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Shirley Collins And The Albion Country Band/No Roses/2004 Sanctuary Records Group Ltd. CMRCD951



1935年、イングランドのヘイスティングスに生まれたシャーリー・コリンズのシンガーとしてのキャリアは最初、アメリカの歌を主な素材とし、50年代後半にスタートした。イワン・マッコールを通じアラン・ローマックスと出会った彼女は、彼と共に1年間アメリカ南部に渡り、伝承歌の収集(フィールドワーク)を行った。それは彼女のAmerica Over The Waterに著されている。1960年に故郷に戻った彼女は、出身地サセックスの彼女の家族に伝わる歌も含め、自国の伝承歌を深く掘り下げるという興味が次第に大きくなっていった。それは一連の画期的レコーディング―Folk Roots, New Routes(1964年、ギタリストのデイヴィ・グレアムと制作された実験的で大胆なLPである)―及び、彼女の姉ドリーとともに制作した数々の素晴らしいアルバムとして実を結んだ。Anthem In Eden(1969)はデヴィッド・マンローのEarly Music Consort of Londonの古楽器とトラディショナル・ソングを合体させた最初のアルバムであった。

これらレコーディングの隅々に渡って彼女の歌唱は、彼女の生まれを思わせるような自然な響きをもった表現に聞こえる。しかし彼女の声を独特なものとしている資質を特定するのは、容易なことではないだろう。1959年、民俗学者アラン・ローマックスは書いている。

‘伝わってくるのは天性の誠実さ、純粋さ、そして感性のすさまじい繊細さである。時折ここで聞けるのは類稀な音楽的体験である―少女がうちの中か庭で、将来の恋人を夢見ながら歌っているのを聞くことだ。’

自分の声に対する彼女自身の評価は独特だ。‘私は古臭くて奇妙な声を持っているわ。でも少なくともこれが自分自身よ。’私が思うに、彼女は間違いなく個人的な声を持っていてそこに感情はないが、究極のイングランド的表現を保持している。

シャーリーは伝承の場を熟知している。彼女の歌の直接のソースは祖母を通じて知った曾祖母(ひいおばあさん)にまでさかのぼる―祖母は空襲のさなか、子供を寝かしつけるためによく伝承歌を歌っていた―つまりシャーリーの母だ。シャーリーは15歳になるまでにフォーク・シンガーになりたいと思っていた。

シャーリー・コリンズ(以下SC) : “私はひょっとしたら全てのリヴァイヴァリスト・シンガーの中で一番伝統に近い存在かもしれない。これは世代的にもそうだし、労働者階級っていうこともそうだと思うけど、ずっとうちで歌ったり、いつも歌を聴きながら育ったのが大きいと思う。私は他のリヴァイヴァル・シンガーよりも音楽に対するフィーリングは深くて広いと思っているわ。”

“私の歌のルーツは労働者階級社会の人たちね。私は熱心な社会主義者や芸術を愛している人たちの中で育ってきた。私の母は作家で、フェミニズムが流行する前からフェミニストだった。音楽についてはいつもドリーと私を励ましてくれた。安全なライフスタイルを犠牲にしてでもね。”

“18の時ヘイスティングスを離れてロンドンに行きたいと思うようになった。ロンドンには何でもあると思ったから。私はセシル・シャープ・ハウスにフォーク・ソングの講義があることを知っていた。EFDSS(English Folk Dance and Song Society)の拠点でピーター・ケネディとジョン・ヘイステッドが運営していた。ピーターがHMVのコンピレーションLPをレコーディングするため、その中の1曲に私を選んだのよ。そのLPでなんと私はハリー・コックスとコッパーズの間に挟まった!ロンドンにいる間私は、セシル・シャープ・ハウスの図書館で、歌を探したりしていていつも驚きの連続だった。でもルーシー・ブロードウッズのコレクションみたいなのはあまり揃ってなかったわ。そういうのはゴミ置き場になっているような小さな使い古された部屋にある箱に入っていて、誰も見ないしほったらかしだったから痛んでたわ。”

