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Skip Bifferty/Skip Bifferty/2001 Acme Records ADCD1031



SKIP BIFFERTYの起源は60年代中期イングランドのニューカッスル北のビート・シーンまでさかのぼることができる。THE CHOOSEN FEWはまだレコード契約をしていないバンドのうちの主要な一つで、創立メンバーのAlan Hull(gtr/vocals)とMickey Gallagher(keyboards)をフィーチャーしていた。二人は1962年のTHE HIGH FIVEを始めとして以前からローカル・バンドで一緒にプレイしていた。ギャラガーは、ALAN PRICETHE ANIMALSからの脱退を表明した頃、別のローカル・グループ、THE UNKNOWNSでプレイしていた。ミッキー・ギャラガーはタイン川沿岸地方の有名なグループに加わってスカンジナヴィアと英国の短期間ツアーをしたり、Eric and the Boysでキーボードをプレイしたりしていた。

ニューカッスルに戻るとthe UnknownsのギャラガーとドラマーのAlan Jackmanは古い友人だったAlan HullとシンガーのRod Hood、ベーシストのAlan”Bumper”Brownと共にThe Choosen Fewを結成した。彼らはマネージャーのビル・キースが所有するニューカッスルのキー・クラブでリハーサルをしていた。ビルは彼らのためにラジオ・ルクセンブルクの15分枠を何とか手に入れライヴを行なった。そして局を通じてパイ・レコーズと契約を交わした。

1966年の夏までに1年間は好評のギグをこなし、パイから2枚のシングルをリリースした。バンドはアラン・ハルと“Bumper”ブラウンを失ったが、代わりにColin Gibson(bass)とJohn Turnbull(guitar)を見つけた。その若い二人は5歳の時からのメンバーの幼なじみで、二人ともTHE PRIMITIVE SECTの元メンバーであった。そのグループはオルガンにBob Sergeant(後のJUNCO PARTNERS)をフィーチャーしていた。

数ヵ月後、Graham Bellは彼のデュオ・グループ、THE GRAHAM BELL TRENDを南部地方での不評から解消させ、故郷ニューカッスルに戻ってきた。ベルはアニマルズに一時在籍していたミッキー・ギャラガーと出会っていた。そしてチョーズン・フューは彼をヴォーカリストとして迎え入れたいと申し出た。ベルはポリドールから1枚のシングルをリリースしていたが、それはMOR(AOR)路線であった。彼はチョーズン・フューを興味深いバンドとして見ていた。

グループはロンドンでのギグをいくつか確保し、中でもとりわけDon Ardenが彼らに接近し、マーキー・クラブでのやる気満々のギグで“9ヶ月以内にストーンズ並みにビッグになる”とオファーした。

バンドはアーデンと契約し、アーデンはすぐに彼らを管理下に置くためにベカナム(イングランド南東部)の一軒家に共同生活させた。彼らはそれによって才能溢れる複雑なアレンジを使った多くの新曲を作り上げた。彼らのアーチスティックな側面を示す好例が、芝生を真っ赤にペイントしてしまったことだ!

アーデンは1967年の夏、RCAと契約を交わしその結果最初のシングル、On Love c/w Cover Girlがリリースされることになった。A面はスペンサー・デイヴィス・グループのスティーヴ・ウィンウッドのようなグレアム・ベルの素晴らしいヴォーカルと、猛烈なファズ・ギター・リフがフィーチャーされていた。海賊放送局のラジオ・カロラインとラジオ・ロンドンはそのシングルを気に入り、ヘヴィ・ローテーションで放送したが当時のBBCはプレイリスト・ポリシーによりお勧めのシングルとして取り上げることはしなかった。しかしその後同年にTHE SONS OF MANによって、彼らのぞっとするほどレアなOakのEPで“Our Love”としてレコーディングされることになった。

そうこうするうちに仕事が舞い込むようになり、リタ・タッシンガム主演のカルト・60sムービー“Smashing Time”への出演も果たした。しかし残念ながら彼らの曲はサウンド・トラックLPからは漏れてしまった。

続くシングルが必要となったが、それはドン・アーデンからの影響が色濃く出たものとなった。バンドが書いたフラワー・パワー・ポップ調のバラッド“Happy Land”は、予定されていたファースト・アルバムの最初のセッションで、デッカのウェストハムステッド・スタジオでレコーディングされた。

バンドはJohn Peel’s“Perfumed Garden”でレギュラーの演奏を受けもつことになり、確固たるアンダーグラウンドの人気者バンドとなった。セカンド・シングル“Happy Land c/w Reason to Live”は1967年の晩秋にリリースされた。しかしこれも残念ながらレコード購買者たちの興味に火をつけるまでには至らず、RCAは彼らのアルバムのリリースを見合わせることにした。Melody Makerのスタッフ、Chris Welchがこの頃グループに興味を持ち、彼らについて記事を書き始めた。彼らは多くのギグをこなしハードに働き、国内でかなりの注目を集めるようになった。サードでRCAからの最後のシングルとなった“Man in Black c/w Money Man”は1968年7月に発売された。アレンジとプロデュースはSMALL FACESの二人、Steve MarriotRonnie Laneだ(どちらもアーデンの計らいだ)。

レコード会社はたしかにバンドをどう売り出すか戸惑っていた。プロモーション用のシングル、“Money Man”はB面になる前にA面として限定枚数プレスされた!この初期ヴァージョンは著しく違った雰囲気で生のサウンドだ。これは今回初めて収録された。“Man in Black”はスタジオLPヴァージョンの“Money Man”をB面としてやっとプレスされることになった。シングルはたしかにバンドが鍛えられたことを示していたが、セールス的にはアンダーグラウンド・レベルにとどまった。

