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Specials/Specials/2002 EMI Records Ltd. 7243 5 37697 0 3



SPECIALS BY THE SPECIALS

1976年に爆発したパンクのエネルギーは、1979年の夏までにははるか彼方の記憶のように思われた。ザ・クラッシュ、ザ・バズコックス、そしてザ・ジャムのようなバンドが、新しいロック・メインストリームの正式な一員となった時、草の根の音楽シーンを支持する者たちは、何か新鮮なものに飢えていた。


ブリテン北方の町から見込みのありそうな波―ジョイ・ディヴィジョン、エコー&ザ・バニーメン、ザ・ヒューマン・リーグを含んだうねり―が出現したにもかかわらず、ブリティッシュ・ミュージックは1979年までにマンネリ化していた。そういった風潮は、創造力、社会性、そして娯楽性をミックスすることができるアーチストにとって絶好の機会だった。

ザ・スペシャルズ、あるいはその頃彼らが自ら名乗っていたザ・スペシャルAKAにとって、タイミングはばっちりだった。その2年前にコヴェントリーで、キーボーディスト/ソングライター/非公式なバンド・リーダーのジェリー・ダマーズ、ギタリストのリンヴァル・ゴールディング、そしてベーシストのサー・ホレス・ジェントルマンによって結成されたグループは、名前とメンバーを様々に変えたのち、1979年のあたまに固定メンバーとなった。

彼らは自らの名をザ・ジェイウォーカーズ、ザ・ハイブリッズ、ザ・コヴェントリー・オートマッチックスと次々に変え、ロックとレゲエのミクスチャーを試み始めていた。しかし1979年までに、彼らはパンクとスカの魅惑的な融合を成し遂げていた。セカンド・ギタリストのロディ・レイディエーション、シンガーのテリー・ホール、ドラマーのジョン‘ブラッド’ブラッドベリー、そして司会進行役のネヴィル・ステイプルズを加えた3人は、7人編成のウェスト・ミッドランズとなり、その力強いブレンドは、彼らの人種的混合の背景と様々な音楽的関心を反映していた。ネヴィル、リンヴァル、ホレス、そしてジェリーがレゲエ、ソウル、ファンクに熱中する一方で、ロディ、ジェリー、テリーはパンクのエネルギーに惹かれていた。テリーは以前、地元コヴェントリーのパンク・バンド、スクワッドに在籍していた。

ジャマイカン・ダブとレゲエは、オリジナルUKパンク・アーチストの多くに大きな影響を与えていた。ザ・クラッシュは1977年のセルフ・タイトルのデビュー・アルバムで、ジュニア・マーヴィンの‘Police And Thieves’をカヴァーしていた。しかしザ・スペシャルAKAが、ブリティッシュ・ポップに変革をもたらすことになるブルービートから新しいビートを創り出し、ロックとスカをうまくブレンドし推し進めた最初のバンドだった。ジェリー・ダマーズは当時語っている―「僕たちはスカに戻ったんだ。なぜなら、もともとローリング・ストーンズやスモール・フェイシズみたいなグループをルーツにしたブリティッシュ・ロックの拠りどころになっているR&Bに近いスタイルだからだ。僕たちにとっては明らかにスカが出発点だった」

スカは50年代後半にジャマイカのキングストンで始まった。そのルーツはアメリカのR&Bとカリブ諸島のアフリカン・トラディショナルだった。それはファッツ・ドミノやプロフェッサー・ロングヘアといったニューオリンズR&Bを、ローカルで置き換えたものとして始まったが、その土地固有のジャマイカン・サウンド―それ自体特有でわずかに煮えきらないようなリズムのよじれをもつ―がまもなく出現した。トロンボーン奏者のドン・ドラモンドやサキソフォニストのローランド・アルフォンソといった地元のジャズメンたちは、オフビート(拍裏)のリズムを強調させ、そのフォームはザ・スカタライツ、ザ・メイタルズ、ボブ・マーリーズ・ウェイラーズのようなスカ・グループの隆盛に土台を提供した。

ブリテンでは、スカは西インド諸島のコミュニティ外ではまだよく知られていなかった。しかし女性シンガーのミリーが1964年に放ったトップ10シングルの‘My Boy Lollipop’によって、そのジャンルは出現しつつあったモッド・ムーヴメントに受け入れられた。しかしながら、60年代と70年代が進行するにつれ、よりゆったりしたロック・ステディとレゲエのリズムが、ジャマイカン・ミュージックを支配するようになり、よりエネルギッシュなスカのビートは流行遅れとなっていった。スカの人気は衰えていた―ザ・スペシャルズが登場するまでは。

