Welcome to my homepage


Strawbs/Grave New World/1998 A&M Records Ltd 540 934-2



ザ・ストローブスは70年代を通じて世界的に知られたグループだった。彼らは1970年代の10年間に3枚のUKヒット・シングルに加えて、9枚のLPをUKチャート、あるいはUSチャート(または両方)に送り込んだ。ストローブスは当時のブリティッシュ・バンドの中で間違いなく独特な存在だった。彼らはブルーグラス、フォーク、プログレッシヴ・ロック、そして時には(短期間であったが)グラム・ロック・ムーヴメントの一員としても見なされ、多様な音楽スタイルを探求し成功に導いていった。重要なボーナス・トラックが追加されたこのリマスター・リイシュー(UKチャートで2番目に成功したアルバムであり、USチャートに初めて入ったアルバム)は、ストローブスの創設者でリーダーのデイヴ・カズンズ参加のもと、進められたものだ。

まずは簡単に彼らの歴史から:ザ・ストロベリー・ヒル・ボーイズは1960年代中頃、カズンズ(ヴォーカル、バンジョー、ギター)とトニー・フーパー(ヴォーカル、ギター)によって、ブルーグラス・デュオとして結成された。彼らはロンドン南西トゥイッケナムの学校仲間だった。ダブル・ベース(コントラバス)・プレイヤーのロン・チェスターマンを加えた彼らは、グループ名をストローブスに短縮し、カズンズはブルーグラスの限定的な魅力を越えたオリジナル・ソングを書き始めた。シンガー/ソングライターのサンディ・デニーが加わり、彼女がフェアポート・コンヴェンションへと去っていく1967/8年の数ヶ月間に、彼らの人気は徐々に増していった。デニーを迎えたグループはデンマークのソネット・レコーズでデビューLP‘All Our Own Work’を吹き込んだ。この時点でデイヴ・カズンズはブリテンの主要なフォーク・ギタリストの一人として見なされていた。それは彼が伴奏を務めた新進の若きアメリカ人(カナダ人)女性シンガー、ジョニ・ミッチェル(彼は彼女の初のUKテレビのレコーディングでバックを務めた)、レナード・コーエン、ザ・クランシー・ブラザーズ(ともに1枚のアルバムを作った)、マリー・トラヴァース(ピーター、ポール&マリー)そしてアーロ・ガスリー(1969年のKeeleフォーク・フェスティヴァルで親しくなった)らによって証明されていた。

間違いなく部分的にはこれらの栄光によってザ・ストローブスはA&Mレコーズ所属の初のブリティッシュ・アーチストとなった(A&Mはハーブ・アルパート&ジェリー・モスによって立ち上げられたアメリカの独立レーベルだった)。しかし彼らの2枚のアルバム、‘Strawbs’(1969)と‘Dragonfly’(1970)はUSでリリースされなかった。後者のLPはすぐにバンドを抜けたが、クラシックの素養あるクレア・デニズ(サドラーズ・ウェルズ・オーケストラの第一チェリスト)と、決定的な存在、リック・ウェイクマンを配置していた。早熟の恐るべき才能を持った若きキーボードの魔術師だ。ウェイクマンはデヴィッド・ボウイの‘Space Oddity’での仕事で巨大なインパクトを残していた。すでにブルーグラスからフォークへと変容していたストローブスは、さらに前進し、ロックへと向かってまっしぐらに進んでいた―これらは全て5年以内の出来事だ!

トニー・ヴィスコンティはA&Mでのストローブスの3枚目のアルバム、‘Just A Collection Of Antiques & Curios-Live At The Queen Elizabeth Hall’をプロデュースした。これは新しいラインナップ及び完全に新曲で固められ、レコーディングされた。ウェイクマンは正式にストローブスに加入し、チェスターマンはすでに脱退していた。代わりにロックのリズム・セクションである後期ヴェルヴェット・オペラのエレクトリック・ベース・プレイヤーのジョン・フォード、ドラマーのリチャード・ハドソンが加入した。カズンズはヴェルヴェット・オペラのことをブリティッシュ・パンク・ロック・グループの原型だと考えている!クィーン・エリザベス・ホールのギグの前に、ストローブスはアコースティック・フォーク・トリオ/カルテットからエレクトリック・ロック・クィンテット(5人編成)へと変身した。‘メロディ・メーカー’はライヴでのウェイクマンを第一面で取り上げ、彼がスターになることを予言し、初のUKアルバム・チャート入りとなったグループのLPは、初の全世界リリースとなった。