アシュリー・ハッチングス(以下AH)はベース・ギタリストでフェアポート・コンヴェンションの創立メンバーだった。フェアポートが取り組んだフォーク・ミュージックは、イギリスの初等学校で合唱する“ノニノニ”のような上品なバラッドではなく、うんざりするような暗い英国の農民たちに起源を持つ危険な音楽だった―それはまるで絶望的な目をして顔につばを吐きかけるような音楽だった。そういった音楽は19世紀から20世紀にかけて、セシル・シャープ、ラルフ・ヴォーン・ウィリアムス、パーシー・グレインジャーらによって老人たちから収集されたが、多くは第1次世界大戦の勃発によって忘れ去られていった。

フェアポート・コンヴェンションは、バンドによって大きく成長した2人の偉大なイングリッシュ・ソングライター、リチャード・トンプソンとサンディ・デニーを擁する名高いグループだが、彼らは皆同等にフォーク・クラブからフォーク・ミュージックを学び、彼らのやり方でそれを音楽界の主流に持ち込んだ重要な存在である。最も注目すべきなのが彼らの1969年のアルバム、奇妙なタイトルのLiege and Liefだ。このアルバムはハッチングスのヴィジョンのもとレコーディングされ、それは彼が以前から思い描いていたものだった。

ハッチングスがフェアポート・コンヴェンション、スティーライ・スパン、そして果てしないメンツの組み合わせであるアルビオン・バンドを通じて作り上げてきた、未だ手軽に扱えないこのジャンルはしかし、今でも幅広く影響を与え続けている。

フェアポート・コンヴェンションの悲惨なM1でのヴァンの事故から徐々に回復しつつある中、アシュリー・ハッチングスはシャーリーとドリー・コリンズの音楽に癒される自分を発見した。

AH : “振り返ってみていえるのは、Anthem In Eden(シャーリー&ドリーの69年の作品)を聴いた瞬間が、僕のイングリッシュ・ミュージックに対する愛着を決定づけたってことだ。スティーライ・スパンにいた時、僕はモリス・ミュージックを発見してその時はっきりイングランドの音楽をプレイしたいと思うようになった。”

フェアポート・コンヴェンションはセールス的に成功し、大きな印税が発生したことによって彼が魅了されていたイングランド的方向への活動に着手することを可能にした。そしてシャーリーがセシル・シャープ・ハウスに出演していた時についに2人は出会い、付き合い始めたのだった。

SC : “私たちは1971年8月6日にバトルで結婚式を挙げた。戸籍吏はトゥリー氏で彼の助手がデイジー・フィールドだった。その年にNo Rosesをレコーディングした。覚えている中では、そのレコーディングが一番幸せだった時期の一つね。”

No RosesとMorris Onは事実上平行していて、後者は2, 3ヶ月後のレコーディングだと考えられている。両者とも英国フォークの伝統に深く根ざしていて天賦の才がある。

しかし最初2人は資金の調達をしなければならなかった。

SC : “私たちは最初から幸運だった。だって名が知られていなかったら、あるいはジョー・ラスティグにマネージメントされていたらほとんどチャンスはなかったと思う。その頃は皆アルバムをリリースしようともがいていたわ。今では誰でもアルバムを作れるし、自分でCDだって作ることができるけど、当時は大変だったの。”

“アシュリーはスティーライ・スパンのマネージャーだったサンディ・ロバートンにアプローチすることを提案した。そんなわけでサンディと一緒にスタジオに入ることになったわ。本当に楽しかった。精神的な重荷みたいなものはなくて、例えば‘よし凄いアルバムを作るぞ!’といった思いなんてもっていなくても、スタジオに入るとどんどん気持ちが高揚していったわ。それは本当に思いがけないことだった。全てがうまくいくように事が運んでいったわ。”

“私たちは大作を作ろうという意志をもってのぞんだわけではなかったけど、レコーディングが進むにつれて私たちの可能性が徐々にはっきりした形になっていった。最初のうちは26人ものミュージシャンを使うことなんて予想もしていなかったわ。でも最終的にはそうなった。フェアポートのメンバーと他のミュージシャンとの衝突も全くなかった。みんなオープンでお互いのプレイに興味をもっていたわ。スタジオの中はとてもいい雰囲気だった。多くはリハーサルもなしに即座にレコーディングされた。スタジオは、ひょっこり訪ねてきてはそのまま居残って、レコーディングに参加する人たちでいっぱいだった―幸せな時間だった。私たちは多くのミュージシャンが集まったということで、その一団に名前を付けるってアイデアを思いついたわ。The Albion Country Bandはアシュリーと私が思いついた名前よ。”

