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The Soft Machine/Jet-Propelled Photographs/1999 Get Back GET 560



60年代中期から出てきた英国の新しいバンドたちは、オリジナルの(ウィリアム・バロウズの小説としての)ソフト・マシンの神秘的な雰囲気を持っていた。振り返ってみれば、いくつかのバンドはそういった神秘性をすでに獲得していた。ザ・ソフト・マシンは当時(故意ではなくとも)その雰囲気を身につけていた。彼らはその音楽的な自由奔放さによって、やがてそれを失ったのかもしれないが、当時の文化史の中での彼らの地位は揺るぎないものである。

ザ・ソフト・マシンは1966年に結成されたが、彼らの歴史はそれより数年早くカンタベリーのサイモン・ラントン・スクールで始まっていた。当時そこの学生であった様々な学年のロバート・ワイアット、マイク・ラトリッジ、そしてヒュー・ホッパーは一様にジャズ、とりわけアヴァンギャルド・ジャズに傾倒していた。何年にも渡ってその牧歌的で自由な校風がカンタベリー地域へ影響を与え、さながらそこは英国におけるヘイト・アシュベリーへと変容していったと考えられる。しかしながらロバート・ワイアットはずっとそういった神話を退けるような発言をしている。“全く退屈なグラマー・スクールだったね。僕はカンタベリーでの興奮するような出来事は一つも記憶に残ってないよ。”

この時期にワイアットとホッパーはデーヴィッド・アレンという名の温和なオーストラリア人に出会った。21歳だったアレンは完全なビートニクだった―彼はウィリアム・バロウズと無名だったテリー・ライリー(1935- :米現代音楽作曲家・キーボード奏者)と知り合いで、パリで共に活動していた。彼はLSDをやりロング・ヘアーだった。ホッパーがベースをプレイし、ワイアットがドラムスを練習しながら、3人は時折アヴァンギャルド・トリオとしてプレイし、パリで多くの時間を過ごし、アレンのハウスボートに住みながらテープループを作ったり、あらゆる新しい娯楽を実験していった。

1964年までにビートルズとストーンズは彼らの目の前に破竹の勢いで姿を現し、カンタベリーはその健全なミュージック・シーンを形成しつつあった。その中心となっていたバンドがザ・ワイルド・フラワーズだった。最初のラインナップはヒュー・ホッパー、彼の兄弟のブライアン(サックス)、ロバート・ワイアット、リチャード・シンクレア(ギター)、そしてヴォーカルのケヴィン・エアーズだった(エアーズはケント州で唯一のもう一人のロング・ヘアーだったため誘われた)。ワイルド・フラワーズはR&B、ソウル、そして実験的なジャズの奇妙なミクスチャーをプレイしていた。

バンドは1966年の中頃まで様々なラインナップで活動を続け、その夏にエアーズとアレンはスペインのマジョルカ島へと旅立った。彼らが戻ってくると、彼らはラトリッジ(現代クラシック音楽にはまっていた素晴らしいキーボード・プレイヤー)がオックスフォード大学を去り、新しいバンドを結成したがっているという情報を聞きつけた。1968年には半分のメンバーがキャラヴァンとなり、エアーズ、ワイアット、アレンはラトリッジと組み、ついにザ・ソフト・マシンを結成した。その名はアレンのアイデアによるもので、ウィリアム・バロウズの小説のタイトルからきたものだった。彼はその名の使用許可を得るために実際にバロウズに電話をかけていた。

新バンドのレパートリーは最初、ワイルド・フラワーズ時代からあまり変わらなかったが、すぐに彼らはエアーズとワイアットの作品を基に完全なオリジナル・レパートリーをプレイするようになった。エアーズ・ナンバーはのちに彼が知られることとなる一種独特であるが奇妙にも哲学的なスタイルの原型を示していた。ワイアットはすでに日々の生活の詳細な描写を題材に曲を書き始めていた。二人とも異なった歌い方であったが、母音を伸ばしたアメリカ風なシンギング・スタイルではなく、まさに英国のアクセントで歌うことがロック・バンドの中で可能であることを証明してみせた。歌物とは別に、彼らは主にラトリッジ主導でインプロヴィゼーションへの興味を増大させていった。1966年の終わりまでに彼らの音楽はそのスタイルと演奏両面において、他の同時期のブリティッシュ・グループをはるかに超えていた。

タイミングは完璧だった。アレンと彼の国際的なフリークたちとのコネクションを通じ、バンドは新しく出現しつつあったアンダーグラウンドでギグの場を獲得することができた。彼らは1966年10月にインターナショナル・タイムズ(アンダーグラウンド紙)の立ち上げパーティーの広告にピンク・フロイドとともに載り、続いてUFOクラブのレギュラー・バンドとなった。初期のギグにおいて彼らはアメリカ人のギタリスト、ラリー・ノーランをサポート・メンバーとして迎えていた。一見、神秘的なキャラクターの彼はデヴィッド・リンドレーとともに様々なカリフォルニアのブルーグラス・バンドを渡り歩いたヴェテランだった。

