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Spirogyra/A Canterbury Tale/2005 Sanctuary Records Group Ltd./CMQDD1258



ある歴史書を手に取った時―例えば額面に応じて月刊雑誌、サンデー(英国のカラー雑誌:News Of The World紙の日曜版付録)など―サマー・オブ・ラヴの英国版が、ロックがポップに融合した時の歴史書、67年のサウンドトラックとなるだろう。そこにはイカレた頭と水ギセルのタバコ、極彩色の氾濫、ジミ・ヘンドリックス、初期ピンク・フロイド、ソフトマシン、クリーム、トラフィック、ストーンズのサタニック・マジェスティーズ、そしてもちろんサージェント・ペパーズが同時に存在していた。

しかし残念ながら不運にも、同時期に進行していたフォーク・シーンの変遷はしばしば見過ごされ、忘れ去られてきた。67年夏、初期インクレディブル・ストリング・バンドの前代未聞のアルバム‘5000 Spirits Or The Layers Of The Onion’は、ヘヴィ・サイケ・ヒッピー・フォークの連中を多く生み出した。彼らはロード・オブ・ザ・リングと、ルイス・キャロルの‘不思議の国のアリス’をバイブルとしたカウンターカルチャーの芽生えと共に、その神秘的な要素にインスパイアされていた。

それからおよそ10年の間、T-レックスやドクター・ストレンジリィ・ストレンジを始め、ISB(Incredible String Band)のようなフォーク・フォーマットを、新しい無国籍風サウンドへ転化させた連中が多数現れていった。その結果これらはAcid Folkとしてコアな連中から認知されるようになっていった。それはジャンルとして商業的成功とは無縁であったが、多くの同系統の作品をあちこちに生み出すことになった。そしてそれは彼らに自信をもたらすこととなった。

スパイロジャイラも皆と同様、新しい夜明けの子供たちであった。当時埃にまみれた産業都市ランカシャー、ボルトンでさえ、サマー・オブ・ラヴに支配されていた。67年、彼らは産声を上げ、それからの2年間、地方のギグとデモ・レコーディングに明け暮れた。70年に入るとこのカンタベリー出身のバンドは、スティーライ・スパンのマネージャー/プロデューサー、サンディ・ロバートンに出会った。74年グループの終焉が来るまでに彼らは、3枚の知的で究極的に風変わりな質の高いアルバムを残した。全ての作品は創設者であり、リーダー、シンガーであったマーティン・コッカラムによるものだった。

コアなファンの間では有名なこの3枚のアルバムと、アルバム未収曲シングルそして一握りの未発表スタジオ・アウトテイクによってこのCDは成り立っている。後のISBを立ち上げるクライヴ・パーマーのように、初期のスパイロジャイラはずっとデュオであった。それはコッカラムと友人のマーク・フランシスから成っていた。彼らは最初の自分たちを、アメーバと呼びふざけ合っていた。マーティンによると、“単細胞有機体のようなものだと考えていたよ。で2人、3人とメンバーが増えていってスパイロジャイラ(アオミドロ)になったんだ。” オリジナル・スパイロジャイラはメンバーが18の時、68年に一時休止状態となった。

マーティンはヒッピーの痕跡の残るギリシャ、トルコ、イスラエルのエルサレムへ活路を見出そうとした。そしてその年(68年)は、彼らがデモテープを作るいい機会となった。彼らは、当時新進のアーティストのためのオアシス、(ビートルズの)アップル・レーベルにデモテープを送ったのだった。 “それでピーター・アッシャーと会う約束を取り付けたんだ。” マーティンは回想する。 “彼は前日、ジェイムス・テイラーとは契約しなかったんだ。もしかしたら最初のスパイロジャイラのメンツで、もっと早く成功してたかもしれないね!アッシャーは僕らかジェイムス・テイラーのどっちかと契約するって言ったんだ。彼のバッグにはヒット曲がたくさん詰まってたよ。” 

しかし69年コッカラムがカンタベリーのケント大学に戻るために、南ロンドンへやって来た時、オリジナル・スパイロジャイラは下降線を辿っていった。引越しが落ち着いた頃、彼は新しいバンド構想に向けて仲間を募る広告を打った。しかし手に負えない2人の寄集め的メンバーとは、かなりまとまりのないギグを展開する結果となってしまった。70年6月までにスパイロジャイラのラインナップは削減され、4人組に落ち着いた。コッカラム(ヴォーカル、アコギ)、友人の学生ジュリアン・キューザック(ヴァイオン、キーボード)、スティーヴ・ボリル(ベース)そしてバーバラ・ガスキン(ヴォーカル)であった。

