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Soul Children:Genesis/Friction/1999, Fantasy, Inc. SCD-88038-2



1990年代においてソウル・ミュージックに対する関心が復活したにもかかわらず、その火を吹くようなソウル・チルドレンの音楽は、オールディーズほど地域のラジオでも流れず、コレクターズ・マガジンや音楽書の中でも彼らの素晴らしく価値ある音楽はそれほど注目を浴びたことがなく、罪深くも未だに正当に評価されないでいる。こういった評価の大部分は、1968年から1978年の間にビルボードのR&Bチャートに15枚のシングルを送り込んだにもかかわらず、ポップ・トップ100にはかろうじて3枚だけが入ったのみだという事実からきている。うち最もヒットしたのが1974年の“I’ll Be the Other Woman”で36位であった。アフロ・アメリカン・コミュニティの間では崇拝されていたが、白人たちの間ではその存在すら知られていないのである。これはなおさら残念なことだ。

もしグループが数年早くデビューしていたら、かなり違う状況になっていただろう。例えば1965年から1969年の間にサム&デイヴもまたメンフィスの名高いスタックス・レーベルからレコードをリリースし、ビルボードのR&Bチャートに12曲を送り込み、どれもがポップ・チャートにも食い込んだ。大雑把にいえば、ポップ・ラジオは1968年を境に、より全ての人種に等しく開放されそれは6〜7年間続くことになった。70年代の最後の5年間はディスコの出現によりブラック・ミュージックはさらにポップ・チャートに頻繁に顔を出すようになった。運よくソウル・チルドレンはそれら2つのポップ界の受容性が高まった時期にキャリアをスタートさせピークに達した。しかし結果的に彼らのレコードは、白人リスナーの耳を引きつけることはほとんどなかった。

何が皮肉かといって、グループはサム&デイヴのゴスペル・ルーツ的な価値観を持った後継者としてプッシュされたことだろう。ソウル・チルドレンはアイザック・ヘイズとデヴィッド・ポーターの発明品であった。1966年から1968年にかけて、ヘイズとポーターはサム&デイヴを人類に知らしめることになった炎のようなソウルを創出した。“Hold On I’m Comin’”、“Soul Man”、“When Something Is Wrong with My Baby”そして“I Thank You”のようなヒット曲は、1960年代の最後の5年間においてソウル・ミュージックの何たるかを決定づけたのである。1968年5月、スタックスはアトランティック・レーベルとの配給契約を切り独立した後、衰退していくことになった。スタックスはサム&デイヴをその巨大なニューヨークのレコード会社に持っていかれ、最も大事なアーチストを失ったヘイズとポーターも去っていった。

この頃ヘイズとポーターは、他のアーチストを育てるための数ヶ月間を過ごしていた。とりわけ彼らはJ. Blackfootのステージネームでよく知られるジョン・コルバートと共に働いていた。どういうわけか二人はソロ・アーチストとしてのブラックフットの作品に満足していなかった。一方、問題を話し合った彼らはサム&デイヴのデュオとしてのフォーマットを模写し、それを二人の男性、二人の女性という4人編成に拡張するという巧妙なアイデアを思いついた。

彼らが次に白羽の矢を立てたのがノーマン・ウェストだった。ウェストは1963年以来メンフィスでプロのシンガーとして歌っていた。最初はウィリアム・ベルの初期のグループ、the Del-Riosとして、次にソロ・アーチストとしてフラミンゴ・ルームのオーナー、クリフォード・ミラーのChristyレーベルに1枚のシングルを残し、続いてHiで2枚のシングル、Hiの姉妹レーベルM.O.Cに1枚、マーキュリーの姉妹レーベルSmashに2枚のシングルを残していた。少なくとも最後の1枚は共同プロデュースとしてカーチス・ジョンソンが参加していた。彼は以前、過小評価されていたスタックスのヴォーカル・グループ、the Astorsの一員であった。

ヘイズとポーターがウェストに接触した時、彼はメンフィスのDown Under Clubで定期的にギグを行なっていたR&B/ロックのColors Incorporatedでフロントマンを務めていた。そしてヘイズとポーターは男性シンガーのいたその場所に同等に立っていた女性シンガーに注意を向けた。ポーターはその頃17歳のアニタ・ルイスのヴォーカルに参っていた。彼女は地元の黒人向けラジオの主要局WDIAで由緒あるTeen Town Singersの一員として歌っていた。正直ルイスの母親のOKが出るまでは少し心配であったが・・・

彼女を獲得したのち、グループ4人目のメンバー、シェルブラ・ベネットはすんなりと決まった。フランミンゴ・クラブでメイン・アクトを務めていたジーン“ボウレッグス”ミラーのバンドを辞めた彼女は、たまたま通りかかったスタックス・スタジオにオーディションを受けに入っていった。“こんなラッキーなことなんてあり得ると思う?”デヴィッド・ポーターは笑う。“シェルブラが入ってきて歌ったんだけど僕らはこれだ!と思ったね。”

