Welcome to my homepage


Strawbs/Dragonfly/2008 A&M Records Ltd. 5302680



1960年代後半は音楽にとって自由な時代だった。ミュージシャンたちは即“ロック”として定義されるような自身独自のスタイルを創造すべく、広範で多様な音楽的影響を受けることができた。この“ロック”ということばは、それ自体シンプルな呼び名であるが、そのスタイルはブルース・ロック、ジャズ・ロック、サイケデリック・ロック、そして独特なブリティッシュ・フォークロック・シーンをも含んでいた。USAではザ・バーズのようなグループがボブ・ディランの音楽をエレクトリック化させ、それは“フォークロック”と呼ばれて歓迎されていた。しかし英国でのフォークロック現象は、アメリカとイギリスのトラディショナル・フォーク・ミュージック両方からの影響を受け、融合させることによって、インクレディブル・ストリング・バンドやフェアポート・コンヴェンションのような独特なグループが生まれることになった。それらと同等に重要で同等に独特だったのが、ザ・ストローブスだ。バンドは1960年代後半から1970年代にかけて、優れて喚起作用ある感動的な音楽を生み出した。それが、“Strawbs”、“Dragonfly”、“From the Witchwood”、“Grave New World”、“Busting at the Seams”、“Ghosts”そして“Hero and Heroine”ら一連のクラシック・アルバムだ。それら全ては真の才能とオリジナリティを示し、フォーク、サイケデリック・ポップ/ロック、そしてプログレッシヴ・ミュージックをカヴァーしていた。ストローブスは世界中に熱心なファンを持ち、今もなおリーダーで創造者であるデイヴ・カズンズによって前線で活動している。

1969年6月にリリースされたストローブスのデビュー・アルバムは、ロンドンのフォーク・シーンをルーツにもつグループの新しい時代を予告していた。デイヴ・カズンズとトニー・フーパーは学生時代からの友人同士であり、1964年までに彼らはロンドン中のフォーク・クラブにレギュラー出演するようになっていた。ザ・ストロベリー・ヒル・ボーイズ(彼らがリハーサルしていたトゥイッケナムのストロベリー・ヒル地区にちなんでいた)として知られていた彼らは、1967年までにダブル・ベース奏者のロン・チェスターマンを迎え入れ、名前を短く改め、ザ・ストローブスとした。その年の夏までにトリオはもう一人のメンバー、類まれなヴォーカリストのサンディ・デニーを加えた。デイヴ・カズンズはロンドンのトルバドール・クラブで初めてサンディと会い、たちまち彼女の大きな才能に魅せられてしまった。サンディ・デニーがストローブスに在籍した時に、グループは最初のレコーディングを行なった。北ロンドンのセシル・シャープ・ハウスで録音された一連のデモは、ダンマルク(デンマーク)・ラジオのDJトム・ブラウンの目にとまった。

彼らの音楽に感銘を受けたブラウンは、そのテープをダニッシュ・レーベルの社長、Karl Emil Knudsenに手渡した。Knudsenはコペンハーゲンでソネット・レコードというレーベルを経営していた。彼はグループと契約することを念頭にザ・ストローブスをさらに聴いてみようと思い、グループをコペンハーゲンに招待し、デンマークのVise Vurs Husで何日かのコンサートを準備した。アルバムのレコーディングは映画館のステージで行なわれたが、そこでのちにフェアポート・コンヴェンションで再録されることになるサンディ・デニーの最初期の名作、“Who Knows Where the Time Goes”が生み出されることになった。デニーのストローブス在籍期間は短かった。グループはイングランドに戻り数回のショーを行なったのち、サンディは1969年5月(訳注:1968年の間違いと思われる)にフェアポート・コンヴェンションに加入するためにストローブスを去って行った。その後、彼女はソロ・アーチストとして称賛されたが、悲しくも1978年に不慮の転落事故で死んでしまった。彼女がストローブスとともに録音した音源は、最終的に1973年にUKでリリースされた。“All Our Own Work”(SHM 813)と名付けられたそのアルバムはホールマーク・レーベルからリリースされ、サンディ・アンド・ザ・ストローブスとクレジットされていた。

イングランドに戻ったカズンズ、フーパー、チェスターマンは懸命にレコーディング契約を探し回った。3人はサンディ・デニーに代わる女性ヴォーカリストを加えようと考え、未来のカーヴド・エアのシンガー、ソーニャ・クリスティーナと一度だけライヴを行なったが、すぐにストローブスは元の3人に戻ってしまった。Karl Knudsenはサンディ・アンド・ザ・ストローブスの音源をロサンゼルスのA&Mレコーズの共同オーナーだったジェリー・モスの元へ送った。彼はその音源を気に入り、“Oh How She Changed”と“Or Am I Dreaming”の2曲をシングル候補として前金を用意することにした。レコーディング・セッションはガス・ダッジョン(トニー・フーパーの以前のハウスメイト)によってプロデュースされたが、彼はまたバンドに一人の若いアメリカ人のアレンジャーを紹介した。ロンドンに到着したばかりのトニー・ヴィスコンティだった。先の2曲はヴィスコンティによるアレンジメントが施された。

