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The Rutles/The Rutles/1990 Warner Bros. Records, Inc./RHINO R2 75760



ザ・ラトルズ・ストーリー

1959年1月21日、ラトルズの物語はリバプールの43.エッグ・ストリートで始まった。そこでロン・ナスティとダーク・マクイックリーが最初に出会ったのだった。その時ロンは、ダークを何とかしっかり立たせるために、家に連れて行ったのだ。ダークは単なるど素人酔っ払いであった。そこで2人は即座に意気投合し、伝説が作られることとなった―その伝説は昼メシの時間までは持ちこたえたのだった・・・ まもなくギタリストの(グチャグチャ頭)スティグ・オハラが参加することになった。実はその2年前、彼らは正式ドラマーを見つけていた。そのドラマー、バリントン・ウーブルはヴァンに隠れているところを発見されたのだった・・ 彼は時間とブリルクリーム(英国製のヘアクリーム―商標)の節約のため、名前とヘアスタイルを変えるよう勧められた。名前は単にバリー・ウォムとなった。

彼らは最初のマネージャー、アーサー・スコースを雇うことになったが、これは一種の賭けであった(そしてその賭けに負けたのだった・・・)。彼らの音楽に感銘を受けたアーサーは、すぐにハンブルグ行きを敢行した。メンバーはハンブルグがリバプール外にあるという理由だけで受け入れたのだった・・・ しかしそこは単にドイツにあるというだけで、ドイツ最悪の街だということが判明したのだった。ハンブルグの歓楽街、レーパーバーンは世界で最も趣味の悪いストリートであった。そこは第2の故郷とは程遠く、全くシケた街だということが分かったのだった。

当時5人目のラトル、レポというメンバーがいた。彼は主にステージでは後ろに立っていた・・・ 彼はギターが弾けなかったが、街の楽しみ方は知っていたようだ。ハンブルグは面倒な場所であった。労働者階級の5人のハングリーな若者にとってそこは、囚人よりひどい環境であった。さらにラット(Rat)・ケラー・クラブもそうであった。15ヶ月間彼らは毎晩クラブでプレイし、やっとのことでリバプールに帰ってきたのだった。しかしまもなく彼らはレポを失うことになる。レポはドイツ人令嬢のトランクに忍び込み、二度と発見されることはなかったのだ。彼のラトルズに与えた影響は、誰もわざわざ測ろうとしなかったので測り知れないものがある。ラトルズは豊富な体験と避妊薬を伴って、張り切ってリバプールに戻ったのだった。彼らはキャヴァーンクラブのマネージャーをとっ捕まえ、出演の要求を呑むまで彼の頭を水の中に押し込んだ。すぐに彼らの音楽は頭角を現し始めた。いや実際は全く現さなかったのだが・・・

1961年10月、レギー・マウントバッテン―ボルトンの薬売り―が彼らのライヴに遭遇した。レギーは第二次大戦の終りごろ片足を失い、それ以来リバプールをピョンピョン飛び跳ねていたのだった。ある日彼は偶然薄汚れたディスコの階段でけつまづいた―そこで彼が出会った一人の水夫によって、彼の人生は大きく変わったのである。その水夫は彼にラトルズの事を話したのだった。じめじめした、汗臭い地下室で、情熱的に脈打つようなサウンドをレギーは嫌った。レギーは彼らの音楽も騒々しさも髪型も大嫌いだったが、ピッタリしたズボンは大好きだった・・・・ 彼は自伝“異教徒たちの穴蔵”で、おどおどしながらロン・ナスティに契約金の話をしたことを書いている。「ジャムバター付サンドイッチ2つとビールだね。」がロンの要求だった。翌日レギーは彼らに木枠に詰めたビールと2つのサンドイッチ、そして15ページの契約書を送ったのだった。ラトルズは直感的に、この物腰柔らかいびっこの男を信頼し、すぐに契約を交わした。レギーはさっそく彼らを売り出しにかかった。まず彼らにスーツを着せ、時間を守らせ、ロンドンへ持っていくための写真を撮り、テープを用意した。

