Welcome to my homepage


The Sweet Inspirations/The Sweet Inspirations/2006 Collectors’ Choice Music CCM-700



ザ・スウィート・インスピレーションズはエルヴィス・プレスリー、アレサ・フランクリン、ダスティ・スプリングフィールドその他多くのレコードで歌ってきたが、彼女たちがコーラスで参加したレコードは正確な数字が分からないほど多い。そしてそれゆえに(特にプレスリーとの仕事で)彼女たち自身はアーチストというよりバックアップ・シンガーとして知られるようになった。また彼女たちの娘の一人がスーパースターになり、その名声がさらにグループのメンバーたちを小さな存在にしてしまった。しかしスウィート・インスピレーションズは1967年から1970年の間にその名のもとでレコーディングを行なっていた。彼女たちはアトランティック・レコーズで4枚のアルバムと数枚のシングルをリリースした。そのうちのひとつ、“Sweet Inspiration”は皮肉にも世界的シンガーのバックアップ・ヴォーカリストとしての長いキャリアを導くことにはなってしまったものの、トップ20ヒットにさえなったのである。

ザ・スウィート・インスピレーションズのゴスペル・ルーツはアトランティックと契約する何十年も前にさかのぼる。エミリー“シシー”ヒューストンは子供の頃、Drinkard Singersの一員として歌い始めた。シシーとのちにソウル・シンガーとなるジュディ・クレイを含むラインナップでDrinkardsは、1950年代末ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルでライヴ・ゴスペル・アルバムをレコーディングした。1960年代初め、ヒューストンはディオンヌ・ワーウィックの後任としてあるグループに入り(ディオンヌの姉妹ディー・ディー・ワーウィックの勧めだった)、多くのセッションでバックアップ・ヴォーカルを提供するようになった。同時期にやって来たのがシルヴィア・シェムウェルだった。彼女はジュディ・クレイの姉妹でもう一人の未来のソウル・ヒットメーカー、ドリス・トロイとの交代であった。ディー・ディー・ワーウィックがソロになるためにグループを去り、代わりに入ったのがマーナ・スミスだ。彼女はスウィート・インスピレーションズ周辺と密接なつながりがあり、Gospelairesで歌っていた。またこのグループはワーウィック姉妹を含んでいた。Gospel Wondersの一員だったエステル・ブラウンはグループがスウィート・インスピレーションズに発展する直前に加入し、グループは4人組となった。

如何にグループ名が変遷してきたのか、どういうわけでアトランティックが彼女たちのレコーディングを始めたのかは、アトランティック・レコーズの重役ジェリー・ウェクスラーが自身の伝記Rhythm and the Blues(デヴィッド・リッツとの共著)で単刀直入な理由を説明している。“ザ・スウィート・インスピレーションズは60sソウルの中でアトランティック教会の柱のひとつになったんだ。彼女たちには素晴らしい経験があったし、アレサ同様本能的にハーモニーを理解していた。パートが入れ替わってもそのヴィブラートはとてもマッチしていて、急激にコーラスの表情を変化させる時も常にリラックスして楽しんでいた。そして革新的なメロディをいつも用意していた。まあグループとしてレコード契約をしたことは当然の成り行きだった。私はInspirationsというグループ名を提案した。でも残念ながらその名のグループが既に存在していたから(何とアクロバットの一団の名だった!)、私は頭に‘Sweet’をつけ加えた。”

グループのキャリアは1967年半ばのシングル、“Why(Am I Treated So Bad)?”と共に力強くスタートした。この曲はその当時のあらゆるソウルのシングル同様、極めてゴスペル・ミュージックと固く結びついていた。そしてこれはステイプル・シンガーズの1965年のアルバムFreedom Highway、教会で行なったライヴに収録されていたものだ。ヒューストンが彼女の自伝How Sweet the Sound:My Life with God and Gospel(Jonathan Singer著)で以下のように考察している。“ステイプルズのローバック・ステイプルズが書いたゆっくりとしたテンポの気だるいブルース。とてもファンキーで、まるでルイジアナの河口地帯でレコーディングされたかのような味のあるブルース・フレーズとウォーキング・ベースと魅力的なホーンが備わっていた。”このシングルはR&Bチャートのトップ40に入り、ポップ・チャートでは57位まで上がった。一方、よりポップ指向の“Let It Be Me”(それより前にエヴァリー・ブラザースと、ジェリー・バトラーとベティ・エヴァレットのソウル・スター・デュオ両方でトップ10ヒットになっていた)は、R&Bチャートの13位まで上がったが、ポップ・チャートではトップ100の下位をかすめたにとどまった。これらシングルは1967年のLP、‘The Sweet Inspirations’に収録されアルバムと同時に、4月25日にリリースされた。レコーディング・セッションはニューヨークのアトランティック・スタジオで行なわれたが、メンフィスで曲が追加され、うちいくつかがさらにシングル・カットされた。