ヘイズとポーターはグループのデビュー・アルバム(‘Soul Children’)と5枚のすぐれたシングルを書きプロデュースした。この後へイズは自らスーパースターの道を歩み、曲を書いたり他のアーチストをプロデュースすることはなくなってしまった。ポーターは新しいソングライティング・パートナーでセッション・ミュージシャンのロニー・ウィリアムズと共にアルバムthe Best of Two Worldsに加え、続くソウル・チルドレンの3枚のシングルを書きプロデュースした。ポーター/ウィリアムズによるシングルはどれもチャートインせず、ポーターは個人的な問題を抱えていた。スタックスのオーナーの一人、ジム・スチュワートは変化する時だと考えていた。続いて1971年夏から1974年の間にレコーディングされリリースされたアルバムがGenesisとFrictionだ。その2枚がこのコンピレーションの主役だ。

1971年8月、スチュワートはグループのためにソングライター・チームであるホーマー・バンクス、カール・ハンプトンそしてレイモンド・ジャクソンをスタジオに送り込んだ。3曲がレコーディングされ、うち未発表だった“It’s Only Natural”と“Come Back Kind of Love”は2年以上あとのシングル“I’ll Be the Other Woman”と“Get Up About Yourself”のB面で日の目を見た。

最後の1曲は以前からソウル・チルドレンのためにバンクス、ハンプトンそしてジャクソンが特別に書き下ろしていたファンク・グルーヴあふれるナンバーだった。バンクスによると、3人はスタックスと契約したアーチストに個別に曲をストックし、そのアーチストを特徴づけていったようだ。この考えは想定しうるどんな企てにも彼らがすぐにふさわしいグループ、楽曲を提供できるような準備であった。“Get Up About Yourself”は結果的にアルバムGenesisのラストに収録されることになった。ディグ・レイモンド・ジャクソンのガッチリしたリズム・ギター・パートはこのコンピレーションの中で最も明確なコントラストを与えている。

9月に行なわれる次のソウル・チルドレンのセッションのために、スチュワートはプロデューサーを彼自身とブッカーT. & The MGsのドラマー、アル・ジャクソンが務めることを決めた。続く数ヶ月間彼らはサード・アルバムGenesisのために残る9曲のトラックをレコーディングした。

グループに関する限り明確な変化が一つあった。“ここで初めて僕たちはグループとしての創造性を追求するようになったんだ。”ノーマン・ウェストは説明する。“ジムがある提案を出して、僕らがそれを自分たちのアイデアと相互作用させて彼が受容できるような形に仕上げていくんだ。僕らが違ったことを試す時は、ジムとアルがそれを聴いてから全員で座って話し合った。チーム一丸となってたね。”

ジム・スチュワートにとっては何年も前に彼がいちるの望みをかけてスタートさせた会社は、思い切った変化を遂げていた。ブッカーT. & The MGsの解散によって彼はスタジオでの仕事に喜びを見出せなくなっていた。実際スチュワートは1967年から1971年の終りまで一つもプロデュースを行なっていなかった。彼がスタジオに戻ってきた時に見たものは、彼が作り、育て上げ、心から愛していたスタックスの魅力的なサウンドが、現在のメンバーのほとんどにとっては過去のおぼろげな記憶となっていたことだった。

Genesisの編集作業の時にある事件が起こった。“ジム・スチュワートが僕にある1曲をカットさせたがっていたんだ。”エンジニアだったピート・ビショップは回想する。“僕はカットしたやつをすごく気に入ってた。エンジニアのラリー・ニックスもそこにいたんだが彼も同じだったよ。僕たちはジムと話して最後にラリーがこんな風なことをいった。‘ジム、この曲をカットするときっと白人層のセールスまでカットされてしまうよ。’ってね。ジムはラリーをじっと見て自分のかかとを床にピシャッと叩きつけていった。‘白人にレコードを買ってもらわなくてもちっともかまわない。’彼は足を踏み鳴らして振り返っていったよ。‘私にこれ以上これを聴かせるなら君はクビだ。’ってね。かなりドラマチックな場面だった。僕はジムがあんなに怒ったのは見たことがなかったから。その日の午後アル・ジャクソンにジムがこれをカットして台無しにするんだと伝えたら、アルはいったよ。‘ああ、同感だ。でも彼の命令だ。’アルはジムと議論するつもりはなかったよ。”