アーチー・マカウが最初に興味を示したA&Rマンだった。「ある日私のオフィスのドアを妙な男がノックしてきたんだ。彼は他の者たちと同じようにドアで足止めにされたね。彼はラトルズの写真とテープを持ってきた。かなりラフな感じだったが、何かを持ってる連中だと思ったね。多分それは・・・ピッタリしたズボンだ・・・」 マカウはラトルズをレコーディングしようと申し出、レギーにディック・ジョーンズを紹介した。彼は失業中の出版業者で、能力には怪しいものがあった・・ 「すぐに気に入ったよ。ズボンが・・・ 私は衣類の商売をしていたから、内側の縫い目のことはちょっと知ってたんだ。これは成功すると思ったね。ラトルズは多くの利点を持ってた。若くてシャープで、とりわけ手軽な存在だった。とりあえず彼らと契約を交わしたよ。ラッキーだったね」レギーは意気揚々とラトルズをスタジオに送り込んだ。1stアルバムは20分で制作された。2ndはもう少し時間をかけた。うまくいったのはドラムの入ってない曲だけだった・・・ 一連のヒット曲―“Rut Me Do”“Twist And Rut”“Please Rut Me”は空前の騒ぎとなった。女王でさえ、ロイアル・コマンド・パフォーマンスでの公演に感動したほどであった。12月までに彼らは19のヒット曲をトップ20に送り込んだ。

1964年ラトルズは、きわめて重要な成功をアメリカで掴んだ。10000人の泣き叫ぶファンたちが彼らを出迎えに、ケネディ空港に集まっていた。しかし悲しいことにラトルズはラガーディア空港に到着してしまった・・・ にもかかわらず、翌日のエド・サリバンショーでは、7300万人が彼らを観たのである。ラトルズは文字通り世界を征服してしまった。1965年の再渡米では史上初の野外ロックコンサートをチェ・スタジアムで達成した(このスタジアムの名はキューバの英雄チェ・ゲバラにちなんだもの)。用心のためラトルズは前日にヘリコプターでスタジアム入りしていた。このことは大衆から彼らの身の安全を保障するものであった。そして明らかに広報活動の一環でもあった。メンバーの見分けもつかないのに、子供たちは泣き叫んでいた。プロモーターのシド・ボトルは、彼の人生史上最もエキサイティングな20分間だったと述べている。

必然的にラトルズは映画界に進出し、イカれた“ラットランド”の監督、ディック・レイチェスターシャの助けもあって、メディアを支配することにもなった。1966年ラトルズはキャリア史上最悪の脅威に直面した。ナスティの発言した「ラトルズはキリスト(ゴッド)よりも有名だ」というセリフが広まってしまったのだ。さらに神はヒットを放ったこともないと言ってしまった。これがアメリカで大問題に発展、人々は彼らのレコードを焼き払うという行動に出た。しかし人々は焼くためにレコードを買い求め、セールスは急上昇したのだった。そしてこの騒ぎの真相は身の毛もよだつものであった。ナスティは弱冠耳の遠いインタビュアーに、単に「ラトルズはロッド(スチュワート)より有名だ」と言っただけであったのだ。実際ロッドはその頃8年間ヒットを出していなかったのである。ナスティはプレスの記者会見で神とロッドとプレスに謝罪し、ツアーは計画通り行われた。しかしこれがラトルズ最後のツアーとなった。1年後彼らは他のスキャンダルで逮捕されることになった。

60年代中頃のサンフランシスコは、目ざましい社会的発展にあり、ボブ・ディランはラトルズに多大な影響を与えることになる、ある物質を伝授した。“お茶”だ・・・ 彼らはこの強い作用のある“お茶”を摂取するようになり、そこから最高傑作“サージャント・ラターズ・オンリー・ダーツ・クラブ・バンド”が生まれた。このアルバムはポップミュージック史上画期的事件となり、鐘と花とお茶の夏に捧げられた牧歌的シンボルとなったのである。しかしそれは長続きしなかったのだった。ダークは英プレスに対して“お茶”だけでなく、“ビスケット”も使用していることを認めた。ラトルズにねたみを抱いていたプレスは、この好機に飛びついた。彼らはスティックの反対側を持ち、素人くさいビートを叩き始めた。(?) 

