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Roger Morris/First Album/2005 Hux Records Group Ltd./HUX 068



異国の得体の知れないものに執着するマニアにとって、過去の忘れさられた宝物を再発見することは、この上ない至福に違いない。ロックの豊富な遺産は、数々の埋もれた宝物で溢れている。その中でもロジャー・モリスのファースト・アルバムは、優れたカントリー・ロックの名盤として、これ以上はない位の掘出し物である。

元々は一握りのコレクターや、専門家にしか知られていなかったこのレコードが筆者の注意を引いたのは、ウィル・バーチの名著である70年代のパブ・ロックを取り上げたNo Sleep Till Canvey Islandに載っていたあるページを通じてのことだった。ブリンズレィ・シュウォーツの1971年のLP、Silver Pistolについて雄弁に語っていた解説で、ウィルはこう書いていた。‘数少ないイギリスのミュージシャンたちは、アメリカ文化に深く傾倒していた。ザ・バンドの影響は、その当時の一握りの英国産レコードに見て取れる。アルバート・リーのヘッズ・ハンズ&フィートのその名を付したデビューLPは、Silver Pistolより1年早くレコーディングされていた。おそらくこれが最も知られた例だろう。あまり知られていないもう1枚のレコードは、ロジャー・モリスのFirst Albumで、それはまさにSilver Pistolと同時期にロンドンでレコーディングされた。モリスのレコードは、同種のブリンズレィズに続く神秘的な作品である。’

バーチはそういったミュージシャンたちを続々とリストアップしていた―全ての記事に目を通していくうちに―私は興味をそそられ、これは是非とも探し出してみたいと思うようになったのである。ロジャー・モリスはまさにどんぴしゃりであった。もちろん失望などはしなかった!これは古典であり、故郷を思い出すような田舎の輝きに分け入っていて、当時のウッドストック以上に、開拓時代の真の子孫である事を思わせたのである。そしてこれは間違いなく、ロバートソン、マニュエル、ハドソン、ダンコ、ヘルムらに導かれたものであった。さらにいっそう興味を持ったのは、モリスのような若いエセックスのミュージシャンが、どうやってこの未開拓時代のアメリカを偲ばせるコンセプトを、Music From Big Pinkと並ぶ程の本物を作り上げることができたのかということだ。つまるところ、これは70年代初頭の英国が生んだ加工物だ。例えばプログレッシヴ・ロック、グリッター・ロック、初期ヘヴィ・メタルのような・・・。私は彼自身に質問をぶつけてみたくなり、ロジャー・モリス探求の旅が始まったのだった。

しかし見たところ、彼はシーンから完全に消え去っていて、インターネットでも名前すら見つからない有様だった。ところがついにある男を通じて、モリスはニューヨークのShokanで今もミュージシャンとして働いていて、実際昔よりも恵まれた活動をしていることが判明したのである。ある男とは、カーリン・ミュージックがモリスと契約した時の張本人であったマルコム・フォレスターである。

ハートフォードシャーのヒッチン生まれで、彼の父はイングランド人、母はウェールズ人であった―ロジャーは家族がエセックス、ホーンチャーチに落ち着くまで幼少期の殆んどをウェールズで過ごした。子供の頃はスポーツ少年だったらしい―‘サッカー馬鹿だったよ。いつもサッカーばかりしてた’―殆んどの60年代の少年がそうだったように彼もラジオを聞いたり、シングル・レコードを買ったりのポップ・ミュージックの熱心なリスナーであった―クリフ・リチャードやトップ20ヒッツなどだ。‘あとは親父が持っていたスウィング時代のジャズの78回転のレコードとかLPだね。’―ロジャーはまた、古い賛美歌、祝歌のクールなメロディも好んでいた。