彼らの音楽活動は、正当教育を受けたキューザックによってマーティンの才能が開花し、すぐに実を結ぶこととなった。この頃彼らはカンタベリー寺院の横にあるセント・ラディガンズ・ストリートの共同体で寝泊りしていた。 “素晴しい環境だったね。” マーティンは認める。 “他のミュージシャン、イアン・デューリー、キャラヴァン、スティーヴ・ヒレッジ(彼もまた一緒に住んでいた)なんかがいたな。よくお互い立ち寄ったもんだよ。” 大学内外で評判になってくるとバンドは最初のマネージャー、マックス・ホールを雇い入れた。彼は学生連合興行秘書であった。彼はバンドにプロデューサー/マネージャーのサンディ・ロバートンを紹介した。彼はスティーライ・スパン、リヴァプール・シーン、キース・クリスマスのような主流から外れたフォークロック界に生息するアーティストたちを扱っていた。ロバートンは彼の販路であるB&Cレーベルからレコードを出すため、彼らと契約を結んだ。また彼は才能あるアレンジャー、ロバート・カービーを紹介した。 “僕らは皆カービーのアレンジを気に入ってたよ、ニック・ドレイクなんかでね。だから彼にファースト・アルバムSt.Radigundsのプロデュースを頼んだんだ。彼がプロデュースしてくれて皆ハッピーだったな、素晴しいアレンジャーだからね。” マーティンは回想する。

St.Radigundsは強烈な印象を残すデビュー作となった。フェアポート・コンヴェンションのドラマー、デイヴ・マタックスがヘルプとして参加した。デビュー作は、壮大なエンディング・トラック‘The Duke Of Beaufoot’や、切なく控えめな‘At Home In The World(これはコッカラムがボルトンに戻って演奏していたタイトルトラックとして最重要曲である)’、そして陰鬱な‘Captain's Log’は、次々と変化する野心的な構造を持ったアルバムの雛形を提供することとなった。マーティンは詞における二重性、つまりロマンティックな瞑想と社会政治的批評に分裂する傾向をずっと持っていた。

2人のヴォーカリスト、ケヴィン・コイン・スタイルのざらざらしたコッカラムの耳障りな声と、それを相殺するバーバラ・ガスキンの甘美で滑らかな歌声にもそれは表れている。バーバラの歌は控えめではあるが、アルバムの中で非常に効果的に使われている。結局1971年9月にリリースされたSt.Radigundsは少々奇異で、当時の主流とは交差していた。ラジオはオンエアを避ける結果となってしまった。しかしそれにもかかわらず、彼らを無視することはできなかった。プレスリリースでは、彼らはFolk Rockではなく、Acoustic Rockと評された。

1972年の2〜3月にかけてロンドン、ウィルズデンにあるモーガン・スタジオで、セカンド・アルバムOld Boot Wineがレコーディングされるまでに彼らは、当時大物のサポートアクトを務めるなどギグをこなし続けた。この時までにマーク・フランシス(エレクトリックギター、キーボード)が参加していた。彼は実際には数年前からバンドをサポートしていた。それはバンドのアルバムを手伝っていたジュリアン・キューザックが、大学に戻ったためであった。この時のセッションはマックス・ホールによって仕切られていた。 “マックスは素晴しいプロデューサーだったよ!” マーティンは言う。 “彼はうまくスタジオの環境をリラックスした、絶好の幻想的空間に作り変えてくれた。マックスは生まれつき皆を引っ張る才能と共に、最高のユーモアセンスを持っていたな。バンドの成功にはとても重要で不可欠な人間だったよ。僕らはセカンド・アルバムとサード・アルバムを通して共に過ごしたよ。マックスは多大な信頼を受けていたし、彼といると皆が楽しくなってくるようなカリスマを持った奴だったよ。” 

実際Old Boot Wineのセッションは、2枚組アルバムも作れるほど多くの作品がレコーディングされ、とても生産的なものだった。しかしながら多くの優れたナンバー‘Counting The Cars’、‘Melody Maker Man’そして彼ら典型の気難しいナンバー‘Turn Again Lane’はアルバムから外された(このアンソロジーにあるボーナストラックとして初お目見えとなる)。LPは1枚物となった。最もコマーシャルなナンバー‘Dangerous Dave’はシングルとしてリリースされたが、その強力なフックにもかかわらず、ラジオでオンエアされずじまいだった。この賑やかなナンバーはフェアポート・コンヴェンションのドラマー、デイヴ・マタックスの印象的な繰返し部分(これはこの曲の重要な構成要素である)で成り立っていた。