続いて多くのポップスターたちが、お茶の使用と所持で逮捕されていった。ナスティは捜査官のブライアン・プラントに逮捕された。ブライアンは自分の身の安全だけを考えていたのだった。(?) この起訴に対して、すぐに民衆の怒りの声が上がった。タイムズは“お茶”の合法性をページを割いて主張し、一般大衆は、警察がポルノ作家から賄賂を受け取ったことは、組織的な犯罪ではないかと疑っていることを掲載した。スティグは間もなく、アーサー・サルタンのサリー神秘主義に傾倒するようになった。彼はスティグに、ウィージャ・ボード・ワーク(ウィージャ:商標/心霊術)を紹介した。サルタンはラトルズをボグナー近くで週末催される交霊術(叩音:テーブルタッピング、スピリット・ラッピング)に招待するようになった。プレスはいつものように追いかけたが、ラトルズの方は、サリー神秘主義の座禅を組み、悟りを求め、ヘタクソなホラでもって対応していた。

ボグナー滞在中彼らの耳にマネージャー、レギー・マウントバッテンの死というショッキングなニュースが飛び込んできた。レギーは疲れ果て、週末の修行にうんざりし、友人を起たせることもできなくなっていた。彼は自宅に戻り、しかたなくオーストラリアでのティーチング・ポスト(?)を受諾したのだった。事件はラトルズにとって寝耳に水であった。彼らはショックを受け唖然となった。しかしこのニュースは全く予想されないものではなかった。その頃の彼の行動にはいくつかの不審な点が見受けられた。彼はさかんにスペインの闘牛士を調査し、カリフォルニアでは、ゴムボートに人工呼吸をしたかどで逮捕されていた。ともあれ彼は、何年もラトルズと共に過ごしてきたのである―強情なところもあったが―。彼は逝ってしまった。

ラトルズの最初の失敗作“ザ・トラジカル・ヒストリー・ツアー”はレギーの死の直後作られた。それはラトルズにしては強力なアイデアではなかった―4人のオックスフォード歴史学者がイギリス中の茶店を渡り歩く・・・―これは当然プレスに酷評された―。1968年ダークとナスティはラトル・コープ設立の記者会見のために渡米した。ナスティによると設立の目的は、“アーティストたちの自助努力”であった。残念ながら、それは数年間しか続かなかった。寄生者たちはあるステージでは、バンドの移動車に飛び乗った。彼らは英国政府よりも浪費家だった。オランダのデザイナーチーム“スマート”は、ラトルズにブティックを開くよう説得し、ナスティが計画失敗を発表する前に、たったの3週間で100万ドル近くをせしめてしまった。ラトル・コープからのちょろまかしは途方もない規模になっていた。タイプライター、テレビ、電話、車、事務所でさえ一夜のうちに消えてしまった。