1971年の‘From The Witchwood’は同じメンバーで制作され、これもUKアルバム・チャートに入った。3人のメンバーによってバンドは強化され、5人のメンバー全員がソングライターとなり、ウェイクマンが急速に名声を高めていったことによって、グループ内に緊張が生じていくようになった。ウェイクマンはLPに名を連ねていたが、グループがそのプロモートのためにUSをツアーするまでに、彼はイエスに加入していた。彼はストローブスとともに‘From The Witchwood’のレコーディングをしていた間に、イエスとのリハーサルを行なっていた。

デイヴ・カズンズは次のように話す。“僕たちの1972年のアルバム、‘Grave New World’の前に、トニー・ヴィスコンティは大きな影響力を持つようになっていた。彼は武道にハマっていて、僕に‘チベットの死者の書’を読むように勧めていたんだ。僕は‘エジプトの死者の書’さえ読んだよ―それがアルバムのジャケットに反映されてるんだよ!”

“‘Benedictus’はリック・ウェイクマンがバンドを去った時に書いたんだ。僕は彼がちゃんと僕に話してくれなかったことに、特に傷ついていた。僕はよく考えてみるために、デヴォンの実家に戻った。人々は僕らのことを終わりだと見なし始めていたからね。僕は同時に‘I Ching’(易経)にハマっていた。僕はどうすればいいか答えを本に求めて、その答えは歌詞となって反映された。僕はどうしちゃってたんだろうね。ブルー・ウィーヴァーがバンドとともにレコーディングしたのは初めてだった。無理もないことだけど、彼は慎重になってたね―でもその必要はなかった。彼は素晴らしい仕事をした。僕のエレクトリック・ダルシマーのソロは、ファズ・ボックスを通したスチール・プレイだった。のちにサンディ・デニーと結婚したトレヴァー・ルーカスと、アン・コリンズがコーラスで参加した。アンはトニー・ヴィスコンティと知り合いのアメリカ人シンガーだったんだ。僕らはアイランドのスタジオでその曲を録音して、アイランド・レコーズの社長のクリス・ブラックウェルに聞かせた。彼はしきりに僕らと契約したがっていた。でも僕らがすでに受けていた契約金と変わらなかったんだ。T・レックスが大きな成功を収めていたから、トニー・ヴィスコンティはアルバムをプロデュースすることができなくなっていた。でも僕は‘Benedictus’の彼の仕事に対して今でも感謝してるね。これはレコード全体のトーンを示す曲になったから。結局僕たちはエンジニアとしてトム・アロームを迎え入れて、アルバム制作を続行した。”

“‘Grave New World’はゆりかごから墓場までの一人の男の一生のストーリーで、‘Hey Little Man’は自分のまだ若い息子に対する忠告を表しているんだけど、たぶん彼はそのアドヴァイスを聞かなかったんだ!‘Queen Of Dreams’は僕らの初期のツアーでイタリアに行った時にリミニで書いた。リミニは山に囲まれていて、松の林があって、壮大で長い砂浜があったね。松の林の中で僕らはお互いに肩の上に立って、木に登って行って辺りを見回していたよ―まるで僕らは木の上に浮かんでいるようだった。最初のヴァースのギターは、いったん録音してから逆回転再生したものだ―ドラムスは濡れた布きんを使ってミュートしたんだけど、僕らが曲の終わりまで来た時には布きんは乾いてしまってた!僕はそれから数年後に女王に会ったよ。彼女はその時マウイ島に住んでいた。僕はロサンゼルスのホテルのプールで泳ぐなんてどうかと思ってたね。そういった特殊な出来事がストローブスのラインナップに変化をもたらすことになってしまったんだ。”

