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Sir Douglas Quintet/Mendocino/2002 Universal/Evangeline Recorded Works Ltd. ACA 8041



テキサス・ミュージック・オフィスのケーシー・モナハンは一つのスローガンをしゃべり始めた。“テキサスを聴かないならアメリカン・ミュージックを聴くことにはならないね。” これの意味するところは簡単だ。テキサス・ミュージックはブルース、カントリー、テハーノ(テックスメックス=テキサス+メキシコ)、ロックンロール、その他全てを内包しているということだ。それは偉大なテキサス・ミュージシャン、ダグ・サーム(1941-1999)の音楽にも当てはまる。彼は11歳の時にジャンルの融合をスタートさせ、決して過去を振り返らなかった。1968年から1971年の間に、彼がマーキュリー・レコーズに残したザ・サー・ダグラス・クインテットのアルバムは彼のベスト・ワークであり、彼の全盛期を示している。

1968年の終わりまでダグ・サームと彼のバンドが進出したヒッピー・パラダイスはほとんど知られていなかった。ハイト・アシュベリーの通りは、人間の残骸と、長く消失してしまっていた活気を取り戻そうというマス・メディアによるヴィジョンを持つ、時折訪れていた新参者であふれていた。マリファナとLSDはアンフェタミンとヘロインに取って代わられ、シーンの多くのオリジネイターたちはどこか落ち着く場所を探し、あるいは家族を養っていた。

ダグの最後のアルバム、Honky Bluesもまたアメリカの音楽界に衝撃を与えることができなかった。そのアルバムは一般のロック・ファンが慣れ親しんでいたようなブルース・アルバムではなかった。長いギター・ソロはなく、ホーン・セクションのアレンジはローリング・ストーンズやクリームを聴いて育ったブルース初心者にとってあまりに気味の悪いものだった。そうこうするうちに、サー・ダグラス・クインテットのメンバーたちはカリフォルニア周辺に散らばっていった。ドラマーのジョニー“J.P.”ペレスはロサンゼルスでプロダクション会社、Amigos de Musicaのオフィスを構えた。フランク・モーリンはサンフランシスコで多くのスタジオ・ワークを楽しみ、そしてダグは、そう、彼はダグそのものだった。

マーキュリー・レコーズはブルースのアルバムの失敗にそれほど失望はしなかった。会社は膨大な量のレコードをリリースしていたし、それらの多くは親会社のヨーロッパ支部からライセンスを譲り受けていた。(実際、マーキュリー/フィリップスのコネクションはサー・ダグラス・クインテットの第二幕を引き受けることになった) いずれにせよ、そのアイデアは静かに実行され、バンドは共にアルバムを制作し彼らのベストである3分間ポップ・ソングを作ることになっていたかもしれなかった。北カリフォルニアの放浪にインスパイアされたダグは、彼がシングルとして考えていた1曲“Mendocino”と共に戻ってきた。これを聴いたレコード会社は彼に同意し、スタジオを押さえた。

“Mendocino”を耳にした誰もがヒットを予想したが、アメリカン・チャートではわずか27位までしか到達しなかった。しかし海外では素晴らしい反応を受けた(私が聞いたところではアメリカのラジオ局がその曲をプレイしたがらなかったのは、内容が10代の少女と年を取った男の間のセックスを連想させるものだったかららしい。しかしプレイされたとしても、あの時代のトップ40におびただしい数の競争相手が存在した中であっさりと受け取られてしまったかもしれない)。ダグと仲間たちはノース・ハリウッドのJ.P.のアミーゴ・スタジオとサンフランシスコのコロンバス・レコーディング両方で猛烈に働き、その結果1969年初頭にリリースされたアルバムは傑作となった。

“サー・ダグラス・クインテットが戻ってきた!” レコードの最初の数秒間にダグラスは宣言する。仲間たちも同様だった。オーギー・メイヤーのヴォックス・ジャガー・オルガンのモールス信号音調とピアノは、彼が影響を受けたアコーディオンのメロディ・ライン同様、アルバム全体を覆いつくしている。実際“Mendocino”は、事実上純粋な国境(米国とメキシコ)ポップだったし、ダグ以外の違うヴォーカリストとメキシカン・スパニッシュの歌詞は、テキサス州ブラウンズヴィルの酒場かどこかを彷彿させる。

もしポップ・シングルの成功によってレコード会社を喜ばせていたなら、残りのアルバムはより当時の進歩的なロックが喚起され、注目を集めただろう。しかし覚えておいてほしい。これが前時代的ポップというのはまちがった見解だ。ここに並ぶ簡潔な楽曲と彼らが表現するパッションは、絶対的に注目に値する。もちろんこのうちのいくつかはダグのホームシックからきている。バンドの他のメンバー同様、彼はバンドが1966年にエルパソでマリファナ容疑で手入れを受けて以来、テキサスに戻っていなかったし、どれほどカリフォルニアのラヴ&ピースの雰囲気を楽しもうと、彼は脂ぎったチーズ・エンチラダ(メキシコ料理)一皿と氷のように冷たいパールのビールをひどく懐かしがっていたのである。カリフォルニアのメキシカン・コミュニティでさえ、彼が探し求めていたインスピレーションを与えてはくれなかった。アメリカのメキシコ人の移住は特定のメキシコ人地区の居住者たちをアメリカ人地区へと流入させることになった。そして元々のアリゾナのメキシカン-アメリカンの人口は、例えばカリフォルニアのそれとは比較にならないほど多かった。それは食べ物を見れば分かり、アクセント、そしてもちろん音楽においても違いははっきりしていた。