召集されたメンツによるアルビオン・カントリー・バンドは、その目的に沿った完全無欠のバンドであった。

“それが私の最初のフォークロックへの挑戦だった。初めは私の声は合わないんじゃないかと思った。でも私はどんなバッキングがつこうと、自分自身のスタイルで歌ったわ。自然な歌い方でね。それが自分の能力を伸ばすことになった。私は音楽自体の持つ誠実さを保ち続けられるような実験ならいつも喜んで実行した。それが一番重要なことよ。私はイングリッシュ・トラディショナル・ミュージックに深い愛情を持っていると同時に、何世紀にも渡って自分を表現する唯一の手段として、歌い継いできた労働者階級の人々にも深い尊敬の念を持っている。それは並外れた偉業ね。とりわけ多くの人たちは読み書きができなかったのよ。でも彼らは彼らの作り上げた芸術に値する充分な名声と敬意を与えられてこなかった。それどころか、さげすまされ、見下され、多くは無視されてきたわ。それがいつも私が自分のソースを明確にする理由の一つよ。No Rosesには誠実さがあると信じている。同様にそのアレンジには力強さと美しさがあって、とても楽しくて魅力もあると思う。”

“私はもう一枚アルバムを作りたかった―それも素晴らしかったわ―とても活気に満ちたエネルギーがあった。本当にガッツ溢れる情熱があったし、もしレコーディング中にあなたがその場に居合わせたら信じられない体験をしていると感じるはずよ。”

“参加したミュージシャンたちは、イングランドの音楽の中に何かを聞いて、その本質を引き出すことができたのだと思う。それはそれ以前にも以後にも誰も成しえなかったことだと思うわ。やっぱりリチャードとアシュリー二人が最も傑出したアーチストで―ある意味リチャードよりイングリッシュ・ミュージックの中に深く入り込んだという点でアシュリーの方が目立ってはいるわね―私が考えるイングリッシュネスに対して的確なセンスを持っていたし、それはいまでも続いているし、まだ終わってないのよ!”

残念ながらこのサンクチュアリの広範なアーカイヴ・テープの調査の結果、アルバムのアウトテイクや別テイクを見つけることはできなかった。しかしこれはそれほど驚くほどのことではない。なぜならアシュリー・ハッチングスの細かい計画によって綿密に実行されたレコーディングだったからである。

サンディ・ロバートン、アシュリー・ハッチングスのプロデュースのもと、1971年の6月を通じてサウンド・テクニクス、モーガン、そしてエア・スタジオで制作されたNo Rosesは、フェアポート・コンヴェンションのLiege & Liefよりもはるかにイングランド色濃いものとなった。その違いは楽曲自体が全く知られていなかった点であった―‘The Poor Murdered Woman’は絶対的に素晴らしい。

SC : “これは今までで最高の1曲だと思う。大好きな曲ね。あなたの言うことは正しいわ。これはあらゆる点で全くエキゾチックな曲よ。みなが考えるようにとてもイングランド的で、同時にイングランド的でもない。でもこれだけは言える!イングランドの音楽を歌えば歌うほどその歌のもつ説得力が出てきて、その真髄が滲み出てくる。これは驚くべきことね。”

メロディ・メーカーの批評家カール・ダラスを含む多くの人たちが、‘The Murder Of Maria Marten’がアルバムの中心的存在であると評した。優れた指導者アシュリー・ハッチングスによって偉大なる冒険とその成功がもたらされることになった。

“単なる信じられないドラマチックな偉業ではない。その創造的進化はエレクトリック・フォークを新しい次元へと導いたことを示している。私はこのアルバムについて一つの見解を持っている。これをフォーク・アルバム・オブ・ジ・イヤーとして、‘Maria Marten’をベスト・トラック・オブ・ジ・イヤーとして推薦することにいささかのためらいもない。私は長い間エレクトリック・フォーク・ミュージシャンたちがイングランドの伝統音楽の中で、彼らの楽器を使って決定的な音色を発見することを待ち続けてきた。そしてそれはついに達成されたのだ!”