“この曲は、スタジオで進化したことがよく表れているよ。” マーティンは明かす。 “‘Dangerous Dave’は僕が最初書き上げた時はもっとフォーキーだったけど、デイヴ・マタックスがリズムをつけ始めたとたん、どんどんアグレッシヴにロックになっていったんだ。スタジオでのリズム・トラックは、いつもこんな風にライヴ感覚に溢れたものだったよ。あとはストリングスとヴォーカルを加えるだけさ。”

バーバラ・ガスキンは彼らの3枚どれもお気に入りである。とりわけOld Boot Wineは印象的な‘A Canterbury Tale’を始め、痛切でかなり政治的な‘Disraeli's Problem(もちろん英国植民地相レシチルド・モードリングの名を引用したいくつかの曲のうちの一つである)’そしてサードアルバム、つまり最後のアルバムを予期させるかのような、チェロに鼓舞された‘World's Eyes’などのナンバーを含んでいる。しかしSt.Radigunds同様、1972年6月にリリースされたもののセールス的には失敗に終わっている。

マーティン・コッカラムは、レコード会社に言われたことを詳細に述べている。“会社は僕らを税金対策として考えるようになったんだ。僕らはラジオでプレイした事もなかった、そうジョン・ピールの番組さえもね。で延々ツアーをしなきゃならなかった。それが僕らのできる精一杯のことだったんだ。確かにたまにフラストレーションを感じることはあったよ。” 大学の課程を修了すると、ベーシストのスティーヴ・ボリルは、バンドを去ったジュリアン・キューザックに続くことになった。 “僕らは中心メンバーのみ残ることになったよ。つまり僕とバーバラさ。” コッカラムは言う。 “僕はその後もジュリアン、スティーヴといい関係は続いていたよ。彼らはスタジオでは相変わらず手伝ってくれたし、僕らは一緒にプレイし、いい友達だったよ。彼らが去った後もギグは続けていたからね。実際ジュリアンは優秀な学生だった。彼は芸術分野で輝かしい未来を持っていた。ジュリアンは芸術に囲まれて育ってきたんだ(彼の父は、ノリッジ大学の物理学の教授だった)。だからアンダーグラウンドでもがいているバンドのためにそういった未来を諦めろなんて彼には言えるはずがなかったよ!僕とマックスだけが大学をドロップアウトしたんだ。バーバラでさえうまくギグを続けながらも課程を修了したよ。驚くべき成績でね!”

コッカラムはバタシー(ロンドン南西部)に移り住んだ。バーバラ・ガスキンは、コッカラムと個人的にも音楽的にもカンタベリーに住みながら接触を保っていた。コッカラムは、スパイロジャイラの強力な作品(多くの人々そして英サイケ・フォーク・シーンにとっても)として認知された、Bells, Boots And Shamblesの計画を一緒に練るために南へやって来たのだった。 “Bells, Boots And Shamblesのための明確な考えと計画を持っていたね。” マーティンは言う。 

“一つ言える事は、凄くクリエイティブでエネルギッシュな年だったってことだ。デヴィッド・ボウイはHunky Doryを引っさげて登場したしね。オースティン・ジョン・マーシャル(アルバムのライナーノーツを書いた)は僕にドリー・コリンズを紹介した。彼女はアレンジメントを担当してくれたんだ。実質スパイロジャイラは僕とバーバラのユニットになっていたけど、メンバーたちがアルバムのために戻って来くれたんだ。ゲストとしてだけでなく、親しい友人としてもね。素晴しい時期を過ごしたね。デイヴ・マタックスにとっても僕ら同様、彼のサードアルバムってことだ。彼もメンバーみたいなものだったな。ジョン・ボイスもプレイしたよ。彼はその当時ロンドン・フィルハーモニックの優れたリード・チェロ奏者だった。何千という中から10コのチェロを引き連れてやって来たよ。彼はよく言ってた、チェロ隊はこれからずっと僕を手伝うべきだってね。まるで音楽の全能なる神が僕らは後々まで理解されないことを予言しているかのようだったよ!”

“ヘンリー・ローサーも素晴しかったな。彼はトランペッターだった。スティーヴ・アシュリーはひょっこり現れてホイッスルを入れてくれたね。彼と僕はジョン・マーシャルと共に、バタシー・ブリッジロードで部屋を共有してた。スティーヴ・ハーレーは下に部屋を借りていて、よく立ち寄っては曲作りの議論をしたよ。二度とないだろうねあんな事は。バンドのメンバーはお互い自分の役割があって、何もかもうまくいってたし快適だったね。僕らは皆、音楽的レベルは高かったし、収まるべき時と場所にいたと思うね。ピンク・フロイドとキャット・スティーヴンスは僕らと同じエンジニア、ロビン・ブラックと一緒に僕らと同じモーガン・スタジオでレコーディングしてたよ。ロビンは素晴しいエンジニアさ。”