地位を確立したばかりだったA&Mはレコーディングに満足し、1968年4月にレーベル初のUKバンドとしてストローブスと契約を交わし、同年6月にその2曲をシングル(AMS 725)としてリリースした。

スタジオ・レコーディングでゲスト・ミュージシャンたちを起用したアプローチはバンドのデビュー・アルバムにも引き継がれた。レコーディングされた音楽は、素晴らしい“Tell Me What You See in Me”、“Where is this Dream of Your Youth”、“The Man Who Called Himself Jesus”が典型的に示すように、フォーク、ポップ、サイケデリアから初期のプログレッシヴ・ロックのスタイルまで様々だった。レコーディング・セッションはまた、未来のレッド・ツェッペリンのベース・ギタリスト、ジョン・ポール・ジョーンズと名高いセッション・プレイヤー、ニッキー・ホプキンスのピアノをフィーチャーしていた。重厚なオーケストレーションが施されたマテリアルは、広い商業ベースに乗ったシングル・ヒットを狙ってレコーディングされたが、すぐにA&Mレコーズとの衝突を引き起こした。レコード会社はアルバムが当時出現しつつあったサイケデリック・アンダーグラウンドの聴衆にアピールすることを期待していたが、実際アルバム用のトラックはビー・ジーズのようなコンテンポラリー・ポップのスタイルを思わせるものだった。A&Mの要請により、ストローブスはデビュー・アルバムをより“シリアスな”音楽スタイルにするようレコーディング・スタジオに戻った。

一方ストローブスはデビュー・アルバムに加えてさらなる仕事にとりかかった。シングル、“The Man Who Called Himself Jesus” b/w “Poor Jimmy Wilson”は1968年11月にリリースされた。しかし不幸なことに、BBCはシングルA面の詞の内容に異議を唱え放送禁止にしてしまった。スタジオに戻ったことでストローブスは初期のクラシックというべき作品、すなわち“The Battle”を創り上げた。これはトニー・ヴィスコンティによる効果的なオーケストラが施された壮大な反戦ソングで、詞はチェス・ゲームになぞらえたものだった。アルバム“Strawbs”は1969年6月にリリースされ大きな称賛を受けた。マテリアルの成熟度と音楽的振幅はアルバム全体を通して一貫して損なわれていない。振り返ってみれば、“Strawbs”は1969年に発表された数々の名盤のうちの1枚といえるだろう。

“Strawbs”がリリースされた同じ月に、バンドは“We’ll Meet Again Sometime”を録音するためにトライデント・スタジオに入った。これはA&Mレコーズからシングルとしてリリースする予定だったがお蔵入りとなった。その作品のクォリティにもかかわらず、ストローブスはUKアルバム・チャート入りに失敗してしまった。まず第1の問題が、アコースティック・トリオではアルバムに収録の大部分の曲をステージで再現できないことにあった。A&Mの重役たちが特定のマテリアルに関してリアレンジと再録音を要請したことは、結局彼らのデビュー・アルバムの予算をかなりオーヴァーしてしまうことになった。しかし評論家の受けがよかったため、A&Mレコーズは予算を厳しく限定したが次のアルバムのレコーディングを承認した。

バンドにメロディックなリード楽器が必要だと悟ったカズンズは、ニック・ドレイクのアルバム、“Five Leaves Left”でプレイしていた才能ある若いチェリスト、クレア・デニズに注目していた。1969年8月、彼は彼女(クレア)をバンドに迎えた。8月25日に放送されたジョン・ピールの“トップ・ギア”のためのBBCセッションでは、“We’ll Meet Again Sometime”と“Another Day”(次のアルバムに収録された)がフィーチャーされていた。

“Strawbs”のレコーディング・セッションでは、デイヴ・カズンズとガス・ダッジョンの間にアルバムのミックスに関して意見の相違が存在した―ガスはデイヴの声をバックに埋もれさせるようなミックスを施していた。彼はファンたちはスリーヴに載っている歌詞を読めばいいと考えていた。カズンズはトニー・ヴィスコンティのアレンジャーとしての才能にいたく感銘を受け、彼にストローブスのプロデュースを手がける気はないかと尋ねた。トニー・ヴィスコンティはレコード・プロデューサーとしての仕事に大いに関心を持っていたため、喜んでその申し出を受け入れた。次のアルバムを予算内で素早くリリースすることを切望していたストローブスは、コペンハーゲンのRosenberg Lydteknikスタジオで仕事にとりかかるため、デンマークに戻った―そこは彼らが以前サンディ・アンド・ザ・ストローブスとして使ったスタジオだった。

ヴィスコンティはバンドに対し、より“生な”アプローチをするよう提案し、より彼らのステージに近い感触を打ち出すよう促した。またデイヴ・カズンズにはクレア・デニズのプレイを前面に押し出した“クラシカル”なスタイルを提案した。“The Weary Song”、“I Turned My Face to the Wind”、“Another Day”そして“Young Again”のようなトラックは、全てそれが見事に具現化されたスタイルだ。またダニッシュ・セッションではBjarne Rostvoldのドラムスをフィーチャーしていたが、それは彼らにドラマーがいないとしても本質的にストローブスのライヴを再現したものになっている。さらなるオーヴァーダブのために、彼らはロンドンのトライデント・スタジオに戻った。