“会社は彼の子供だから。”ウェストは笑う。“つまり彼はスタックスがつかみとったものから離れたくなかったんだ。”その点においてソウル・チルドレンの魅力は全く統制がとれていた。“僕らはいつもそうだったよ。”ウェストは続ける。“もし教会の雰囲気がなくなってしまうってことを言ってたんだとしたら、確かに僕たちはトレードマークを失うって事になるね。”

あらゆる点でスチュワートとジャクソンはプロデュース・ワークにおける舵取り役だった。Genesisのセッションは1960年代のスタックスがそうであったように、共同作業とゴスペル的価値観が染み込んだサウンドに戻っていた。Genesis自体がソウル・チルドレンの7枚のアルバムのうちで最もヘヴィなゴスペル・フィーリングにあふれていた。

アルバムのセッションは9月に本格的に始まり、1971年11月まで続いた。スチュワートとジャクソンが直面した大問題のひとつは、この時までのソウル・チルドレンは誰であろうと常に曲を書いた者が彼らのプロデュースに当たっていたということだった。ジム・スチュワートは1950年代の終わり以来曲を書いていなかったし、アル・ジャクソンもめったに書かなかったため、二人はふさわしい楽曲を見つけるか要求する必要があった。

最初にレコーディングされたのはアルバムを象徴する8分半の“I Want to Be Loved”だった。元々この曲はウィリー・ハイタワーがフェイム・レコーズに吹き込んでいた。彼は声の響きがJ. ブラックフットと異常に似ていた。

一方ハイタワーのレコードをカヴァーすることを提案したのが誰だったのか誰も覚えてはいないが、この曲を練り直して拡張するアイデアを思いついたのがアル・ジャクソンであった。レコーディングのリズム・セクションは、バーケイズのジェイムス・アレキサンダーがベース、元バーケイズのマイケル・トールズがギター、バーケイズのマネージャー、アレン・ジョーンズがオルガン、そしてスタックスへの参加は珍しかったハイのセッション・ドラマー、ハワード・グライムスから成り立っていた。

ソウル・チルドレンのヴァージョンは、4人が極めて雰囲気のある1分半のイントロダクションの中で、“ooh”という音節を歌いだすところから始まる。そしてめいっぱいスローな4分の3拍子へと絶妙に変化し、オルガンの伴奏にのってアニタ・ルイスの高く気息の交じったパートとシェルブラ・ベネットの力強く低いパートが調和しながらタイトルを歌う部分は、当に教会賛美歌そのものである。シェルブラは最初のヴァースを歌い、再びタイトル部でアニタが参加している。少しの語りが入った後、ブラックフットが“Wait a minute baby,”とトレードマークであるぎょっとするような激しい叫びを上げる。続いて次のヴァースから彼がリードを取るのである。もうワン・コーラスを歌ったあと、メンバー全員が最後のセクションへ向けてメインのタイトル・リフである“I want to be loved”16小節へとなだれ込む。ブラックフットの感情をあらわに見せるかのようなヴォーカル、デイル・ウォレンの見事なストリングス・アレンジ、マイケル・トールズのゴスペル調のギター・オブリガートが一体となって2分の間、何度も何度もメインの2小節リフが繰り返される。そして今度は“Oh, I saw a rainbow.”と歌われる。これら全てが終わると4人のメンバーはリズム・セクションがさらに盛り上がる中、アドリブによるフェイクへと突き進むのである。このクライマックス部分により生み出された緊張感はほとんど耐えられないほどのものがある。

“この曲は僕たちの創造性が凄く発揮されたうちの一つだね。”ウェストは主張する。“この曲がうまくいくには全員の力が必要だったんだ。エンディングは完全に自然体で自発的なものだった。みんなのヴォーカルはアイ・コンタクトによって入ってくるんだ。誰かがマイクに近づいた状態で声をゆるめると、続いて他の誰かが歌い始めるっていう具合だ。その時彼はそれにつけ加える言葉を完全に分かっているんだ。それは僕らの内面から湧き出てくる真の創造性だったね。そう、まさに教会にいるような感じだ。生気をみなぎらせるようなものだった。僕らがいつも探し求めていたものだ。”

今日まで私はリズム・セクションとヴォーカルが完全に別々に録られたことをにわかには信じられなかった。メンバーとベーシック・トラックの相互作用の水準はオーティス・レディングやサム&デイヴがスタックスで行なったようなバックとの一発録りにほとんど近い一体感があったからだ。70年代初頭のソウルはこの点において60年代よりも劣っている。

