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The Status Quo/Picturesque Matchstickable Messages From The Status Quo/2003 Sanctuary Records Group Ltd CMEDD 718



ウェンブリー・スタジアムから勝ち誇って現れたイングランドのサッカー・チームがワールド・カップを高々と持ち上げた同じ年に、The Spectres(元々はThe Scorpions)という名の4人の希望に満ちたティーンエイジャーが最初のレコーディングのためにスタジオ入りした。乏しい予算ではあったが大きな熱意を持った彼らは、デモ・テープにふさわしい十分な曲をレコーディングすることを望んでいた。すぐに彼らも勝ち誇ったように姿を現し、その成果はパイ・レコードとのレコーディング契約となってそのゾクゾクするような歴史が始まろうとしていた。彼らは1966年7月18日に契約を交わした。

彼らの重要なデビュー・シングル(ベン・E・キングのカヴァーで1966年9月9日発売)、‘I (Who Have Nothing)’のリリース3日前に、スペクターズとしては最初で最後のBBCラジオ・セッションでレコーディングを行なっていた。ポピュラー・ショー、サタデイ・クラブの番組では彼らの来たるべきシングルの両面と共にさらに3曲のカヴァーもプレイされた。‘Bird Dog’‘Gloria’(Them)、そして‘Bloodhound’(UK R&BグループのThe Downliner’s Sect)だ。これら歴史的レコーディングの一部が含まれたこのCDは、彼らが初めて世に出た音源が含まれているということだ。そして最終的に彼らが栄光のステイタス・クォーとなる初期の姿を垣間見ることができるのだ。

ザ・スペクターズは最終的に1966年の1年間に残念ながら鳴かず飛ばずであった3枚のシングルをリリースしたのみであった。スターダムへの再起を計るべく、まず自らのグループ名をThe Traffic Jamに改名した。新たな装いの下、彼らはさらに1枚のシングルを発表した(1967年6月)。フランシスの共作者としてグループのマネージャー、パット・バーロウが加わり、タイトルは‘Almost But Not Quite There’となった。

しかしBBCラジオが局の判断した‘きわどい詞の内容’から広く放送禁止にしてしまったおかげで、またしてもこれは彼らのキャリアに火をつけることに失敗してしまった。皮肉にもBBCがシングルを放送禁止処分に決定する前にグループはラジオ・ワンのセッションで実際にレコーディングしてしまっていた。のちに1967年6月24日、サタデイ・クラブで放送されたが、その3曲は‘It Takes Two’(マーヴィン・ゲイ/キム・ウェストンのカヴァー)、‘I Don’t Want You’、そして皮肉にも困りものの‘Almost But Not Quite There’だった。これもまた一部がこのCDに含まれており、今回初出となった。

1967年の‘サマー・オブ・ラヴ’に、終わりと凋落というこのさらなる失望に続き、Francis‘Mike’RossiJohn CoghlanAlan LancasterそしてRoy Lynesは新たにメンバーを加入させる必要があると判断した。彼らはRicky Harrisonと名乗る若いメンバーをグループに引き入れた。彼らは前年の夏にすでに会っており友人同士になっていた。ザ・スペクターズがMineheadのButlins Holiday Campに出演していた時だ。

彼らのデビュー・シングルが跡形もなく消え去った数週間後、ハリスン(本名はParfitt)を加えたトラフィック・ジャムは三たび新しいグループ名を企て、ついにThe Status Quoとなりすぐにレコーディング・スタジオに戻った。Parfittがセカンド・ギターとヴォーカルを担当し、メンバーの固まったグループは新しく採用した名でのファースト・シングルのためにリハーサルに入った。

予定されたシングルA面はソングライターであるケニー・ヤングの書いた‘Gentleman Joe’s Sidewalk Cafe’であった。フランシス・ロッシのオリジナル作‘Pictures Of Matchstick Men’はB面に甘んじてしまったが、最終的にはこちらがヒットすることになる。ささやかな4トラックの機材でレコーディングされ、フェイジングとハーモニーはグループとプロデューサーのジョン・シュローダーによって曲にリアルな勢いを加えることになった。もしThe Status Quoが当時のサイケデリック・ブームに完全に乗ずるのであれば、‘Pictures Of Matchstick Men’をA面に格上げし、‘Gentleman Joe’s…’をB面に格下げするのが全く順当であったのだが。

