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The Slits/Cut/2000 Universal Island Records Ltd. UICY-3232



“私はスリッツでやったことを本当に誇りに思っているわ。” アリ・アップはいう。“唯一私ががっかりするのは、私たちがもたらした影響をほとんどの人が分かってないことね。” これは全体的には真実ではない。70年代後半、パンクに触発された反抗精神を持ち、音楽的、ファッション的に過激に変化を求めた世代にとって、スリッツは延々と続くロックの過程を前衛的な意志を持って変革する一役を担っていた。たった3年の間に、これら十分な音楽的訓練を受けていない最初のパンクス世代は、自ら変容していき境界線を延ばし、サウンドの洗練化へ向かって行った。

スリッツは男が支配する領域で活動していた若い女性たちだったが、彼女たちはどんどんと奇妙なものへと進化していった。その変容の最高の成果がCutだった。大きな称賛を受けて1979年9月にリリースされたこのアルバムは、未来に向けて大きな一歩となるかに思われた70年代後半の一握りのアルバムのうちの1枚だった(他はPILのMetal Box、ディス・ヒートのThis Heat、そしてポップ・グループのYなどだ)。その名声にもかかわらず、CutはなぜかCD化から見過ごされてきた。この件に関しては例外的に、アリの“誰も私たちを知らない”という主張を信じるしかない。しかし今やもうそこに言い訳は必要としない。スリッツはCDラックに戻り、音楽的、文化的変革者としての彼女たちの正しい地位を主張できるのである。

セックス・ピストルズとクラッシュのメンバーである仲間に触発されたザ・スリッツは1976年に結成された。1976年は若いパンクスたちが年寄りミュージシャンの墓場の上で踊り、率直な熱意と扇動的な才の最後の砦としてのロックを取り戻した年だ。アリ・アップ(ヴォーカル)、ヴィヴ・アルバータイン(ギター)、テッサ・ポライト(ベース)そしてパルモリヴ(ドラムス)をラインナップとするバンドは、そろって驚くべき、そしていかしたレコード・ジャケットを作った。全員が女だ。振り返ってみると、その‘性別を強調したジャケット’はパティ・スミスを除けば決定的だった。彼女たちは単なるロックをやったわけではなかった。

“私たちはみんな音楽的な訓練を受けたことがなかったわ。” ヴィヴ・アルバータインはいう。“私たちは男の子たちがやるようにベッドルームでギターを弾いたりして過ごしたことなんてなかったのよ。でもパンクが出てきた時、何か宇宙の扉が開いたような気がした。最後には私たちは別にできなくてもいいんだと思って、楽器をつかんで引っかいてみるようになった。でも私たちは12小節のブルースとか‘Smoke On The Water’なんてどうやって弾けばいいか分からなかったから、自分たちの曲にそういった基礎的な構造を置くことができなかったのよ、たとえやりたいと思ってもね。”

伝説的なロックンロールのフォーマットを避けながら、スリッツは独自のスタイルを発展させていった。“どこからともなくね。このへんちくりんなスタイルは独学というか生まれつきのものよ。私たちは自覚的になっていくにつれて、男のやるリズムや構造を避けようと思うようになっていった。” 一方でパンクらしい胡散臭さのある様々な「〜学」や「〜主義」といったものが、ニュー・ウェイヴという名のもとに山積みにされていった。アルバータインは70年代のフェミニズムの影響を認めている。“私たちは意識的に音楽の中に女のリズムを持ち込むことを考えたんだけど、その女のリズムっていうのは多分、男のリズムほど安定してないし、構造的でもないし、自制的でもないということよ。私たちはリズムを陽気に軽くしたかった。”

しかし2年の間にスリッツは堂々と不器用さを示し、ヘヴィになった。そして確かに同時期の男のパンク・バンドほど安定もせず構造的でもなかった。その要因はスペイン人ドラマー、パルモリヴによる部分が大きかった。“彼女のドラミングは信じられないくらいパワフルでドライヴ感があってパッションの固まりだったわ。彼女の性格そのものね。” ヴィヴはいう。“私は彼女が一定のリズムを心がけるべきだったとは思わないわ。どっちにしろ私たちにはできなかったけどね!” その結果出てきた音は、習慣に慣れた耳には本当に不可解なものだった(素晴らしく狂暴なピール・セッションのCD((訳注:the peel sessions/SFRSCD052 これは最高の出来))でベストの彼女たちが聞ける)。“ある程度は能力がなかったってことね。特に初期においては。” ヴィヴはいう。“でも私たちの音楽はもっとオリジナルで、何よりも情熱を持ってプレイしてたわ。”

