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Shelagh McDonald/Let No Man Steal Your Thyme/2005 Sanctuary Records Group Ltd. CMDDD1065



“再びシェラから便りをもらうことはなかった。私はその頃彼女に電話をしたんだが、番号はつながらなかった。彼女は消えてしまったんだ。”
(サンディ・ロバートン、2004年10月)

シェラ・マクドナルドは最初からいなかったかのように、突然姿を消してしまった。70年代初頭2枚の壮大なアルバムを手掛けたマネージャー/プロデューサーのサンディ・ロバートンが示すように、彼女は果てしない可能性のある歌い手であり、多彩なヴォーカル・テクニックとジョニ・ミッチェルの巧妙さ、サンディ・デニーの謎めいた部分、ニック・ドレイクの不運なメランコリックを合わせ持ち、見事にブレンドさせ表現していた。自伝的シンガー/ソングライターのジャンルの中で、彼女はそれを高度に身に着けていた。才能と若さと美貌を持つマクドナルドは、ロバート・カービー(その頃ニック・ドレイクとの仕事でよく知られていた)による贅沢なアレンジメントによってさらに大きく羽ばたいていた。ロバートンはアンディ・ロバーツキース・クリスマスを雇い、メロディ・メーカーの名士カール・ダラス率いるブリティッシュ・フォーク言論界のツワモノたちの支持を集めた。

彼女の驚異的な才能の開花はしかし結局、2枚のアルバムによってのみ示されることになってしまった。セカンド・アルバム‘Stargazer’は、1971年9月にリリースされた。シェラ・マクドナルドはその後30年以上に渡って、完全にその姿を消してしまった。しかし彼女の所在はわからないまでも、確かにどこかにいるはずだという憶測は依然ファンや当時の仲間たちの頭に焼きついている。インターネットのページでは、彼女の音楽的栄光と失踪、新たな動きに関する手掛かりについて盛んに論議が交わされている。確かな証拠を欠いた中で噂だけが広まっている状態だ。いくつかの主張では、彼女は故郷のスコットランドに戻り図書館員か書店で働いているというものや、カナダに移住したというものがある。ある者は、彼女は神と出会った(神が彼女と会ったところがカナダというのが顕著な点であるが)というのを聞いたことがあるらしい。広く信じられているのは、70年代半ば彼女が子供向けの本を2〜3冊執筆していたというものかもしれない。

マクドナルドの神との関わりあいについては謎のままだ。今では主張の大部分は明確に否定されている。子供向け書物と書店員については、1971年以降の活動というよりは1968年終りから69年初頭のクラブ・シーンでの最初の彼女の失踪に言及したものなのかもしれない。カナダに移住したと信じている人たちについては、おそらくシェラ・モンテス(旧姓はマクドナルド)と混同しているのだろう。この子供向け書物の作家は、昔英国を離れ今は著名な作家としてカナダに住んでいる―しかし好むと好まざるとにかかわらず、モンテス女史は我々の探しているシェラではない。

彼女が70年代初頭、音楽界とロンドンから突如として消えたことに対する、我々の一連の思い違いや様々な出来事を検証すればするほど、我々はマクドナルドが30年間にしてきたことからむしろ遠ざかっているのを認めざるを得ない(もちろんその人が公になることを拒んでいる場合には、それは道徳的に尊重されねばならない。様々なコンピレーションや再発によって発生し続ける印税―通常ある人を見つけ出すのに有効な手段は金である。未だシェラが姿を現さないのは、彼女が過去について既にほとんど、あるいは全く関心を持っていないだろうことは想像できる)。

未だファンの誰もがこのミステリーを愛している。それは凍りついた時間―ニック・ドレイクのようにあどけない眼と非凡な音楽的才能、汚れない若さはシェラ・マクドナルドの印象的な物語を作り上げるのに格好の素材だ。我々のこの初のアンソロジーは、彼女の2枚のスタジオ・アルバムと多くのアウトテイク(2曲の未発表含む)、そしてあらゆるコンピレーションから編集されたもので―めったに聴けないBBCのレーベルがリリースした1968年のデビュー・レコーディングも含む―彼女の全仕事を一つの形にまとめることができた。ある種物語のようなCDを作ることができたわけだ。これが今のところのシェラ・マクドナルドのコンプリートだ―少なくとも彼女がひょっこり現れて、自身の遅きに失した興味深い悲話のようなものを提供してケリをつけてくれるまでは。