1979年にダマーズはいっている―「僕たちはスカタライツ、プリンス・バスター、メイタルズ、ハリーJオールスターズなんかの歌やインストゥルメンタルにささげた音楽を目指している。僕たちはモッズの真のスピリットをずっと維持したいと思っているんだ。ちょうどノーザン・ソウル・シーンがやったようにね」

しかしザ・スペシャルAKAは単なるトリビュート・バンドではなかった。70年代のブリティッシュ・ポップと交差した多くの‘リヴァイヴァル’アーチストたちの限界に慎重なバンドは、自身のマテリアルと時代物のマテリアルを結合した。彼らが1979年にロンドンのパブ・サーキットに進出した時、‘Nite Klub’や‘Gangsters’といったすぐれたオリジナル・ソングが、エネルギッシュなライヴに欠くことのできない重要な要素だった。‘Gangsters’が1979年3月にバンド自身の2トーン・レーベルからシングルとしてリリースされた時までに、ザ・スペシャルAKAは強力なライヴ・バンドとしての支持を打ちたてていた。

60年代のジャマイカのチンピラからその名を頂戴し、スペシャルズのファンたちは自らを‘ルード・ボーイズ’と名乗り、ローファーとスタ・プレス・スラックスをはき、2トーン色のスーツにブルービート・ハット(ポークパイ・ハット)をかぶった。新時代の夜明けはそれ自身の身なりの指針を要求し、ザ・スペシャルAKAと彼らのファンたちは然るべきスタイルを取り入れた。

‘Gangsters’は恐るべきデビュー・シングルだった。ダマーズが(クラッシュの)ジョー・ストラマーのギターを使って書き、プリンス・バスターの‘Al Capone’にインスパイアされていた。オープニングには‘つべこべいうな!’の叫び声と、車のブレーキ音が入っていた。700ポンドで制作され、もともとは5,000枚の限定プレスだったが、そのシングルは次第に勢いを増していった。8月にはトップ40に入り、リリース半年後の9月にはついに6位に達した。

‘Gangsters’は独立レーベルのラフ・トレードを通じて配給されたが、バンドは最終的にメジャー・レーベルのクリサリスと独自の契約を結んだ。クリサリスは彼らに、他のグループによる1回限りのリリース(ワンショット契約)権限を確約した。この画期的な契約は、アトランティック、スタックス、モータウンといったアメリカのソウル・レーベルの英国ヴァージョンへと、2トーン・レーベルを育てていこうとしていたダマーズの野心にかなうものだった。その夏を通じて急速に広がっていたスカへの関心の中で、レーベルは同趣向のバンドを発掘するのに容易い状況下にあった。

その年の終わりまでに、スカは国民的なダンス・ブームの中心となり、特徴的な白黒の2トーン・ロゴは、マッドネス、ザ・セレクター、ザ・ビート、そして女性グループのボディスナッチャーズらのポップ・キャリアを成功裡に導いていった。

しかしザ・スペシャルズ―今や彼らは自らをそう呼んでいた―はまず第一にミュージシャンであり、ミュージック・ビジネスはほとんど追加物のような事柄だった。そのことを証明するかのように、彼らは10月に2トーンからデビュー・アルバム、Specialsをリリースした。レコードはエルヴィス・コステロによってプロデュースされ、ザ・スカタライツのオリジナル・メンバーだったリコ・ロドリゲスとのセッション・ワークをフィーチャーしていた。こうして70年代のスカと60年代のジャマイカン・サウンドのつながりが、シンボリックに示されることになった。

コステロはプロデューサーとして適任だった。彼は以前に‘Watching The Detectives’によってレゲエへの関心を表明し、BBCラジオ1へゲスト出演した時に、昼間の番組で‘Gangsters’をエアプレイさせ、推薦した最初の人物だった。彼によるプロダクションは彼の手法によって大きくフィーチャーされた。リコと彼の相棒であるディック・カセル(Cuthell)のけたたましい貢献と、7人編成のグループによるめいっぱいの意気込みによって、アルバムはトゥー・マッチな印象を与えかねない出来だった。しかしコステロのプロダクションは緊張感と簡潔性を作り出し、エネルギッシュで強力なバンドのステージをうまく強調させていた。