“僕の考えでは‘Heavy Disguise’がストローブスでのジョン・フォードの最高の瞬間だと思う。その部分はジェスロ・タルの‘The Witch’s Promise’と1,2を争う出来だと思うね。歌詞は物語をさらに展開させていって、ブラス・セクションはすごく重要な働きをしている。その何年か前の復活祭の週末に、僕らはブリタニア・ココナツ・ダンサーズを見るために、ベイカップ(イングランド北西部)で休暇を取ったんだ。彼らは炭鉱で働くためにやって来たフランスの炭鉱労働者の伝統を継承するダンス・チームだ。彼らはトンネルの中を這うために手と膝に木製のパッドをつけていた。そしてダンス・チームは音楽に合わせてそれをコツコツと鳴らすんだ。そのダンス・チームは町のあらゆるパブでブラス・バンド(silver band)の伴奏がついていた。これが僕らのトラックにブラス・セクションを加えるっていうインスピレーションの元になった。アレンジメントはロバート・カービーによるものだった。僕は彼と会うまでに、ニック・ドレイクの最初のアルバムの彼によるストリングスを聞いていた。彼が書いたブラス・パートはすごく難しかったから、僕らはロンドン・シンフォニー・オーケストラの主役級の独奏者にプレイしてもらわなきゃならなかったね。”

“‘New World’はあるテレビのニュースを見たあとに書いた。それはベルファストの子供たちが、芸術の授業で何か絵を描くようにいわれた時に、多くの子供たちが溝で死体になって転がっている兵士の絵を描いたっていうニュースだったんだ。僕は彼らが人間の命に対してどう感じているのか、このまま争いは永遠に続いていくのかを考えさせられた―どうやって終わらせればいいんだ?ってね。‘Brave New World’のコーラスはオールダス・ハクスリーよるアイデアだ。トニー・フーパーが歌う‘The Flower And The Young Man’は、季節の移り変わりをつづった僕のフォーク・ソングの中の1曲だね。このキーボード・サウンドはクラヴァイオリン(clavioline)によるもので、僕が思うにピアノに代わる初期のシンセサイザーみたいなものだ。

“僕は妻が僕に電話をかけてきて‘Tomorrow’(将来)のことについて不満をもらしたのを覚えているから、これは彼女についての歌だと考えていた。でも本当は違ったんだ!今明かすけど、実はリック・ウェイクマンのことを書いたんだ。僕は彼が別れの酒も交わさずにバンドを去って行ったことにすごく落胆していた。もちろん今では喜んで彼のことは親友だといえるよ。でも当時は本当に傷ついていたね。この曲はデヴォンの僕のわらぶき屋根の小さなテラス付コテッジのリヴィング・ルームでリハーサルした。驚くほど田舎だよ。またここで僕は初めてエレクトリック・ギターを弾いた。すごく気持ちよかったね。‘On Growing Older’は、このアルバムのために用意した初期の曲だった。僕はその時、いや、今でもだけどザ・バーズの大ファンで、僕らはあの響きのいいざわざわしたギター・サウンドに挑戦したんだ。”

“トニー・フーパーは僕らのファースト・アルバムのために、‘Ah Me, Ah My’を書いたんだけど、その時は採用されなかった。でもこのアルバムのコンセプトにぴったりだと分かったから収録したんだ。オーケストラ・アレンジを書いたトニー・ヴィスコンティはヴィクター・シルヴェスターや古い英国のダンス・バンドについては何も知らなかったんだけど、レコードを聞いてこの模倣作品を作った。でもそれは信じられないくらい緻密で、彼が創造性を持った傑出したミュージシャンであることを示していたね。僕らはこのアルバムのフィルムを作った。僕が思うにこれが最初の完全なヴィデオ・フィルムで、宣伝ではエマーソン・レイク&パーマーの‘Pictures At An Exhibition’のフィルムといっしょに使われたんだ。この曲のために僕らはブレザーを着て麦わらのカンカン帽を被って最後にエロス像の上に乗っかる。キングス・ロードの映画館で見た時、これほど困惑してしまったことはなかったね―全員大笑いだった!僕はこのフィルムの元ネタを知っているよ。もしかすると時々いわれてることかもしれないけど。