30年間を超える彼女の動向についてほとんどが知られていない今、シェラ・マクドナルドの情報を手に入れるのは非常に難しい。彼女の父親がスコットランドで小さな新聞社を経営しているといわれてきたが、これも繰り返すように噂に過ぎないのである。それでもなお1960年代末、BBCラジオ・ワンの番組‘Country Meet Folk’からリリースされた1枚のLP‘Dungeon Folk’のために彼女はイングランドにやって来てレコーディングしたという事実は残っている。タワー・ブリッジ近くのコッパー・パブリック・ハウスを拠点に週一度開催されたDungeon Folk Clubでは、様々なアーチスト(Cliff Aungierも当時含まれていた)が活動していた。‘Dungeon Folk’は1969年1月、BBC所有のレーベルからリリースされた。しかしセールス的には芳しくなく、今ではコレクターズ・アイテムとなっている。それには彼女のパフォーマンスが2曲、カントリー・ブルース調の“Hullo Stranger”“Street Walkin' Blues”が入っていることがそのLPの価値を高めている。

少しの活動休止後、彼女はブリストルに移り住み、そこのフォーク/カントリー・ブルース・サーキットで名をあげ始めた。その頃アメリカン・カントリーがシーンを席巻し、そこではイアン・A・アンダーソン(後のFolk Rootsの記者)、アル・ジョーンズ、そしてバース大学の学生キース・クリスマスらがパブ、クラブで活動していた。ブリストル・シーンをリードする場所であるトルバドールもあった。彼女のキャリアはブルースに根ざしたレパートリーに始まり、やがてジョニ・ミッチェルのようなシンガー/ソングライターら新しい波の影響を受け、しだいに自身のアコースティック・ギターやピアノによるオリジナル曲を書くようになっていった。トルバドールに出演した彼女は、そのルックスの良さと透き通った声、優れた楽曲群によって目が眩むほどの成長を遂げ、出演契約と同時に彼女にすっかり惚れ込んだ一団をも獲得するに至った。

1969年末、彼女の目標はアメリカン・カントリーの範疇を超え、ブリストルのクラブ・シーンの先導者であったアル・ジョーンズとキース・クリスマスの勧めに励まされ、フォークを専門とするマネージメント/プロダクション会社、セプテンバー・プロダクションを手がけていたサンディ・ロバートンと契約した。キース・クリスマスとの関係はあっさりとしたものだったが、その後2年間続くことになった。マクドナルドはLes CousinsやBunjiesのようなロンドン・フォークの根城にたびたび顔を見せるようになっていた。

ロバートンはキース・クリスマスがシェラに彼を推薦した後、シェラと契約を交わした。クリスマスはちょうどその頃サンディの指揮により自身のデビュー・アルバム、‘Stimulus’をレコーディングしていた。シェラはすぐにロンドン内外でのセプテンバー・プロダクションのギグに参加を要請された。彼女のデビュー・ライヴは1969年12月、キース・クリスマスのライヴ・レコーディング、‘The Ballad Of Robin Hood’のためのスクールハウスでのギグであった。一曲は彼がある日曜の朝、シェラのフラットで書いたものだ。これはレコーディングされセプテンバー・プロダクションの見本アルバムである‘49 Greek Street’(Les Cousinsクラブのあったソーホーの住所)に収録され、1970年の頭にRCAからリリースされた。

1970年2月〜6月にかけてシェラはチェルシーにあるスタジオ、サウンド・テクニクス(ジョー・ボイドジョン・ウッドの拠点)でデビュー・アルバムのためのレコーディングをすることになった。この頃のサンディ・ロバートンは、バッキング・ミュージシャンの選択にはアンディ・ロバーツキース・クリスマスマイティ・ベイビーのメンバーらを含む、セプテンバー・プロダクションに所属するアーチストたちを主に使っていた。アルバムの構成は、彼女の巧妙に作られたオリジナル曲とともに約半分は少々意外ではあるが、他人の曲がフィーチャーされていた。“Look Over The Hill And Far Away”ハンブルバムズのLPに入っていた。シェラによってこの曲はジェリー・ラファティのマッカートニー・フレイヴァー溢れるポップ・バラッドを、完璧なフォークロック・スタイルに改造された(フォーク・ポップ・ヒストリーにおいておそらくこれは最も変則的な即興演奏のうちのひとつだろう)。一方ロバーツ(穏やかであり激しくもある“Richmond”の作者)とクリスマス(“Waiting For The Wind To Rise”“You Know You Can't Lose”)は3曲を提供している。唯一のトラディショナル・ソングがスリリングな“Let No Man Steal Your Thyme”だ。これはサンディ・デニーを強く彷彿とさせる。他のカヴァーは、マルヴィナ・レイノルズの“Jesus Is Just All Right”で、これはシェラがロックにも充分対応可能なことを証明しているが、おそらく全体に露骨に過ぎるところがアルバムから外された理由だろう。

