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Spirogyra/St. Radigunds/2007 Repertoire Records(UK) Ltd REPUK 1107



スパイロジャイラは1970年代初頭のブリティッシュ・フォーク・ロック・ムーヴメントの最前線にいた。彼らのマジカルでミステリアスな物語は、感受性の強いアコースティックな歌へと向かい、それを受け入れるオーディエンスの心の琴線に触れていた。‘St. Radigunds’はグループのデビュー・アルバムであり1971年にリリースされ、ヴォーカル/ギターのマーティン・コッカラムとバーバラ・ガスキンのヴォーカルをフィーチャーしていた。これはベストセラーとなり、フォーク・ブームの真っ只中20万枚を売り尽くした(訳注:他のライナーでは売れなかったとあったが・・)。

グループはランカシア(イングランド北西部の州)、ボルトン出身の熱烈なビートルズ・ファン、コッカラムの頭脳であった。マーチンはまた、インクレディブル・ストリング・バンドの熱心なファンであり、1967年ボルトンでマーク・フランシス、アンディ・ダークワースと共に自身のグループを立ち上げた。ちょうどフラワー・パワーと‘Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band’の熱狂的流行の時期だった。まだ経験のない俳優としてマーチンはマンチェスター・ユース・シアターにも加わり、そこで‘ヘンリー5世’の主役を務めた。マーチンが大学の勉強のためにカンタベリーへ行った時にグループはさらに発展することとなった。スパイロジャイラは彼とバーバラ・ガスキンがギターとヴォーカル、バックはスティーヴ・ボリル(ベース)とジュリアン・キューザック(ヴァイオリン)が務めることになった。

バーバラ・ガスキンはロンドン北方ハットフィールドに生まれ、地元のフォーク・クラブで歌っていた。その後1969年に大学で哲学と文学を学ぶためにカンタベリーへ引っ越した。彼女はヴォーカリストとしてスパイロジャイラに加入し、その類稀な魅力的なヴォーカルがB&Cレーベルとのアルバム契約に一役買うことになったのである。

マーチンの喚起作用のある詩と激しいヴォーカル・スタイルは、スパイロジャイラの核として不可欠な要素であったが、キューザックの荒れ狂うようにこだまするヴァイオリンも同様であった。彼の名演はヴォーカルを補完し、傑出したナンバー‘Island’に見られるように霊妙なムードをつけ加えていた。 ‘君が島へ行くつもりなら、僕が帆船になろう’ このマーチンの詩は、隠喩的な抒情詩体の中において不思議と忘れられない才芸を感じるのである。

この曲と共に‘The Future Won’t Be Long’は、第2次大戦とダンケルク(仏北部ドーヴァー海峡に臨む港町:第2次大戦で英軍がここから決死の撤退をした)の兵士の運命を同線上に描いた曲だ。

それはグループのオリジナルな方向性を切り開く決意を示していた。‘フォーク’アーチストとして認められていたが、彼らの伝統音楽的な真価は現代的な考え方によって鼓舞されていた。オリジナル・ナンバーを書くことで‘カヴァー’に頼らないグループは、70年代の新種のアシッド・フォーク・ミュージックを創り上げていた。

たしかにそこには興味をそそるテーマに事欠かなかった。著しくくせのある物語‘The Duke Of Beaufoot’に彼のしゃれっ気が感じられる。音楽には強烈なイングランドの匂いが漂い、それは奇抜さと政治的主張とロマンチックな意志の奇妙なミックスであった。グループ名は彼らのふわふわしたイメージに似合いすぎるほどだった。‘Spirogyra’は定義上‘淡水に見られるアオミドロ’のことだ。ぬるぬるとした物質で、‘氷に浮かぶ錦糸’(Mermaid’s Tresses)とも呼ばれる(これはイングリッシュ・フォーク・ロックにとってもってこいのグループ名となりそうだ!)。

話変わって、スパイロジャイラは‘St. Radigunds’の成功のおかげで忠実な信奉者を獲得した。アルバム・タイトルは‘Captain’s Log’や‘Cogwheels Crutches And Cyanide’のようなトラックの中に反映されてはいないが、‘St. Rad[e]gund’が好奇心をあおる霊的な人物であったことを示していると思われる。St. Radegundはドイツのチューリンゲン族の女王で紀元一世紀にフランクスによって捕らえられクロテール王の妻となった。彼の反道徳的行為にうんざりした彼女は修道女となり、フランスに修道院を建てた。ちなみにそこにはまた、巨大な‘St. Radegundの石’が五つの石の上に置かれている。それは15世紀のカントリー・フェアでその遺跡を記念したものだ。

古代史はこれくらいにして、‘St. Radugunds’の成功後スパイロジャイラは1972年リリースのセカンド・アルバム、‘Old Boot Wine’でシーンに戻ってきた。フェアポート・コンヴェンションのドラマー、デイヴ・マタックスはこのアルバムでも招かれた。彼はまたラストのサード、‘Bells, Boots and Shambles’(1973)にも手を貸している。その時のグループは実質マーチンとバーバラで成り立ち、ボリルとキューザックはゲスト・スタジオ・ミュージシャンとしての参加であった。

Jon Gifford(flute, sax)とRick Biddulph(bass)が参加したグループは英国中をツアーし、ヨーロッパを回ったのち1974年ついに解散した。皮肉にもその後アメリカからSpyro Gyraという名のジャズ・ポップ・グループが現れ、1979年‘Morning Dance’というヒット・シングルを放った。一方バーバラ・ガスキンは3年間アジアを旅して回った。その間彼女は英語を教えていた。英国に戻った彼女は再び歌い始め、ビル・ブラフォードのソロ・アルバム、‘Gradually Going Tornado’に参加した。彼女はまたハットフィールド・アンド・ザ・ノースとナショナル・ヘルスで活動した。バーバラは1981年UKナンバー・ワン・ヒット・シングルを放った。彼女はそこで夫でキーボード・プレイヤーのデイヴ・スチュワートとともに、1963年のレズリー・ゴーアのポップ・クラシック、‘It’s My Party’を劇的にカヴァーした。

マーチン・コッカラムは自分自身の理想主義的な音楽的冒険に乗り出した。1974年彼はアイルランドの西海岸に腰を落ち着け、馬に乗り、馬車を引き、旅して回る‘back to nature’のライフスタイルを実践していた。彼はまた自給自足を試みるため農場で生計を立てていたが、その後精神的実現を求めてインドへ向かった。1978年彼はアイルランドに戻り、それからアメリカへ渡りハワイに辿り着いた。そこで彼は果実園を経営した。1998年ボルトンに戻った彼はスパイロジャイラの元メンバーを捜し出し、アーチストとしての遺産の管理に務めてきた。

スパイロジャイラの創造した素晴らしい音楽は、30年を経た今でもなお多くを語りかけてくるのである。

クリス・ウェルチ
2007年4月ロンドンにて


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