アルバムの残りは首尾一貫している。10月最初の週にアル・ジャクソン、彼のMGsの相棒でベーシストのダック・ダン、セッション・ギタリストのボビー・マニュエルとレイモンド・ジャクソン、そしてキーボード・プレーヤーのジョン・ケイスターはスタジオに赴き、“Don’t Take My Sunshine”、“Just the One(I’ve Been Looking For)”、そして“All Day Preachin’”をレコーディングした。前者はデトロイトのシングライター、ボビー・ニューサムによって書かれ、マッスル・ショールズでジョニー・テイラーのアルバムOne Step Beyondで録音していたプロデューサーのドン・デイヴィス経由でスタックスに持ち込まれた曲だ。ウェストによれば、ソウル・チルドレンはテイラーのヴァージョンはよく知らなかったらしい。フットが最初のヴァースを受けもち、ウェストが2番目をなでるように歌う。そしてシェルブラが偏在するオルガンの上で新しく書かれたブリッジ部分を芝居がかったように歌う。“Just the One(I’ve Been Looking For)”もカヴァーだ。スタックスのシンガー、エディ・フロイド、ブッカーT. & the MGsのギタリスト、スティーヴ・クロッパーそしてスタックスの副社長アル・ベル(本名はAlvertis Isbell)によって書かれ、これもフットとウェストがリード・ヴォーカルを分け合い、コーラスの前半のみ二人のハーモニーで成り立ち後半のタイトル部分にのみ女性たちが加わっていた。フットとウェストが“Sweet you, sweet you, nobody, nobody, nobody, nobody, else will do.”と歌うときに、あるフックが効いている。“You”に最も奇妙な発音がなされ、それは“chew”に近づいて聞こえるのである。

“僕らは常に口語表現を使おうとしていたね。”ウェストは笑う。“僕らはそこの部分でも切らずにリスナーがそういったDeltaの慣用句である‘sweet chew’(甘いおしゃべり?)を連想して僕らと一体になれるように心がけたんだ。僕らを支えてくれる聴衆が連想するカントリー・フィールを生かすために僕らは話し言葉を使いたかったんだ。”

ウェストが実際に使った“sweet chew”のラインはレーベル仲間のジョニー・テイラーの作品からきていることはかなり確かなことだ。彼はまたジム・スチュワートがこういった雰囲気を好んでいたことを回想する。“あの頃ジムの中でオーティス・レディングは終わってなかったんだ。”ウェストは説明する。“なぜならオーティスはそういった口語表現を使ってとても成功していたし、僕らが同じようなことをしたらスチュワートは夢中になってたからね。彼はそこからスタックスが築き上げたものを守り抜こうとしていたんだ。”

“All Day Preachin’”はベティ・クラチャーとボビー・マニュエルの傑作だった。クラチャーは長年のソウル・チルドレンのファンであったが、デヴィッド・ポーターが彼らをプロデュースする間はグループの道を切り開くのはほとんど不可能に近いと思っていた。そしてスチュワートとジャクソンが担当することになり、彼女はこれに参入する準備を十分に整えていた。曲を創る時は、とりわけ豪華なスタックスでのランチ・タイムでジム・スチュワートがざっくばらんに説明するところから始まった。

ベティ・クラチャーはある話を取り上げている。“ジムのよく使っていたフレーズ、‘食事をしながら一日中話し合う(説教する?)’っていうのは私たちがみなで楽しい時を過ごすって意味なのよ。誰かが‘それは曲になる!’っていうと私たちも‘うんうん!なるなる!’っていってボビーと私はさっそく曲を書き始めるの。もし小さな教会に行ったことがあるなら彼らが務めの後どんなふうにくつろぐか知ってると思う。教会が閉まった後、シスターたちはみな地下の部屋でくつろいでビールや夕食なんかの用意をするのよ。ここが大事なんだけど、みんなはフライド・チキンやポテト・サラダやごちそうのおしゃべりを始めるってわけ。そういう経験が後々プリーチに役に立つってことは私たちはみんな知っていたわね。”

クラチャーの詞は南部の黒人文化の中心にあるコアとなっている体験のひとつを完璧にとらえている。それは2番目のコーラスにある“礼拝の楽しみと木陰”部分で言及されるような神秘的な言い回しだ。一般的に田舎の礼拝堂は自由に楽しめるようなピクニックを催していた。それはコミュニティへの参加と同時に布教の一環となっていた。フットは最初と4番目のヴァースをとり、アニタは2番目のヴァースを完璧にこなす。一方ウェストは3番目を受けもっている。曲はまた60年代のスタックス・サウンドを思わせるようなホーン・アンサンブルをフィーチャーしている。

クラチャーとマニュエルが曲を書き上げセッションの場に持ってくると、スチュワートは意気揚々としていた。ノーマン・ウェストも同様であった。“僕は本当にその描写的な曲が好きだったんだ。”ウェストは断言する。“すごくリアルだったんだ。ベティに言ったよ。‘君はよくやったよ’ってね。”