シングルは1968年5月にリリースされ、マネージャーのパット・バーロウがあらゆるレコード業者と利用できるラジオ・ステーション全てに(伝説的な海賊ステーション、ラジオ・カロラインに対しても)十分な予算をとるという努力を惜しまなかったおかげで、19日後‘…Matchstick Men’はUKシングルズ・チャート圏内に入った。

まもなく彼らはファースト・ヒット・シングルによって急速に勢いをつけていき、ヴォーカリストのMadeline Bellのバック・バンドとしてブリテン・ツアーに出ることになった。このコンサート・スケジュール期間中、彼らはまたBBCラジオ・セッションでレコーディングする機会を得た。1月16日、ステイタス・クォーは‘Spicks And Specks’(ビー・ジーズのカヴァー)、‘Judy In Disgrace(with Glasses)’(ジョン・フレッド&ザ・プレイボーイズのヒット曲)そしてフランシス・ロッシのオリジナル、‘Pictures Of Matchstick Men’をレコーディングした。これらのトラックは、翌週David Symonds Showで放送された。

2月3日に発行されたニュー・ミュージカル・エクスプレスでは、名誉あるトップ・ページで‘…Matchstick Men’のシングルの広告が打たれたが、もっと重大なイヴェントが18日の日曜日に行なわれた。ステイタス・クォーはミドルセックスのライスリップ(現在はヒリンドンの一部)で初めてヘッドライナーとしてのコンサートを行なったのである。この出演によってラジオとTV出演、そして国内を回るいくつかのコンサートが実現し、結果的にグループのシングルはUKトップテンに入り最高7位まで上がった。

UK中を回るツアーに加えてステイタス・クォーは、2月13日のサタデイ・クラブでのレコーディング・セッション(放送は17日)含むBBCラジオ・セッションでいくつかのレコーディングを行い、さらに3月13日にはPete’s People(進行役はピート・マレー)でもセッションを行い、これは3月30日に放送された。

定期的なコンサート出演によってチャート上の成功と名声を獲得し、グループはアメリカの伝説的なシンガー、ジーン・ピットニーがヘッドラインを務める1968年のUKパッケージ・ツアーで、サポート・アクトとして6つのアーチストのひとつに抜擢された。しかしエーメン・コーナー、ドン・パートリッジ、サイモン・デュプリー&ザ・ビッグ・サウンド、ルーカス&ザ・マイク・コットン・サウンド、そしてDJのトニー・ブランドンのようなアーチストたちの中に名を連ねる前にステイタス・クォーは、大成功を収めたデビュー・シングルに続くレコードとBBCセッションをこなさねばならなかった。

最新のヒットとなったのは再びフランシス・ロッシ作‘Black Veils Of Melancholy’(B面はロイ・リンの‘To Be Free’)だ。ニュー・シングルがリリースされたその日(3月29日金曜日)、グループはロンドン、Maida ValeのBBCのスタジオに戻り、そこで3度目のレコーディングとなる‘Gloria’、スペクターズとして最初取り上げたR&B、‘Bloodhound’のテンポの速いヴァージョンをレコーディングすることを決めた。その日3曲目で最後のナンバーはやはり最新シングルとなり、これら全てのレコーディングは2週間後のザ・デヴィッド・シモンズ・ショーでオンエアされた。

グループ2枚目のシングルは1枚目ほどの成功を収めることはできなかった。‘Black Veils Of Melancholy’に対する評論家たちの意見は厳しく、グループに‘一発屋’の烙印を押し、一般的にもその最新シングルは‘…Matchstick Men’のコピーそのものだという評価であった。

それでも差し止められることなくグループは、ジーン・ピットニーとの28日間のツアーを完了し、国内のあちこちのダンス・ホールでヘッドライナーとしてコンサートを続行した。それは主に彼らをテレビで見ていた10代の少女たちが襲撃してくる前での演奏であった。その少女たちがグループをかき乱すことから守るのが、長年ローディーをしていたジョン・ファニングの仕事であった。しかし彼一人では設備を整え、ボディガードの役を引き受けるのは難しいことであったようだ。

