Welcome to my homepage


Ronnie Lane/One For The Road/1995 Edsel Records EDCD 464



1995年、世界はついにザ・スモール・フェイシズを再発見したようだ。彼らは60年代ブリティッシュ・ビート・ブームの中で最も重要で尊敬されるグループのうちのひとつとして、1965年にWhatcha Gonna Do About It?でチャート・デビューを果たしてから30年たった今でも人気の高い数々のヒットを放った。これを書いている1995年現在、注目のM Peopleはスモール・フェイシズの1967年のヒット、Itchycoo Parkをカヴァーし、チャート上位につけているし、グループの栄光の時代(1965-69)をコンパイルした様々なアンソロジーCDがリリースされ、グループのもともとのファンたちの子供の世代からかなりの関心を集めている。ロニー・レーン(ベース、ヴォーカル)は、究極の‘モッド’グループとして広く認められたザ・スモール・フェイシズの創設メンバーだった。Sha La La La Lee, ALL Or Nothing, Itchycoo Park, Tin Soldier, Hey Girl, Lazy Sundayその他のヒットを放ったのち、ロニーと共にグループのほとんどのヒット曲を書いていたシンガー/ギタリストのスティーヴ・マリオットは、同じくシンガー/ギタリストのピーター・フランプトンと共にハンブル・パイを結成すべくグループを去っていった。ピーターはスモール・フェイシズと似たようなグループ、ザ・ハードでティーンネイジャーの人気を集めていたが、新たな音楽的志向を目指したときに解散した。スモール・フェイシズはのちに、一貫したチャート上の成功にもかかわらず、それに見合った報酬をほとんど受け取っていないことに不満を表明した(その成功とは、多くのヒット・シングルと4枚のヒットLPで、シュールな才能をもったカルト・コメディアンのスタンリー・アンウィンが参加し、円形ジャケットでUKアルバム・チャート・ナンバー・ワンに輝いたOgden’s Nut Gone Flakeが含まれる)。

ドラマーのケニー・ジョーンズ、キーボード・プレーヤーのイアン・マクレガンとともに、ロニー・レーンはマリオットの代役を探し、最終的にジェフ・ベック・グループのヴォーカリスト、ロッド・スチュワートとギタリスト(ベーシスト)のロニー・ウッドをメンバーに迎え入れた。グループ名をザ・フェイシズ(たしかにスモール・フェイシズは全員背が低かったが、スチュワートとウッドはスモールではなかった)に改めたあと活気をとり戻したグループは、70年代初頭、英国でライヴによって大きな魅力を発揮するようになった―ステージのマジックをレコーディング・スタジオで再現することに関しては、前評判ほど成功することはほとんどなかったが。フェイシズはステージが最高であったし、ステージ上のロッド・スチュワートは間違いなく、後期のエルヴィス・プレスリー並みのステイタスを享受していた。しかしこのことは他の問題を引き起こすことになった。それはグループの活気を減退させることになり、そしてついにはメンバーはばらばらになってしまった―ロッド・スチュワートのソロ・レコードはフェイシズよりもはるかに大きなヒットを記録し、そのヒットはフェイシズより永続性を保つものとなった。そしてロニー・ウッドがローリング・ストーンズに参加し、スチュワートがアメリカに移住してしまったことにより、問題はさらに悪化し、グループを続けることに意味がなくなってしまった。

1973年5月、フェイシズが世に忘れ去られる数ヶ月前にロニー・レーンはバンドを抜けていた。うわべは一貫性のないバンドのレコーディング・キャリアに失望したからだが、もちろん潜在意識下には2人の新しいメンバーがスターとして認められたことに対するいら立ちがあった―なんといってもスチュワートとウッドは、参加した時にはスモール・フェイシズと比べればマイナーな存在だった。しかし特にスチュワートはMaggie May, You Wear It Wellなどの世界的ヒットでソロのスターとして巨大な成功を収めてしまったし、ストーンズの一員としてのウッドの名声は、元スモール・フェイシズの3人よりもはるかに大きなものとなっていた(最初はストーンズへのゲスト参加だったが、もちろんすぐにパーマネントなメンバーとなる)。加えてフェイシズはアメリカではスタジアム級のバンドとなる一方で、フェイシズのバイオグラフィーによれば、レーンの大きな目標(音楽を糧としてささやかに自身が心地よく楽しむこと)は、大金に固執するようになっていたかに見えた彼の仲間とグループのマネージメントとは合致しないように感じられた。しかしここはその入り組んだ問題を論議するふさわしい場所ではない―例えば、スチュワートはスーパースターとなり、たしかに億万長者となった―振り返ってみれば、レーンの決意は馬鹿げたことだったのかもしれないが、実際にはおそらくレーンの心は彼の頭を支配し、それなりに彼の決定は、彼を経済的に苦しめるものだったとしても、審美眼的見地からすれば称賛に値するものだ。彼のフェイシズからの旅立ちは1年半後のグループの崩壊を導くことになった―ロッド・スチュワートはのちに、レーンの旅立ちが埋めることのできないギャップを残すことになったと話している。