スリッツの短気で特異な名声とスタイルにもかかわらず、彼女たちはレコード会社のあらゆるアプローチを断った。ヴィヴ:“私たちは自分たちの頭の中にあるものをレコードに刻みつけることができるようになるまで、アルバムは作りたくなかったのよ。私はジョン・ピールのセッションのエネルギーは今でも信じていないわ。私たちは単に準備不足だったのよ。準備が整ったところで私たちはレコード会社を選んだ。アイランドに決めたのはあそこにはいろんなバンドがいたから―黒人も白人も関係なかったし、すごく変わった音楽も扱ってたし。”

グループが成功への渇望を表に現し始めた時に、不慮の災難が降りかかってきた。“パルモリヴは他のメンバーほど売れたいとは思っていなかったのよ。” ヴィヴは続ける。“結局彼女はレインコーツに入ったけど、その方がずっと彼女に向いていたわ。” 代わりのドラマーとして、彼女たちが探していた“陽気で明るい”タッチを提供することになったのが、バッジー(訳注:この後スージー&ザ・バンシーズに正式加入しスージー・スーと結婚することになる)というリヴァプールのインディ・シーンにいた屈強な男だった。“彼はファンタスティックだったわ。” ヴィヴは絶賛する。“バッジーは私たちを引っぱるために軽さと十分な規律を持ち込んだ。それから女の子と一緒に働く心得も持っていたわ。すごく素晴らしかった。”

バッジーがバンドの中に新しい自信を染み込ませたことによって、スリッツは自分たちの過激なパンク・サウンドの音の壁の中にあらを探し始めた。クラッシュとの1978年のツアーによって、その時の知られざる快速のライヴ・パフォーマンスがあらわになった。しかしこれは1979年春のリッジ・ファーム・スタジオで成し遂げられた魔法のような変容に比べるべくもなかった。“プロデューサーのデニス・ボーヴェルのおかげね。” アルバータインはいう。“彼は信じられないほど幅広いテイストを持った南ロンドンの若者たちと親交を持っていた―白人のロック、ポップ、レゲエ、その他多くのね。”

ボーヴェルがグループに持ち込んだものは、単なるプロデュース業務の範囲を越えていたという噂もあった。ヴィヴ:“アルバムを聴いた人たちはみんなすごく感動してたけど、彼らはデニスが全ての楽器を演奏したと決め込んでいたわ。彼がプレイしたのは唯一‘Newtown’だった。私たちはこの曲で新しいサウンドを見つけたけど、まだ何かが足らなかった。そこで彼はマッチ箱やらグラスやら身近なものをずらっと並べてこのリズム・セクションに改良を加えたわけ。最高だったわ。”

一方でバンドのトレードマークであったコール・アンド・レスポンスのヴォーカル・スタイルは、メアリー・ポピンズやウェスト・サイド・ストーリーのようなガラクタTV番組やミュージカルからヒントを得ていたが、アルバムの中の最も大きな要素がダブ・レゲエだった。“それはロキシーでDJをやっていたドン・レッツを通じてだった。” ヴィヴはいう。“ドンは仲のいい友人で何度も彼とは会っていたわ。” “スリッツは当時先を行っていたね。” レッツは続ける。“彼女たちはメロディやギターよりもレゲエのベース・ラインを強調したんだ。それからミキシング・テーブルも楽器として使っていた。彼女たちはその音楽の反抗的要素も理解していたね。” アルバム制作時のバンドのモットーは“不確かなことは省いてしまえ”だった。ジャマイカ人のダブ・パイオニアは帽子をちょっと上げてそう言う。

