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Strawbs/Strawbs/2008 A&M Records Ltd. 5302679



1960年代後半は音楽的自由の時代だった。それはミュージシャンたちが即“ロック”として定義されるスタイルを帯びた独自の表現を創造すべく、幅広く多様な影響を受けることができた時代だった。ロックということばは、それ自体が極度に単純化されたものであったが、それは全スタイルを含む表現であり、その中にはブルース・ロック、ジャズ・ロック、サイケデリック・ロック、そして唯一無二のブリティッシュ・フォークロック・シーンをも含んでいた。USAではザ・バーズのようなグループたちが、ボブ・ディランの音楽をエレクトリック化し、それは“フォークロック”として歓迎されることになった。しかしブリテンにおけるフォークロック現象は、アメリカと英国の伝統音楽両方が融合し、その結果インクレディブル・ストリング・バンドやフェアポート・コンヴェンションのようなユニークなアーチストが生まれることになった。

それらと同等に重要で同等にユニークだったのが、ストローブスだ。バンドは1960年後半と1970年代に一連の古典的アルバム、つまり“Strawbs”、“Dragonfly”、“From the Witchwood”、“Grave New World”、“Bursting at the Seams”、“Ghosts”、そして“Hero and Heroine”らによって、その最高に喚起作用ある感動的な音楽を生み出した。それら全ては真の才能とオリジナリティを示し、フォーク、サイケデリック・ポップ、ロックそしてプログレッシヴ・ミュージックをカヴァーしていた。ストローブスはファンたちの忠義を享受し、世界中の支持者に捧げ、今なおリーダーで先見者のデイヴ・カズンズによって率いられている。

多くの偉大なロック・アクト同様、ストローブスのルーツも50年半ばのスキッフル・ブームにさかのぼることができる。ロニー・ドネガンの音楽はリヴァプールからロンドンに至るまで、野心あふれる10代のミュージシャンたちの琴線に触れた。デイヴ・カズンズもロニー・ドネガンの“Rock Island Line”のサウンドからインスピレーションを受けた多くのティーンエイジャーのうちの一人だった。学校仲間のトニー・フーパーとともに、カズンズはジン・ボトル・フォーを結成した。西ロンドンを拠点とした4人組で、スキッフルとジャグ・バンド・ミュージックを演奏するバンドだった。しばらくすると、多くはスキッフルからロックンロールへと進展して行き、まもなくデイヴとトニーはレッドベリーのような伝説的ブルースマンや、ピート・シーガー、イワン・マッコール、ウディ・ガスリー、そしてブルーグラス・バンジョー・プレイヤー、ビル・クリフトンのような音楽を探求し始めた。クリフトンのプレイに触発されたデイヴ・カズンズはバンジョーを習得し、まもなくブリティッシュ・フォーク・シーンで最も熟達したプレイヤーの一人となる。1960年代初頭までは、カズンズはレスター大学の学生であり、一方のトニー・フーパーはロンドンのブルーネル大学の学生だった。勉学を一時休止した時に、デイヴはトニー・フーパーとバンドを組むためにロンドンに戻ることになった。

カズンズはフーパーにアーサー・フィリップスという卓越したマンドリン・プレイヤーを紹介した。そしてまもなく3人のミュージシャンはトリオとして、ストロベリー・ヒル・ボーイズと名乗るようになった。これは3人がリハーサルしていた西ロンドン、トゥイッケナムのストロベリー・ヒル地区からとられた名だった。1964年、アーサー・フィリップスはダブル・ベース(コントラバス)のジョン・ベリーと交代し、トリオは自分たちのレパートリーの中に緊密なハーモニーの要素を持ち込み始めた。ベリーはほぼ1年間ストロベリー・ヒル・ボーイズに在籍したが、1965年のケンブリッジ・フォーク・フェスティヴァルへの初出演よりも前に去って行った。その結果、カズンズとフーパーはデュオとして活動することになった。デイヴとトニーはレス・カズンズ、ザ・スコッツ・ハウス、ザ・ハーフ・ムーンといったロンドンの会場でレギュラー出演するようになり、ロンドンのサークル内では親愛を込めたニックネームのストローブスとして呼ばれるようになった。またフーパーとカズンズはBBCラジオのフォーク番組でレギュラーを務めるようになり、忠実なファンを増やし始めていた。

