲、‘Hallucinations’や‘Real Life Permanent Dream’は当時を美しくしのばせ、トリップ状態を分かりやすく描いている。

ピンク・フロイドと共に、ソフト・マシンとザ・クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウン、トゥモロウは間もなく新興のロンドン・アンダーグラウンド・シーンで王座につくことになった。しかし奇妙なことに、彼らのバックグラウンドと関心はトゥインクを除いて彼らの仲間ほどアート・スクール的なものやボヘミアン的なものではなかった。“僕らはすごく忙しく働いていたと思う。週6つか7つのギグをやっていた。僕らはアメリカから戻ってきた人たちからあれやこれやと妙なやつを伝授された。友人たちはよく旅をしていろんなレコードを持ち帰ってきたんだ。僕らは中でもずっと労働者階級寄りの人間だったから、早くからそういったことには関わってはいなかった。でも僕らはたくさんのヤクをやるようになった―僕らは若い時に大麻を覚えてしまった。僕らのエージェントだったTony HowardとSteve O’Rourke(のちのピンク・フロイドのマネージャー)は、僕らのUFO出演契約を取りつけて、一気にいろんな人と会うことになったね。僕らがそこで1回ギグをやると大騒ぎになって、突然僕らも仲間になった。ジョー・ボイド(UFOの創設者でのちにフェアポート・コンヴェンション、ニック・ドレイク、REMその他多くのプロデュースを手がけた)は僕らを気に入ってくれて、ブッキングし続けてくれた。評判はすぐに広まったね。”

一晩中彼らはエリート・サークルとつるむようになった。それはインターナショナル・タイムズの創始者、Barry Milesとジョン・‘ホッピー’ホプキンスからヒップなカメラマンと俳優を通じて、上流のMark Palmerの一団にまで広がっていった。このヒップな紳士気取りはUFOの資金難の間にうまく功を奏したが、それは寿命が来るまで広がり影響力を及ぼすことになった。商業的なご都合主義はボウ・ストリートの陽気なカフタン(トルコ人・アラブ人などの着る帯の付いた長袖の長衣)の酔っ払いドラッグ一団と同じくらい歓迎されようとしていた。“UFOは不思議なところだった。あそこは君を好きになるか嫌いになるかのどっちかだった。あそこでプレイしたいくつかのバンドは嫌われていたね。例えばザ・ムーヴはあまりに器用すぎた。” 他のあるグループは全然似合ってもいないのに、時流に便乗して‘ヘイ、ぶっ飛んだ衣装を手に入れようぜ!’などとやっていた。その中でインドのベッドカヴァーとビーズを着込んだ、でっぷり肥えたビール飲み野郎のルックスときたら明らかに滑稽であった。一方でトゥモロウは仕立てた洋服でダンディーにさっそうとした容姿をキメていた。Granny Takes a Tripが彼らの洋服を仕立て、Hapshash and The Coloured Coatが彼らのポスターを作り、UFOとその逸脱したフリーキーな流行仕掛け人が彼らをスターに仕立て上げていた。“それは間違いないね。” アンダーグラウンドDJだったJeff Dexterは断定する。“トゥモロウは絶対的に当時最高のR&B/サイケデリック・スロスオーヴァー・グループだったよ。”

新顔のFamily and the Niceに加えて、さらに無名だったフリーク・シーンのSensory Armadaとthe Social Deviants(訳注:ミック・ファーレンのディーヴィアンツの前身)のような者たちがUFOに出演するトゥモロウをチェックしに押しかけていた。ジミ・ヘンドリクスさえ彼らの崇拝者であり、ある金曜にはベースで即興演奏によるジャム・セッションをするためにステージによじ登ったほどだ(ベースだったのはスティーヴが自分のお気に入りのギブソン175を彼に貸さなかったためだ)。そしてフランク・ザッパが1967年9月にアルバート・ホールでマザーズ・オブ・インベンションと共にプレイした時、彼は最後にトゥインクのフラットでスティーヴと話をしている。“彼は実際にトゥモロウについて知っていた。彼は‘Claremount Lake’が僕らのベスト・トラックだと思うといって、僕のギター・スタイルが好きだと言ったんだ。”