しかしながらやはりビートルズ、ストーンズ、キンクス、アニマルズやタムラ・モータウン・サウンドが‘Big L’(テムズ河口域にあった放送局)のような海賊ラジオから電波に乗ってやってくると、それはガキのイマジネーションに火をつけることになったのだった。彼は16歳になるまでにギターを始めていた。そして1968年、前述したMusic From Big Pinkが彼の人生を一変させることになった―‘これだ!と思ったね。’彼は言う。‘あと2ndのThe Bandだね。それからは彼らの受けた影響をたどっていって、ディラン、ブルース、ヴァン・モリソン、古いロックンロール、R&B、古いカントリーにハマっていった…Big Pinkを聴いてからたくさん曲を書くようになって、ピアノも始めるようになったんだ。ザ・バンドの音楽はキーボードの比重が大きかったからね。ロンドン中の出版社に自作を売り込みに行ったよ。ですぐにカーリン・ミュージックが興味を示してくれた。彼らは僕を作曲家として契約して、僕自身の全曲自前のアルバムを作ろうと言ったんだ。思うに彼らは、僕の歌い方を気に入ったんだろうけど、僕はそれは望んでなかったんだ。僕は彼らにアメリカに連れて行ってもらって、プロに作曲法を習わせて欲しかった。でも結局レコーディングしようってことになったよ。カーリンは短命に終わったCMCレコーズっていうレコード会社を所有していた。そのちょっとあと、そことアーティスト契約を結んだんだ。そこはEMI/Regal Zonophone配給だったね。ピアノに関しては―後のレオン・ラッセル、ドクター・ジョン、とりわけプロフェッサー・ロングヘアに大きな影響を受けた。’

First Albumは1971年暮れ、コマンド・スタジオでレコーディングされた。それは小さな出来事ではあったが、ブリティッシュ・カントリー・ロック・シーンの新しい芽吹きであった―マシューズ・サザン・コンフォート、クィーヴァー、ヘルプ・ユアセルフ、そしてもちろんブリンズレィ・シュウォーツなどだ。71年はアメリカ人の移住者、Eggs over Easy(英パブロック立役者のアメリカン・バンド)がロンドン、ケンティッシュ・タウンにあるタリホーに居をかまえた年で、バック・トゥ・ルーツを掲げた肥沃なパブ・ロック・ムーヴメントが始まった年だ。ロジャーは気の合う二人のプロデューサーと契約を交わした―ケン・バージェスとキース・ウェストだ。ウェストは元トゥモロウとティーンネイジ・オペラのシンガーで、当時は自身のバンド、ムーンライダーのフロントマンであった。30年後キースは当時を思い出す。‘ロジャーのテープをもらって彼の声を好きになったね。彼は明らかに僕の志向と同じものを持ってた―ザ・バンドやマナサス―“Trail of Tears”は特に彼の中でグレイトな1曲だと思ってたね。で、ケンと僕は何とか彼にチャンスを与えたいと思ったんだ。セッションはすごくスムースに運んだよ。彼の声は偽りのない本物の質を持ってた―僕らはアレンジを全て手掛けてそれはうまくいったよ。2週間で全部録り終えた。当時にしたらもの凄いスピードだね。’

ロジャーは思い出す。‘誰がキースを提案したのか知らないけれど、キースもケン・バージェスもとても親切で、僕の力になってくれた。最後までこの“未熟なガキ”をできる限り最高のものにしてくれたよ。彼らは何人かの本当に素晴らしいミュージシャンを雇ったんだ。当時最高のね。ジューシー・ルーシーのグレン・キャンベル、ドラマーのロッド・クームス、サックスのクリス・マーサー、ベースのデ・ライル・ハーパーなどだ。ハーパーはガス・アンド・ボンド&ブラウンからストローブスまで、多くの人たちとプレイしていた。ホワイトスネイクは雰囲気のあるブラス、ストリングス、木管楽器のアレンジも担当してくれた。元ファミリーのジョン・ウェイダーは、フィドルとギターだ。ドラムスはココモのテリー・スタナードとグリースバンドから達人ブルース・ローランドだよ。トミー・アイヤー(ディランのローリング・サンダー・ツアーでヴァイオリンを弾いていたスカーレット・オハラと結婚していて、後にワム!のミュージカル・ディレクターになった)は名人らしく、キーボードの殆んどを担当した。’ロジャーは言う。‘僕は“All My Riches”と“Poor Lucy”でリードギターとピアノを弾くように勧められたんだ。’