クラチャーとマニュエルはまた“It Hurts Me to My Heart”も提供した。これは彼らが以前からソウル・チルドレンがレコーディングするチャンスを見込んで少しずつ書いていた曲で、“All That Shines Ain’t Gold”、“Hearsay”、そして“I’m Loving You More Everyday”と共に10月の終わりに向けてレコーディングされた。アル・ジャクソン、ダック・ダン、ボビー・マニュエル、レイモンド・ジャクソンそしてジョン・ケイスターがこの特別なセッションに参加し、ピアニストのマーヴェル・トーマスはピアノとオルガンを並列させた。彼のサウンドは60年代の最高のスタックス・サウンドを決定づけるのに一役買っていた。

“hearsay”はグループのメンバーであるブラックフットとウェストが作った初のシングルであった。この二人のシンガーはずいぶんの間曲を書いていたが、どうやら会社で彼らの曲に興味を示すプロデューサーが見つからなかったらしい。

“ブラックフットは僕に電話をかけてきたんだけどすごく興奮してたな。”ウェストは回想する。“彼はいったよ。‘男と女ってのはいつも問題を抱えてるもんだよな―「彼がこう言った、彼女がああ言った」ってさ。わかる?’ってね。僕はその通りだっていったら、彼は‘わかった、わかったぞ!’っていったんだ。すごく興奮してたね。で、彼は電話で最初のヴァースをもう一回繰り返したんだ。僕はいったよ。‘こっちへこいよ。僕はベース・ラインを考えるから’ってね。”

ウェストはすぐにファーフィサ・オルガンに向かうとベース・ラインと基本のリズム・パターンを思いつき、一方ブラックフットはそこへ向かう途中の車の中でセカンド・ヴァースを書いた。次のステップはスタジオAでスタックスのスタジオ・ミュージシャンとレコーディングする前に、スタジオCで4トラック・マシンを使ってロード・バンドと共にデモ・テープを作ることだった。

ウェストは話を繰り出す。“僕らがスタジオに入ると、いつもの調子でスタジオ・ミュージシャンたちがデモ・テープに沿ってプレイするだけで僕たちは何もすることがなかったんだ。ベース・ラインはかなり難しかったね。僕らのロード・バンドのベース・プレイヤーは親指を使って弾いていたけど、(MGsのベーシスト)ダック・ダンはそういう風には弾かなかった。ダックは指先(人差し指、中指)を使ってた。彼は僕らのベース・プレイヤーほど速く弾けなかったからテンポを落とさなきゃならなかったんだ。このフレーズは彼にとってフィンガー・テクニックを必要としたから長い間弾くと彼の指は痙攣を起こしてしまったよ。全て録り終えるまで16時間かかったね。”

習慣に沿ってブラックフットがリード・ヴォーカルを取った。ノーマンのヴォーカルはアニタとシェルブラがタイトル・ラインを歌う中でハーモニーをつけている。レコード上ではブラックフットとシェルブラ・ベネットの間のラップで終わっていた。どうやらジム・スチュワートとアル・ジャクソンは“オペラ仕立て”を提案し、二人のシンガーはその役を演じていたようだ。このセクションはノーマンが3番目の役回りを演じ観客をけしかけ、彼らのギグにおいて必ず満場をうならせていた。もうひとつ注目すべき点は、リズム・トラックがレコーディングされた1ヵ月後に5人のメンフィス・ホーンズによるシンコペイトしたホーンがダビングされたことだ。1972年2月、“Don’t Take My Sunshine”をB面にシングルとしてリリースされ、“Hearsay”はR&Bチャート5位、ポップ・チャート44位というこの時点でのグループ最大のヒットとなった。

バリトン・サックス・プレイヤーのジェイムス・ミッチェルによる“I’m Loving You More Everyday”は、アニタ・ルイスが曲のかなりの部分でリード・ヴォーカルを取る珍しいケースだ。彼女はミッチェルの描いた日に日に盛り上がる愛への賛歌に対し、その苦しみを見事に演じることによって大傑作として昇華させている。

マッド・ラッズのリード・シンガー、ジョン・ゲイリー・ウィリアムズとKokoのアーチスト、トミー・テイトは感情溢れる“All That Shines Ain’t Gold”を書き上げた。明らかにサム&デイヴの独創的なソウル・バラッド、“When Something Is Wrong With My Baby”がモデルとなっていて、再びフットとウェストがリード・ヴォーカルを分け合っている。2小節の循環パターンの上に組み立てられているが、実はそれが最も重要な部分だ。4人のメンバーはここではシンプルにゴスペルを歌っている。それぞれの繰り返し部分はどんどんと激しさを増し、エンディング部で頂点に達している。

“この意味(2小節アドリブの繰り返し)はぐずぐずするなってことをいってるんだ。”ウェストは説明する。“僕らはやりたいようにやったし、それだけしか考えてなかったね。曲が進むにつれどんどんと高いところへと激しさは増していく、ただこれだけさ!”

