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Ronnie Lane with Slim Chance/You Never Can Tell (BBC Sessions)/1997 New Millennium Communications/Pilot 11



Ronnie Lane's Passage From The Faces To Slim Chance

1973年5月、各音楽誌は、ロニー・レーンがフェイシズを脱退したことを驚きをもって報道した。私は他の多くの人たち同様、驚きはしなかった。もちろんフェイシズは世界のトップ・スタジアム・バンドのひとつだったが、ロニーの心はそこにはなかったのである。

彼の音楽はいつも優しくてメロディックで、それはバンドのコンサートのレパートリーに増えつつあった、いわゆる“大酒飲みロック・ナンバー”とバランスを取っていた。やはり彼らの中でロニーの作品は重要な位置を占め、繊細な雰囲気を漂わせていたのは事実だ。実際多くの人々は、フェイシズのお気に入り曲集をつくる時、パブから帰ってきて一服しながら聴くのは主にロニーの曲だったから、やっぱりロニー中心になっただろう。しかしこのことがバンドの音楽的方向性を見失うことになり、ついには崩壊したのだった。

ロニー・レーンのナンバーは、いわゆるストーンズのようなカントリー・フォーク調に変化していた。それは後の‘Evolution’のような霊魂再来をテーマにした、巧妙にかつ機知に富んだトラックに表れている。例えばピート・タウンシェンドのアルバムWho Came First、フェイシズ1971年のアルバLong Player収録の‘Richmond’の静かに流れるようなサウンドに代表されるようなナンバーが、1970年のアルバムFirst Stepにも反映されていた。しかしおそらくロニーの最良のものは、1971年のアルバムA Nod's As Good As A Wink…To A Blind Horse収録のナンバーだろう。ここでは‘Debris’というナンバーに、ロニーの父親に対する思いが見て取れる。この曲はもちろんまず第一にあげられる永遠の傑作である。彼のバンドとの最後のアルバム、1973年のOoh La Laは、ロッドがプレスに対して酷評し、ひどくとっ散らかったアルバムだと不満を表明したという事実を差し引いても、フェイシズの最高傑作であると多くの人は考えている。そこには美しくメランコリックな‘Glad And Sorry’や、他ではロニーの霊魂再生といった関心事をテーマにした曲、ロッドとの共作である悲しげなバラッド、‘Flags And Banners’がフィーチャーされていた。‘Glad…’には彼とバンドの間の緊張感が表れている。

この時期ロニー・ウッドと共同で映画音楽を手がける仕事など、ロニーの活動は広がりを見せていた。残念ながらそのMahoney's Last Stand収録のトラックが世に出るまで、それから数年間待たねばならなかった。この時までに酔いどれロックといった特徴は、日に日にロニーの興味の対象外となりつつあった。 そしてもはやバンドはロッド・スチュワートの単なるバックバンドという存在に成り下がっていることを感じていた。ロッドはロング・ジョン・ボルドリー、ブライアン・オーガー、ジェフ・ベックその他とバンドを組んではいたものの、かつてはいくらか平凡なキャリアしか持たなかった遍歴者であった。ロッドのソロアルバムは大きくフェイシズのメンバーの音楽的力量に頼ってはいたが・・・。

とにかくロニーはフェイシズを去り、バンドで取り上げられなかった楽曲群、例えばAnyone For Anymoreはロニーのファーストアルバムのタイトルトラックとなった。彼はすぐにバンドを結成し、彼の念願であったロックンロールレビューのツアーに乗り出したのだった。これは同年11月、‘The Passing Show’として実現化された。このショーは音楽のみならず、火食い奇術師や道化師などもフィーチャーされていた。ロニーの継子レナとのインタビューは、実に楽しいものであった。道化師たちとの多くの楽しい思い出と、とりわけ‘Turkey Sandwich’と呼ばれるものだ。

しばらくしてロニーはLMSモービル・レコーディング・スタジオ(移動式レコーディングスタジオ搭載車:70年代メジャーなアーチストに人気があった)を購入し、ジプシーの馬車での生活―それは彼が望んでいたショーを通じて知り合った人々と共にのんびりと暮らすライフスタイルであった―を手に入れた。彼はアコースティック楽器への愛情を発展させ、英国フォークミュージックのルーツを、幅広いアメリカのアパラチアン・マウンテン・ミュージックにはめ込み、英国のケルト地方の音楽を経由してついにロックンロールへと昇華させたのであった。ミュージックホールと大道芸人の芸術へのオマージュを結合させたものは、ロニーがロンドンのイーストエンドでかつて幾度となく見てきたもの―パブの外で演奏して金を稼ぐ人たちや、子供の頃に見た映画であった。