The In Crowd時代の彼らはモッドのオ―ディエンスを大音量で難なくダンスさせていた。サーキットでのライヴァルだったジ・アクションと、全面的にザ・フーの影響下にあったザ・クリエイションのようなヤクでラリッたモータウンとR&Bのカヴァーの連発だった。アンダーグラウンドの初期サイケデリックの魅力的バンドだったトゥモロウは、各地を回るツアーで本物のパフォーマンスをやる能力を持っていた。轟音でフロアを揺らす彼らのビートとウェストのますます挑発的となっていた曲は、頭と足両方にガツンと響いてくるものだった―そこには確かに“Dancing In The Street”と“My White Bicycle”の絶妙なリンクが現われていた。それは最高のイングリッシュ・フリーク・ビートだった。ハウの圧倒的な即興プレイの腕前とバンドの強靭なハーモニー・ヴォーカルがミックスされ、ステージでの彼らはウェスト・コーストから当時現われたバッファロー・スプリングフィールドやモビー・グレイプに、より類似したところがあった。

しかしながらトゥモロウのリズム・セクションはサザン・カリフォルニアのバンドを寄せ集めた以上の幅広さを持っていた。トゥインクとジュニアはザ・フーの爆発的な推進力と同等なものを持っていた。“彼らは全員がサウンドを猛烈に埋めるプレイをしていたね。” ウェストはいう。“本当に奴らはトップにいたし、グレイトなラインナップだった。なぜかっていうと、そこには彼らがやりたいことができる自由なスペースがたくさんサウンドの中にあったからなんだ。” その自由はトゥインクの心をわしづかみにした。彼は時々、ハウのギターが音宇宙の彼方へと探索旅行へ出掛けている間に、フリーキーなマイムに興じていた。“ソロはバンドから外れてどんどん長くなっていったね。” スティーヴは証言する。“より視覚的効果が起こり始めるんだ。ソロはシアトリカルな装置となる。するとジュニアがSuzy Creamcheeseと踊りだしたり、トゥインクがその辺でマイムを演じ始めるんだ。”

EMIの専属プロデューサーであり、ピンク・フロイドのデビュー・アルバム、“Piper At The Gates Of Dawn”を手がけていたNorman Smithのオーディションを受けたあと、彼らはハウがセッション・ミュージシャンとして一緒に働いていたプロデューサーのマーク・ワーツと仲良くなった。キースは当時EMIが音楽的動向に無関心だったことを回想している。“僕らは‘My White Bicycle’とその他何曲かをプレイしたんだけど、僕はEMIが僕らに本当に納得していたとは思わないね。僕は彼らが当時起こっていたことに対して個人的な意見を持っていたとは思わない。彼らは僕らを全く理解していなかった。彼らはビートルズを獲得していて、それにしか関心がないように見えたな。それは僕らにとっちゃ大きな問題だった。僕らはいろいろ考慮したんだけど、悪条件で契約してしまった。アルバムの予算は厳しいものだったよ。”

しかしセッションは思いがけない実りを生んだ。“ビートルズはその時‘Sergeant Pepper’s Lonely Hearts Club Band’をレコーディングしていて、僕らはその晩そこでミキシングか何かをしていたんだ。僕が自動販売機に歩いていったら、スタジオのドアから‘For the Benefit of Mr. Kite’が聞こえてきたのを覚えている。僕は一体何だこれはと思って、スタジオのドアから頭を突き出してリンゴにハローって言ったんだ。1時間かそこらすると、彼らがリミックスをしている僕らのところへやって来た。ジョン・レノンは特にこの曲(‘My White Bicycle’)を気に入って、グレイト・シングルだと言ってくれたよ。彼がスピークイージー・クラブに来た時はいつもこの曲をリクエストしてたな。それから僕らは‘Strawberry Fields’のカヴァーもやっていて、それも彼は気に入ってくれたね。” レノンはかなり洞察力に長けていたようだった。彼は立ち上げたばかりのアップル出版とウェストを契約させたがっていた。レノンのアシスタント、Terry Doranは彼をディナーに招待したが、残念ながらそれ以上は進展しなかった。ウェストはロビンズ・ミュージックとすでに契約を交わしていたからだ。