このアルバムの何曲かからは思慕の念が読み取れるが、“At The Crossroads”ほどそれが大きく表われているトラックはないだろう。ここで聞けるダグの自分のルーツに対する思いはひどく胸を打つものであり、その詞、“君は僕にたくさんのことを教えてくれるし たくさんの金を持ってきてくれる/でもたくさんのソウルを持っていなけりゃ 君はテキサスには住めないさ”にもよく表われている。歌全体はいく分危機感ある感情のほとばしりに思えるが、あるいはマリファナの問題と関係があるのかもしれない(ダグは何年にも渡ってそれをやっていることで有名であった)。しかしあるいはそうではないのかもしれない。歌の終わりで彼が熱く語りかける再結集は、生まれ故郷を容易に喚起させてくれる。この感情は何もテキサスに限ったことではない。遠く離れたロンドンではイアン・ハンターという1人の男が、自身のバンド、モット・ザ・フープルのために曲を探していた時にこの“Crossroads”を聴いた。当時のハンターにとって地図上でテキサスを見つけるのは、とても難しいことだったに違いないが、その感情は彼の胸に強く突き刺さり、彼はバンドのファースト・アルバムで見事にカヴァーして見せた。

同様に強力なのが、これも喪失ソングであり、失われた場所と同じく失われた時間とアイデンティティの喪失からくる恐れである“Texas Me”だ。“red old Texas me”はカリフォルニアの流儀からすれば攻撃の対象となっていた。ダグは明らかに恐れていた。あるいは他のメンバーもそうだったかもしれない。彼はこの曲をバンドの作品としてクレジットしている。“神よ、俺はこのGreat Big Freaky City(サンフランシスコ)ではただの田舎者だ”の中には底流にある自嘲的な真意が存在する。それは次にはヒューストン、ダラスと移っていくのであるが―さらにはサン・アントニオまで出てくる。しかし現在ほど当時は都市化されていなかった―サンフランシスコはそれほどgreat big freaky cityではない(いや、freakyだけは当たっているが)。

当時ほとんどの人々が注意を払わなかったテキサス人がこのアルバムに存在していた。アルバム中、唯一のカヴァーであった“If You Really Want Me To I’ll Go”は1人の若き白人ブルースマンによって書かれた。彼は町のナイトクラブ街にあったFt. Worthの悪名高きJacksboro Highwayにレギュラー出演していた。その男、デルバート・マクリントンはこのアルバムが出た頃はほとんど無名であった。彼の功績はブルース・タイプの“Hey Baby”でのハーモニカ・プレイだ。これは若き二人のビートルズに道を示すことになった(その証拠は“Love Me Do”を聴けば分かる)。これは彼が最初に世界に知らしめたソングライティング能力だった。もちろんそれが最後ではないが。

もう1曲のバンド名義が“And It Didn’t Even Bring Me Down”だ。極度にメローな詞が堂々としたフランク・モーリンのホーン・アレンジの上を滑ってゆく。これは当時のウェスト・サイド・サン・アントニオのナイトクラブにぴったりだ。そして縁起を担いでダグはクインテットの以前の大ヒット、“She’s About a Mover”を改作し、エンディングでは彼のトレードマークである歪んだギター・ソロが飛び出し、フェイドアウト前にはあざけて見せる。

Mendocinoは全てに渡って駄作は一つもなく、ロック史のヴィンテージ・イヤーにおける傑作アルバムの1枚であり、当時生み出された他の作品のどれとも異なる1枚として傑出している。私はダグのこともテキサスも他のいかなる背景も知らずにこのアルバムに完全に魅了されてしまったことを覚えている。このような歌が書ける者ならば誰でも注目に値することだろう。

ここでのボーナス・トラックもまた興味深いものがある。“Sunday Sunny Mill Valley Groove Day”は“Mendocino”の成功にあやかって他の北カリフォルニアの町を引用したように見えるが、これはポピュラー調でもそういったプロダクションでもなく、当時はリリースされなかった。そして30数年を経て素晴らしいアルバム、Songs of SahmのBottle Rocketsによって鮮やかに甦った。“Sir Doug’s Recording Trip”は見たところ、バンドのグルーヴに乗って即興で作られた自伝的なナンバーであるが、その多義的な意味を理解するには、事前にダグの人生を知る必要があるだろう。

“The Homecoming”は奇妙だ。これは過小評価されたナッシュヴィルのソングライター/詩人、トムTホールのストレートなカヴァー・ヴァージョンだ。楽曲は素晴らしいが、ダグはこの曲とは結びつかないように思える。ホールもマーキュリーのアーチストだったため、これはレコード会社のアイデアだったのかもしれない。テキサスの田舎の人々がプレイするようなタイプではないが、ダグの距離の置き方はあるいは分かりやすかったのかもしれない。彼はキャリア後半で、より田舎とうまく付き合っていた。最後にどうってことはない“Hello Amsterdam”が出てくるが、これはダグの誇るべき記念品のようなものだ。当時ヨーロッパ・ツアーを体験したサンフランシスコ拠点のバンドは皆無だった。しかし“Mendocino”がヨーロッパ大陸全土のチャートを駆け上がり(“Schlager”のスター、ミハエル・ホルムによって全てドイツ語に書き換えられヒットした)、ダグがオランダ系のレーベルにいたことで、バンドがツアーを行なうことは何ら問題はなかった。そのことによってクインテットとヨーロッパの間に続くことになる友情関係が始まることになった。基本的にダグは“Mendocino”の詞のアイデアを踏襲し、まだ彼が見たこともなかった町に当てはめているが魅力的なナンバーだ。欲張りなあなたのために、我々はディスクの最後に“At the Crossroads”と“Texas Me”のオルタナティヴ・ミックスをつけ加えた。
The Sir Douglas Quintet would be back!

エド・ワード、2002年8月



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