新たに才能あるミュージシャンがロニーの7人組バンド、‘スリムチャンス’結成のために採用された。ケヴィン・ウェストレイク(G,Vo)、ビリー・リヴシー(Key)、ジミー・ジュウェル(Sax)、クリッシー・スチュワート(B)、ベニー・ギャラガー(G,Acc)、グレアム・ライル(G,Banjo,Mandolin,Vo)、そしてブルース・ローランド(Dr)であった。しばらくするとスタン・レーンが南ロンドン、クラッパム・コモンでの焚き火の夜に始まるツアーでメンバー同様の重要な仕事をするようになった。ファーストシングル‘How Come?’が2週間後リリースされた。それはヒットとなり、トップ10周辺にとどまることとなった。彼はついにやったのだ!彼はファンが聴きたがっている彼の歌を証明してみせたのだった。彼自身の音楽的興味を別にすれば、彼は他のミュージシャンの仕事への誘いを多く持った。例えば古くからの友人、エリック・クラプトン(レナの名付け親だ)、ジミー・ペイジ、キース・ムーンなどだ。

セカンドシングル‘The Poacher’がトップ30にギリギリひっかかるかひっかからないかといった成績について言えば、トップ・オブ・ザ・ポップスに出演する事が決定的であったその時代にあっては希望をくじくものであった。

しかしながらアルバムAnymore For Anymoreは批評家とリスナーの大絶賛によって迎えられ、ロニーのフェイシズ脱退後のキャリアにおいて最も高い商業的成功となった。アルバムはカントリーブルースのスタンダード‘Careless Love’の編曲をフィーチャーしていた。この曲は、色男に屈した多くの若い未婚の女たちに向けた忠告ソングだ。このCDでは、この曲の別ヴァージョンが聴ける。次のシングル‘Roll On Babe’はそれほどの成功は収められなかった。そうこうするうちアイランドレコードとの契約によってRonnie Lane's Slim Chanceが1975年にリリースとなった(新メンバー、チャーリー・ハートとブライアン・ベルショウが含まれていた)。再びストーンズナンバーと生き生きしたカントリー・スウィング‘Anniversary’が取り上げられた。しかしこのアルバムで注目すべきひとつは、‘Bottle Of Brandy’の秀逸なカヴァーだ。ロニーはこの曲の言葉一つ一つに、彼の体験から来る思いと魂を吹き込んでいる。

1976年‘One For The Road’がリリースされた。全てが自作、1曲がチャーリー・ハートとの共作だった。ハイライトのひとつは、田舎からインスパイアされた心からの所信表明である‘Burnin' Summer’だ。ロニーは、ある厳しい冬に、殆んどの家畜を失ってしまったという経験をしていた。そこで‘Steppin' An' Reelin'’だ。これは明るくやさしい彼の当時の生活と、ケイトに対する愛情の表明である。アルバムのプロモートのためにツアーが行われた。スリムチャンスは解散し、よりスリムな形態となった。

その時までいくつかのシングルヒットがあった。‘The Poacher’と秀逸なカヴァーヴァージョン‘Brother Can You Spare A Dime’はTVドキュメンタリーのためのナンバーだ。そして我々が年代順に追う中での最終ナンバー‘Don' Try To Change My Mind’は、番組用セッションとライヴヴァージョンがそれぞれこのCDに収められている。いかなるファンにとってもレアである!