トゥモロウはUFO、ミドル・アース、ハプニング44のようなサイケデリック・クラブでキングになれたに違いなかった。しかし地方やその向こうにいるオーディエンスは少し遅れていた。モッド、ソウルそしてスカが依然支配していた。ピンク・フロイド同様、初期においてはそれはオーディエンスを苛立たせるような実験であった。“もしロンドンから出て行って僕らのような行動をとれば、人々は狂っていると思っただろうね。そういう会場は僕らには相応しくなかった。だからそういう時は昔に戻って古いソウル・ナンバーなんかをやらなきゃならなかった。” しかしトゥモロウとフロイドは彼らが何回か短期間の旅をしたオランダ(a few brief trip:ダジャレのつもりじゃないよ!)で、オーディエンスに受け入れられたのを感じていた。彼らのピンク・フロイドとの関係は時に奇妙なねじれを引き起こした。ある一つの事件はフロイドの未来全体を変えてしまったに違いない。“ますますひどくなるシドの奇行は公然のものになっていたね。” スティーヴはいう。“ある晩Steve O’Rourkeが僕を呼んで、ロンドンに戻ってUFOでシドの代役を務めるよう言ったんだ。シドは行方不明になったらしかった。僕はすぐにロンドンに戻って楽屋で待っていたら、土壇場になって彼が現われた。ある意味これは真昼の強盗だったね。二度と繰り返すことはできないようなね。僕は彼を部屋に閉じ込めておくようなことはしなかったように思われているけど、でも僕はステージに立って即興でプレイするつもりだったんだ。でもそれがギグをやる時のターニング・ポイントになった。実際その話はそれ以来今日まで続いているよ!最近でもインターネットでうわさになっていることだ。もしデイヴ・ギルモアが何らかの理由で急にそれ以上やりたくなくなったら、「おい!僕は1967年にはやりたくてもできなかったんだぜ!」って言うか、「よし分かった!僕がやる!」って言うと思うね。” スティーヴは1968年暮れにザ・ナイスのDavy O’Listの代わりに加入するよう誘われたが、彼は考え直し1日で去ってしまった。

トゥモロウのセカンド・シングル“Revolution”は、“The Incredible Journey Of Timothy Chase”と共に、常軌を逸したアルバム・セッション最後に行なわれた曲だった。後者はEMIが前述した“Why”同様、彼らがすでにデモ作成していた中のいくつかを使いたがらなかったため、スタジオ内で書かれた曲だった。バーズのカヴァー“Why”は、すでに彼らのライヴでは人気ナンバーであり、それを会社が使用したがらなかったのは、明らかに会社の無知であり、のろまな体質である証拠だった。ここで今回初めて聞けるラフで純粋な“Why”のスタジオ・ヴァージョンは、バンドの真のポテンシャルが興味深く垣間見える。ライヴではバーズはめったにプレイしなかった曲だが、これはウェストの高揚するハーモニーの下で推進力あるリズムが保持され、一方でハウのいかした東洋風のギター・ソロはウェストの初期のコメントをやすやすと裏づけるものだ。

もう一つEMIに却下されたのが“Caught In A Web”で、これは元々ウェストがIn Crowd後期に書いた曲だった。オリジナルのタイトルは“Your Time Has Come”だった。プロデューサーのマーク・ワーツが他の新しい曲を採択したためLPから漏れてしまったが、彼はメンバーがこの曲を“Now Your Time Has Come”と呼んでいたと主張している!それらの曲は全く別物なので、スティーヴとキースは今回ここでは混乱を避けるため、新しいタイトルを付けた。続くシングル“Web”は最高のフリークビートの縮図であり、ハウのワウワウ・ラーガ・ラインによって美しくゆがめられたアレンジが光る創意に富んだポップ・ナンバーだ。別デモ・ヴァージョンの“Real Life Permanent Dream”もオリジナル・テイクの“Revolution”と共にここに収められた。フェイジングの中に沈み込むこのヴァージョンは、よりサイケデリックな響きを持つドリーミーな曲であり、シングル・ミックスよりもこちらの方がよりスモール・フェイシズの“Itchycoo Park”に近い香りがある。

