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Sweeney's Men/The Legend Of Sweeney's Men/2004 Sanctuary Records Group Ltd. CMDDD932



‘仲間たちは歩き続けることも摂取し続けることもやめはしなかった。対話の歓びとポリフォニック(対位法)なハーモニーは、スウィーニーが長い時間をかけて音楽の型を打ち破り、苦痛をステージで表現する源であった。時折フクロウあるいはぶかっこうな甲虫、またあるいはハリネズミの小さな一団が、彼らの目的地が暗がりの中で見失われないよう彼らの旅をエスコートした。旅行者たちはお互いの退屈な話に飽き飽きすると、一緒になって時代遅れの歌を歌った―胸を躍らせ眠る木々よりも高く声を上げながら。彼らは“Home On The Range”や古いカウボーイの歌を歌った。小屋と大草原で好んで歌われたエヴァーグリーンの歌の数々だ。彼らは共にハスキーで優しさに満ちた歌声で古い陽気な民謡を合唱した。その土地の吟遊詩人が歌い継いできた永遠の歌曲であり、その歌声の中には最後の旋律が消えゆくようにすすり泣きが入っていた。そして彼らがその開拓すべき土地を発見した時、お互いに事実無根の主張をし、口汚くののしり合うのだ。それは野バラの実を集め、サンザシの実を自分の帽子の中に一杯にし、遅い朝食代わりにするような貧しい身分のなせる行為であるかのように・・・’

フラン・オブライエンはこのようにSweeny(アイルランド伝説:原文まま)の戦士たち―アイルランド神話の狂った王―の放浪を描いてみせた。1939年の彼の曲者的古典であるAt Swim Two Birdsだ。1966年6月、ゴールウェイ(アイルランド西部)のあるところで、非凡で個性的なトリオがジョイス的な幽玄さとフランの物語Wind In The Willowの奇抜さを混ぜ合わせたような何か神秘的な野望を持って自分たちなりの表現を始めた。彼らはその名前をちょうだいし(当時フランの本はよく読まれていた)、古いフォルクスワーゲンのヴァンに面倒なもの一切を詰め込み、夏の間アイルランド西部の荒れ果てた地域で音楽を演奏して過ごした。こういったことは当時この土地では珍しいことであった。しかし後年輝かしい影響を与え続けることになるグループの独創性を示すものであった―その注目すべき若者たち、アンディ・アーヴァイン、テリー・ウッズ、ジョニー・モイニハン、ヘンリー・マッカロウそして(2回だけのギグ参加であったが)ポール・ブレイディたちだ。

4年を超えて5人のラインナップは3枚のシングルと2枚のアルバムを出したSweeney’s Menとして、ブリティッシュ・フォーク・ロック全体及び1970年代のアイリッシュ・フォーク・リヴァイヴァルの祖先となり源泉となった。そして彼らのストーリー、偶然ではあったがオブライエンの夢見た旅人としての自然との調和、カウボーイ・ソングとアイリッシュ・ミュージックへの愛情、そして不条理と辛辣さを持つ傾向は注目すべき先見の明あるものであった。

‘クランシー・ブラザースとポーグスの間にはあるミッシング・リンクが存在するんだ。’どちらの時代のアルバムのエンジニアリングを務めたビル・リーダーはいう。‘当時その辺りにいた多くのアイリッシュ・グループは非難されるべきかもね。ダブリナーズはアイリッシュ・フォークの歴史の4分の3に存在した。でもスウィーニーズ・メンはその流れに乗らなかったように思う。彼らはそこから距離を置いていたね。’事実彼らはある両面において隔たっていた―一方ではヒルビリー・ミュージック、他方ではイングリッシュ・フォーク・リヴァイヴァルから、コアの部分では停滞し混乱したアイルランドの伝統を持ちながら独自に描いてみせた―それはカソリック・アイルランドとして非常に保守的な力が他を寄せ付けないような者たちの性格という観点においてもだ。

創設メンバーのゴールウェイ出身の男、Joe Dolanは1回限りのショー・バンドのギタリストであり、一匹狼で強情で、そして画家と自由の戦士になる野望を抱いていた。ジョニー・モイニハンはダブリン建築大学をドロップアウトして以来、今日まで現役だ。群れから離れることを志すその態度はいくらか伝説的なオーラを彼に染み込ませることになった。一方アンディ・アーヴァインはロンドンで冴えない俳優生活を送っていたが、ウディ・ガスリーに魅せられたことが彼をシンガー、ライター、ミュージシャンそして疲れを知らない吟遊詩人として世界の平等、正義そして誠実さのために、その特異で影響力のある極めて豊富なキャリアへと向かわせることになった。

イングランドにはMBEのマーチン・カーシーが、アメリカにはライ・クーダーが、そしてアイルランドにはアンディ・アーヴァインがいる。豊富な歴史を持つ音楽の旅人、複雑に入り組んだバック・カタログと、国民的/国際的な民俗音楽の伝統的旗手とその番人としての偉大な名声。60年代半ばのSweeney’s Menとしてのフォーク復興運動の率先からプランクシティの商業的大成功を通じてその後の70年代におけるポール・ブレイディとのデュオ、それ以降現在まで続く彼のMozaicの一団に代表されるノージャンルの‘ワールド・ミュージック’へのアプローチ、そしてその数年前にはデイヴィ・スピラーンと共に制作したEast Windのアルバム、これは商業的に成功したかはともかく多大な影響力を持つものであり、アーヴァインは連綿と続くアイリッシュ・ミュージック界において常に第一線に身を置いてきた。一方ではジョニー・モイニハンはメンバー中、常にシーンの中でコンスタントな活動を続けてきた唯一のスウィーニーであり、バンドの相反する最も純粋で崇高な、素晴らしい才能を具現化してきた。そして今なおアイルランド周辺において地味ながらもコツコツとギグを続け、通の間では畏敬の念を持って慕われている。とまれアンディ・アーヴァインの21世紀におけるスウィーニーズ・メンの伝説、真価、遺産を語る上では、最高のヴォーカリストであり間違いなく筆頭格である。