スリッツのヴィンテージ・マテリアルの数々についてざっと触れておくと、“Instant Hit”(“私のギターの師匠、キース・レヴィンについての歌ね”)、“Adventures Close To Home”、“So Tough”(“電話でジョニー・ロットンとシド・ヴィシャスについて話したのが基になっている”)、“Love Und Romance”(“もちろんアンチ・ラヴソングよ”)、“Typical Girls”、“Shoplifting(万引)”(“私たちはひどい文無しだったからそういうことはちょっとやってたと思うわ!”)、そして“FM”だ。これはいつも一筋縄ではいかなかった。“スタジオは屋外トイレと庭のついた美しい農家のあるところに建っていた。私たちには菜食主義のシェフさえついていた。でもセッションはすごく情熱的だった。” ヴィヴは回想する。“私たちは自分たちの演奏がうまくいかないとメチャクチャにすることもあったわ。でもそれも価値あることだった。思いもよらなかったことを考えつく時もあったから。”

アルバム・ジャケットで裸になって登場することを心に描いた者は、バンドの中にさえ誰一人いなかった。“女性カメラマンじゃなかったらあり得なかったわね。” ヴィヴは主張する。“その日はペニー・スミスが私たちの担当で、農場の近くで私たちを撮ろうという考えだったわ。その日、(マネージャーの)友人でアフリカから来たディック・オーデルが、私たちに腰巻の着け方を教えていた。で、まあいろいろとあって、私たちは結局裸になってバラのやぶの前で、泥んこになってポーズをつけることになってしまったわけ。そのあと私たちはスカンジナヴィアの男性から手紙をもらって、それには私たちがフェミニストの精神を台無しにしてしまったと書いてあった!”

衝動的行動がスリッツのトレードマークだった。Cutがリリースされ大絶賛の嵐の中、バンドは前金として大きな分け前を伴った短いUKツアーに乗り出した。ヴィヴは後悔していない。“私たちはジャマイカからプリンス・ハマー、アメリカからドン・チェリー(彼は私たちに14歳の娘ネナを紹介して、彼女はのちに私たちと一緒に歌うようになった)を連れてきた。私たちは大きなバスに乗って一緒にツアーしたわ。これが人生の中で一番ファンタスティックな経験だった。” しかしながら、UKトップ30内に短期間入ったにもかかわらず、Cutはスリッツのアイランドでの唯一のアルバムとなった。“どっちにしろ1枚きりの契約だったのよ。” ヴィヴはいう。“全てのパンク・バンドは使い捨てのようにすぐに契約させられたわね。”

バンドはアイランドの社長、クリス・ブラックウェルに同意し、マーヴィン・ゲイの“I Heard It Through The Grapevine”のカヴァーをシングルとしてリリースした。それは彼女たち自身の作品“Typical Girls”の代わりであり、当初はこちらがリリースされていたかもしれなかった。ヴィヴ:“私たちは一度だけレゲエ・ドラマーのいるAll Saints Roadと一緒にレコーディングした。その方がはるかに人々にとってバンドが身近な存在に見えるから。私たちは無愛想だったと思うわ。” その代わりとして、スリッツのパンキー・レゲエの追求は次作The Return Of The Giant Slits(CBS ; 1981)となって現われた。そこには以前よりいっそう諦めきったような部族的な‘大地ビート’のリズムがフィーチャーされていた。“今ではエスニックな音楽は普通だけど、もしかすると私たちは当時早すぎたのかもしれないわね。” ヴィヴはいう。その後まもなくスリッツは静かに伝説の中に消えていった。“私たちは20年先を行っていたのよ。” アリはいう。“スリッツは多くのスタイルを創り上げた。世の中の女のためにもね。” そう、それはCutが巧みに証明している―ロック・ミュージックのためにもだ。

・・・その名声にもかかわらず、CutはなぜかCD化から見過ごされてきた。この件に関しては例外的に、アリの“誰も私たちを知らない”という主張を信じるしかない。しかし今やもうそこに言い訳は必要としない。スリッツはCDラックに戻り、音楽的、文化的変革者としての彼女たちの正しい地位を主張できるのである・・・

マーク・ペイトレス、2000年8月、ロンドンにて



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