まもなくスティグは姿を消し、1969年彼の死亡説が広まることとなった。彼はウォーターベッドショップでの火災に巻き込まれて死んだと思われていた。そして代わりのメンバーは、マダム・テュソーズ作のろう人形が置かれていたと考えられていた。世に言う“事実”とは、しばしば噂が噂を呼ぶことによるものである。第一に彼は一切口をきかなかった。“静かなる男”である彼は、1962年以来一言も喋っていない・・・ 第二に最新作“シャビー・ロード(薄汚い通り)”のジャケットで、彼はズボンをはいていない。イタリアでは古くからこれは死を意味するものと考えられていた。第三に“アイ・アム・ザ・ウェイトレス”の中でナスティは、‘I buried Stig(俺はスティグを埋葬した)’と歌っていると思われていた。実際は‘E burres Stigano’でありこれはスペインの汚い言葉で、‘アンタ水牛持ってる?’という意味であった。第四に“サージャント・ラター”のアルバムで、彼は死んだ原始人にもたれ掛かっているのである(ラトランドの死書より)。そして最後にタイトルの“サージャント・ラターズ・オンリー・ダーツ・クラブ・バンド”をテープの逆回しで聞くと、‘スティグはたしかに死んでしまった(Stig had been dead for ages honestly)’になるのである。これは‘dnab bulc strad ylno strettur tnaegres“と薄気味悪い一致を見せている・・・

スティグはもちろん死んでいるはずもなく、ロンドンにはいなかったとはいえ、ガートルード・ストレンジ嬢とベッドに入っていたのであった・・・ 彼女は巨乳で、生物学的に恵まれたアメリカ女で、父親は吸着機雷を発明した人物であった。スティグは彼女を一目見て肉欲が沸いたのであった・・・ 彼らはスティグのバンガローに引きこもっていた。そこは1年後、スティグがある朝目覚めると、ガートルードは消え、ベッドの上には少々のパンくずと、引き裂かれたシーツを残すのみとなったところだ。行き先も別れの言葉も残さなかったが、子供がいなかったのは幸いであった。バリーはというと、税金逃れのために1年間ベッドに潜り込んでいた。

エリック・マンチェスターはひどい財政状況を考え、‘バリーも死んだ’という噂を流すことを思いついた。彼が電話に出るためにベッドから起きた時、ラトル・コープは危機的状況であった。ナスティはロン・デクライン(←衰退)に会うために、ハネムーン先のニュルンベルグから急いで戻ってきた。この最も恐れられた男はラトル・コープの建て直しを目論んでいた。しかしスティグがその時既に、ビリー・コダックに経営の相談を受けていた。ダークの方は、ファミリーネームを何とかしようと、アーノルド・シュウォーツェイゼングリーネンブルーエングローネンバーガーを雇い入れた。一方バリーは毎日3時間30分“I Ching”と相談していた。

ビジネス・ミーティングは狂っていた。5分毎に顔面蒼白のファイナンシャル・アドヴァイザーたちは、ラトルズの連中がアドヴァイザーをチェックするアドヴァイザーを次々と雇い入れるのに気づいた。弁護士も同様に次々と雇い入れていた。最後のミーティングでは、134人の法律家と会計士が小さな7〜8人部屋に押し込められ、87人だけが生還することができた。サヴィル・ローのブラックホールはその時の有能な銀行家に被害をもたらすことになった。幸い事はそれほど深刻ではなかったが、ラトルズは明らかに自滅へ走っていた。口喧嘩と法的論争の経過は“Let It Rot”というアルバムとその映画に表れていた。それはもうラトルズは以前の彼らではないという事だった。疲労、不幸、受難、まさにその時代を象徴していた。

4人の素晴らしいモップヘアーの若者たちが世界を股にかけた夢の実現は、永遠に過去のものとなった。1970年12月、ダークはスティグとナスティを訴えた。バリーはダークを訴えた。ナスティはスティグとバリーを訴えた。スティグは間違えて自分を訴えた・・・ 一つの時代の終りであったが、弁護士たちにとっては少なくとも7〜8年は続く訴訟の始まりであった・・・

〜ミック・ジャガー・インタビュー〜

Q:最初にラトルズを知ったのは?

A:ロンドンのイーディス・グローヴに住んでた頃だと思う。金もなくテレビを観てたら連中が女の子たちに追いかけられているのが映って、これならオレたちにもできそうだと思ったね。

Q:個人的に彼らと会ったのはいつ?