1942年ロンドンで母と姉(妹)が俳優であるアイルランド人家庭に生まれ、アンディは8歳の時どういうわけかGina Lollobrigidaの映画A Tale Of Five Citiesに出演した(以来彼はそのビデオを探し続けている)。さらなるTVでの子役とラジオ出演によって、ロンドンとダブリンでプロとしてラジオの仕事を持つことになったが、俳優としての自信の喪失と音楽に対する情熱の高まりは、一つの扉を閉ざし時満ちてもう一つの扉を開けることとなった。アンディは50年代後半のスキッフル・ブーム以来音楽に心を奪われ、そのレパートリーのオリジナルを追い求め、ハリー・スミスの独創性に富んだAnthology of American Folk Musicと共にウディ・ガスリーの珍しいエキゾチックなレコードを探し出すことに躍起になっていた。ロンドンに住んでいた頃には、ランブリン・ジャック・エリオットらの手助けをしていた。彼はまた誰であろうジュリアン・ブリームその人にギターのレッスンを受けていた。実はブリームは家族の友人であった。

ブリテンでのスキッフル後の‘フォーク・リヴァイヴァル’において急速に増え出したクラブ・シーンに比べると、60年代初頭のアイルランドは、ほとんどフォークに関しては未発達であった。ショー・バンドがコマーシャルなライヴ・ミュージック・シーンを支配し、それらは激しいカントリーとポップスそして寸劇をアイリッシュ的にミックスした独特なものであった。一方クランシー・ブラザースのような者たちによる‘バラッド・ブーム’はしっかりと定着した要素であり、アーヴァインや他の同じ志を持った者たちから見れば、ダブリン周辺で見たそれらはいくらか芝居がかったように映っていた。しかし1962年に体験した驚嘆すべきそれらの出来事は彼のよりどころとなる。

ジョニー・モイニハンと知り合いになってから二人で通った、60年代初頭例年行われた‘フラー’((fleadh:アイルランド(ケルト)の音楽・映画・文化の祭典))には必ずしも共感したわけではなかった。‘僕はトラディショナル・ミュージシャンたちが僕らの町のビートニクを好感を持って見ていたとは思わないね。’アンディは回想する。‘僕らは楽器を演奏する若いビート族で、多くの人たちは批判的に見ていた。僕らは飲んだくれだったしね・・・’

1965年までにはアーヴァインと仲間たちは、アイリッシュのレパートリーと同じくらいブリテンやアメリカン・フォークを素材に演奏していた。モイニハンの新しいガールフレンド、イングランドの‘リヴァイヴァル・シンガー’で、トピック・レーベルのアーチスト、アン・ブリッグスもその仲間であった。彼らはほとんど文無しであったが、ダブリン(コーヒー・キッチン、アビー・ダヴァーン、エンバンクメント、ネプチューン・ローイング・クラブのような会場)で時々ギグをやったり、町に芽吹きつつあったアンダーグラウンド・フォーク・シーンの中心、オドナヒューのパブでただでスープをもらったりしていた。しかしアンディは以下のように記している。‘僕らは人々のためにいわゆる正しい歌は歌わなかったし、彼らが期待するような格好は絶対にしなかったんだ。エンバンクメントでのあるギグで覚えているのは、ジョニーとアンディと僕は聴衆からビールのコースターをたくさん投げつけられて、演奏を短時間で切り上げなければならなかったこと。あと女性用トイレで、僕のガールフレンドとアン・ブリッグスが女の襲撃に出くわして脅迫を受けたんだ。僕らは急いで退散したよ。’

1965年暮れ、アンディと友人のEamonn O’doherty(後に最初のSweeney’s Menのマネージャーとなる)は、ヨーロッパにバスキングの旅に出た。アンディが翌年もう一人の友人から知らせを受け取った時、彼らはデンマークにいたのだが、その友人ジョー・ドーランが彼らに加わり、ゴールウェイのホテルで夏の間中ギグを行なった。3週間後、急いで戻ってきたときの事をアンディは簡潔に思い出す。‘ドーランがホテルのオーナーといさかいがあったことを僕らは知らされてなかったんだ。’ジョニー・モイニハン―当時ロスコモン(アイルランド中部)近くで建築製図工として働いていたが、その頃ギリシャの弦楽器ブズーキをアイリッシュ・ミュージックに適応させることに興味を持っていた(今ではブズーキはしっかりとアイルランドに定着している)―は二人に対してゴールウェイでの素晴らしい夏をむだにしないよう説き伏せ、彼を仲間に入れて彼らの音楽を田舎周辺に広めようと説得した。