その頃の他の多くの冒険的なバンド同様、ソフト・マシンはロンドン以外、あるいはアンダーグラウンド外でのギグにおいては、ほとんどオーディエンスの理解と称賛を得ることができずにいた。その結果、1967年4月のアレキサンドラ・パレスでの‘The 14 Hour Technicolour Dream’で記念すべきライヴを行なった後、すぐに彼らは活動の拠点を南フランスに移し、それ以降ヨーロッパでの人気が高まっていった。彼らはその夏(1967)の終わりに英国に戻り、オーストラリア人であったアレンはメンバーとして好ましくないと判断され、バンドはトリオとして活動していくことになった。しかしながら彼らはすでに1枚の優れたシングル“Love Makes Sweet Music”をレコーディングし、アレンはそこでプレイしていた。

67年4月にシングルをリリースしたのち、バンドは今あなたが手にしているアルバムに収録するためのトラックを録音するために、ソーホーのDe Lane Reaスタジオに入った。セッションの目的については意見の相違があった。たしかにそれらはデモ音源であったが、ジョージオ・ゴメルスキー(彼がレコーディング代を払い、マスター・テープを所有した)によれば、それは正式のアルバムのためのトラックだったという。ロバート・ワイアットの意見はそれとは食い違い、それらデモはあくまで出版社用であり、大多数はステージでプレイするマテリアルとしては考えられていなかったと主張する。なるほどいくつかはヒュー・ホッパーが書いた曲であり、彼はあくまでバンドの友人であって正式なメンバーではなかった。

では実際何のためのレコーディングであったのか?公正に見てみれば、これらはバンドがレコーディングしてきた中でベストに入るものとは誰もいえないだろうし、何年にも渡ってこのアルバムは多くの批判的論争に屈してきたし、その多くは有効な意見であった。サウンド・クォリティは最小限であり、いくつかのプレイはずさん(とりわけアレンのギター・プレイは‘無調’であるといわれても仕方がない)であるし、全体的にはバンドがUFOクラブで生み出していたマジックとパワーはほとんど、あるいは全く伝わってこない。

このアルバムを弁護するなら、これはそれほどエキサイティングではないが熱狂ぶりは伝わってくるし、いくつかのグレイトなトラックは時折、何か特別な響きを発している。かつてデーヴィッド・アレンは自分のパフォーマンスについて常にばつの悪い感情を持っていることを指摘した。しかし全体的にはワイアットのヴォーカルとドラミングが各トラックを救っており、アレンは‘見事だ’と述べている。それはおそらく真実だろう。もちろんテープは長年の間消失し、これらトラックに基づいたアルバムが具現化されることはなかったが、ほとんどは何らかの形で生き残ってきた。例えばロバート・ワイアットが取り上げたホッパーの曲、“That’s How Much I Need You”と“You Don’t Remember”は詞が完璧に書き直され、“Moon In June”(Third収録)のメロディーの一部として使用された。

“Save Yourself”は詞もメロディーもほとんどそのまま生き残り、ソフト・マシンの‘正式な’ファースト・アルバムに使われた。“I Should Have Known”は新しい詞がつけられ、“Why Am I So Short”となってこれもファースト・アルバムに収録された。“Memories”もほとんどそのままデーヴィッド・アレン・アンド・ザ・フレンズのアルバム、“Banana Moon”に収録され、1974年のロバートのシングル、“I’m A Believer”のB面にもなった。“She’s Gone”は67年の6月に“Love Makes Sweet Music”に続くシングルとして再録音されたが、これは1977年のコンピレーション・ボックス・セット、Triple Echoで初めて日の目を見た。実際には唯一、“I’d Rather Be With You”だけが(私の知る限り)再録音されてリリースされることがなかった。

それはともかく本題に戻ろう。1967年の終わりにソフト・マシンはジミ・ヘンドリクスと共にへとへとに疲れる半年間のUSツアーを敢行した。そのあと彼らはファースト・アルバム“Soft Machine”を録音した。

全てがワン・テイクで完了したが、それは驚くべきアルバムだった。そこには素敵に壊れたワイアットの曲と、よりわずかに無邪気なエアーズによるナンバーが含まれ、即興演奏が生かされていた。そのクォリティにもかかわらず、アルバムは70年代半ばまでUKではリリースされなかった。しかしツアーは事実上バンドをだめにしていた。エアーズは姿を消したが、ラトリッジとワイアットは彼らのローディーをしていたヒュー・ホッパーをベーシストとして迎え入れた。新しくなったバンドはセカンド・アルバムのためのリハーサルをするために、1968年の7月に集結した。

