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Spirogyra/Burn The Bridges/2000 Repertoire Records REP 4846



スパイロジャイラ

UKフォークロック・グループ、スパイロジャイラは1950年生まれのシンガーソングライター、マーチン・コッカラムの頭脳だった。バンドはヴォーカルとアコースティック・ギターを担当するマーチンとマーク・フランシスの二人組として、1968年ランカシアのボルトンでスタートした。デュオは地元のファンを獲得し、ビートルズのアップル・レーベルにデモ・テープを聞かせたが、1969年10月にレーベルと決別したのち、マーチンは勉学のためにカンタベリーのケント大学に通うべく南へ向かった。いうもでもなく、カンタベリー・ミュージック・シーンはその60年後半のプログレッシヴ・ブームで最盛期を迎えていた。

その独特なダイナミズムでもって、マーチンはスパイロジャイラの名のもとに、ケインズ大学で18の出演者に混じって1回限りのコンサートを務めた。手に負えないラインナップは急速に4人のグループへと進化していった。ギターとヴォーカルにマーチン・コッカラム、ヴォーカルにバーバラ・ガスキン、ベースにスティーヴ・ボリル、そしてヴァイオリンとピアノにジュリアン・キューザックだ。そのカンタベリーのバンドはコッカラムのレパートリーを基に、ピート・ボールがサウンド・エンジニアとしてUKの大学、クラブ・サーキットでギグに乗り出した。ケント大学の秘書マックス・ホールをマネージャーとして迎えた彼らは、オランダ、ドイツ、フランス、デンマークそしてUKを含む旺盛なギグを展開するようになった。その結果レコード契約が交わされ、グループはプロフェッショナルなフルタイム・ミュージシャンとして頭角を現すことになった。

スパイロジャイラはセプテンバー・プロダクションズにおいて3枚のすぐれたアルバムを残し(ディスコグラフィー参照)、そこにはセッション・ドラマーとしてフェアポート・コンヴェンションのデイヴ・マタックスがフィーチャーされていた。ジュリアン・キューザックが学問のためにグループを去り、才能あるマーク・フランシスが一時的に再加入することになった。しばらくすると、彼とスティーブ・ボリルも去っていき、グループは新しい音楽的領域に着手すべく、ジョン・ギフォード(サックス/フルート)とリック・ビダルフ(ギター/ベース)を要請した。バーバラ・ガスキンはキーボードを引き継ぎ、さらに長くなったインストゥルメンタル・パートの担い手となった。スパイロジャイラは1974年に解散し、その後まもなくマーチン・コッカラムはイングランドを去っていった。

この度、彼らに対する再評価の機運に応えて、3枚のスパイロジャイラのアルバムがCDとLPによって世界中で再リリースされる運びとなった。その結果、バンドのフォークとサイケデリアに根ざした興味深く思慮深い側面が、音楽史において正しく認識されるようになった。70年代初頭のライヴでプレイされた曲の数々は、60年代からの影響を受け、ルーツとしていた。その音楽的特徴は、詩的で、時にはメランコリックで、そして圧倒的にイングランド的だった。またマーチン・コッカラムの詞は誠実な探究心に満ち、それはその時代の政治的関心事とユーモア・センスといくらか神秘的なシュールレアリズムがブレンドされていた。

ザ・デモ・セッションズ

デビュー・アルバム、‘St. Radigunds’を制作する前に、スパイロジャイラはカンタベリーのケント大学の音楽室でデモ・ソングをレコーディングした。そのレコーディングはブライアン・ロバーツとピート・ボールによって行なわれ、直にステレオにミックスされた。レコーディングは2つのセッションに分けられたが、1つが1970年5月21-22日の二日間、もう1つが1971年1月22-24日の三日間だった。そのテープはバンドの魅力を見事にとらえ、その結果セプテンバー・プロダクションとのレコード契約を獲得することになり、会社はB&Cレコーズとファースト・アルバムのライセンス契約を結んだ。その後このデモ・テープの存在は30年近く忘れ去られることになったが、奇跡的にもオリジナルの15ips(inches per second:テープレコーダーのスピード表示)マスターが1999年に忘却の彼方から救い出されるに至った(ピート・ボールとブライアン・ロバーツの努力のおかけだ)。

このCDは未発表トラックである2回のセッションからの全コレクションだ。‘Where There’s A Will…’はマーチン・コッカラムによれば、ボルトンのスパイロジャイラとカンタベリーで大きくなったバンドの過渡期となった曲だ。‘The Forest Of Dean’のことを懐かしく思い出すファンもいるかもしれない。これは通常ライヴの最後にプレイされていたナンバーで、マックス・ホールがオーディエンスに向かって詞の載った大きな紙を掲げ、一緒に歌うようけしかけていた曲だ。さらに初期の珍しい2曲のレコーディングが含まれている。‘Jerusalem’はマーチンが六日戦争直後に行ったイスラエルの回想であり、‘Northern Lament’は1960年代に彼が育ったマンチェスターの不況に対する個人的見解だ。バンドのライヴでプレイされることがなかった唯一の曲が、タイトル・トラックの‘Burn The Bridges’だ。これはスパイロジャイラのサード・アルバムのレコーディングが始まる前に、マーチンとバーバラがデュオとしてレコーディングしたものだった。またバンドの1973年のシングル、‘I Hear You’re Going Somewhere(Joe Really)’はアルバムには収録されなかったナンバーだ。

デモは入念にレコーディングされ、70年代初頭にスパイロジャイラのライヴを見た人たちに加えて、新しいファンをも惹きつけるものとなっている。必然的にそこには‘プリントスルー’(磁気テープデータ媒体において接近して置かれた部分間で、記録されているデータが他方に移ること)に加えて、いくらかテープ・ヒス(サーというノイズ)が静かな部分でわずかに聞き取れる。また1つか2つの歪みもあるが、30年間倉庫の中でダメージを受けずに生き残ってきたことは注目に値する。バーバラ・ガスキンはブライアン・ロバーツと、素晴らしくテープをリマスタリングしたウィッスルウッド・オーディオのポール・フィッピンに対し、感謝の気持ちを表している。


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