ニュー・アルバムのハイライトがデイヴ・カズンズの“The Vision of the Lady in the Lake”だった。これはアーサー王伝説からインスパイアされた素晴らしい10分間の大作だ。振り返ってみれば、デイヴ・カズンズの方向性はストローブスの続く3枚のアルバムに渡って引き継がれ、その特徴として壮大でダイナミックな曲の構成を有していた。ポール・ブレットはエレクトリック・ギターをオーヴァーダブし、傑出した才能で知られた若いキーボード・プレイヤーが加入し、ピアノを加えた。

リック・ウェイクマンはロンドンのロイヤル音楽アカデミーの学生で、ロンドンのシーンで名を揚げた大きな才能と想像力を持ったキーボード・プレイヤーだった。彼がストローブスの最初のセッションで経験した難題は、デンマークでレコーディングしたトラックとトライデント・スタジオのピアノのチューニングが合わないことだった。スタジオのテープ・マシンは“スピード変換”の機能を持っていなかったため、テープのスピードをスタジオのピアノのピッチに合わせて上下させることによって対応した。その際トニー・ヴィスコンティはピアノをレズリー・スピーカー(通常はハモンド・オルガンに使われる)に通してプレイすることを提案した。その結果、トラックはサイケデリックな風味が加わることになった。完成した作品は、あるいはその時までのストローブスの中で最もロック寄りだったかもしれない。

アルバム“Dragonfly” (AMS 970)は1970年2月、A&Mレコーズからリリースされた。再びストローブスは評論家たちからかなりの称賛を受けた。アルバムはチャート入りこそ逃したが、“Dragonfly”はストローブスの名声をさらに大きなものにし、さらなるファンを増やすことになった。にもかかわらず、バンドのラインナップは安定せず、クレア・デニズは“Dragonfly”リリースの直前に脱退する意思を伝えた。卓越した(クレアの)チェロがフィーチャーされたアルバムをプロモートするという問題が残り、その結果、リンゼイ・クーパーがその穴を埋めるために迎え入れられた。さらなる変動が、ロン・チェスターマンがNoel Murphy and Shaggis(バンジョー・プレイヤー、デイヴィ・ジョンストンを擁し、のちに彼はエルトン・ディーンのためにギターをプレイし世界的に有名になった)に加わるためにストローブス脱退を宣言したことだ。チェスターマンはストローブスの音楽的方向性に不満を持つようになっていたが、両者は友好的に袖を分かつことになった。リンゼイ・クーパーはベースに回り、リック・ウェイクマンがキーボードとして正式にバンドに加わることになった。

“The Vision of the Lady in the Lake”でのウェイクマンのキーボード・プレイに感動したデイヴ・カズンズは、“Dragonfly”のジャケットに思いがけないリックのクレジットを載せた。これに感謝したウェイクマンがデイヴにお礼の手紙を書いたことが、彼のストローブス加入のきっかけとなっていた。1970年6月にリンゼイ・クーパーと袖を分かつ前に、カズンズ、フーパー、ウェイクマン、クーパーのラインナップはパリの大テントでの“ロックンロール・サーカス”で1週間プレイした。フーパーとカズンズが彼らのもともとのフォーク・ルーツから方向転換をしていたことを考えれば、彼らはベース・ギタリストとドラマーを加えて、さらなるステージへと進めるべきだった。1970年7月11日、ジョン・フォードとリチャード・ハドソンをメンバーに迎え入れたストローブスは、この新しいラインナップのお披露目として、ロンドンのクィーン・エリザベス・ホールでコンサートを行なった。コンサートは全国の音楽プレスから大絶賛を受け、A&Mレコーズによって録音されていた。ウェイクマンは“Temperament of Mind”でのピアノ・ソロと“Where is This Dream of Your Youth”での広大で美しいキーボード・ワークによって、メロディ・メーカー紙に“明日のスーパースター”として称賛された。コンサートの翌週、A&Mレコーズはシングル、“Forever” b/w “Another Day”をリリースした。B面は最新アルバム“Dragonfly”収録曲だったが、“Forever”はデンマークの“Dragonfly”セッションで早くからとりかかり、1970年2月にトライデント・スタジオでかなり練り直されたヴァージョンだった。

ある意味、シングル“Forever”のリリースによってストローブス第1章の幕が降ろされたのだといえる。1971年11月にライヴ・アルバム“Just a Collection of Antiques and Curios”がリリースされ、ストローブスは初めてチャート入りを果たした。ストローブスは続いてUKとヨーロッパだけでなく、USA、カナダそして日本でも成功を収めるようになっていった。しかしこれはまた別の機会の話だ。今はこの新しくリマスターされ拡大された“Dragonfly”のリイシューを存分に味わって、ストローブスの新局面の入り口となった瞬間を目撃してほしい。

マーク・パウエル


ホームへ