‘曲は完璧に仕上げられてレコーディングされたよ。’彼は今では全面的に、ある時期のディランのバック・ミュージシャン(ザ・バンド)の影響下にあったことを認めている。‘僕はザ・バンドの音楽に、完全に打ちのめされていたね―サウンド、楽曲、雰囲気、演奏、歌唱、アレンジ、スタイル、テンポ全てに渡ってね。その頃の僕の曲は、殆んど全てザ・バンドに影響されていたな。10%はビートルズかな?なるべくコピーは避けていたけど、影響は隠しようがなかったよ。僕らは曲に彼らのような香りが漂うことを意識してた。’映画、小説家、歴史、R&B、ジャズ、ロックンロール、そして全てのアメリカン・ミュージックのスタイルにインスパイアされていた。‘アメリカは常に僕にとって避けがたくて、大きな存在だったね。’しかしモリスのデビュー・アルバムは成功しなかった。

LPはロジャー印のスタイルである素晴らしい“Taken for Granted”で幕を開ける。愛らしい南部的な曲だ。アイヤーの暖かいアコーディオン・プレイは、ベランダでつま弾いているかのような感触がある。甘いペダル・スティールの響きは、グレン・ロス・キャンベルだ。本来の彼は、ミスアンダーストゥッドでの激しいプレイで聞く事ができる。グレンはセッションでの思い出を語っている。‘僕の持ってたペダル・スティールは、マシューズ・サザン・コンフォートのメンバーの親父が持っていたものを、僕のためにメンバーがせしめてくれたやつだよ。僕は71年の終り頃、肝炎にかかっていた。クリス・ステイトンとバンドを結成した後、どこかでセッションしたことを覚えてる。全ての曲から伝わってくる作曲能力とそのスタイルは印象的だったね。ザ・バンドを思わせるそのスタイルは、僕が元々ジューシー・ルーシーでやりたかった事だった。リズム・セクションにはノックアウトされたよ。まあ、僕の持ってた赤のペダル・スティールもうまくいったと思うよ。実際僕はまだよく弾き方や、チューニングの方法も教わったことがなかった。その時のセッションが、ペダル・スティールを使った僕のカントリー・ロック初体験だったね。’

オリジナル・レコードが示すように、リイシューでは曲順が変更された。ロジャー:‘2曲目に“Trail of Tears”が入っているのが気に入らなくて、曲順を変えたんだ。急に雰囲気が変わる感じだったからね。流れるような展開にしたかったんだ。’新しい曲順では、“The Vigil”が収まっていて、そのスウィート・ソウルのグルーヴは、ブリンズレィズのような響きに近いものがある。モリスは言う、‘僕らは時々ブリンズレィズを観に行ってた。マシューズ・サザン・コンフォートやスプーキー・トゥース(これもザ・バンドの影響を受けている)のような、当時過小評価されていたバンドもね。’3曲目は元気のいい“Golightly's Almanac”だ。これは複雑なブラスと木管楽器が使われている―もちろんザ・バンドの“W.S.Walcott Medicine Show”の血を分けた兄弟だ―優れてキャッチーなこの曲は、有能なレコード会社なら間違いなく、シングルとしてリリースするだろう!