他人の曲が混在しているとはいえ、やはりマクドナルド自身の曲がアルバムの基盤を見事に形作っている。“Mirage”は力強く自信に溢れたオープニング・ナンバーで、サンディ・ロバートン典型のエレクトリック・フォーク・サウンドの中でパワフルな詞を浮かび上がらせている。一方、寓話物語風の“Crusoe”、このロビンソン・クルーソーのコンセプトは初期ジョニ・ミッチェルを強くしのばせるソロ・パフォーマンスだ。おそらく最も印象的な曲は、“Peacock Lady”“Ophelia's Song”だろう。シェラの古臭く何かを喚起させるような詞と魅力あるメロディが、ロバート・カービーによるアレンジによって洗練された室内楽ポップのごとく鳴り響く。カービーのニック・ドレイクでの仕事に通じるような雰囲気だ。

‘シェラについてまず思い出すのは、まるでニック・ドレイクのように神秘的だったことだよ―背が高くてスリムでとても美しくて綺麗な黒髪が大理石のような肌を浮き立たせていた。’カービーはいう。‘でも彼女のヴォーカルはニックよりもややまさっていると思うよ(まるで葬送のようだ!)―彼女の声は美しくて、魅力的で、一度聞くと忘れられないような・・・ クラブやなんかで地道につとめ上げたことは、彼女のプロフェッショナリズムを示していると思う。話す声も美しかった―ハイ・エジンバラ風だ(Sir Alex FergusonというよりMiss Jean Brodie!)―あとユーモア・センスも最高だった。僕はファースト・アルバムで“Peacock Lady”、“Ophelia's Song”、“Richmond”のオーケストラ・アレンジを担当した―最初の二つは今でもすごく誇りに思ってるよ!’

アルバム・リリースに先立って、フォーク界の一団は1970年8月のメロディ・メーカー誌によって大きくフィーチャーされた。その時のヘッドライナーに相応しく、彼女の素晴らしい写真とともに添えられた言葉が、‘シェラ―第2のサンディか?’だ。続いての記事が、‘サンディ・ロバートンはシェラ・マクドナルドのアルバムに完全に満足している。彼がプロデュースしたこのアルバムは、10月9日にB&Cからリリースされる。現在サンディ・デニーはフォザリンゲイの一員として不可欠なメンバーとなっている。ロバートンはシェラがソロ・シンガーとしてデニーのいないこの空席に座ることができると信じている。彼の考えは正しいだろう。彼女はジュディ・コリンズのように豊かで色あざやかな声の持ち主だ・・・’

アルバムは世界的にはほとんど話題にならなかったが、国内では好意的に受け止められた。‘The Shelagh McDonald Album’(かなり平凡なタイトルではあるが)は、1970年10月、B&Cからリリースされた―同月、偶然にもキース・クリスマスのセカンド・アルバム、‘Fable Of The Wings’もまたB&Cからリリースされている。‘Fable Of The Wings’では、キース作の“Waiting For The Wind To Rise”が“The Fawn”としてフィーチャーされた。そこではシェラがセカンド・ヴォーカルとして参加した―たしかに‘the city is breaking her’のラインで彼女の繊細なヴォーカルが曲を魅力的に飾り付けているのが聞き取れる。ブリストルからロンドンに移ったことで確かに彼女は新しいキャリアをスタートさせていた。‘彼女はイズリントンのエンジェルにある安アパートが立ち並ぶ地区のひどい公営アパートに引っ越してきたよ。’クリスマスは不快な表情を浮かべながら思い出す。‘僕は彼女に一体何でそんなところにいるんだと尋ねたことを覚えているよ。お金の問題だったんだ。彼女はうまくいってなかったし、ギグもそんなにしていなかった。僕と違って彼女は生活を最低限維持するための大学助成金も持ってなかったんだ。’