さらにレコーディングが続けられRCAはついにJohn Peelによるスリーヴノーツの載った彼らのデビューLPをリリースした。しかし残念なことに多くのクレジットには誤りがあり、モノ・プレスにはステレオのラベル、ステレオにはモノのラベルが貼り付けられてしまった。挙句の果てにバンドはLPのサウンドが気に入らなかった!プレッシャーの中、レコード会社はLPを一ヵ月後再リリースしたがそれはよい音でカットされ、RCAのオレンジ・ラベルがついていた(オリジナル・プレスはブラック・ラベル)。

アンダーグラウンド・サイケ・ファンにとってこのLPは重要で、メロディ・メーカーのクリス・ウェルチはこれを褒めちぎったほどだ。このLPでバンドは様々なエフェクト、テープループ、フェイザーなどを使った実験的なサウンドを聞かせるが、あくまで優れたポップ・ミュージックを保持している。

バンドはあまり身の入らない状態で続くLP、“Skiptomania”の準備にとりかかった。コリン・ギブソンはアルバムのアートワークを完成させていたが、レコード会社は彼らとの契約を延長しないことを決定した。さらに悪いことに、バンドとアーデンとの関係が悪くなっていた。控え目にいっても大部分はドンが60年代後半という現実をちゃんと見据えていなかったことによるだろう。彼はその時なおもバンドをシングル・ヒットに頼り切るビート・グループとして扱っていたからだ。

アーデンとの限定的なマネジメント契約を振り払うために、バンドは1968年11月プレスに対し、解散するという衝撃的な声明を出した。実際彼らはリハーサルや新曲を書くために借りていたワイト島の家を引き払っていた。ミッキー・ギャラガーはロンドンに戻り、レコード契約を獲得するために走り回り、Chris Blackwellのアイランド・レコードの関心を惹きつけた。

ある宣伝工作が図られ、“タイムアウト”誌はHEAVY JELLYという名のミステリアスなグループとして広告を打った。その結果、当時最も長いシングルがリリースされることとなった。ベーシストのコリン・ギブソンが書いた“I Keep Singing That Same Old Song c/w Blue”が1969年6月にリリースとなった。曲の長さとは別に、これはまたピクチャー・スリーヴ付きであった―当時の英国盤シングルでは例のないことであった。

彼らの正体については、当時例えばSPOOKY TOOTHのメンバーではないかといった憶測が多く存在した。しかし“タイムアウト”誌がそのシングルに対し、“本当にスキップしながら進んでいくようだ”と大絶賛を浴びせた!そしてシングルはヨーロッパ中を席巻し、アイランドのサンプラー盤“Good Enough to Eat”に収録されることになった。

余談として、二つの企業がHeavy Jellyという名を使って一枚加わっていたことを挙げてもいいだろう。一つはヘッド・レコーズで、彼らはグループをJackie Lomaxのバックとして使い、LPにも全面参加させた。1枚のシングルをリリースし、LPのテスト・プレスは70年代初頭に日の目を見た。これは1984年にサイコ・レーベルから再発されている。もう一つはSimon Napier-Bellによって企てられ、アメリカのみでリリースされたブツだ。いずれにせよドン・アーデンはHeavy Jelly、クリス・ブラックウェルとの衝突を避け、丸く収めてしまい、スキップ・ビファティとの仕事から退いてしまった。一方バンドはレコード契約のないまま新ドラマーのFred Wheatleyを迎えていたが、結局ニューカッスルに戻り解散した。

メンバーたちはすぐに別のプロジェクトへと移り、グレアム・ベルとコリン・ギブソンは1969年にGRIFFINを結成、ベル・レコードからシングルを発表した。一方ミッキー・ギャラガーとジョン・ターンブルは1970年初頭ARCを結成、デッカと契約、1枚のLPを制作し、映画“Extremes”のサウンドトラックのために行なったレコーディング作品は、1972年デラムからリリースされた。1972年、彼らにグレアム・ベルが加わりBELL & ARCとなりカリズマと契約、1972年にさらにもう一枚のLPをリリースした。

ギャラガーとターンブルは共に活動を続け、1976年名前をLOVING AWARENESSと変え、ドラムスにCharlie Charles、ベースにNorman Watt-Royを加え、パンク・シーンに現れた完全なアンチテーゼ・バンドとなった。彼らは60年代サウンドを再現すべく企てを図り、スキップ・ビファティの“Guru”を再レコーディングさえしたが、LPはセールス的に失敗に終わってしまった。しかしバンドは70年代後半IAN DURYのバック・バンドとして成功を収めた。それがTHE BLOCKHEADSだ。彼らは今なお現役である。

コリン・ギブソンはGriffinのあと70年代初頭に様々なグループと仕事を続け、ついにはMARK ALMONDと組みUSツアーを行い、ハーヴェストから1枚のLPをリリースした。1973年7月、彼は元PROCOL HARUM/FREEDOMのドラマー、Bobby Harrison(vocals/perc)、元TRAMPOLINEのメンバー、Mick Moody(gtr)そしてTerry Poppleらとヘヴィ・ロック・バンド、SNAFUを結成、WWAから2枚のアルバムをリリース、1973〜75年にかけてはCapitolから1枚のLPを発表した。コリンはその後70年代後半、RADIATORに加入し、再びALAN HULLのソロLPで共演し、今日までブルース・バンドで活動を続けている。


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