バンド初期の栄光は、ジョン・ピールがラジオ・ロンドンの深夜番組Perfumed Gardenで“My White Bicycle”をエンドレスでかけたことだ。この海賊ラジオは東海岸を拠点としていた。ピールが67年8月にラジオ・ワンに入社した時、トゥモロウがトップ・ギアの初期のゲストだった。9月にMaida Valeスタジオでレコーディングされ、10月1日に放送されたピール・セッションでは、“Three Jolly Little Dwarfs”、“Revolution”、“My White Bicycle”、そして“Real Life Permanent Dream”がフィーチャーされた。残念ながら現存しているのは最初の2曲だけである。これは海外で再放送されたものであり、最初の古風なおしゃべりはジョン・ピールではなく、以前‘Saturday Club’と‘Thank Your Lucky Stars’で司会を務めていたBrian Matthewsだ。

1968年1月にレコーディングされた後のピールのNight Rideセッションは、“Blow Up”、“Strawberry Fields Forever”、“Now Your Time Has Come”そして“The Incredible Journey Of Timothy Chase”を含んでいた。2月2日に放送された時のテープは所在不明であり、BBCによって消去されたと考えられている。唯一のUKでのテレビ出演は、ブリストルのウェルシュTVのもので、ソロモン・バークとポール・アンド・バリー・ライアンと共演したものだ。バンドは“My White Bicycle”と“Incredible Journey Of Timothy Chase”を、らせん階段を大またで降りながら口パクで演じた。ありがたいことにその時のフィルムは現存している。

1967年7月、“My White Bicycle”のセールス的失敗と、のろのろとしたEMIのアルバム・セッションに失望したのに続いて、ウェストはプロデューサー、マーク・ワーツが制作していたバッキング・トラックに性格類型の詞を書くことに同意した。そのキャラクターは続くシングル“Excerpt From A Teenage Opera”のGrocer Jackとなり、ウェストが哀愁を帯びた切ないコーラスをとるCorona Acting Schoolの子供たちによるセッション・バンドを率い、スティーヴ・ハウがギターをオーヴァーダブした。それはその年最大のヒット曲の一つとなり、ウェストはTop Of The Popsに度々出演し、一躍スターの座についた。

その明らかな商業主義的方向性は、トゥモロウのアンダーグラウンドなスタンスとは相容れないものだった。しかしそれは夢のように美しい夏の側面を切り取った、魅力的で奇抜な資質を保持していた。“多くの人々が受け入れてくれたね。詞は表面的な意味以上に深みを持っていた。僕はナイーヴだったけど、それをうまくやり通せると考えていた。バンドの中でもね。でもちょっとしたことで全ては失われてしまうんだ。” キースは最近になって語っている。最初のうちはバンドに何ら問題はなかったが、それはギグにおいて混乱を引き起こすことになった。“急にトゥモロウをバッキング・バンドとしてキース・ウェストが‘Excerpt From A Teenage Opera’を歌うと宣伝されたんだ。一度僕らはプロモーターが本当にあばれ出したから、アイリッシュ・ツアーでそれをプレイしなきゃならなかった。その時Robert Stigwoodが僕にソロになるなら多額の金を出すと申し出ていた。でも僕は友人たちと一緒にバンドを続けたかったんだ。僕はヒットを放ったためにバンドの中ですごく難しい立場に立ってしまった。”

秋までにプレスを通じてバンド分裂のうわさが広まり、プロモーターによる助けもなく、宣伝にはKeith West and Tomorrowと強調された。67年9月のメロディ・メーカーによる‘Keith West Says’と題されたニュース記事の中で、ウェストは主張している。“僕がグループを去るってうわさにはもううんざりだ。全てはばかげた嘘っぱちだ。トラフィックとのツアーが終わったら、僕らはスタジオに戻ってトゥモロウのLPの制作を続けるつもりだ。” 嵐は鎮められたが、結局“Teenage Opera”がミリオン・セラーをマークするほど売れたというニュースで締めくくられることになった。

実際トラフィックと共に宣伝されたパッケージ・ツアーは、初めから落ち着かない幕開けとなっていた。誇大に宣伝されたサポート・アクトのアメリカのバンド、ヴァニラ・ファッジは、ロンドンのFinsbury Park Astoriaでの最初の公演を終えるとすぐに抜けることになった。音楽紙には病気と‘短すぎるステージの持ち時間’に対する不満が原因とされていたが、トゥモロウとトラフィックの方がはるかに良かったことがファッジの失敗につながったと見る方がより真実に近かった。