Genesisの残るトラックはエディ・フロイド作の“Never Get Enough of Your Love”だ。これは1971年春、ジャマイカのバイロン・リーのスタジオで書かれレコーディングされた。その時の旅は同時にMGsのシングル、“Jamaica, This Morning”も生み出した。メンフィスでの歌入れはシェルブラが最初と2番目、ウェストがブリッジ部の語り、フットが最後のヴァースを受けもった。それからフットはシェルブラとアニタの繰り返しのコーラスにアドリブを加えた。その効果はただただ素晴らしかった。

1972年2月にリリースされたGenesisは、4月8日にビルボードのソウルLPチャートに入り、12週間居座り続け最高36位まで上がった。奇妙にもアルバムは2年後の1974年2月23日に再度チャートに入り、6週間圏内にとどまり今度は48位まで上がった。以来このアルバムは名作としての地位を確立している。

Genesisを追って3枚のLP未収シングル―うち2曲がジム・スチュワートとアル・ジャクソンによるプロデュース、1973年6月の“Love Is a Hurtin’ Thing”がジョン・ゲイリー・ウィリアムズとカール・ハンプトンによるプロデュースだった。この時点でホーマー・バンクスとカール・ハンプトンがグループを受けもっていた。そして生まれたアルバムが10年間のうちで最もグレイトなソウル・アルバムの1枚、Frictionだった。

バンクスはグループの方向性を変えることを決意した。“ブラックフットが伝統的にソウル・チルドレンのリード・シンガーだった。”この才能あるソングライターは説明する。“僕はいったよ。‘このグループはリード・シンガーでいっぱいだ。新しい領域にチャレンジできるんじゃないかな?’ってね。リード・シンガーを変えてみれば彼らのマーケットは広がるはずだった。僕はフラミンゴ・クラブでシェルブラの歌をよく聴いていたから彼女が歌えることは知っていた。だから彼女にその曲を歌ってほしかったんだ。僕らは他のメンバーでなくシェルブラこそがマーケットにアピールできると考えていたんだ。僕らは彼女がグラディス・ナイト・アンド・ザ・ピップスが売れたように売れるはずだと思った。で、彼女は本当に成し遂げてしまったよ!その曲によって彼らは以前には決してギグができなかったところへも出演することになった。”

バンクスはグループの新しい方向性に固執し、つとめて彼らの初期スタックス音源は聴かないようにしていた。“僕は断固としてそのことは忘れて曲を書いたね。”彼は主張する。“彼女がかつてソウル・チルドレンで歌ってきた曲は聴かないようにしてた。僕は彼女がクラブで歌っていた頃のことを念頭に置いて曲を書いたんだ。僕は言ったよ。‘そう、僕は彼女によって新鮮さを持ち込みたいんだ。なぜなら彼女ならできるからさ。’で曲を書き始めると僕の心に過去のできごとが甦ったんだ。フレッシュなサウンドがほしかった。以前のヒット・レコードにはないようなね。そのサウンドはフラミンゴでの彼女のステージが基になっているんだ。彼女はいつも鼓舞するように歌っていた。彼女の声の響きは素晴らしかった。アニタは本当に高くてクリアな声を持っていたが、僕はよりロマンチックなアプローチを見せるシェルブラの声が好きだったし、レコード上ではそれがよく伝わるんだ。僕にとってそれは純真なサウンドだったんだ。”

一度彼は優れた楽曲にするために、カール・ハンプトンと組む前にあるコンセプトを持って、女性によって歌われる詞を書いた。その結果できたのが絶品で感動的な“I’ll Be the Other Woman”だ。完成したその曲を携えて1973年9月12日、MGsのリズム隊アル・ジャクソンとダック・ダン、ボビー・マニュエルそしてオルガニストのカーソン・ウィットセットによってリズム・トラックがレコーディングされ、ピアニストのレスター・スネルによってさらに補完された。トラックはどの部分をとっても注目すべきものとなった。まず第一がボビー・マニュエルのリヴァーブのかかったワウ・ワウ・ギターとダック・ダンの思慮深く控え目なベース・ラインだ。一ヵ月後アレンジャーのジョニー・アレンはスタジオに分厚い7人編成のメンフィス・ホーンズを連れてきた。それは1970年代のスタックスにおいて最も豊富なホーン・アレンジメントとなった。ルイス・コリンズは2番目のヴァースでシェルブラの歌にテナー・サックスで応えている。

