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Steeleye Span/The Lark In The Morning/2003 Sanctuary Records Group Ltd./CMDDD781



ティム・ハート: “僕はさらに9枚のスティーライ・スパンのレコードに参加したけど、評論家、音楽史研究家同様、スティーライマニアの大多数にとっては最初の3枚が最も重要だって事は明らかだね。音楽的にも、当時僕らが持っていた衝撃性両方においてもね。” 

およそ30数年以上も前にレコーディングされたこれら音源が、その時以来無数のバンド、アーティストに影響を与え続け、今なおその長い影を落としている事は何ら驚くにあたらない。アーティストのアンソロジーが作られる場合、それは大抵そのアーティストの全体像を俯瞰したものである。しかしこのCDは、その後30年に渡るキャリアと海外での成功をものにするバンドの土台である、ある一時期の形態に焦点を当てたものだ。それはフォークのスーパーグループが多数存在した時代であり、音楽界におけるスティーライの最初の3枚のアルバムの重要性は、いくら誇張しても足りないくらいだ。

Liege & Liefを作り上げ、それをロンドンの威信あるロイヤル・フェスティヴァルホールで披露するという創造的ピークにあったフェアポート・コンヴェンションを去ったアシュリー・ハッチングスは、なおもM1(英国を南北に走る高速道)での自動車事故、そしてメンバーの事故死のトラウマから抜け出せず、重い薬物療法に頼っていた。彼はクラブとフェスティヴァルのフォークの世界に自らを没頭させていた。

ハッチングス: “1969年の晩秋のころ僕はスウィーニーズ・メンと一緒にスティーライを結成するために動き出したんだ。” 

テリー・ウッズ: “アシュリーと僕はプリンス・オブ・ウェールズパブの裏でサッカーをしていて知り合った。僕らはそれぞれのバンドではハッピーじゃなかったし、アシュリーとは驚くほど共通点があったよ。で彼はスウィーニーズ・メンとバンドを結成したがってたんだ。”

ダブリンズ・トリニティ・フォーククラブの有力者だったトレヴァー・クロウザーは、ホワイトホール・パークに住んでいた。そこは後に北ロンドン、アーチウェイのコミュニティの場となった。そしてそこにはティム・ハートとマディ・プライアも住んでいた。またそこはロンドンではスウィーニーズのメンバー含む多くのアーティストたちが勝手に押しかけては泊り込んだ場であった。アンディ・アーヴァインは、テリーがもはやジョニー・モイニハンと活動する事を望んでいないのが明白となったスウィーニーズとしてのアシュリー・セッションを回想する。 “僕もアシュリー同様意気消沈してたね。テリーと僕は冒険にずっと夢中だったからね。でもアイリッシュ・トラッドには関わりたかったし、ジョニーともバンドを続けたかったからね。” 

テリー・ウッズ: “僕たちは最初、ボブとキャロル・ペグたちとバンドを試みたんだ。その時ドランスフィールド兄弟にも頼んだよ。でティムとマディが興味を持ってくれてそこから発展していったんだ。アシュリーと僕はロンドン中の通りを歩き回って、このエレクトリック・フォークのアイディアをいろんなレコード会社に売り込んだね。僕らはブリテン諸島の音楽を演りたかったんだ。アメリカとは正反対のね。で幸運にもサンディ・ロバートンと巡り会った。彼は僕らをすぐに理解してくれて契約してくれたよ。”

テリーの友人アンドリュー・プリースはウィルトシア(イングランド南西部)のウィンターバーン・ストークに家を持っていた。そしてザ・バンドのMusic From Big Pinkの価値観にずっと打ちのめされていた。そしてスティーライは3ヶ月間の集中リハーサルのためウィルトシアの田舎に向かったのだった。

ゲイ・ウッズ: “田舎はそんな作用があったのよ。みんなそれぞれの世界から溢れ出てくる自発的なものがあってとても新鮮だったわ。” 

テリー・ウッズ: “僕らは一緒に朝食を取ってサッカーをして、うちに入るとリハーサルしてたよ。音楽をプレイするのも曲を覚えるのも全てがうまくいったね。とても素晴しい楽しい時期だった。” 

しかし親密な監禁状態を強いることで、レコーディング中次々と問題が起こることになった。それは二組のカップルの間に摩擦が生じ始めていたことであった。レコーディングが進むにつれて、次第に二組の違いが顕著になりつつあった。そして1970年3月バンドはチェルシーのサウンド・テクニクス・スタジオに入った。メンバー間の個人的問題が大きくなりつつあったのにもかかわらず、何とかHark! The Village Waitは一週間で録り終える事ができた。リチャード・トンプソンはコメントしている。 “初期スティーライの確立した触感は重要だったね。ファーストアルバムに織り込まれた音楽は今なお美しく、今も未踏の地だよ!”