8人編成のバンド、スリム・チャンスを結成したレーンのアイデアは、サーカス・テントの中でプレイすることだった。グループのデビュー・ライヴは1973年の焚き火の夜(11月5日)に南ロンドン、クラッパム・コモンのチッパーフィールズ・サーカスで行なわれた。ロニーはジプシー・キャラバンの中で生活し、このリラックスしたライフスタイルをさらに推し進めることを望んでいた。スリム・チャンスのデビュー・シングル、How Comeがトップ20ヒットになったあと、グループはファースト・アルバムのAnymore For Anymoreをリリースした。その中には次のヒット・シングル、The Poacherが入っていた。1974年にリリースされたAnymore For Anymoreは、その種の小さなクラシック作品だ。これがUKアルバム・チャートのトップ50に入った時、そこにはのちによく知られることになるミュージシャンたちがフィーチャーされていた。ベニー・ギャラガーとグレアム・ライルはフォークロック・グループ、マッギネス・フリントの主要メンバーだったが、2人ともほとんど知られていなかった。おそらく彼らはまた同じことになるかもしれないと感じたのだろう、スリム・チャンスとのツアーに出発する前に彼らは自身のグループに向かうことを選択し、バンドの最初のツアーの数週間前に彼らは決意を明らかにした。ギャラガー&ライルというふさわしい名のもと、デュオは1976年に2枚のUKトップ10ヒットを放った。そのバッキングはほとんどがレーンのバンドからのメンバーだった―キーボードを担当する社交的なビリー・リヴシー、サックスのジミー・ジュエル、そしてドラマーのブルース・ローランドだ。

それにもくじけすロニー・レーンは1974年に新しいスリム・チャンスを編成した―セント・ジェイムズ・ゲイトとして知られていた短命のロンドン拠点のグループのメンバーたちだった―スティーヴ・シンプソン(ギター、フィドル、マンドリン)、チャーリー・ハート(フィドル、キーボード、元ビーズ・メイク・ハニー)、ブライアン・ベルショウ(ベース、元ブロッサム・トウズ)、ブルース・ローランドのあとに入ったドラマーのコリン・デイヴィだ。ローランドは最初からスリム・チャンスにいた唯一のメンバーだったが、1975年初めにフェアポート・コンヴェンションに加入すべく去っていった。ラインナップを固めた彼らは、アイランド・レコードから2枚のすばらしいLPをリリースした。1975年のRonnie Laneと1976年のOne For The Roadで、この2枚は今回エドゼル・レコードからCDでリイシューされた。

そういった明らかに才能あるコンボが1年半でばらばらになったことは(初期のラインナップでは2度だ)、振り返ってみればロニーの空想的な考えが彼の小切手帳を支配していたもうひとつの例証だろう。Travelling Showというアイデアは―スリム・チャンスのツアーがライヴで告知されたように―たしかにロマンチックだし、大衆音楽の理想の姿ではあるが、それは即ロニーの資金の枯渇につながった。英国中はアバとディスコ・ミュージックの始まりに夢中になり、サーカス・テントでプレイすることが好きで、うわべだけのものを避ける新しい田舎者のグループ一団は当時の流行仕掛け人たちの関心をほとんど引かず、彼らはThe Womblesを好んでいたように見えた―みながアバやウォンブルズをその名声に値しないものとして不審の目で見ないようにするために。気をつけないといけないのは、彼ら流行仕掛け人は1974/5年にその2つのグループの広報担当者だったことだ。ロニーの選択は流行に乗ることではなかった―2枚のトップ10シングルと2枚のトップ3LPを放ったフェイシズを去った彼は、自分が依然として主張者として存在をアピールできるか不安に感じていたが、運命は常にスリム・チャンスが逆風に直面し、後退する方へと向かわせた。ギャラガー&ライルを失ってから2番目のラインナップは3ヶ月間しか続かなかったし、彼は1974年夏の全国ツアーを6週間早く切り上げることを余儀なくされた。レーンはいっている。「僕はもうお金がなかったから8週間も維持できなかったんだ。単にそういうことだった。僕たちは最後までショーを続けるためにディーゼル車を買ったりしてなんとか前進していた。僕はいつも火災保険会社と地方の権力者たちと論争していたような気がする。彼らは(ライヴで火を使うことは)違法だといってね。それはエディンバラ公賞(Duke of Edinburgh’s Award Scheme:1956年にエディンバラ公によって創設された制度で、スポーツ、趣味などで創意ある活動をした14-25歳の若者に与えられる)のひとつみたいなものだったんだ」

One For The RoadはLMSモービル・スタジオによって録音された。当時、ロニー・レーンのモービル・スタジオは大きな需要があった。伝えられるところによれば、エリック・クラプトンのカムバック・アルバム、Rainbow Concert、ザ・フーのQuadrophenia、その他それほど有名でないアルバムで使用された。One For The Roadはロニーによるプロデュースで、ミックスはクリス・トーマスだった。そしてセッションで働いたエンジニアの1人がジョージ・チカンツだった。グリン・ジョンズによれば、チカンツはスモール・フェイシズのItchycoo Parkで初めてドラムスのフェイザー効果を発明していた。これは興味深い偶然の一致だ。

現在ロニー・レーンは英国よりも多発性硬化症の治療が受けやすいアメリカに住んでいる。その苦痛によって彼は音楽をできずにいるが、このアルバムを聴くファンたちはみな、残酷にも中断されたロニーのキャリアがいつか必ず回復することを望んでいる。また1985年にレーンの仲間のミュージシャンたち―エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ、スティーヴ・ウィンウッド、ビル・ワイマン、チャーリー・ワッツその他多くが集まり、ARMSコンサート(多発性硬化症研究活動)の名のもとに短いツアーが行なわれたことは特筆すべきだろう。ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールのステージに現れたレーンはかなり悪化していたが、多くのスターたちを含むスーパーグループの前で彼がGoodnight Ireneを歌ったことは、二度と忘れられない感動的場面だった。20年間スリム・チャンスを聴き続けることができた我々の多くは、ロニー・レーンよりもずっと幸運であったことを考えてみる価値はあるだろう。しかし彼の音楽は今も生き続け、例えばザ・バンドが好きな者なら誰にとっても、これらのアルバムがCDでリリースされたことは最高の喜びを与えてくれるに違いない。

ジョン・トブラー、1995年


ホームへ