彼らの名はフラン・オブライエンの本とマネージャーのEamonn O’doherty、様々なガールフレンドと取り巻きによってSweeney’s Menとなり、彼らは1台の古いヴァンを購入した。‘そのどこかのある地点で僕らはプロのミュージシャンになったんだ。’夏が至福の時だったとすればダブリンに戻っての冬は辛いものだった。三人はそれでもドーランの古い友人だったデス・ケリーを強く印象づけ、人気のあったCapitol Showband(一時期ドーランもメンバーだった)のリーダーが次のマネージャーとなった―その男は当時の地味なアイルランドの音楽業界で影響力を持っていた。デスがエレクトリック・ベースを担当し、Eamonn Andrewsのダブリンにあったスタジオで3曲がレコーディングされた。‘Old Maid In The Garret’、‘The Derby Ram’そして‘Sullivan’s John’だ。最初の2曲はアイルランドのパイ・レコードからデビュー・シングルとしてリリースされた。3曲目―三人ともベストと評していた―は、2度と日の目を見ることがなかった。シングルはアイリッシュ・チャートで6位に達したが、ほどなくドーランが去っていった・・・イスラエルに向けて・・・‘六日戦争(第3次中東戦争:1967年6月5−6日のアラブ・イスラエル戦争)の始まりで彼はイスラエル支持にまわったんだ。’アンディはいう。‘土曜の安息日という幸運な日にふさわしいドーランはやってきたんだけどね!’

パイ・レーベルの成功したグループであったジョンストンズ(より洗練されたフォーク・アンサンブルを聞かせた彼らの重厚なハーモニー・サウンドは70年代を通じて不変であった)のポール・ブレイディはグループの加入を丁重に断ったが、2回のショーで代役を務めた。唯一人受け入れられる選択肢として存在したのが、12弦ギター/バンジョー・プレイヤーのテリー・ウッズだった―後にスティーライ・スパン、ウッズ・バンドそしてポーグスのメンバーとなった人物だ。彼は当時アパラチアン・ミュージックに強く影響を受けていた。ダブリンの酒宴ソング、‘The Waxie’s Dargle’は、男たちの乱暴なコール・アンド・レスポンス付で次のシングルとしてレコーディングされ、アイリッシュ・チャート2位に上がるヒットとなった。

一時人気のあったビートニク周辺の音楽としてのアイルランドの‘バラッド・ブーム’は、ダブリナーズのUKトップテン・ヒット‘Seven Drunken Nights’によってピークに達した。そして同年、グループは水玉模様のシャツを着てショー・バンド・ダンス・ホールでプレイを始めた。ダンスの間の30分で50ポンドという魅力的なギャラであった。アンディは回想する。‘当時としては破格のギャラだったけど、引き受けた中では一番ひどい仕事だったね!2000人の客のうち半分は酔っ払って、わめいたり叫んだりしていた。リード・シンガーは周りのメンバーの音を聞き取るのは容易じゃなかったね!ウェックス・フォード(アイルランド南東部)のギグでは、“The Old Maid In The Garret”を歌ったんだけど、全12ものキーをはずしてしまったよ。思い出すだけで冷や汗もんだね。’

ウッズが加入して間もなくデス・ケリーが去り、二人のダブリンのビート族、ロディ・ヒクソンとジェリー・マクダナウがマネジメントの位置に収まり、英国のイカしたフォーク・レーベル、トランスアトランティックとのアルバム契約を画策し始めた。その結果1968年春、グループは―‘丸一日’を使って―トランスアトランティックで自らの名を冠したデビューLPをレコーディングした。実質、一発録りのそのレコーディングのプロデューサーは、以前アン・ブリッグス、バート・ヤンシュ、マーチン・カーシーそしてウォーターソンズを手がけていたビル・リーダーが務めた。全体に渡ってブリテン、アイルランドそしてアメリカのトラディショナルもしくはそれに近いマテリアルで構成され、ヴォーカルはアーヴァインの洗練された唱法にウッズの泥臭くしゃがれた声がバランスを取り、それにモイニハンの極めて特徴的なヴォーカルが絡み、いうなれば人の心を引きつけずにおかない物憂げなケルティック唱法だ。

Sweeney’s Menは度々ブリテンとアイルランドにおけるフォークロック・ムーヴメントのルーツとして引き合いに出されるが、実際のところそれはアンディが去った後、より顕著となった。アンディの貢献として第一に挙げられるのはとりわけファースト・アルバムにおける有名な‘Willy O’Winsbury’の‘創作’だ。これはたまたま起こったミスが原因であるが、彼が手書きのフォークソングの歌詞に他の曲のメロディを乗せてしまったことによるものだ。その‘新しい’歌はフォークロックの重要なレパートリーとなり、そのメロディはフェアポート・コンヴェンションの1969年の名作Liege & Lief収録の‘Farewell, Farewell’に引用されることになった。アルバム収録の2曲のうちシングルのA面になったのが、モイニハンがヴォーカルを取る‘Sullivan’s John’の再レコーディング・ヴァージョンだ。以前のグループのヒット曲であるが、あるいはこれはトランスアトランティックがシングル・ヒット・レーベルとしては向いていなかったことを証明しているのかもしれない―英国ではヒットせず終いであった。

アルバムがリリースされるずっと前にアンディは他のメンバーにいっていた―時代精神において一つの試みが何10年にも渡って彼の創造性に火をつけることになる―彼は東ヨーロッパへの無期限の一時滞在へ向かうことを。ダブリンのリバティ・ホールでの最後のギグでは前半がアーヴァインのいるラインナップ―ダンス・ホール・シャツにベストという出で立ち、後半が新しいレパートリー、新しいステージ衣装そして新しいメンバー、ヘンリー・マッカロウの紹介であった。