1966年、デュオは自分たち自身のクラブ、ザ・ホワイト・ベアを西ロンドンのハウンズローにオープンすることにした。カズンズとフーパーはブリティッシュ・フォーク・ミュージック・シーンの多くの新進の才能あるアーチストたちとともに働き、自分たちのクラブでレギュラー出演した。二人はまもなく曲を書き始め、自分たちのマテリアルをさらに発展させ、ついには彼らが長い間プレイしてきたトラディショナル・チューンにオリジナルなアプローチを施すようになった。1967年、デュオはダブル・ベース・プレイヤーのロン・チェスターマンを加え、再びトリオとなった。チェスターマンの加入をもって彼らのニックネーム、ストローブスはそのまま正式名称として採用されることになった。その年の夏までにストローブスは、もう一人のメンバーを加えた。類まれなすばらしいヴォーカリスト、サンディ・デニーだ。

デイヴ・カズンズはロンドンのクラブ、トルバドールで初めてサンディと会い、彼女の測り知れない才能にとたんに魅せられてしまった。サンディ・デニーがストローブスに在籍していた時に、グループは初のレコーディングを行なった。北ロンドンのセシル・シャープ・ハウスで録音した一連のデモは、ダンマルクス(デンマーク)・ラジオのDJ、トム・ブラウンの耳をひきつけた。感銘を受けたブラウンは、Karl Emil Knudsenという名のダニッシュ・レコードの社長にデモを手渡した。Knudsenはコペンハーゲンでソネット・レコードというレーベルを経営していた。彼はサンディ・アンド・ザ・ストローブスに興味を持ち、バンドと契約する考えに至り、バンドがコペンハーゲンに訪問する際のデンマーク、Vise Vurs Husでの連続公演が企画された。映画館の舞台でアルバムのレコーディングが行なわれ、そこでのちにフェアポート・コンヴェンションで再録されることになるサンディの“Who Knows Where the Time Goes”の最初期ヴァージョンが生み出されることになった。

デニーのストローブス在籍期間は短かった。グループはイングランドに戻り、いくつか小さなショーを行なったが、サンディは1969年5月(訳注:68年の間違いと思われる)にフェアポート・コンヴェンションに加入するために去って行った。サンディはのちにソロとして成功したが、不幸にも1978年に事故により死んでしまった。彼女がストローブスとともに録音した音源は最終的に1973年、“All Our Own Work”というタイトルでUKのホールマーク・レーベルからリリースされた(SHM 813)。そこにはSandy and The Strawbsとクレジットされていた。

イングランドに戻ったカズンズ、フーパー、チャスターマンは熱心にレコーディング契約を探した。また3人はサンディ・デニーに代わる女性ヴォーカリストとして、のちにカーヴド・エアのメンバーとなるソーニャ・クリスティーナを迎えたが、これも短期間に終わり、彼らはトリオに戻ることになった。Karl KnudsenはSandy and The Strawbsの音源をロサンゼルス、A&Mレコーズの共同出資者ジェリー・モスの元に送った。彼は十分に感銘を受け、“Oh How She Changed”と“Or Am I Dreaming”の2曲をシングルとしてレコーディングするための費用を用意した。レコーディング・セッションはガス・ダッジョン(トニー・フーパーの以前の同居人)がプロデュースし、彼はバンドを若いアメリカ人のアレンジャーに紹介した。ロンドンに着いたばかりのトニー・ヴィスコンティだった。2曲はヴィスコンティによるアレンジが施された。

その頃、地位を確立していたA&Mは作品の出来に喜び、1968年4月にレーベルにとって初のUKグループとして、ストローブスと契約を交わし、その年の6月にシングル(AMS 725)をリリースした。