ジャケットの雰囲気のあるアートワークはその音楽を完全に表していた。

SC : “美しいジャケットのライオンの写真は、子供たちが学校に行っている間、アシュリーと私がよくブラックヒースから通っていたエルタム宮殿にあるものよ。アルバム・タイトルはコッパーズのソングブックに載っていた‘The Week Before Easter’から付けた。最初のヴァースは、‘A week before Easter the day bright and clear, the sun it shone brightly and keen blew the air, I went down to the forest to gather fine flowers, but the forest can yield me no roses’よ。完璧だと思ったわ。少し難解で、多くの人たちに必ずしも知られてはない歌だった。その詩を読んですぐにピンときた。‘No Roses’に決まりってね!”

アルバムは1971年10月にリリースされ好評裡に迎え入れられた。“理由は私の歌い方が変わっていなかったので、人々が安心して受け入れたからだと思う。私はいつも同じ声で同じように歌っていたから。カール・ダラスは、‘シャーリーはイギリス海峡を音を立てて進む船のように穏やかだ’とかいってたと思う。もちろん彼はまったく正しかった―イングリッシュネスがいつもそこにあった―私にとってロック・シンガーになることは魅力的じゃなかったし、どうしたってできなかったしね。スタジオで録られた歌は素晴らしかったし、気楽なものだったけど、ステージで演奏するときはとてもハードになった。アシュリーはひょっとしたら初期アルビオン・カントリー・バンドの1972年半ば(シャーリー抜きの)にやったギグのいくつかはあまりよくはないと考えていたからかもしれない。”

1971年12月、シャーリーは姉のドリーとともに3日間の英国西部地方へのミニ・ツアーを計画したが、ドリーは健康問題から不参加となった。その代わり、‘シャーリー・コリンズ・ショー’としてアシュリー・ハッチングス、ジョン・カークパトリック、リチャード・トンプソン、そしてロイストン・ウッド―彼は歌うローディーとして急場をしのぎ、サウス・モールトンのThe George(12月2日)、インストウのThe Lobster Pot(12月3日)、Plymouth Polytechnic(12月4日)でプレイした。しかし最後の日はすでにカークパトリックは自身のコンサートの予定を入れていたために参加することができなかった。

ジョン・カークパトリック:“シャーリーたちとの仕事は本当に楽しかったね。僕は興奮して我を忘れたよ。自分のヒーローたちと同等の地位にいる特権を与えられたように感じた。コンサートはうまくいったし、とても楽しかった。僕は自分のダンスバンドの出演をこっそりすっぽかすすべを持っていなかったことをずっと悔やんでいたよ。”

1971年12月11日のメロディ・メーカーは、サウス・モールトンでのギグについて熱烈なレポートぶりを伝えている。

カール・ダラス:“4人のバンドのメンバーは、見事な腕前をもっていることを明確に示していた。この構想について、シャーリーは何年にも渡って奮闘していた―クルムホルン(ステッキを逆にした形の古代の木管楽器)やレベック(中世、ルネサンスの3弦の擦弦楽器)やらの中世の厄介な楽器に手を出しながら・・・ そしてここに、過去よりも未来に目を据えたミュージシャンを招き、彼らはオーボエやヴィオル(violinの前身、16〜17世紀)の代わりに、フェンダー・ムスタングやリッケンバッカーを弾いていた。彼女はカントリー・バンドをリードしながら、聴衆の頭に訴えるのではなく、体を揺らせていた。ロイストン・ウッドは2曲で、歌うローディーとして堂々とその役割を果たしていた。アングロ・コンサルティーナ、ボタン・アコーディオン・プレイヤーのジョン・カークパトリックも非凡な才能を発揮し、彼も2曲を歌った。”