リズム・セッションとホーン・セッションの間に、リード・ヴォーカルを録るためにバンクスはシェルブラをスタジオに連れてきた。彼はシェルブラが曲に対して十分な準備ができているかどうかいくらか心配していた。ウェストとバンクスによると、シェルブラはスタジオでしりごみがちで、全く彼女の力量を発揮できなかったらしい。その結果バンクスは彼女が歌うときメンバーをその場に居合わせないようにし、一人で歌わせることにした。“僕はいったんだ。‘僕が彼女に話して気合いを入れさせてやることができると思うけど、それは彼女一人きりの状況じゃないとダメなんだ。’ってね。僕は彼女が成長する姿をずっと見てきたから彼女のヴォーカル形成の過程を知っていたんだ。ああいうタイプの歌が彼女のパーソナリティに向いているってこともね。”

次の問題はグループに問題を引き起こさずに彼らにこのアイデアを示すベストな方法を考え出すことだった。バンクスはまずグループのスポークスマンであったノーマン・ウェストにアプローチし、ウェストがシェルブラを一人でスタジオに来るよう促すことを提案した。そして彼女のリード・ヴォーカルを録った後、残りのメンバーを連れてきてバッキング・コーラスをつけるというものだった。なるほどこれはグラディス・ナイトのシングルでのザ・ピップスのやり方を強く思い出させるものだった。

結果全体として以前のソウル・チルドレンとはほとんど思えないほど素晴らしい出来となった。バンクスは話を続ける。“ヘイズとポーターは彼らをサム&デイヴのようにしたかったんだ。なぜなら彼らはそれで大成功したわけだからね。確かに彼らの作品は強力なエネルギーを持っていた。とてもゴスペル的なね。サム&デイヴのフォーマットはヘイズとポーターの感情の形を表わしていたんだ。でも僕のそれは違っていた。僕はヘイズとポーターとは違う聴き方をしたんだ。”

その違ったアプローチは、バンクスが思い描いていたよりもさらにうまくいった!ノーマン・ウェストは翌朝かかってきた彼からの電話を覚えている。“僕は現場に向かったよ。”ウェストはニヤリと笑いながらいう。“僕はどんなサウンドが飛び出すか興味津々だった。彼はいったよ。‘座った方がいいよ。なぜなら君をノックダウンさせてしまうからね。’ってね。聴いたとたん涙が出たね。なるほどって思った。僕はこういった。‘これだ!ついにやった!’シェルブラは本当に釘付けにさせてくれた。あれは彼女の人生のうちで最高の一場面だったな。”

共作者のカール・ハンプトンは“I’ll Be the Other Woman”を、ハンプトン、バンクス、故レイモンド・ジャクソンがその1年以上前に書いたルーサー・イングラムの大ヒット曲、“(If Loving You Is Wrong)I Don’t Want to Be Right”にインスパイアされたものと考えた。しかしバンクスはその曲との関連について故意はなかったと感じている。どちらにせよ“I’ll Be the Other Woman”はバンクスの書いた中で最高の詞のひとつであり、不義の愛(不倫)を尊ぶ気持の深さを並外れて表現していた。

2年前にレコーディングされていた“Come Back Kind of Love”をB面に、“I’ll Be the Other Woman”はシングルとして1973年11月にリリースされた。これはR&Bチャート3位、ポップ・チャート36位のヒットとなり、ソウル・チルドレンの素晴らしいキャリアの中で最も商業的成功を収めた瞬間であった。一言つけ加えれば、オリジナル・アルバムとシングル・リリースでは“I’ll Be the Other Woman”のプロデューサーとしてバンクス、ハンプトン、そしてアル・ジャクソンのクレジットが記載されていた。ホーマー(バンクス)は、ジャクソンはセッションでドラムを叩いたのみで実際のプロデュースは行なっていないと主張する。

“I’ll Be the Other Woman”がチャートを上がったことによってバンクスとハンプトンは続くLPをコンセプト・アルバムに変更することに決めた。“いや、曲を書き始めた最初の頃からだよ。”バンクスは主張する。“僕はアルバムは最初から最後までひとつのコンセプトを持つべきだと考えていたし、人々が共感を持つ共通のテーマにトライしていた。Frictionで僕らは本当にそれを実践したんだ。”

かつてバンクスとハンプトンはコンセプトの中心として浮気をテーマとすることに同意していた。そして誰かが“It’s Out of My Hands”のことを思い出したのだった。これは彼らと故レイモンド・ジャクソンの共作で、1972年7月にマッスル・ショールズでレコーディングされ、当時のソウル・チルドレンの次のシングルのB面に起用されることになっていた。しかし何らかの理由でこの曲はリリースされなかったのである。再びシェルブラがリード・ヴォーカルを取る“It’s Out of My Hands”はFrictionに結果的に素晴らしい花を添えることになったわけだが。