The Sweet Inspirations収録のいくつかは、すでに他のアーチストのヒットによって有名になっていた。“Don’t Fight It”はウィルソン・ピケットのトップ5・R&Bヒット、“Knock On Wood”はエディ・フロイドそしてオーティス・レディングとカーラ・トーマスのデュオによっても大ヒットしていた。“Do Right Woman−Do Right man”はアレサ・フランクリン初のトップ・テン・ヒット、“I Never Loved a Man(The Way I Loved You)”のB面として自力でR&Bチャートのトップ40に入った。アイク・ターナーの“I’m Blue”は1962年アイケッツのヒット曲としてトップ20に入った。バート・バカラックとハル・デヴィッドの“Reach Out For Me”は、ルー・ジョンソンとディオンヌ・ワーウィックで成功を収めた。アレサ・フランクリンが書いた“Don’t Let Me Lose This Dream”は1967年に2位となったフランクリンのアトランティックでのファーストLP、I Never Loved a Man the Way I Love Youに収録されていた。そして“Blues Stay Away from Me”は1949年に偉大なカントリー・デュオ、Delmore Brothersによって初めてレコーディングされ、それはジャンルを超えてスタンダードとなり、レス・ポール&メアリー・フォードからB.B.キング、ジーン・ヴィンセントに至るまで取り上げられた。しかしながらこのアルバム、The Sweet Inspirationsは、あたかもシンガーとプレイヤーが電話で話をしているような他の多くのカヴァーで埋め尽くされたアルバムとは著しく違う響きを持っている。各曲はゴスペル的激しさに満ちながらもコンテンポラリーで活気があり、ファンキーな60年代後半のソウルのアレンジだ。

このThe Sweet Inspirationsには、甘美でドラマチックなバラッド“Oh! What a Fool I’ve Been”含む比較的あまりよく知られていないマテリアルもいくつか入っている。ブルージーで苦悩に満ちた“Here I Am(Take Me)”は、スタックス・レコーズのトップ・ソングライティング・チーム、デヴィッド・ポーターとアイザック・ヘイズによって書かれた。さらに有名な“Sweet Inspiration”は同じく有名なソングライター・デュオ、ダン・ペンとスプーナー・オールダムのペンによるもので、1968年春ポップ・チャートのトップ20にまで上昇した。ピーター・グラルニックの名著Sweet Soul Musicの中でオールダムは次のように説明している。“僕はアレサのコーラス隊のスウィート・インスピレーションズと共に働いていたから彼女たちのことを知らなきゃならなかったし彼女たちの歌をすごく気に入っていたから、レコードを作らずにいられなかったんだ。で、ある晩セッションに行くと・・・ダン(・ペン)がスタジオに座っていて、僕らは事の成り行きを見守ることにしたんだ。彼女たちは2曲を歌った―ひどい曲だった―僕は意気消沈してしまった。それでダンに言ったんだ。‘部屋に行って曲を書こう’ってね。僕らが二階に向かって歩き出すと彼は‘アイデアが思い浮かばないんだ’と言ったよ。で僕は‘彼女たちのあの魅力的なインスピレーション(Sweet Inspiration)ってところから始めようじゃないか’って言ったんだ。僕らは古いギターを見つけてしばらくしてから下に降りて行った。彼女たちはまだ不平を言っていたよ。僕らは彼女たちに向かってプレイしたんだけどダンは最後にはひらめいたみたいだった。僕はギターを弾いていたよ。”グラルニックはまたSweet Soul Musicの中でこう書いている。“グループの名付け親だったジェリー・ウェクスラーは、スプーナーにその曲の印税の3分の1を要求した。スプーナーたちの反応はどうであったか?‘僕らは何もいわなかったよ。’スプーナーは含み笑いを浮かべながらそう言う。”

“Sweet Inspiration”はかなりのヒットになったが、それ以上に大きな効果をもたらすことになった。長期間に渡るエルヴィス・プレスリーのライヴとレコーディング両方での起用だ。マーナ・スミスはオーストラリアのエルヴィスのウェブサイトでのインタビューでいっている。“エルヴィスは歌を聴いて気に入ってくれたわ。彼は自分の能力を発揮できる人間を見つけたってわけ。オーディションを受ける必要はなかったわね。彼は私たちが自分にぴったりだってすぐに分かったのよ。なぜならエルヴィスはソウル、R&B、ゴスペルの女性グループと男性グループを欲しがっていたから。彼は全て計画済みで、私たちはオーディションなしで加わった。私たちのレコードをとても気に入ってたわね。”

スウィート・インスピレーションズは続く数年間もアトランティックでレコードの制作を続けたが、再びシングルがヒットすることはなかった。アルバム、The Sweet InspirationsはR&Bチャート12位、ポップ・チャート90位と十分に成功したが、続くアルバムはどれもビルボード・チャートには入らなかった。そして1970年に最後のアトランティック・セッションが行なわれるまでにシシー・ヒューストンが行ってしまった。彼女は60年代の終わりにソロ・キャリアをスタートすべくグループを去り、グラディス・ナイト&ザ・ピップスがナンバー・ワン・ヒットにした“The Midnight Train to Georgia”のオリジナル・ヴァージョンをその少し前、1973年にシングルとしてレコーディングしていた。一般的にはもちろん彼女はホイットニー・ヒューストンの母親として有名だ。

スウィート・インスピレーションズはアトランティックを去った後もレコードを作り、1973年にスタックスからアルバムをリリースした。しかしながらアトランティックでの作品がソウル・ファンによって最も高く評価され脚光を浴びてきた。その最初に当たるのがこのLPである。
Richie Unterberger


ホームへ