サンディ・ロバートン: “ファーストアルバムは、単純にそのプレイヤーとシンガーが居たって事だけで当時は新鮮に感じたよ。彼らは皆独特なスタイルとサウンドを持っていて、それが素晴しい相乗効果を生んだんだ。加えて曲自体が見事だったね。性格的に衝突したのは残念だったよ。ゲイとテリー、ティムとマディの間に生じた緊張感がアルバムに何らかの作用を及ぼしたかどうかは分からないけど、とにかく成し遂げたんだよ。”

ハッチングス: “物凄い緊張感があったよ。アルバムを録り終える頃には、皆お互いにもう会うのはたくさんだって感じだったね。” 

マディ・プライア: “私たちは田舎に一緒に住んでリハーサルして、曲作りをしてアルバムを作って分裂したわ。田舎で全く知らない人たちと3ヶ月間過ごせば誰にでも起こる事ね。いろんな実験をするにはベストな方法とは言えないわね。”

テリー・ウッズ: “不運だったね。もしバンド自身が成長するに任せていたらとてつもないものになっていただろう。二人の女性シンガーのいるバンドなんて特異だったから。素晴しいアイディアを持った新しい試みだったけど、残念ながらうまく全て実現させることはできなかった。少なくとも言えるのは、うん、僕らは試みたんだ。実際に試みたんだよ。確かに最後はうまくいかなくなったさ、でも何とかトライしたんだ!”

マーティン・カーシー: “ティムから参加しないかって電話をもらったんだ。でロンドンで会って話したよ。ヴォーカル・ハーモニーを試してからアシュリーに連絡を取ったよ。”

バンドの終焉に伴ってアシュリーは、ミスター・フォックス結成のためにボブとキャロル・ペグと共に活動を始めようとしていた。そこにティム・ハートから予期せぬ電話が入ったのだった。カーシーのような人物がバンドに入ることは最も手っ取り早いフォーク界での成功の鍵であり、そのカーシーが了承してくれたのだ。さらにカーシーはスティーライ・スパンの名付け親でもあった。

ハート: “僕ら4人はしばらくリハーサルした後、誰かもう一人楽器奏者が必要だってことに気付いたんだ。なぜなら僕らは重厚なシンガーとギタリストの集まりだったから、他の奏者も欲しいと思ったんだ。ピーターは理想だった。彼は単なるフィドル・プレイヤーじゃなくて、音楽的に優れた才能を持っていたからね。音楽について熟知していたマーティンと僕は、単に耳で聞いてプレイできる人よりも楽譜が読めてアレンジを理解できるフィドル・プレイヤーが欲しかったんだ。”

正統教育を受けたピーター・ナイトのヴァイオリニストとしての手腕は、理想的な人選であった事がすぐに証明された。

カーシー: “ピーターの冒険的なハーモニーの使い方は、たちまちピッタリときたよ。当時のPAシステムはひどかったから、僕らは歌う時、ピーターのフィドルを常に頼りにしてたね。彼の音程はいつも正しかったからね。” 

二度目の変身を遂げたスティーライは、初期よりさらにこの世のものとは思えない、大胆な化け物バンドとなっていた。そして依然として実験的なドラムレスバンドであった。彼らはツアーに繰り出し、多くのTVやラジオに主演し、それはレコーデングされた。ただ現存するものは殆どない。

ジャーナリストのカール・ダラスは言う。 “彼らはウォータースンズ、ヤング・トラディションズ以来最強のヴォーカル・タレントを備えていた。” カーシーによると、最初のうちはギグにおいてアレンジのこつを掴むのが難しかったようだが、じきにうまくいくようになったのだという。バンドはロイヤル・コートでのギグでパイレーツと深いつながりをもつようになり、キース・デューハーストのプレイは後にデューハーストとビル・ブライデンズの演劇作品であるコランナとのツアーを導く事になり、ハッチングスが去った後は“キッドナップド”となった。

Please To See The Kingは1970年暮れにサウンド・テクニクスでレコーディングされた。

ハッチングス: “とても重要でまさに分岐点となったアルバムだね。当時あんなアルバムはなかったよ。スティーライはティム・ハートのエレクトリック・ダルシマーによって全く独特のサウンドを持っていたね。”

カーシー: “哲学的で同時に原始的な音楽だった。興奮と魔法を兼ね揃えた本物の音楽だった。”