アルバム未収シングル‘I Hear You're Going Somewhere(Joe Really)’が、1973年4月発売のBells, Boots And Shamblesに先立ってリリースされた。しかしアルバムの方は、やはり一般的な反応は得られなかった。それでもなおこれは暗鬱な雰囲気と、知的な諦観とメランコリアを伴った優れたアルバムである事は間違いない。オープニングナンバーの‘The Furthest Point’は、カナダのコミュニケーション理論家マーシャル・マクルーハンの有名な格言、‘メディアはメッセージなり’にのっとったコッカラム典型の饒舌な論文である。そしてうまくアレンジされた楽曲は、難解、あるいは気取ったというよりは、悲しげで哀歌調である。

‘Old Boot Wine’、愛らしい小品‘Spiggly’そして‘An Everyday Consumption Song’のようなナンバーには、バーバラ・ガスキンのパートナー(コッカラム?)の愛、人生、政治そして‘間抜けさ’に至るまで、彼女の歌声にそれら全てが備わっている。しかしアルバム最大の聞き所は間違いなくバンドの最高傑作である、精巧に作られた4つのパートからなる組曲‘In The Western World’であろう。大胆不敵な発明品、哲学的で得体の知れない挑発的なこの曲は、正真正銘の大傑作であり、バンドの終焉に向けてのクライマックスに相応しいものだ。ついに頂点を極めるに至ったが、悲しいことにBells, Boots And Shamblesはその価値に対する敬意が払われるまでに実に20年間待たねばならなかった。

“単純なことだよ。このアルバムはレコード店に並ばなかったからね。” コッカラムは主張する。 “この時までにレコード会社は全く僕らを無視してたよ。” しばらくの間スパイロジャイラは、かろうじてよろめきながら続いていた。マーティン・コッカラムは彼の言うところのミニ・ロック・オペラ、25分の‘Sea Song’を書き上げた。その後彼らは、最終ラインナップ―コッカラム(ギター、ヴォーカル)、ガスキン(キーボード、ヴォーカル)、ジョン・ギフォード(フルート、サックス)そしてリック・ビダフ(ギター、ベース)で1974年のオランダツアーを敢行した。そして同年のロンドン・ラウンドハウスのコンサートをもって彼らは別々の道を歩むことになった。

バーバラ・ガスキンは英国のシングル・チャート・トップを走ることになったが、スパイロジャイラは悲しいことにまもなく内部崩壊が始まったのだった。バーバラは同じカンタベリー・シーンの頑固者キーボーディスト、デイヴ・スチュワートと69年以来知り会いだった。そして彼のバンド、エッグやハットフィールド&ザ・ノースのアルバムでバッキング・ヴォーカルとして参加していた。4年間インド、日本、東南アジアを旅した後、1978年に英国に戻り、バーバラはデイヴと組み音楽活動を再開させた。1981年にデュオはレスリー・ゴーアの‘It's My Party’を大幅にリアレンジして大ヒットさせた。このザ・スチュワート/ガスキンのチームは今日に至るまで続いている。

一方マーテン・コッカラムは長く曲がりくねった個人的、音楽的冒険に着手することになった。バンド崩壊に続いて彼はインド、タイ、バリ、ハワイに移り住むまでの間、馬と馬車でアイルランドを旅した。熱心なクリシュナ教徒である彼は、英国へ戻り最近はオリジナル・メンバーだったマーク・フランシスとニュー・スパイロジャイラとして活動を続けている。 “曲作りは終わったんだけど、レコーディングがまだなんだ。” 彼は言う。 “ドラムなんかの生楽器を加える必要があるんだ。で、ちゃんとしたスタジオでミックスしたいと思ってるよ。現在はリリースに興味を持ってくれるレーベルを物色中だよ。それから‘フェアリー・キング’の名でソロアルバムも制作中だ。”

興味を持たれたレコード会社の方々はfaeryking@gmail.comまで、マーテインへ連絡いただきたい。自尊心を持つミュージシャンとして、マーティンは前進あるのみだと信じて疑わない。とはいえ、このアンソロジーによって彼の輝かしくも殆ど大衆の目にさらされることのなかった70年代初頭の3枚のアルバムに我々の目は注がれるだろう。それはとりわけコレクター好みで魅力的な3枚によって示された、機知に富んだ発明品だった。はるかかなたの、英フォークロックにとって幸福だった時代に現れた素晴しい音楽であった。

デヴィッド・ウェルズ 2005年9月

以下の人々に感謝する:マーティン・コッカラム、バーバラ・ガスキン、デイヴ・スチュワート、リチャード・モートン・ジャック



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