このYou Never Can Tellのセッションおよびライヴは、1973年から76年までの期間をカヴァーし、ロニーの4枚のアルバムのうち最初の3枚のナンバーを取り囲む形で収録されている(4枚目は‘See Me’で元々は‘Self Tapper’と名づけられていた。1980年リリース)。他もよく練られた選曲がなされている。例えば、‘All Or Nothing’やフェイシズ・ナンバーだ。‘Chicken Wired’はAnymore For Anymoreと前述のMahoney's Last Standに収録だ。

他のところでも報告されていたが、10年間の活動の最後にあたりロニーは併発性神経硬化症の最初の症候を示し始めていた。これはほとんど知られておらず、神経組織に急激に作用する病気だ。彼の母は悩んだ。ロニーは過去のロックンロールライフを振り返り、酒やドラッグの摂取や無理な生活がこの病気に影響を与えたのかどうか考えてみた。しかしおそらくは遺伝的偶然のよるものであった。ともあれ彼は今や、妻と共にシンプルで快適な生活を送っており、アメリカでは専門家による治療が可能で、我々は彼の衰弱はいずれ軽減され、完治するだろうという希望を持っていたのである。

このCDの協力者として私は幸運にもレナ・レーンに会うことができた。彼女はロニーの義娘であり、妻ケイト・ランバートの連れ子であった。ケイトはロニーと共に曲を書き、並外れたダンサーでもあった。レナと彼女の母はパッシングショーの浮き沈みを共有していた。ショーはツアーと機材維持費のためにロニーを経済的苦境に陥れることになり、その結果ウェールズ州境のフィッシュプールでの田舎の生活、つまり農業生活へ向かうことになったのである。

ここにインタビューを紹介する;

あなたのお母さんはロニーとどうやって知り合ったの?その時の事を覚えてる?

話はこうよ。私の父がロニーの車にぶつけちゃったのよ。それが最初のきっかけね。ロニーと母は駆け落ちして、アイルランドでしばらく3人で暮らしたわ。そして戻ってきてウェールズに住んでた。そこではバスで生活したり田舎をバンドやサーカス団と共に旅して回ったわ。ボンネットにインディアンの首が付いてるバスよ!アリステアっていう友人はキャラヴァンにペインティングしてたわ。道化師や火食い奇術師、ライオンの調教師とかね。ロニーはジェリー・コーテルって人と親しかった。私たちは道化師たちが好きだった。特に覚えてるのは、農場で私たちと共に住んでいたターキー・サンドウィッチって人。彼は完全にイカれてたけど本当にいい人だった。

あなたはジプシー生活を送ってきたけれど、当時他に誰かいた?

たくさんの人たちがいて、私たちは5つのワゴン車を持ってたの。一番古いのは‘クウィーニー’っていってジュリー・クリスティーって人に売ったワゴン車よ。‘One For The Road’のアルバムに写ってるやつ。ワゴン車は自分たちで全部揃えたわ。母とロニーはいつもジプシー生活を送っていたわ。彼らがアイルランドに駆け落ちした時も、ワゴン車暮らしだったし、ウェールズに戻っても友人はみんなジプシーだったわ。そこにはバンドマンたちに交じってエリック・クラプトンもいて即興でジャムセッションしたりしてた。ロニーとエリックは地方のパブでよくつるんでた。周りの人たちは2人が一緒に居るのをよく見かけたはずよ。エリックは私たちとよく一緒に過ごしたわ。ビル・ワイマンとロン・ウッドもよくきたわ。ロニーとエリックは兄弟みたいなものだった。‘Barcelona’を聴くたびに彼らが本当に仲が良かった事を思い出すわ。グレイトなレコードね。いかに彼らが親密だったか思い出させてくれる。飲み友達でもあったし、どうしようもない連中でもあったし、2人ともユーモアセンス抜群だったわ。例えばある記念日にエリックがロニーにトヨタの車を買ったのよ。でもそれは本当は大きなピンクのリボンが付いた2枚のお札で、庭に置いてあった。エリックは“プレゼントだよ!見てみて!”って言ったわ。母は“どこに?”だって。それで母は小さなトースターを買ったわ。彼女は洗濯機を買わずにずっと2つのたらいを使ってたし、トーストを焼くのにヒーターを使ってたんだから笑っちゃうわね!フィッシュプールでの私たちの生活を見れば分かると思うわ。文字通り農家ね。何年もテレビは持たなかったし、ロニーが買ってきたテレビは音が出なかった…。 いつもラジオを聞いていたわ。いつも音楽があった。ロニーはモービルスタジオを持ってたから、そこで自分の音楽を作ってた。いつもハプニングが起こったし、それ以外の娯楽は必要なかったわ。

振り返ってみて、パッシングショーで一番の思い出は?