‘Is It Today Lord?’はハドソンが書いた神秘的な1曲で、彼は東洋の音楽と宗教にハマっていたんだ。ブルーはインドのハーモニウムと蛇腹(アコーディオン)とシタールをプレイしている。ブルーは‘The Journey’s End’のメロディを考え出した。この曲がアルバムの最後で旅の完結を意味しているんだ。それはたとえ苦しい人生だったとしても、最後に素晴らしい旅の行程だったことが示される。つまり行き詰まった時に道しるべを発見して、それがよりよい人生を導くことを表している。今の僕はそういうことについては確信を持っていないけれど。‘Grave New World’は僕らにとっての代表作で、UKチャートでトップ10近くまで上がった。スリーヴは三面見開きでブックレットが付いた豪華仕様だった。僕はカヴァーの絵と歌詞によって、ウィリアム・ブレイク(1757−1827:英詩人・画家・神秘思想家)の化身になった。まあ、それはおだてだったんだけど、かなり度を超えていたね。アルバムはストローブスに巨大な恵みをもたらしたし、僕らが本当に成功したことを意味していた。”

今回のCDリイシューには2つのボーナス・トラックが追加されている。‘Here It Comes’はアルバム‘From The Witchwood’と、このアルバムの間に録音されシングルとしてリリースされた。これは最近The Blue Aeroplanesによってカヴァーされた。‘I’m Going Home’もほぼ同時期に録音されたが、お蔵入りとなっていた。デイヴ・カズンズはトニー・ヴィスコンティとともに、マーク・ボランが‘Get It On’をレコーディングしている時にスタジオに同席していた。‘I’m Going Home’はボランに似た雰囲気だ―メインにフィーチャーされているのが、ハドソンの3トラックによるドラムスだ。この曲はデイヴ・カズンズのソロ・アルバム、‘Two Weeks Last Summer’に収録された。バンドはそこでLampoonとしてクレジットされたが、それはデイヴ・ランバートのグループ内でのニックネームだ。これはカズンズのソロ・シングルとしてリリースされた。‘Grave New World’が彼ら初のUSアルバム・チャート入りを果たしたのち、彼らはさらにフォーク・ルーツから離れていったが、それは創立メンバーのトニー・フーパーにとっては好ましいものではなく、彼は去って行くことになった(レコード・プロデューサーになるべく)。

それと同時にハウンズローのカズンズの友人でピート・タウンゼンドのファンだったエレクトリック・リード・ギタリストのデイヴ・ランバートが加入した。その結果、1973年に出た次のストローブスのアルバム‘Bursting At The Seams’は、カズンズによれば、“僕ら初のロック・アルバム”となった。これはさらにUSでの成功を強化し、UKではエルトン・ジョンによる‘Don’t Shoot Me, I’m Only The Piano Player’がヒットした。‘Busting’はグループ最大の2曲のヒット・シングル、壮大な‘Lay Down’とヴォードヴィル調の‘Part Of The Union’をフィーチャーしていた。これらはUKナンバー・ワン・ヒットとなったグラム・ロッカーのザ・スウィートの‘Blockbuster’からはかけ離れた曲調だった。‘Part Of The Union’はジョン・フォードとリチャード・ハドソンによって書かれたが、その後彼らはハドソン‐フォードとして乗り出すためにストローブスを去って行った。またブルー・ウィーヴァーも去って行き、カズンズとランバートは新メンバーを加え、グループを再編し、LP‘Hero & Heroine’をリリースした。これは4ヶ月以上に渡ってUSチャート内にとどまった。

1990年代、ザ・ストローブスは依然デイヴ・カズンズによって率いられ活動中だ(現在の成功はラジオと音楽の結びつきによるものだ)。またメンバーにはリチャード・ハドソンとブルー・ウィーヴァーが戻ってきた。ストローブスは1998年に30周年を迎え、彼らのA&Mでのオリジナル・アルバムの多くがデジタル・リマスターされ、CDリイシューされた(うちいくつかは初CD化だ)。CDにはそれぞれにふさわしいボーナス・トラックと、デイヴ・カズンズの回想によるスリーヴ・ノートが載せられている。

ジョン・トブラー、1998年
デイヴ・カズンズに感謝する



ホームへ