1968年6月、パット・バーロウと詩人志望でソングライター、ローディーの仕事をしていたボブ・ヤングとの出会いにより、ヤングがステイタス・クォーのローディーの一員になる好機がやってきた。まもなく彼はグループに参加するようになり、最初は主にオルガンのロイ・リンと一緒に曲を書くようになった。そしてしだいにリック・パーフィットとフランシス・ロッシとも曲作りをするようになった。とりわけロッシとのコンビは、その後何年も続くことになる成功をもたらすことになる。

プロデューサーのジョン・シュローダーはグループの次のシングルのために、プロのソングライターにアプローチを試みた。彼は曲作りのパートナーでかつてポップ・アイドルだったマーティ・ワイルドと組んでいたロニー・スコットに連絡をとった。そしてシュローダーには3曲が提供された―‘Elizabeth Dreams’‘Paradise Flat、そして‘Ice In The Sun’である。最後の曲がグループの次のシングルに選ばれ(B面はロッシ/パーフィットの‘When My Mind Is Not Live’)、1968年7月26日にリリースされた。

‘Ice In The Sun’はグループに二度目のUKトップ・テン・ヒットをもたらし、アメリカ同様ヨーロッパの主な国で‘Pictures Of Matchstick Men’の成功と肩を並べるほどのヒットとなった。シングルのリリースに加えて、グループにはデビュー・アルバムのレコーディングが待っていた。再びシュローダーは彼らのために注意深く選曲作業にとりかかった。

レコーディング・セッションはシュローダーがプロデューサー、アラン・フローレンスがエンジニアで、ロンドンのパイ・スタジオで始まった。ファーストLPのタイトルはかなり仰々しいPicturesque Matchstickable Messages From The Status Quoとなり、それは1968年9月27日にモノとステレオ両ヴァージョンがリリースされた。

アルバム収録12曲のうち4曲は、シングルの‘Pictures Of Matchstick Men’と‘Black Veils Of Melancholy’を含みメンバーたちによるオリジナル作品だった。そしてワイルド/スコットにより、さらに2曲が提供された。一方ソングライターのアンソニー・キング(ロニー・スコットの出版社Valley Musicの一員)は、サイケデリアにふさわしいタイトルの1曲‘Technicolour Dreams’を書いた。

LPの残る3曲は広く知られていた曲のカヴァーだ。‘Sheila’はトミー・ロー作による1962年のトップ・ファイヴ・ヒット、一方‘Green Tambourine’は1968年初頭、ザ・レモン・パイパーズが放ったトップ・テン・ヒット、‘Spicks And Specks’(ザ・スペクターズとしてもレコーディングしていた曲)はザ・ビー・ジーズによって書かれた曲だ。しかしギブ兄弟はこれをヒットさせることはできなかった。

次に予定されたシングル・リリースは、キングの‘Technicolour Dreams’(B面は‘Paradise Flat’)となり、11月8日に発売予定となった。しかしながらそのリリースは、翌年あたまに新曲が完成したことにより結局キャンセルされことになった。しばらくたって11月25日、グループは再びその年16回目のラジオ・セッション・レコーディングのためにロンドンのBBCにスタジオ入りした。それはのちに年が明けて最初の週、ラジオ・ワン・クラブによってオンエアされた。

1968年最後の月に行なわれたもうひとつのレコーディングにおいては、今度は全く新しいエネルギッシュなフランシス・ロッシ/リック・パーフィットによる‘Make Me Stay A Longer’がパイ・スタジオでレコーディングされ、ついにグループのニュー・シングルとして1969年1月13日にリリースされた(B面はアラン・ランカスター作の‘Auntie Nellie’)。レコード批評家たちの大多数から‘強力な一発’と評されたのと同様、このリリースはグループにとって指標のようなものとなり、これを最後にクレジット上のグループ名The Status Quoから‘The’が外されることとなったのであった。

Dave Oxley


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