ロリー・ギャラガーに次いでマッカロウがそれまでの何年間かアイルランドで最も熱いギタリストであった。彼はその時ジミ・ヘンドリックスとの北米ツアーでのドラッグ所持逮捕によって、在籍していたバンドEire Apparentを抜けツアーから放り出され、ダブリンに戻ってきていた。このことは今ではSweeney’s Menの伝説的側面である―エレクトリック・ギターを弾くマッカロウが在籍したのは68年夏のほんの3ヶ月で、ケンブリッジ・フォーク・フェスティヴァルで旋風を巻き起こし、BBCのラジオ・セッションとRTE(Radio Telefis Eireann:アイルランド国営放送協会)のテレビ放送があったがどちらも現在所在不明だ(二つのBBCラジオ出演とともに)。

一方当時メンバー全員がバンドのエレクトリック化を強く望んでいたが、それに相応しいPAシステムの欠如によってはばまれ、アイルランドに戻ってからのグループの評判の低下によって、いずれにせよそれは失敗に終わってしまった。バンドにやりがいを感じていたマッカロウはその状況に苛立ちを感じていたが、ジョー・コッカーのグリース・バンドへの参加を請われ、その話に乗ることにした。コッカーの‘With A Little Help From My Friend’を聴き、その誘いに乗らない手はないと思ったモイニハンは友好的にマッカロウに同意した。その結果ヘンリーはジョー・コッカーのグリース・バンドの一員となり、唯一のアイルランド人としてウッドストックに出演した。一方ジョニーとテリーはその後少しの間ポピュラー系の歌手、アル・オドンネル(アーヴァインは‘忘れ去られたスウィーニー’として愛想よく言及する)とあまり相応しいとはいえない接触をし活動を続けたが、デュオとしてやっていくのは困難であった。

二人はその時イングランドで生活していた。ジョニーはアン・ブリッグスとサセックスに、テリーはロンドンでメロディ・メーカーのライターとフラットで共同生活をしていた。69年の夏、事態が緩やかに動き始めた。テリーはダブリンでフィル・ライノットのシン・リジーの前身バンド、Orphanageでプレイする機会を得た。一方ジョニーは東ヨーロッパにいるアンディを訪ねてふらりと旅に出た。2枚目のSweeney’s Menのアルバム、The Tracks Of Sweeneyはそれでもデュオの形でその年長い期間に渡ってセッションが行なわれレコーディングされた。そのアルバムは単に、より冒険的なサウンド・プロダクションにとどまらず、明らかにプログレッシヴな‘acid folk’的傾向のあるオリジナル・ソングに重点が置かれていた。ジョニーの‘Standing On The Shore’(しばしば間違われてトラディショナルとクレジットされることがある)とテリーの‘Dreams’(テリーのウッズ・バンドで再録されることになる)は、ドラッグ臭が漂い、ピンク・フロイドのファースト・アルバムのようなサイケデリックなナンバーだ。依然アーシーで基本はフォークであるが。‘Hall Of Mirrors’と‘A Mistake No Doubt’の2曲もヘンリー・マッカロウとの共作として実を結んだ。

まだモイニハンと恋仲にあったアン・ブリッグスとゲイ・ウッズ―テリーの妻でスティーライ・スパン、ウッズ・バンドそしてAuto Da Feのシンガー―はアーヴァインの去ったあとのグループの時代に度々グループと行動を共にしていた。モイニハンはその時グループとして、二人のどちらとも一緒にレコーディングしておかなかったことを後悔している。それでもその年、1969年6月にブリッグス自身はジョン・ピールのBBCラジオ・セッションで、‘Standing On The Shore’と‘Sullivan’s John’をレコーディングした。後者は彼女のサードで最後のアルバム、Sing A Song For You(1973年録音だが日の目を見たのは1997年)で、激しいエレクトリック・バンド付で再演された。一方前者は彼女のセカンドThe Time Has Come(CBS, 1971)に収録された。またそのアルバムにはスウィーニーズ時代にマッカロウが書いた‘Step Right Up’と彼女のオリジナル‘Tangled Man’が入っていた。もしかするとこの‘Tangled Man’は、その時関係が終わってしまったモイニハンに向けた抒情詩かもしれない。もうひとつのブリッグスとモイニハンの関係を示すのが、彼女のデビューLP、Anne Briggs(Topic, 1971)に収録されたモイニハンの名演である‘Willy O’Winsbury’のアン・ヴァージョンだ。