SC : “私たちのその時のステージは急場しのぎだったわ!でもすごく楽しかったし、エネルギーに溢れていたのを覚えている。本当にそれは冒険だったけどうまくいった。ロイストンの周りにいるととても愉快だった。ロイストン・ウッドは最も愛すべき人物だったし、本当に大切な人だったわ。彼は冗談好きでもあったし、勇敢でもあった。素晴らしく品位があって真面目でおまけに美しい声を持っていた。みんなロイストンのことが大好きだったと思う―好きにならずにいられない人ね。とても楽しかったけど、私は一方ですごくナーヴァスにもなっていた。なぜなら以前のギグとは全然違った内容だったから。”

“ある意味ライヴはNo Rosesのアルバムの続編みたいなものだった。スタジオでは音割れなんかがあっても、全ての演奏をやり直す必要はなくて、その部分だけを何度も録り直せばいいから気楽だったわ。オーディエンスがいなければ彼らに対する責任を感じないから。”

しかしNo Rosesは、Morris Onでプロジェクトを拡大するための単なるきっかけではなかった。同じ中心メンバーを使ったアシュリーは、後に強調している。‘Morris Onは十字軍でNo Rosesは慈悲ある労働者たちだった。’

SC : “Morris Onはアシュリーの一つの到達点だと思う。それと彼のRattlebone & Ploughjackも究極的に素晴らしかった。私はアシュリーのそういった姿勢、素材を深く掘り下げてそれを優れた形で表現するところをすごく尊敬しているわ。私は子供の頃から伝統音楽をずっと聴いてきて、18歳からは本当に情熱的に聴くようになって、その音楽には何度も驚かされてきたわ。アシュリーは伝統音楽を理解していたしそのセンスを持っていた。多くの点で彼はいわばその深みに降りていったのよ。ただがっかりしたのは、彼がそのスタイルで続けなかったことね。でももちろんそれを続けて傑作を出し続けるのは、とても難しいことね。”

“彼は新たなオーディエンスをつかんだ。それは素晴らしかった。ケルティック・ミュージックは最後のよりどころを持っていたから。全てがアイリッシュで、全てがスコティッシュでイングリッシュは皆無だった。双方は今まで何度も激しい戦いをしてきたわ。私たちは激励を受けていたけど、メディアに乗っかる必要はなかった。彼らに勝たねばならなかったのよ。まあイングランドの音楽について考え、関わった人は何人かいたと思うけど、総じて私たちはケルティック・ミュージックにこてんぱんにやっつけられたわね。”

“アシュリーはMorris Onによって人々をモリス・ミュージックに立ち戻らせた。人を払いのけてこういった:‘これがモリス・ミュージックのダイナミズム、エネルギーだ。世俗の性愛の姿だ’ってね。とても素晴らしかったし愉快だった。人生とはそういうものよ。創意に富んでいて、徹底的に考え抜かれていて立派に実行された。イングランドの音楽ができることをアシュリーは明確に示したわ。私たちは整然として無情なセシル・シャープ・ハウスとEFDSSには慣れていたけど、アシュリーはそれに血を通わせて命と美を吹き込んだ。不意にモリス・チューンの栄光の数々を聴いて、‘何が今欠けているんだろう?’と思うとすれば、それはまさに‘素晴らしさ’だと思うわ。”

ジェフ・ウォール 2004年2月

シャーリー・コリンズ、アシュリー・ハッチングス、ブライアン・ヒントンに感謝する
カール・ダラス、デヴィッド・サフ、ジョン・トブラー、そしてフレッド・ウッズにも多大なる感謝をする



曲目について:SHIRLEY COLLINS

CLAUDY BANKS from Bob and Ron Copper of Sussex

“何世紀にも渡ってロッティングディーン周辺で血筋をつないできた、コッパー・ファミリーのレパートリーでお気に入りの1曲。コッパーは真のトラディショナル・シンギング・ファミリーのうちの一つで、彼らのイングリッシュ・フォーク・ソングへの貢献は計り知れないものがあるわ。ボブ・コッパーの歌唱や彼のサセックスでの田園生活の話を聞くことは大きな楽しみのうちの一つね。同じ時代に生まれたことを嬉しく思ってる。”