A:彼らがオレたちのリッチモンドのギグに現れたんだ。黒のスーツだったね。TVのショーを成功させて競争相手としては申し分なかったね。みんな自己紹介してくれたよ。とてもいい奴らだった。しばらくして彼らはオレたちが“ラトルズへの南からの回答”だって評判を耳にしたんだ。

Q:あなたたちはそういう風に宣伝したの?

A:ああ。バーミンガムに行ったときはそう宣伝したね。

Q:彼らは君たちにその頃、曲を売ろうとしてた?

A:そのちょっと後だね。ダークはホントにやり手だったな。古いクズみたいな曲を売ろうとしてた。オレたちがリハーサルをしていると彼らが入ってきて、曲が欲しいか?って聞くからイエスって答えたよ。オレたちはいつもオープンだっし、曲は書いてなかったからね。彼らはヒットソングメーカーとしてすでに成功してたし。ちょっとパブへ行って書き上げた曲だって演奏してくれたやつは、そりゃひどかったね。まぁレコーディングは全然苦労しなかったけどね。特にナスティとは仲良くなったよ。バリーはナイトクラブでよく酔っ払ってたな。彼はビガミー・シスターズを店から叩き出すんだ。(?)

Q:チェ・スタジアムにはいた?

A:奴らと一緒に居たよ。エキサイティングだったな。オレもヘリを使ってたんだ。あんな群集見たのは初めてだった。ラトルズの連中はナーヴァスになってた。1番よく覚えてるのは、彼らがフィールドを走っている途中で、突然消えたことだね。これは本物のラトルズかって思ったね。ニセモノに違いないってね。バリーは18フィートのドラム用の舞台に座っていて風に揺れてたな。倒れるんじゃないかと思った。その後はパーティーで盛り上がったよ。

Q:演奏は聞こえた?

A:いや全然

Q:どれくらい演奏した?

A:20分。ヘリでワーウィック・ホテルに戻ったよ。

Q:レギーはよく知ってる?

A:もちろんだよ。いつもいたからね。彼らに大きな影響を与えた。古いタイプのマネージャーで、ああしろ、こうしろ、ってね。責任は俺が取る、ロールス・ロイスが欲しいか?買ってやろう。色は?とかね。でも闘牛士にハマるまでの話だな。オレが思うに魔法が解けちまったんだよ。レギーは目的を失い、ラトルたちは自分たちでメネージメントしたくなったんだ。

Q:ボグナーには一緒に行ったの?

A:ああ、あそこは変なところだった。“ボグナー急行”って彼らは新聞で言ってたな。“ボグナー急行に乗ろう!”ってことでみんな列車に乗るんだけど、いつも同じ女の子が遅れてきてね。ナスティはオレたちがラトルズの神秘のバンドワゴンに乗ろうとしてるのは、忌々しいことだと思ってたみたいだ。オレたちはボグナーで何かを発見しようと、躍起になってたが何も起こらなかったな。ユースホステルみたいなとこにみんな泊まってた。よく覚えてるのは、ホテルでマリアンヌ・フェイスフルと、シングルベッドで一緒に寝てたら、ナスティが突然入ってきて、「このファッキンセックス野郎!ここにきたのはセックスじゃなくて交霊会のためだぞ!」だって。変な週末だったね。で最後にはレギーがからかうようにオーストラリアに行ってしまったのを知ったんだ。

Q:キースはラトルズのことは好きだった?

A:うん、最初から好きだったと思う。オレより影響を大きく受けてるね。オレはあまり彼らのようにはしなかったよ。オレにとって彼らはちょっと‘ディーディーディーディーディーディー’が多すぎたんだ。(?) でもキースは好きだったね。

Q:なぜラトルズは解散したと思う?

A:なぜかって?女だ。女が途中で入ってきたんだ。Cherchez la嬢だ。

Q:彼らに再び戻ってきてほしい?

A:いや、そうは思わないね。


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