ガス・ダッジョンとストローブスがスタジオ・レコーディングにゲスト・ミュージシャンを活用したアプローチは、バンドがデビュー・アルバムに取りかかった時にさらに推し進められることになった。その音楽はフォークからポップ、サイケデリア、初期のプログレッシヴ・ロックまで様々なスタイルを含んでいた。すばらしい“Tell Me What You See in Me”ではロンドンのレストランでいつも演奏していたアラビア人のミュージシャンの一団が雇われた。アレンジメントに関する話し合いはフランス語で行なわれた。結果は西洋と東洋の優れた融合音楽となった。対照的に同等にすばらしい“Where is the Dream of Your Youth”では、未来のレッド・ツェッペリンのベース・ギタリスト、ジョン・ポール・ジョーンズが忘れられないベース・ラインを提供し、名高いセッション・プレイヤー、ニッキー・ホプキンスがピアノを弾いている。

“The Man Who Called Himself Jesus”は、デイヴ・カズンズの友人が目撃したコペンハーゲンでの出来事に基づいた皮肉の効いた歌だ。そこで友人が見たのは、ある男が店に入り、強制的に追い出されるまで自分はジーザスだと言い張っていた光景だ。この曲はまた、俳優のリチャード・ウィルソン(何年もあとに彼はBBCテレビのコメディ・シリーズ、“One Foot in the Grave”でVictor Meldrewの役で有名になる)によるイントロのおしゃべりをフィーチャーしている。リチャード・ウィルソンはコメディ・タッチで‘ザ・ロンドン・ニュース’を紹介する。これはトム・ブラウンの司会によって毎週ダニッシュ・ラジオで放送されていた番組で、ロンドンのBBCラジオ・ワンのスタジオでプロデュースしていたのがデイヴ・カズンズにほかならなかった。

重厚なオーケストラが施されたマテリアルはシングル・ヒットをもくろんで録音され、幅広い市場にアピールすることが望まれたが、このアプローチはすぐにA&Mレコーズとの衝突を引き起こした。レコード会社はアルバムを、出現しつつあったサイケデリック・アンダーグラウンドの聴衆にアピールするよう望んでいたが、内容的にはビー・ジーズのような当時のポップ・アーチストのスタイルを思わせるものだった。A&Mの強要によってストローブスはいくつかの新曲を録音し、デビュー・アルバムを、より“シリアス”な音楽スタイルに仕上げるべくスタジオに戻った。

一方、さらなる仕事がストローブスのデビュー・アルバムの前に企てられた。シングル、“The Man Who Called Himself Jesus” b/w“Poor Jimmy Wilson”が1968年11月にリリースされた。しかし不幸にもBBCがシングルA面の詞の内容に異議を唱え、放送禁止にしてしまった。それでもスタジオに戻ったことにより、初期ストローブスの名曲が生み出されることになった。すなわち“The Battle”だ。これはチェス・ゲームになぞらえた壮大な反戦ソングで、トニー・ヴィスコンティによる効果的なオーケストラがフィーチャーされていた。

1968年12月、ストローブスはBBCラジオ・ワンのセッション、ジョン・ピールの“トップ・ギア”でレコーディングを行なった。“Poor Jimmy Wilson”、“That Which Once Was Mine”、そして“The Battle”の3曲だった。それは1969年1月に放送され、セッションはストローブスの来たるべきデビュー・アルバムへの大きな関心を引き寄せることになった。アルバム“Strawbs”は1969年6月にリリースされ、大きな称賛を受けた。マテリアルにフィーチャーされた成熟度と深遠さは隅から隅まで一貫して損なわれていなかった。振り返ってみれば、“Strawbs”は1969年のグレイトなアルバムの中の1枚といえる。

そのデビュー作品のクオリティにもかかわらず、ストローブスはUKアルバム・チャートにそれを反映できないでいた。一つの大きな問題が、“Strawbs”の多くの楽曲がアコースティック・トリオではステージで再現不可能であったことだった。特定の楽曲を再アレンジして再録音するというA&M重役による要請は、結果的に彼らのデビュー・アルバムのための予算をかなり超えることになった。レコードに対する好意的なレビューによって、A&Mレコーズは厳しく予算を抑えたが、次のアルバムのレコーディングに同意した。

次のアルバムでストローブスはよりベーシックな楽器編成に戻り、自らのフォーク・ルーツに戻った。また、そこではゲスト・ミュージシャンとして西ロンドンの若いキーボード・プレイヤーを迎えていた。彼はバンドの未来の方向性に重要な影響を与えることになる。

マーク・パウエル


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