しかし少なくとも音楽的観点からいえば、全ては輝いていた。11月の終わりに彼女は、カール・ダラスの計らいによってメロディ・メーカー誌から大きく取り上げられている。‘我々はソロ・シンガーの地位を放棄してバンドに加入したサンディ・デニーに続く才能を長い間待っていた。’‘でもついにシェラ・マクドナルドという理想的なシンガーが現れたんだけど、他の誰かがそのソロ・シンガーの席を占領してしまったんだ。’と彼は考えている。

興味深いことをダラスはコメントしている。マクドナルドは既に以前、フォーク界から身を引いていた時期があったらしい。‘2年前、少さな印象を与えてくれたスコットランドの内気な女性とは全く変わっていたよ。彼女は全てをあきらめて書店で働くために行ってしまった。’彼ははっきりとは明かさなかったが、おそらく問題の時期は1968年の‘Dungeon Folk’のレコーディング直後だろうと思われる。続いて起こる彼女の失踪ははるかに長いものとなったが、ダラスの捜索に対するシェラの返事には痛切なものがある。‘休養は私にとって良いことだった。初めの頃は一つだけ、つまり歌うことだけだった。他のみんなと同じように何かを始めることは素晴らしいことのように思えたわ。でも何に対しても専念することが私にはできなかった。それですごく自分が無意味な存在に思えた。でも自分の曲を書き始めてからまた戻ってくることができたわ。今はそれが嬉しい。’

この頃マクドナルドは既にセカンド・アルバムのことを考えていた。ダラスは彼女のデビューLPについて指摘した。‘当時の彼女が目指していたことは、ちょっと典型から外れていた。スタートした頃彼女は多くの素晴らしい曲を書いていて、自作曲はアルバムを埋めるに充分以上の量があったんだ。’こうやって1970年12月半ば、シェラはサウンド・テクニクスに戻ってきた。多くのデモ―“Book Of Rhyme”(後の“Liz's Song”)、“Rod's Song”そして間違いなく彼女の最高傑作“Stargazer”を携えて。

しかしながらこれら比較的自信のなさそうなヴァージョンは、1971年2月〜5月の3つのセッションによって取って代わられることになった。つまりセカンド・アルバム、‘Stargazer’に最終的に収められることになったヴァージョンだ。再びセプテンバー・プロダクション系のメンツが召集された―例えばキース・クリスマスとマイティ・ベイビーのキーボーディスト、イアン・ホワイトマンが代表的メンバーであった。しかし今回はさらに重要なメンツ、ペンタングル/フェアポート・コンヴェンションを代表して、ダニー・トンプソンデイヴ・マタックス、そしてリチャード・トンプソンらが加わった。フェアポートの影響としてとりわけトラディショナル・ソングの“Dowie Dens Of Yarrow”の感情くすぶるヴァージョンが挙げられる。この曲はLiege & Liefに入っていてもおかしくないだろう。リチャード・トンプソンは、シェラの最も完成されたうちの1曲“Baby Go Slow”と息を呑むような“Odyssey”でギターを弾いている。他ではイアン・ホワイトマンのBlonde On Blonde(ディラン)風のオルガン・ワークが光る“Good Times”がある。一方、“Rod's Song”“Lonely King”、そして素晴らしい“Canadian Man”(‘彼は言った/僕は運も名声も捨ててしまった/私は人混みに彼を置いてきてしまった/私たちは再び会えるだろうか’)これらは全てジョニ・ミッチェルに対するマクドナルドの羨望を示している。

しかしながらアルバム中最も秀でているのは、間違いなくタイトル・トラックだ。シェラの魅惑的なヴォーカルとメロディ・ラインは、ロバート・カービーの壮麗なアレンジによって成り立っている。歌の結尾の新古典主義的なヴォーカル・アレンジ(彼女は‘ウーアー’の代わりにケプラーのエピタフを使うことに同意してくれたんだ―カービーは回想する)は最後に荘厳な飾り付けを加えている。1971年9月にリリースされた‘Stargazer’は他のどんな作品をも凌駕していた―その内容は疑う余地のない音楽的達成と70年代初頭のフォークロック及びシンガー・ソングライターのジャンルにおいて、真の傑作であることを証明している。しかしながら友人やファンたち、そして自称求婚者たちが口々に彼女のアルバムを絶賛したにもかかわらず、またもやセールス的には惨敗であった。ジグザグ誌のインタビューで、同じフォーク仲間のスティーヴ・ティルストンがライターのリチャード・ハウエルにいっている。‘シェラ・マクドナルドについて何か付け加えるとすれば、あの美しい容貌のことを別にして、ジョニ・ミッチェルに比類できる英国のシンガーは彼女だけだね。’