アーヴァインは冒険心以上の理由は特になかった東ヨーロッパへの旅へ向かっていた。‘僕が思うに・・・’彼はいう。‘そのヨーロッパの東半分っていうのは、常にどこかに向かって放浪しているようなものなんだ。たいていは、もちろんインドかそれより向こうだね。ビートルズ、マハリシ、ドラッグ全てが流行っていた(ちなみにアーヴァインはドラッグ常習者ではなかった)。僕は辛抱強い自分のガールフレンド、ミュリエルを無理矢理引っぱってブルガリアとルーマニアに行ったんだ。’二人はバルカン諸国を約半年間旅して回り、デンマークでいくつかギグを行なった後ダブリンに一時帰国し、ジョー・ドーランの結婚式に出席した後、彼らも結婚した。その後再びバルカンの暗い森に戻り、そこで音楽の深遠さに触れることになった。アーヴァインの、ギターからよりエキゾチックなマンドーラ、ブズーキそしてハーディ・ガーディへの移行は、その後のプランクシティのサウンドを決定づけることになり、さらに長くキャリアに渡って心酔することになるバルカン・ダンス・ミュージックのその夢中にさせるようなモードと拍子記号は、この時期に帰すことができる。‘僕らが1969年に故郷に戻った時には多くのことが変化していたんだ。’彼はいう。‘僕はスウィーニーズ・メンに戻ることを切望していたけど、もうグループは潰れかかってて、ジョニーとテリーは互いにほとんど口を利かなかったよ。’

アンディがヨーロッパから戻ってきた時、フェアポート・コンヴェンションの創設者でベース・プレイヤーのアシュリー・ハッチングスがモイニハンとウッズに接触してきた。彼はSweeney’s Menのファースト・アルバムのラインナップで新しいグループを結成しようと考えていた。その目的はフェアポートのLiege & Lief(Island, 1969)をよりいっそう強くしたフォークロック的方向の完全実現にあった。二度の試験的なリハーサルを行なったが、アンディが初めて披露した素晴らしい‘Autumn Gold’はハッチングスによって‘あまり重要でない作品’と見なされてしまった。モイニハン―この時彼はウッズと一緒に過ごすのも苦痛になっていた―は、見せかけではあるが首尾よく言いつくろってエレクトリック・フォークのアイデアが好きではないこと、自分は辞退することを表明した(モイニハンはこういった猿芝居的なやり方で当時キング・クリムゾンへのアイルランドからの回答といわれたSkid Rowのコンサートとレコードにゲスト出演していた)。アンディはジョニーがいないのなら参加したくはなかったし、それは結局ゲイとテリー・ウッズがハッチングスとイングランドのフォーク・デュオ、マディ・プライア&ティム・ハートと共にスティーライ・スパンを結成し、見事なデビュー作Hark! The Village Wait(RCA, 1970)をレコーディングするという結果に落ち着いた。この二つのデュオ間のとげとげしさがグループをばらばらに引き裂き、ウッズ夫妻が脱退する前のことである。

ゲイとテリーはアイリッシュの破壊主義ヒッピー・バンド、ドクター・ストレンジリィ・ストレンジ―アイランドでの1971年のアルバムHeavy Pettingではアーヴァインとモイニハンがゲストで参加―のメンバーとして短期間のツアーを続けた。その年の暮れ、グリニッジ・グラモフォン・レーベルで素晴らしいフォークロック・アルバムをレコーディングするウッズ・バンドを結成する直前のことである。しかし金銭的重圧がバンドにのしかかり、二人はアイルランドに戻ることになった。ジョニー・モイニハンの計らいによって二人はミーズ州にコテッジを借りることになった。ゲイとテリーは70年代終りに別れるまでソフト・ロック・デュオとして、ポリドールとロックボロウから4枚のアルバムを発表した。そしてそれぞれは様々なシーンでレコードを作り続けていくことになる。90年代後半、スティーライの再結成コンサート(テリー以外の元メンバーが勢揃いした)に続いてゲイは、パーマネント・シンガーとしてバンドに再加入し、スウィーニーズが呈示したヴァージョンで、生きいきとした‘Old Maid In The Garret’のレコーディングさえ行なったのである。それは彼女が復帰してからのニュー・アルバム、Time(Park, 1995)に収録された。

モイニハンとアーヴァインのその後の歴史は、ピート・フレイムの‘rock family tree’を大いに必要とする。つまり1972−1975年にかけて(1978−1983年にも再結成)アーヴァインはプログレッシヴ・アイリッシュ・フォーク・グループ、プランクシティのメンバーとなったことだ。プランクシティはいわゆるフォークロックではなかったが、アイルランドの若者たちの間で絶大な人気を誇り、彼の偉大なキャリアとなるメンバー、クリスティ・ムーア、ドーナル・ラニーそしてリアム・オフリンを擁することになるその基盤を築いていた。モイニハンもまた70年代初めの短期間、プランクシティのオリジナル・メンバーとして在籍した(1974年のポリドールからのアルバム、Cold Blow & The Rainy Nightでラニーと交代した)。なるほどそれはほとんどジョンストンズでのポール・ブレイディのスタンスとそっくりだ。彼のプランクシティのメンバーとしての立場は、Sweeney’s Menではレコーディングされなかったコマーシャルな側面を保持していた。

以上のことは、この25年間ツアーやレコード上において考えられるあらゆる組み合わせが絡み合ってきたものだ。1982年アイルランドの2日間のフェスティヴァルで、Sweeney’s Menがアーヴァイン/モイニハン/ウッズというラインナップで一時的に再結成された。Crusheen, Clareのパブでのアマチュアぽい雰囲気で行なわれた素晴らしくリラックスしたショーがレコーディングされたが、これは多くの人が聴く価値のあるものだった。1986年、伝説的な‘仕掛け人’でロックの広告塔であるBP Fallonがそれぞれメンバーたちに、モイニハン/ウッズ/マッカロウの布陣での一度限りの再結成を持ちかけ、RTEラジオ・セッションでいくらか荒削りなライヴを実現させた。