広く一般に露出したことによって、彼らのツアーはうまくいっていた。それはアンダーグラウンドのホームであるUFO、ミドル・アース、サヴィル・シアター、7月にアレキサンドラ・パレスで行なわれたLove Festival、そして8月にWoburnで行なわれたFestival Of The Flower Childrenも同様であった。EMIはトゥモロウのアルバムをすぐにリリースすべきであった。しかし大きな反響も会社を動かす力とはならなかった。“もしトゥモロウのアルバムがもっと早く出て、EMIの責務ももっと果たされていれば、状況は全然違っていただろうね。僕らは猛烈に働いていたし、人々はいつもアルバムはいつ出るんだって聞いていたよ。僕らはどんどん困惑するようになっていったね。”
“Revolution”がチャート入りを逃してしまった12月になっても、依然EMIはアルバムの発売予定日決定にぐずぐずとしていた―間違いなくTeenage Operaというモンスターによって、もっと金が稼げることを期待していたからだ―キースとスティーヴ・ハウはウェストの印税を使って短期間の休養を取りにモンテゴベイ(ジャマイカ北西部)に向かった。

彼らのその年最後の大きなイヴェントが、オリンピアでの“Christmas On Earth Continued”だった。Barbara Rubin制作のアンダーグラウンド映画から名付けられたそれは、全ての人々を家に閉じ込めてしまった1968年冬の信じられない寒さの前に訪れた、ロンドン最後の盛大なフラワー・ムーヴメントだった。Jeff Dexterは回想している。“寒かったね。あの夏は12月まで続くと思ったけど。人々はまだ7月だと思いながらヒッピーの衣装を着てうろつき回ってた。” しかし実際、サマー・オブ・ラヴの消滅は明らかとなっていた。“疑いなく重大なイヴェントだった。” スティーヴは同意する。“あのあと全てが気の抜けた状態になったように見えたな。”

一方、あの時代を定義づけた文化的嗜好であった14 Hour Technicolour Dreamは人々に記憶されていないかもしれない。続いて評判となったChristmas On Earth Continuedの方が視覚的にも聴覚的にもはるかに優れてはいた。たとえそれが外部の営利主義のダサい悪臭によって汚されていたとしてもだ。ジミ・ヘンドリクス、ピンク・フロイド、トゥモロウ、ザ・ムーヴ、エリック・バードン・アンド・ジ・アニマルズ、ソフト・マシン、そしてグレアム・ボンドら全てが見られる興奮は他の場所では味わえなかった。全ての壁面360度に渡って、3つの組み立て台からリキッド・スライドとアンダーグラウンド・ムーヴィーが映写され、センサラウンド(音響効果)が施されていた。ザ・フーだけが出演しそこなってしまった(グレイトフル・デッドがトリとして英国デビューを飾りたかった名声あるギグであったが、入国許可の問題で実現しなかった)。

“僕らはステージに上がってプレイして一晩中あそこで過ごしたよ。素晴らしかったね。” ウェストは思い出す。“あとでフィルムを見たけど本当に見事に撮られていた。” 残念ながらこれはそれ以来、見ることができないでいる。見たところそのフィルムはぞんざいに扱われ、棚に放り投げられ消失してしまったようだ。未払い請求に関する異議とフィルムを取り戻すことが現在残された課題だ。ヘンドリクスの映像だけは、モンタレーのビデオのオープニングで見ることができるが。

その晩のトゥモロウの出演は確かにドラマチックだった。トゥインクは暴走し、キースとジュニアはミステリアスな黒の手袋をはめ、オーディエンスの半分と見せかけのケンカを演じていた。スティーヴだけが静かに佇みながら破壊的なギター・サウンドを奏でると、彼らは猛烈な“Why”に突入していった。2枚のシングル、“Real Life Permanent Dream”と“Caught In A Web”、そしてグレイトな新曲“Rainbow”は“Revolution”を思わせ、聞いたこともないような風変わりな旋律を響かせていた。“Shotgun and the Duck”と暗く轟くような“Strawberry Fields Forever”が圧倒的なクライマックスを演出した。

最近になってテープを整理していたところ、スティーヴ・ハウはミックスされていないトゥモロウのライヴ・テープに出くわした。エンジニアの下手なマイク調整にもかかわらず、そのライヴ音源は十分なサウンドチェックもなしに、一か八かでプレイされ、キースのヴォーカルが歪んでいたものの、バンドの真のパワーが難なくとらえられていた。今回初めてここで聞ける音源がそのショーだ。“音は数本のマイクだけでレコーディングされていて、モニターはなかったから大声でやらなきゃならなかったのを覚えているよ。このヴォーカルはオーディエンスが聴いていたようなサウンドじゃないね。そういうマイクだったんだ。”