マクドナルドは少なくとも、遅きに失した感はあったがBBCラジオ・ワンでLPをプロモートする機会を得ている。その3ヶ月後アルバムはリリースされたが、彼女はピート・ドラモンドとのセッションで“Lonely King”“Odyssey”のソロ・ヴァージョン、そして二つの新しい曲、“For You”“Spin”(残念ながらこれらのトラックはもはやBBCのアーカイヴにはないが、リストだけは残っていた)をレコーディングした。“Spin”は実はすでに8月にサウンド・テクニクスでレコーディングされていた。シェラは1971年12月7日にスタジオに戻ったが―6日後ラジオ・ワンでそれを収録した―それはサード・アルバムの準備のためであった。

それが最後のレコーディング・セッションとなった。この段階で彼女はドラッグに手を出し始めていていた。キース・クリスマスは現在次のように語っている。‘ああ、まさか彼女がってね・・・彼女はそういうことに対しては大丈夫だったよ。でも入院することになってしまった―僕が想像できるのは、ハイになるには最悪の場所ってことだけだよ。両親がスコットランドからやって来て彼女を手押し車に乗せていた―それ以来彼女のことは二度と見ることも聞くこともなかった・・・’

不幸なことに我々のストーリーはここでほとんど終わりだ。サンディ・ロバートンは彼女の名をとどめるために、雑多なサンプラーの中からトラックを拾い出して、それにスポットライトを当てようと企てた―1971年8月に行われたサードLPのための2度のレコーディングからである。“Sweet Sunlight”“Rainy Night Blues”はそれぞれ‘Club Folk Vol.1’‘Club Folk Vol.2’に収められた。“Let No Man Steal Your Thyme”はスティーライ・スパンをベースにしたコンピレーション、‘Rave On’に収録され、“Rod's Song”‘Clogs’に使用された。そこでライターのカール・ダラスがスリーヴノーツを書いている。シェラ、キース・クリスマス、アンディ・ロバーツ、そしてスパイロジャイラのマーティン・コッカラムの4人について、‘ブリティッシュ・ソングライターのうち、これから輝く新しい才能である’と。ダラスがそのように4人にとって励みになる祝いの言葉を記したその時には、残念ながらシェラ・マクドナルドはもはやいかなる音楽シーンにも参加できるような境遇ではなかったのである。

彼女の失踪という状況下において、あるいはその後彼女は神に出会ったという噂は、ある意味内容を伴った魅惑的な話ではある。しかしもちろんそれは根拠のない憶測の領域に沈み込んでいっている。2005年、33年の時を経て彼女は一見ロンドンに身を潜めているらしいこと、果てしなく続く音楽ビジネスにおいて、あらゆる噂は有用であり70年代初頭、英シンガー・ソングライターのジャンルの中で出現した2枚の素晴らしいアルバムを置き忘れてきたシェラ・マクドナルドは、皆をからかってじらしているのだと断固として噂されるのである。

ほとんど耐えられない胸の痛みを伴うような、そういった可能性は依然残っている。‘ファンタスティックなミュージシャンだったし、人間的も素晴らしかったよ―非凡な才能の持ち主だったね。’ロバート・カービーはいう。が、やはり我々にはおそらく二度と確証を得られないであろうという事実があるのだ。そしてどういうわけか墓碑銘のようなものにも接触することができないでいるのだ。

デヴィッド・ウェルズ 2004年12月

ロバート・カービー、キース・クリスマス、サンディ・ロバートン、そしてピーター・ムーディに感謝する
ボブ・ペグ、ジョン・オーリガン、ハンズ・フリード、そしてニール・マーレイにも


訳注:ある海外のサイトによれば、2005年57歳の彼女は姿を現わし、再び歌を書き始めたことを話したそうです。


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