控え目で一時的なリユニオンが今日まで繰り返されてきた。中でも最も驚きなのが、アーヴァインとマッカロウが90年代初め、コーク(アイルランド南西部)で同じ番組に出演し一緒にライヴをやろうと合意したことだ。最近では2001年あたまにモイニハンとマッカロウが閑静な北アイルランドの沿岸地域、Ballycastleの町でシーズン・オフの月曜の晩にプレイし、一方アーヴァインとモイニハンは共にその年の8月、ゴールウェイの様々なジャンルのアーチストが集まるフェスティヴァルに出演した。その雰囲気はIrish Timesの後となっては、ほとんどそうならざるを得ないようなものであり、二人はそれぞれ偶然か否かそのイヴェントのためにソロ・パフォーマーとして5つの出演契約を結び、続いてSweeney’s Menの再結成が宣言され、ファースト・アルバムの曲がその時の素晴らしいトリオによって演奏された。そして興味深いことにジョー・ドーランが聴衆の中にいた。

テリー・ウッズは数年間、大酒飲みの歌うたいバンド、ザ・ポーグス(1987−94)で過ごし、その後活発にその才能を発揮していった―90年代後半の一時期、若いアイリッシュ・ロック・バンドのマネジメントやアドヴァイスをしたり、新生ウッズ・バンドを結成したり、一時的なポーグスの再結成コンサートに参加した。2003年に発表されたMusic From The Four Corners Of Hellは新生ウッズ・バンドのファースト・アルバムだ。その音楽的方向性はあるいはポーグスをよりプロフェッショナルにしたものとしてベストかもしれない。

ヘンリー・マッカロウはおよそ20年間に渡るツアー生活で少し燃え尽きたように80年代半ば、北アイルランドに戻ってきていた。しかし彼の音楽的功績(少なくともウィングスのメンバーとしての2年間を含めて)はあまりに多大であり、苦難の10年間の中でキッチン・ナイフによる事故でキャリアを絶たれたことがあったにせよ、その潜在的可能性は決して死んではいなかった。以来彼はアイリッシュ・ロックの生き証人としてその地位をゆっくりと立て直し、ライヴにおいてその能力を再び発揮し始めた。2003年リリースのソロ・アルバムUnfinished Businessは、それに数年先立つ一握りのリリース後であり、真に重要な作品である。彼は現在も英国中をツアーして回るアーチストとして世間の注目を浴び続けている。

アンディ・アーヴァインは近年において年々高まる当時を思わせるソングライティングやステージングにもかかわらず(今のところの3枚以内のアルバムでレコーディングされた‘My Heart’s Tonight In Ireland’を呼び起こすような曲を始め)、Sweeney’s Menの本当の再結成は見通しとしてはあり得ないことのように思えた。モイニハンの有名なレコーディング嫌い―これが彼のレア音源と伝説を高めるのに一役買っている―そしてアーヴァインの有名な音楽ビジネスに対する反発がそれぞれソロとして世界中をツアーすることを促し、それが再結成への障害となっていることは明らかだ。ウッズとモイニハンの間に昔からあった憎悪(基本的に保守的な性格上の違いであり、ゲイとテリーの一風変わった夫婦間ではゲイを際立たせる方向に働いたが、不幸にもこの場合は傾向の違う奇人同士であった)は、この段階においては決定的なものとなっていた。それに対しマッカロウは大体こだわりのない、人生に対し柔軟な姿勢を持っていたが、これがモイニハンを苛立たせ、前述のBallycastleでのギグで携帯電話を使って舞台に呼び寄せた事件につながっている。ジョー・ドーランに関しては― 一見County Clareで画家として質素な生活を追及しているようだが―彼は60年代を不快に思い不信感を抱いていた。このことで彼が現在の音楽産業の方法論に対して、どんな思いを持っているかは容易に想像できるだろう。

そしてまさにこの点については、アンディ・アーヴァインが示したように、Sweeney’s Menの最初期のラインナップでの再結成はレコード上ぐらいなら起こりうるかもしれないということであった。結局のところそれはオリジナル・プランクシティとして、アンディ・アーヴァイン、ドーナル・ラニー、クリスティ・ムーアそしてリアム・オフリンが20数年を経て一堂に会し、2004年2月ダブリンでの熱狂的なコンサートとして実現したのであった。そのほんの1年前、アーヴァインはポール・ブレイディとダブリンのコンサートとアイルランド・テレヴィジョンのために集まりバンドを結成し、ブレイディの1978年のアルバム、Welcome Here Kind Strangerをレコーディングしたばかりだった。人気のある彼らにとって再結成は結局のところそれほど難しいものではないように思われた。少なくともアーヴァインは―現在のライヴでの新曲、トラディショナルなアレンジの素晴らしいクォリティにもかかわらず―次の久しく待望されるリリースは、自分のキャリアを振り返ったものになることを示唆した。そこに妥当性があるとすれば、それは彼の芸術的才能の無二性、一連の首尾一貫したクォリティそして影響力の幅広さへの注目を大きく集めることになるだろうということだ。

‘もし僕がミュージシャンじゃなかったとしたら文書館員になってただろうね。’彼はいう。‘誰も聴いたことのない古いテープと78回転のレコードでいっぱいになった大きな貴重品保管室を歩き回るのが一番の望みだ。2番目の望みはちょっとSpinal Tap(?意味は脊髄穿刺)ぽいけど、それらのレコードをパッキングして送って小切手を受け取ること!でも僕は歴史の一部ではいたいね。音楽的ムーヴメントの創始者として記憶される人間にはなりたい。僕が死んでから子供たちが20年間印税をもらえるのならとてもハッピーなことだ―もし僕が20分後に印税をもらえるならさらに嬉しいけどね!