THE LITTLE GYPSY GIRL from Louis Holms of Hereford

“1950年代にBBCアーカイヴのためにピーター・ケネディがフィールド・レコーディングした曲。ピーターはアラン・ローマックス、ボブ・コッパー、ヘイミッシュ・ヘンダーソン、そしてショーン・オーボイルに加えてブリテン諸島全体の伝統音楽の収集に関して信頼できる人物。全てのレコーディングはBBCのアーカイヴに収められている。私はそこから2, 3のラジオ番組を作ったけど、多くのレコードはゆがんでいたわ。もっと大事にしてほしいと思う―たった一つのコレクションなのだから、もっと注意と敬意をもって扱われる価値のあるものよ。”

BANKS OF THE BANN from Bert Lloyd (A. L. Lloyd a noted folksinger)

“子供の頃に知った曲。賛美歌‘Lord Of All Hopefulness, Lord Of All Joy’はこれとセット。アイリッシュ・チューンでラヴ・ソングのほうがより似合う。”

MURDER OF MARIA MARTEN from Joseph Taylor of Lincolnshire

“これはアシュリーが選んだ。‘Dives and Lazarus’からの曲で、英国伝統の素晴らしいメロディのうちの一つ(例えばヴォーン・ウィリアムスの‘Dives and Lazarus’か、ヴァン・モリソンの‘Star of the Country Down’を聴いてみて)。レッド・バーン殺人事件は19世紀に起こって以来、人々を魅了させてきた。アシュリーの処理方法も同様におもしろいものね。曲中で二つに区切るというアシュリーのアレンジは並外れたセンスだわ。絞首刑の場所へと砂利の上を馬車がガリガリと音を立てながら進むサウンド・エフェクトは、ゾッとするような効果があるわ!”

VAN DIEMAN'S LAND collated by Ashley Hutchings

“19世紀のバラッド。私たちは次のヴァースについて長い間議論したわ。‘俺たちには一人の女がいた。スー・サマーズって名前で彼女は俺たちの娯楽を売ったかどで刑に処せられた’ある人はそれは売春で、彼女は娼婦だった、それが有罪になった理由だという。人々はスプーンを一つ盗んだり、パンを一切れ盗んだりしただけの取るに足らない罪で刑務所に送られた。娯楽を売って密猟者たちとともに移送されたスー・サマーズは、私にとって胸が痛むわ。もっと相応しい待遇があると思う。”

JUST AS THE TIDE WAS A 'FLOWING from Aunt Grace Winborn, Hastings

“これは子供の頃ドリーと私にグレイス叔母さんが歌ってくれたうちの一つ。びっくり仰天したことにアメリカのグループ、10,000 Maniacsがカヴァーした。彼らのヴァージョンは私のとそっくりだから好きね。だからそれは持ってるわ!”

THE WHITE HARE from Joseph Taylor of Lincolnshire

“ジョセフはサクスビィ・オール・セインツの農場管理人で、最も傑出した優美なシンガー。彼の歌は1905年頃パーシー・グレインジャーによって記録された。”

HAL-AN-TOW sung as part of the May celebration in Helston, Cornwall

“Hal-An-Towは古代の儀式ソングで、今ではおそらくThe Oyster Bandのヴァージョンで有名だと思う。私のヴァージョンは1951年のフィールド・レコーディングとBBCアーカイヴから。‘ヒール・アンド・トー’のダンスの一種かって?私もよく分からないわ―私は無意識に変化していく言葉とか、何世紀にも渡って口承されていく過程で出来上がった、奇妙な言葉遣いが好きだわ。誰も正確には意味がわからなかったり、過去の物事の痕跡が見えたりするところが魅力の一部ね。”

POOR MURDERED WOMAN collated by Lucy Broadwood from Mr Foster of Surrey

“シンガーのピート・ウッドと、1834年1月14日火曜日のThe Timesで知ったお気に入りの曲。これはサリー・ユニオン・ハント(狩猟組合?)がレーザーヘッド(イングランド南部サリー州中部)で発見した死体にまつわる本当の話。当時心の優しいオブザーバーによって書かれたもので、その歌は哀れみと尊厳が単刀直入に語られていたけれど、もしこの崇高な旋律がなかったら人々の記憶から消え去っていたかもしれないわね。”


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