スペシャルズをピリッと引き締めていたカヴァーの数々は、バンドのスカ・ルーツへの惜しみない賛辞を表していた。‘Monkey Man’と‘Do The Dog’が、狂暴なスカンク(レゲエに合わせて踊るテンポの速い踊り)・ナンバーであった一方で、‘Too Hot’、‘You’re Wondering Now’、そして‘A Message To You Rudy’(1979年10月に彼ら2枚目のトップ10シングルとなった)は、哀調を帯びたロック・ステディのグルーヴを切り開いていた。しかしグループがいつまでたっても消えない評価―使い古した陳腐なリフを単に再生産しているだけ―を蹴散らしたのが、オリジナル・ソングの数々だった。パンクのエネルギーとジャマイカン・リズムの衝突は、とりわけ‘(Dawning Of A)New Era’と‘Nite Klub’で飛ぶように疾走していた。後者はもともとバンドのファースト・シングルとして指定され、プリテンダーズのシンガー、クリッシー・ハインドをフィーチャーし、スカとパンクの模範的融合だった。

他においては、歌の数々は1979年当時における若者たちの日々の生活を反映していた。‘Too Much Too Young’と‘Little Bitch’は辛らつだが、偽りのない家庭内の出来事だった。‘Blank Expression’(うつろな表情)は、‘being blanked’(異性のメンバーの‘うつろな状態’―【訳注:クリッシーのヤク漬け状態のこと?】)ということばを一般的な用語に当てはめたのかもしれない。‘Concrete Jungle’は都会のギャングたちの暴力をテーマにし、‘It’s Up To You’と‘Doesn’t Make It Alright’は力強い意思表明だった。バンドの音楽に対する第一義の姿勢は―‘好きだろうが嫌いだろうが、俺たちはおかまいなくやり通す’であり、2番目が人種差別主義への明確な糾弾だった。むずむずするような社会的良心がバンドのレコードに進行する一方で、アルバムにはユーモアも健在だった。‘Stupid Marriage’(ばかげた結婚)ほどそれを感じさせるナンバーはないだろう。これはネヴィル・ステイプルズが熱く演じる法廷ドラマだった。そこではジャッジ・ラフネック(コロラド州デンヴァーのレゲエ・バンド)が1人のルード・ボーイに宣告し、その少年は元ガールフレンドに対し、彼女が中産階級の男と再婚したことを激しく非難しながら、独房へ送られる。

60年代黄金期のデザインでパッケージされたアルバム(ごく少数のプレスはSpecialsの‘c’を落として印刷され、あからさまに‘移転効果’((transfer effect))を狙っていた)は、すぐに成功を収めた。アルバムは11月の初週に4位に達し、ほとんど1年間トップ40をキープした。‘Too Much Too Young’のライヴ・ヴァージョンが続いてリリースされ、最初のナンバー1ヒットとなった。ちなみにもう1つのナンバー1ヒットが、1981年の不気味ですぐれた‘Ghost Town’だ。

成功に自信をつけたバンドは、1979年の終わりに向けて野心的な英国ツアーにとりかかった。ザ・セレクター、マッドネスとの共演でヘッドライナーとなったスペシャルズは、いかなるライヴァル・バンドもさしおいて、60年代のUSソウル・レヴューのスピリットでそのツアーを指揮した。

2トーン・ツアーはスカが全国的現象となっていたことを証明した。Club Ska 67のような古いアルバムが再発され、スカは目抜通りの店で売られる白黒の市松模様の衣服とともに流行の最先端となった。ローファー、ボタンダウン・シャツ、2トーン・スーツは安く簡単に買うことができた。2トーン・スタイルにエリート主義の要素はなく、誰でもザ・スペシャルズのメンバーのように見えたし、女であれば誰でもボディスナッチャーズのメンバーのように見えた。

1979年11月8日に、ザ・スペシャルズ、マッドネス、ザ・セレクターがトップ・オブ・ザ・ポップスの同じ枠組の中で総出演した時に、スカの復活が強く印象づけられた。UKスカがカルト的ステイタスを抜け出し、オーヴァーグラウンドへと飛躍し、センセーションを巻き起こした決定的瞬間があるとすれば、それがその時だっただろう。

ジェリー・ダマーズにとって、そのムーヴメントは彼の高いアーチスト的ヴィジョンの裏付けだった。しかし例によって、ザ・スペシャルズはすでに先を見据え、次のステップを企てていた。翌年になると、彼らはスカ・ルーツから遠く離れ、新しい領域へと踏み出すことになった。その旅路はいっそうおもしろくなりそうな気配を見せていた。

エイドリアン・スリルズ


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