曲目解説

ところで一方キャッスル/サンクチュアリ以前の、スウィーニーズ・メンのアルバムを2オン1にしたCDでは、パイに残した4曲のシングルのうち1曲が収録されていた。今回は‘Old Woman In Cotton’が残る3曲のうちの1曲として初お目見えだ。また1966−68年の間にパイとドルフィンに残した5曲を集めた。これは様々なメンバーが出入りしていたCapitol Showbandの名の下で発表された。メンバーはデス・ケリー、ジョニー・ケリーそしてパディ・コールだ―スウィーニーズ・メンに全面的あるいは一部分に参加(アンディ・アーヴァインの記憶でさえ正確ではないことは大目に見ていいだろう)、あるいは全ては‘Old Maid In The Garret’に先立つものである。一般リスナーの混同を避けるという単純な理由から我々はCapitolsのレコーディングをディスク1の終わりにもってきた。

アンディ・アーヴァインの確かな記憶によれば、彼とジョニー・ドーランが‘Streets Of Baltimore’でギターを弾き、この曲はアイリッシュ・チャートで3位になった。B面の‘McAlpine’s Fusilers’がよりはっきりとスウィーニーズ・サウンドになっている(あるいはモイニハンが参加していたのかもしれない)。ジョニー・ケリーのヴォーカルをフィーチャーした‘Black Velvet Band’は、ショーバンドのシングルとしてはアイルランド史上最も売れたシングルとなり、8週間1位の座を守った。B面の‘The Nightingale’と共にスウィーニーズ・メンのメンバーがフィーチャーされていた。続く一連のシングル、‘Sorry ‘Bout That Chief’/‘Peggy O’Neill’は、Capitolのメンバー、ドン・ロングがフィーチャーされ、スウィーニーズは誰も起用されなかった。しかし次のシングル(パイではなくダブリンの新興レーベル、ドルフィンから)ではスウィーニーズが起用された。Paddy Cole & The Capitol Showbandとクレジットされた‘Bottle Of Wine’は、同時期トム・パクストンに好んでカヴァーされた曲で、これがスウィーニーズ・メンのメンバーをフィーチャーした最後のCapitolのリリースとなった。1968年に発表されたこの曲は、アイリッシュ・トップ10には至らず、事実上Capitolのレコーディング・キャリアの最後となった。B面の‘Creole Jazz’はパディ・コールをフィーチャーしたインストゥルメンタルで、スウィーニーズの参加はない。

ディスク2はいろいろな形で膨らませる余地があったが、私の知る限りスウィーニーズ・メンのラジオやライヴの録音物は残されていなかった。そこでメンバーがずっと後になって関連した多くの様々なレコーディングは言うまでもなく、グループ消滅後2年間に彼らの仲間たちが残した音源を収録した。1975年にレコーディングされたアンディの‘Autumn Gold’(彼がマリガン・レーベルに残した名高いアルバム、Andy Irvine & Paul Bradyもそうであるが)はスウィーニーズ時代真っ只中、彼のバルカン諸国時代に書かれた曲だ。そして1曲は1969年失敗に終わったスティーライ・スパンのアシュリー・ハッチングスのスウィーニーズ・メン再編構想のためのリハーサルで演奏されたものだ。これがディスク2のあたまに相応しいと思われた。そこではアンディの創造性(当時未レコーディングだった)が、テリーとジョニーがThe Tracks Of Sweeney(スウィーニーズのセカンド、ラスト作)で共に試みていたのと同時期に彼にも宿っていることが見て取れる。

長きに渡るスウィーニーズの仲間、アン・ブリッグスとジョニーの参加は、ある1曲のレコーディングで今も生き続けている。1970年にレコーディングされ、1971年初頭にリリースされたアンのトピックでのデビュー・アルバムにも収録されたアンディの見事な編曲となった‘Willie O’Winsbury’だ。ジョニーはここでセカンド・ブズーキを弾いている。気まぐれではあるが、不思議と魅力的な演奏だ。前述したとおりアンは‘Sullivan’s John’をレコーディングした―間違いなくジョニーのアレンジを手本としている。彼女はこの曲の作者でアイルランド人の旅人、ペッカー・ダンも知っていた―スウィーニーズ時代のBBCセッションであるが、彼女はまた1973年にも注目すべきパワフルなヴァージョンでレコーディングしている。エレクトリック・フォーク・バンド、Ragged Robinと共に制作し、お蔵入りとなった彼女のサード・アルバム、Sing A Song For Youだ。スティーライ・スパンの最初のアルバム、Hark! The Village Wait(RCA, 1970)から2曲、唯一のウッズ・バンドのセルフ・タイトルのアルバム(Greenwich Gramophone, 1971)から1曲―両グループともゲイとテリー・ウッズをフィーチャーしていた―これらはロックの時代におけるフォーク・ミュージックの‘進むべき道’を模索した70年代という時代精神が垣間見える。