バンクスとハンプトンはすぐに次の曲“Just One Moment”を書いた。またこれは後にMGsもレコーディングしている。今回のリード・ヴォーカルはJ. ブラックフットに譲ることになった。“彼はああいった類稀なフレーズ・センスを持っていたんだ。”バンクスは感慨をこめていう。“彼にある一つの歌のフレーズを与えると、彼は全く違ったものに変えることができるんだ。いつもそうだったね。で、結局それが大好きになってしまうんだ。いつも素晴らしかったね。何度彼のレコーディングをしても最後にはオリジナルのヴァージョンを放棄しなくちゃならないほど彼は素晴らしいものに変えてしまう。彼の中にあるものが全て流れ出てくるんだ。だからいつもジャッジを仰ぐために電話しなきゃならなかったよ。‘感情優先のために正しさを犠牲にしなきゃいけないのかな?’ってね。その価値ある彼の感情を何度も経験した。心の中に入ってくるんだ。”

その後2ヶ月間以上、バンクスとハンプトンはアルバムの残りの4曲、“What’s Happening Baby”、“Can’t Let You Go”、“We’re Getting’ Too Close”、そしてアルバムのラスト“Love Makes It Right”を書いた。全てのリズム・トラックは1974年1月24日、新しいリズム・セクション―キーボードのレスター・スネルとカール・ハンプトン、ドラマーのウィリー・ホール、ギタリストのマイケル・トールズ、そしてベーシストのジェイムス・アレキサンダーによってレコーディングされた。

“The MGsのリズム・セクションはちょっと洗練されてきていた。”バンクスは説明する。“僕たちは別のリズム・セクションを使った。ちょっと派手目で活気があるようなね。僕たちは2つの違ったバック・バンドを試してみたかったんだ。”

Frictionは1974年4月にリリースされたが、そこには2つのリズム・セクションを巧妙にブレンドさせたバンクスとハンプトンの仕事ぶりが示されていた。アルバムは最初から最後まで途切れなく流れるように作られていた。6月、“Love Makes It Right”が“I’ll Be the Other Woman”に続くシングルとしてリリースされた。

ハンプトンによると、この曲はホーマー(バンクス)の単独作品だそうだが、ハンプトンもシェルブラ・ベネットも気に入らなかったそうだ。私はこの曲のどこが彼らにとって不足なのかはわからない。私の耳にはとても素晴らしい曲のように思える。ベネットが“I’ll Be the Other Woman”で見せたパフォーマンスにはかなわないとしても、R&Bチャートが示す47位よりももっと価値のあるヒット・シングルだ。

ソウル・チルドレンの最後のスタックスでのシングル、“What’s Happening Baby”はチャート上では完全な失敗に終わった。この頃までにグループ内に軋轢が拡がっていた。シェルブラは無断でギグをすっぽかすようになり、その年の終わりにグループ脱退が告げられた。3人組となったソウル・チルドレンはスタックスでのレコーディングを続けたが、スタックスが倒産する前にアルバムをリリースすることはできなかった。3人はエピックと契約を交わし、1978年夏までにスタックス時代をイメージさせるような4枚のレコードをR&Bチャートに送り込んだ。エピックでのリリースはドン・デイヴィスによってプロデュースされていた。

シェルブラ・ベネットは1975年5月にソロとしてスタックスと契約した。が、いずれにせよ彼女がスタックスが倒産するまでに実際にレコーディングしていたかどうかは分かっていない。彼女は本名のシェルブラ・ディーンとしてヴェーダ・ブラウンの前のマネージャー、ラリー・ロビンソンのプロデュースでカジノ・レーベルから2枚のシングルをリリースした。これら2枚は1976年と77年にそこそこのヒットとなった。ソウル・チルドレンがついに解散した後、J. ブラックフットは輝かしいソロ・キャリアへと乗り出し、1973年以来サウンド・タウン、エッジ、プラチナ・ブルーそしてハイ・スタックス(High Stacks)といったレーベルで定期的にヒットを飛ばした。ちなみにEdgeはアル・ベルとの共同所有、Sound TownとPlatinum Blueはホーマー・バンクスとの共同所有、そしてHigh Stacksレコーズはボビー・マニュエル所有だった。

グループのエピックでのスタックスを思わせるアルバムは、私に言わせればグループのピークであったGenesisとFrictionと同じくらいに素晴らしい。一方でその2枚のアルバムはそれぞれ全く違ったアプローチを見せていたが、彼らは1970年代にどちらの面においても最高のソウルを歌った。あるいはいずれソウル・チルドレンはソウル・ミュージックが生んだ最高のアーチストとしてその地位を与えられるかもしれない。

Rob Bowman, 1999

ロブ・ボウマン:受賞したSoulsville, USA:The Story of Stax Records(Schimer Books, 1997)の著者。 彼は一緒に過ごし思い出を語ってくれたノーマン・ウェスト、ホーマー・バンクス、ベティ・クラチャー、そしてピート・ビショップに感謝の意を送る。


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