カール・ダラスによれば、バンドの全ての方向性は変わり、より‘folky’になっただけでなく、より重く根源的なバンドになった。

ハート: “アシュリーに対するジョークとして、バディ・ホリーの‘Rave On’を演ったんだ。彼は僕らの中で最もフォーク純粋主義者だった、ロックンローラーでありながらね。マディとマーティンと僕は車の中で歌っていたんだ。で‘Rave On’を歌った時、アシュリーはそれを面白いと思ってレコーディングすべきだと考えたんだ。レコード会社も風変わりなシングルとして賛同したよ。”

あたかもレコードに針が刺さったかのように、ライヴ感に満ちていたが、バンドが意図的にヴォーカルに不協和音を伴わせることによって、それは生き生きとしていたのだった。残念ながらこの曲のマスターテープは長らく消失していたため、我々が現在聞けるのはより長い、最終ミックスを施されていないヴァージョンである。

1971年9月、バンドはサウンド・テクニクスに戻りTen Man Mop Or Mr Reservoir Butler Rides Againのレコーディングに取りかかった。バンドは多くのギグをこなしさらにタイトに締まったサウンドを身に付けていた。メンバーは前作Please To See The Kingよりもはるかに一丸となっていた。

ピーター・ナイト: “いいアルバムを作ろうと決意したよ。あまり実験的になり過ぎないようにね。”

これはライヴ再現可能なアルバムを意味していた。 “今回はエフェクト効果との格闘はなかったよ。” ‘General Taylor’というアウトテイクは次のIndividually & Collectivelyに収録され、このCDにも入っている。ニューアルバムは華麗な装飾を施したジャケットを使っていた。ハートは後に回想した。 “僕らはレコード1枚につき22ペンスを受け取ることになっていたと思う。でもジャケットの費用にレコード1枚につき33ペンス支払わなきゃならなかった。僕らには印税は一銭も入らないどころか、売れるたびに赤字になるって訳さ!”

対してハッチングスは、“セカンドアルバム(Ten Man…)は聴きやすいいいアルバムだ。凄く巧妙だった。けどマジックは存在しないね。” アシュリーにとっては絵に描いた餅のように思われたようだ。1971年11月彼はスティーライを去り、程なくカーシーもそれに続いた。

ロバートン: “Please To…とTen Man…のプロデュースで記憶にあるのは、とにかく僕も含めて全員がいいレコードを作るために、お互いのテンションを上げていたって事だね。そこには無垢さとこれ以上はないという程の情熱があったよ。今じゃビジネスが音楽に入り込んでいて、その中身よりもマーケティングやスタイルの方が重視されちゃってるけどね。初期ブルースのような純粋さを初期フォークにも見出すことができるし、同様に僕はフォークシンガーにもそれを見出していて魅了されたんだと思うね。ちょっと飛躍するけど、エルヴィス、スコッティ・ムーア、ビル・ブラックそしてアーサー・クルダップのした事ってスティーライとフェアポートが英国フォーク・ミュージックで成し遂げた事と変わりないんだよ。彼らはゴールインしたんだ。”

ハッチングスとカーシーが去った後もバンドは進化し続けた。

プライア: “Below The Saltはハーモニー的にもスタンス的にもそれまでとはかなり違っていたわね、かなりね。でも私たちは常にエレクトリック・バンドだったわ。これはバンドの全期間を通して言えることね。いつもラウドでぶっ飛んでたわね。当時のアンプはホントに頭をイカレさせてくれたわ。私たちはメンツが変わったけど基本的な主義は不変だったわ。マーティンは参加した2枚では大黒柱だったわ。彼のスタイルはバンドそれ自体と言ってもよかったわね。彼が去ってまた違うエネルギーが注入されたの。リック・ケンプとボブ・ジョンソンはロックンロール畑出身でお互いをよく分かってたわ。彼らは確固としたアイデンティティを持っていて、かつ伝統音楽にもそれなりに精通していたわ。リックは私たちのファーストアルバムが好きだったの。それが参加した理由ね。”

しばらくの間、サンディ・ロバートンのセプテンバー・プロダクションは70年代前半において数々のフォークロック・アルバムの中心的役割を担っていた。それは今日のケルティック・ブームにまでつながるものである。セプテンバーはフォーク・ロックのジャンルを発展、確立させ、また様々な憶測を今だ提供し続けているのである。

ロバートン: “当時は僕ら誰もが一つの特異なジャンルに関わっているなんて考えもしなかったよ。僕らはただ音楽を愛し、それがたまたまポピュラーになっただけだよ。英国音楽のある一時期に走った衝撃に思いを馳せてみると、そこにはフェアポート、スティーライ、サンディ・デニー、ジョン・マーティン、ニック・ドレイク、イアン・マシューズ、フォザリンゲイ、カーシー & スウォ−ブリック、ISB、プレインソングらがいた。なんて時代だったんだろうね!”

ジェフ・ウォール

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