ゲイとテリーをフィーチャーしていることのほかに、スティーライとウッズ・バンドのそれぞれの3曲はスウィーニーズ・メンと深いつながりを持っている。‘The Dark-Eyed Sailor’はテリーがアル・オドンネルから伝授した曲だ。オドンネルは‘忘れ去られたスウィーニー’であり、彼は1968年秋ほんの短期間グループに在籍したが、レコーディングの機会はなかったのである。‘Lowlands Of Holland’もまた多くの変型ヴァージョンをもつトラディショナル・ソングであり、アンディ・アーヴァインから直接教えてもらい、スティーライがレコーディングしたナンバーだ。一方ウッズ・バンドの‘Dreams’はもちろんフル・バンドでの名演である―アイリッシュ・ギター・ヒーローのエド・ディーンは以前Granny’s Intentionsに在籍した―スウィーニーズ・メンのセカンド、The Tracks Of Sweeneyのためにテリーが書いたこの名曲は、あるいはスウィーニーズ・メンにヘンリー・マッカロウがいた頃、リズム・セクションを加えることが実現可能であるような選択余地があったことを窺わせるかもしれない。

最後にアンディ・アーヴァインの無比なる作家としてのスウィーニーのノスタルジックな日々を、たっぷりと喚起させる二つの話を紹介して終りにしようと思う。‘Baneasa’s Green Glade’は彼の1968年ルーマニア時代のボヘミアン期の思い出の記だ。最初にレコーディングされたのは70年代プランクシティとしてだが、ここにフィーチャーされたヴァージョンはアンディが決定版だとみなす彼の1996年のアルバム、Rain On The Roofに収録だ。‘My Heart Tonight’s In Ireland’はスウィーニーズ・メンの初期の日々に捧げたストレートな賛歌だ。Rain On The RoofのヴァージョンはまたDonal Lunny’s all-star Common GroundのEMIでのアルバムのアレンジに比べて洗練されてはいない。しかしそのヴァージョンがアンディいうところの‘スウィーニーらしさ’!だ。

これらセレクションは話を膨らませるためのいくらかのネタのうちのひとつに過ぎない。熱心なスウィーニーズ・メンの完全コレクターは、以下のものも研究すべきだ。アン・ブリッグスのTime Has Come(CBS, 1971)に入っている‘Step Right Up’、ドクター・ストレンジリィ・ストレンジのファースト・アルバム、Kip Of The Serenes(Island, 1969)に名を連ねたヘンリー・マッカロウの曲、‘Waxie’s Dargle’はスウィーニーズ・メンのコール・アンド・レスポンスに対するサイケデリックなオマージュだ。公表されていないが‘Donnybrook Fair’の中間部分でひょっこり姿を現すものもある:ドクター・ストレンジリィ・ストレンジのセカンド・アルバム、Heavy Petting(Vertigo, 1971)では、実際に二人のスウィーニーズ、アンディ・アーヴァインとジョニー・モイニハンがいくつかのトラックでゲストとして楽器を担当している。ちなみにスキッド・ロウのメンバー、ブラッシュ・シールズとゲイリー・ムーアも参加している(アルバム自体は全体にやや調子はずれで欠点があるが)。スキッド・ロウのデビュー・シングル、‘New Places, Old Faces’(Song, 1969)はどうやらモイニハンがティン・ホイッスルを吹いているらしい。このシングルは信じられないほどレアであるが・・・ ゲイ・ウッズが再編スティーライ・スパンのアルバム、Time(Park, 1994)でレコーディングした‘Old Maid In The Garrett’は、スウィーニーズ・メンのフォーマットにストレートな陽気さを加えてある。

今日までの最新の話をつけ加えると、ゲイとテリー・ウッズは北アイルランドのシンガー、ジャネット・ホームズのアルバムのために私自身のプロデュースによって、‘Dreams’の再レコーディングでそれぞれ素晴らしいハーモニー・ヴォーカルとシターンを加えてくれた(The Road To The West, Market Square 2004―その曲はこのアルバムに入っているが、ゲイとテリーがフィーチャーされたヴァージョンは最終的には使用されなかった。しかしうまくいけばウェブ・サイト経由で入手可能だろう。www.janetholmes.com)。最後に。アンディ・アーヴァインの偉大なる伝記は未だ枯れることなく進行形である:2004年3月、彼はダブリンでのコンサートで初めて観衆の前で新曲を披露した(またここでは元々モイニハンによって歌われていた‘Johnston’がグループの新しいアレンジで演奏された)。そこには強く胸を刺すような、そして愉快な―スウィーニーズ・メン時代の再来を思わせるかのような彼の音楽活動の長い道のりや出来事が語られていた。それは真に伝える価値のあるものであり、グループの影響力とその基盤は今も生き続けているのだ!

コリン・ハーパー、2004年4月

スウィーニーズ・メンの全ストーリー、かつてのメンバー、マネージャー、そして同調者たちのインタビューの多くはコリン・ハーパーとトレヴァー・ホジェットによるIrish Folk, Trad & Blues:A Secret Historyに記されている。なおこれは2004年10月にコリン出版(アイルランド)とオムニバス/シャーマー(英/米)から出版された。

サンクチュアリの飲酒オーケーのテープ貯蔵庫担当のRichard Jaskeran、‘ワイン・ボトル’を持ってやって来たDavid GaffneyとJohn Murphy、それを取り寄せたFrancis Kennedyに感謝する!アイリッシュ・ショーバンドと60sビート・グループに関しては、フランシスの素晴らしいウェブ・サイトで見ることができる。


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