ラトリッジはもともとの自分たちは‘ポップ’すぎると感じていた。冒険的で一風変わっていたが、新しいラインナップはよりシリアスな方向性に向かった。にもかかわらず、セカンド・アルバムの“Volume Two”(1969)に見られるように、しばらくの間は2つの‘側面’が共存していた。さらなる技術的問題があったにもかかわらず、これも一級品のアルバムとなり、今回はホッパーのゴリゴリとうなるようなファズ・ベースがフィーチャーされていた。1969年の終わりまでに、3人編成から4人のブラスを前面に置いた編成へと拡大していた。彼らは驚くべきバンドとなっていたが、最初のラインナップが持っていたいかしたオリジナリティは事実上消え去ってしまった。彼らはジャズ・ロックのスタイルへと向かっていた。しかし大所帯のバンドを維持することができなかった彼らは、結局4人編成へと戻った。そのビッグ・バンドからは唯一、エルトン・ディーンがアルト・サックス・プレイヤーとして残った。このラインナップによって“Third”(1970)が生まれたが、あらゆる点でこれは最も洗練された彼らのアルバムとなった。ワイアットの“Moon In June”を例外として、ユーモアとフランス人たちが呼んでいた‘ダダイスト’(dadaist:1916-1923ごろの文学・芸術運動 伝統的形式美を否定する虚無主義)的資質はほとんど消え去ってしまった。

“Third”リリース後まもなくバンドは、プロムナード・コンサーツ(Promenade Concerts:毎年7月中旬から8週間ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでBBC主催によって催される一連のクラシック・コンサート)でプレイしたが、ディナージャケットを着たオーディエンスを大いに失望させることになった。これは優れたギグではなかったが、彼らが‘知的な’バンドであることと、体制側によって取り上げられるロック・バンドとして示したことで重要なギグとなった。とりわけラトリッジはさらにテクニカルな技を磨くことに集中し始めた。時にヴォーカリストとしてのワイアットの貢献は無に等しいものとなった。彼はバンドを脱退したが、短期間“Forth”(1971)でドラマーとして戻ってきた。しかしかなり締まりのないプレイをしている。ワイアットが去ったことによって、オリジナル・バンドの魅力は完全に消えてしまった。新メンバーのエルトン・ディーンでさえ去っていった。特に即興プレイヤーとしての彼は、ますますタイトになるラトリッジの書く曲の中に、自分の居場所をほとんど見つけられないでいた。

ドラムスにジョン・マーシャル、サックスにカール・ジェンキンスを加えた新しいラインナップは、冷徹な2枚のジャズ・ロック・アルバム、“Fifth”(1972)と“Six”(1973)をレコーディングした。1973年5月までにホッパーは脱退し、ジャズ・ロッカーのロイ・バビントンと交代していた。この時にラトリッジはソフト・マシンの名声をかなり落としてしまったと深刻に考えていたが、それにもくじけずバンドは“Seven”(1973)と“Bundles”(1975)を制作し続けた。ギタリストのアラン・ホールズワースを加えさえしたが、ほとんどサウンドに違いは見られなかった。1976年1月にラトリッジ自身がバンドを抜けたが、ジェンキンスとマーシャルは様々なミュージシャンを加えながらソフト・マシンの名を引き継ぎ、“Softs”(1976)と“Alive And Well In Paris”(1978)を制作した。そして数年のちに、誰もが彼らの名が永遠に去ってしまったと考えた“Land of Cockayne”(1981)を発表した。

70年代のほとんどを通じて、バンドはソフト・マシンの名を維持したが、オリジナルの音楽性を受け継いでいくことはほとんどなかった。バンドのオリジナルのアイデアは元メンバーの作品によって受け継がれた。とりわけデーヴィッド・アレンが率いたゴングのアナーキックさと自由奔放さだ。60年代後半から70年代初頭にかけて、ケヴィン・エアーズはかろうじて成功したといえる一連のソロ・アルバムを発表しながら、よろよろと活動していたが、彼はマジョルカ島で日光浴をしている方が楽しそうに見えた。ワイアットはソフト・マシンを過激にしたようなマッチング・モウルを結成した。窓からの転落事故によって下半身不随となった彼はドラマーとしての命を断たれたが、アルバム“Rock Bottom”(1974)始め、80年代のラフ・トレード・レーベルからの一連のシングルによって、その特異なヴォーカル・スタイルを見せつけ、それはザ・ソフト・マシンの重要な構成要素が依然健在であることを示してくれた。

ジョン・プラット



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