芸人の一団って感じだった…ほとんど大道芸人ね…想像するに。田舎中回って一ヶ所に落ち着いたことなんてなかったわ。立派な馬車を持ってたしね。プログラムを見ればみんな素晴らしい才能の一団だって分かるわよ。フェスティバルの雰囲気ね。マンチェスターに行った時の事はよく覚えてるわ。じっとしていられなくてダンス・コンサートにまっしぐらだったわ。エリックはロニーとパティ(クラプトン)と共に曲に合わせてカンカンダンスしてた。

ロニーは様々なミュージシャン・コミュニティーの中心に居たようだけど、心に残る人たちは?

やっぱりエリックが一番印象に残ってるわ。いつもバンドにいたから。チャーリー・ハート、ビリー・リヴシー、アラン・デイヴィスもいた。ピート・タウンシェンドは家族同士の付き合いだった。2人の娘がいて、母は彼女たちの名付け親よ。私たちがウェールズにいた時はリッチモンドから通ってきてくれた。エリックとパティの結婚式にも行った。その時はジェイド・ジャガーと一緒にいたわ。大きなテントがたくさんあって、そのうちの一つが子供たちのためのテントだった。ピンボールやスヌーカーテーブルなんかのゲームが何でもあったわ!大きなステージの付いたテントがもう一つあってみんなそこに集まって即興芸を披露するのよ。ポール・マッカートニーが私の弟を膝に乗せていたのを覚えてるわ。ポールが弟に“僕誰だか知ってるかい?”って聞いたら弟は“知ってるよ!パパがろくでなしって言ってた!”だって。ロニーはポールが尻にしかれてるって理由でそう言ったんだけど、冗談として受け止めてくれたわ。でもポールの名誉のために言うと、彼は離婚なんてしてなかったものね。ジョージ・ハリスンはパティの元夫だったから、ちょっと可哀想だったわ。リンゴ・スター、ミック・ジャガー、ジョン・ウィリアムス、ロニー・ウッド、そしてストーンズ全員・・・いい時代だったわ。

フェイシズ脱退後、成功しないことを辛く感じてた?

確かにね。私は幼すぎたからよく分からなかったけど、母と話してなんとなく分かってたわよ。ロッド・スチュワートとロニーの間に大きな溝があったわね。でもお互い話し合って仲直りしたのよ。ロッドはロニーの医療代を払ってくれて彼らは元通りになったのよ!ロニーはフェイシズとの同志関係がなくなって寂しくて、何年かはロニー・ウッドとマックと連絡を取り合ってたわ。おしゃべりしたりね。そして再びスリムチャンスで仲間を集めたってわけ。でも彼がフェイシズにいた時と同じようにはしなかったわ。彼はフェイシズを追い出されたと思って落ち込んでいたとは思わないわ。

フィッシュプールでの他の思い出はある?

ロニーが音楽以外に農場も経営してた他は、ウェールズの生活がいい経験だった。でも多くの人は農場経営がどんなに大変か分からなかったと思う。私たちは子羊を何頭か飼ってて、“エリック”って羊がホントに手に負えなかったわ!田舎の人たちはみんなロニーを愛してくれたわ。農場経営時代に関する限り、地方のパブでのライヴをよく覚えてる。ザ・ドラムとモンキーでのギグだったわ。馬と荷馬車を使ってたわ。口コミで広がって、500人もの人々が集まった。バーから駐車場にまで人が溢れてた。あと覚えてるのはロニーがいつも若い雄鶏を撃ってたこと。なぜなら雄鶏たちが、私と母を襲ってくるから。ロニーはショットガンを持ってビクビクしてたわ。ある晩なんてサンタクロースを銃で威嚇してしまった。彼は漏らしちゃって煙突の下に座り込んでた。肘掛け椅子に座って言ってたわ。“今年のクリスマスは無しだな。クソいまいましいサンタを俺が撃つからな。”もちろん冗談よ。

ロニーの人生でお酒の占める割合は大きかった?

それは間違いないわ!特に病気と診断された時ははね。ツアーは難しくなって、彼は本当に恐れてた。多くの人は1979年の出来事を知らないわ。ルーベンが生まれた年よ。本当に数奇な運命よ。浮いたり沈んだり。ロニーは2つの世界を望んでいたに違いないわ。農場も成功させたかったし音楽もね。曲を作って歌ってレコードをプロデュースしたかったのよ。でもちょっとの間だけど夢は叶ったのよ!

トレヴァー・ジョーンズ 1997年5月、 ありがとう、ロニー!!


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