トゥモロウのスタジオ・アルバムはついに1968年2月にリリースされた。ジャケットは期待されていたHapshashによる美しいものではなく、EMIによって安っぽいものにされてしまった。そして会社の要請でTomorrow featuring Keith Westと表記された。残念ながらインパクトは失われてしまった。67年夏にきっちり仕上げられ、その時にリリースされていれば、トゥモロウの未来は全く違ったものとなっていたはずだ。“スタートからして全く間違っていたね。人々はTeenage Operaを期待し続けていたけど、僕らはそうしなかった。僕は抑制が利かなくなってしまった。僕はJuke Box Jury含むテレビへのソロ出演を期待された。一体自分は何をやってんだろうといつも思っていたね。” キースは回想する。スティーヴの考察はいくらかもっと簡潔だ。“キースのドアは開かれていて、トゥモロウのそれは閉じていたんだ。僕らは次のギグがあるうちがバンドの寿命だと考えていた。すると突然ギグの予定がなくなったんだ。ギグの終わりってのはバンドの終わりってことだった。”

解散はとりわけEMIがそれぞれのメンバーがソロでSteve Tomorrow、Twink Tomorrowなどとして活動する案を却下した時に現実のものとなりつつあった。ウェストの2枚目のソロ・シングル“Sam”がリリースされたが、前シングルと並ぶヒットとはならず、38位にとどまった。“グループの誰もじゃまなんてしなかったよ。みんな途方に暮れていたね。” スティーヴは思い出す。“バンドの誰もこのグループを存続させてきたものを理解する頭を持ってなかった。” キースは少し個人的なこととして受け取っていた。“僕はそれ以上、向き合うことができなかった。僕はバンドに苦悩を持ち込んでしまったんだ。一番の解決策は解散することだった。次の段階に進む時だった。みんな自分の計画を持っていたしね。トゥインクとジュニアはAquarian Ageと共に、スティーヴと僕はハイゲイトの新しい家に移ってロニー・ウッド、Aynsley Dunbarといっしょに働いていた。それが僕らの新しいバンドになる予定だった。僕らはグループ名をまだ持っていなかったけど、EMIで4〜5曲をレコーディングした。それはRPMのKeith West CD(‘Excerpts From…’RPM 141)で聴けるよ。結局それは尻すぼみに終わったんだけど。”

大部分の人たちには無視されたが、彼らを見ていた私たちが大事にしていたトゥモロウの追憶はしぼんでいった。スティーヴはBodastを結成したあとイエスに加入した。トゥインクはプリティ・シングスを経て、ピンク・フェアリーズを結成した。キースは雑多なソロ・プロジェクトと戯れ、ジュニアはジェフ・ベック・グループにほんの短期間在籍したのち、カジノのクルピエ(ゲーム進行補佐)になった。しかし1970年12月、トゥインクはラウンドハウスのクリスマス・パーティーでジュニア、スティーヴと3人でトゥモロウを再編した。“僕らはTomorrow 67として宣伝された。” 彼は回想する。“スティーヴがヴォーカルをとったけど素晴らしかったね。” 80年代中頃、トゥモロウを再結成し、日本、ドイツ、オランダをツアーするオファーをキースは受けた。“ある晩スティーヴから電話をもらったんだ。彼はちょっとイエスに失望していて、トゥインクとジュニアを呼び戻すことを話していた。でも僕はもう戻りたくなかったし、過去を再現したくなかったんだ、絶対にね。” キースは正しい。あのマジック、熱狂、クールであつかましいほどの無邪気さの時代は二度と繰り返すことはできない。トゥモロウの過去はここに新しく発見されたレコーディングで最高に再現されている。

Jon Newey, London, Spring 1998

Jon Neweyは懐かしい思い出を再燃してくれたKeith West, Steve Howe, Twink, Jeff DexterそしてJenny Fabianに感謝する。RPMは写真と記憶を提供してくれたSteve Howe, Keith WestそしてJon Neweyに感謝する。


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