“Showdown”は、アルバム全体のレイドバックしたグルーヴをよく表している。暖かいモリスのテナーの声と、彼自身の素晴らしいピアノがフィーチャーされている。一方“All My Riches”は、驚くほどのザ・バンド・スタイルだ―まるで1860年代半ば、南北戦争時代の南部を彷彿させるような歴史物語そのままだ―汽船、南行き列車、そして感動的な帰郷―美しいロジャーのギターソロが聞ける(オルガンのレズリーに乗って)。残忍さと悲劇を歌った“The Trail of Tears”は、インディアンたちの大陸大移動の時代としての19世紀の総括だ―不吉な鐘の音、不気味なオルガン、そしてメランコリックなブラス・アレンジが喚起するイメージ―‘これは本で読んだ米国史に基づいているんだ。’真に優れたナンバーである!対照的に“Northern Star”は、切なくなるような、ちょっと悲しげなナンバーだ。キャンベルの魅力ある俊敏なスティール・プレイと、ウェイダーの陽気なフィドルが聞ける。“Livin' on Memories”はアップテンポで、にぎやかなホンキー・トンク・ピアノと猥雑なギターが聞ける―このLPでは完全にブギー・ナンバーと言っていいだろう!

“Poor Lucy”―猛烈なリフを持つ魅力的なカントリー・ロック―モリスが優れたリード・ギタリストであることを示している―トミー・アイヤーのハモンド・オルガンが、歓喜に満ちた熱い背景を提供している!そして“First Snow”で再びムーディになる。ここではもう一つの19世紀中部アメリカの歴史が焦点を当てられている―これはジョン・フォード監督の名画、“荒野の決闘”に出てくるシーンを喚起させる。一方、“Let the Four Winds Blow”は、グレート・プレーンの大平原を飛び立ち、ビッグ・イージー(ニュー・オリンズ市の愛称)に降り立つかのようだ―ジャズ・ピアノの荒っぽい演奏は謝肉祭そのものだ!

オリジナルLPは、荘厳な結婚の申し込みと、牧草地の生活を歌った広大な“Idaho”で終わる。これは流れるようなピアノのフレーズにあふれ、強烈なゴスペルのフィーリングが、西部のイメージを思い起こさせる―丸太小屋、山、大空―まるでロジャーが十代の頃、そこで過ごし、愛した教会音楽を聴いているかのように感じることだろう!グレン・キャンベル同様、彼にとっても有意義なレコーディングであったに違いない。このCDは、4曲のボーナス・トラックが追加されている。‘この4曲はLP用じゃなくて、その1年後くらいに書かれて、8か16トラック・レコーダーでデモ録音されたものだよ。’“Mississippi Story”は、元々“Louisiana Story”というタイトルだった。ロジャーによると、‘単に僕にとってニューオリンズの方が重要だったからだよ。歌詞の中でカイロ、イリノイを考えたんだけど、河を強調したくて優先させることにしたんだ。’曲は輸送船、飛行機、運賃の高い鉄道(そして消滅することになる)蒸気船に言及している。また2つの汽船の間に起こったレースについて歌っている。この曲のザ・バンド的フィーリングは大変素晴らしく、釘付けになるほどだ。

ボーナスのうち最も強力なのは、間違いなく“Down the Meadow”だ。コーラス部分は8分の6拍子で‘Let’s go down the meadow, the winter's on the run’と歌われている。これはヴァン・モリソンのMoondanceかSt Dominic’s Previewのアウトテイクそのものだ。‘ヴァンも最初に聴いた時から僕に大きな影響を与えたよ’モリスは認める。‘“Down the Meadow”の中で僕は、美のイメージや永遠の喜びについて歌った。例えばいくつかは、現代に潜む怪物―海に浮かぶ石油なんかね。’ランディ・ニューマンも当時のモリスに強い影響を与えた一人だ。特に“The Number I Need”にそれは顕著である。他のザ・バンド・スタイルでのロジャーの成功例は、“Copenhagen Moon”だろう。‘当時の色んなガールフレンドからインスパイアされた曲で、そのうちの一人はデンマーク人だったな。’この作品は全体に個人主義的傾向が強く、グレン・キャンベルが言うように、‘時を超えて’忘却へと消えていった作品の一つだ。

‘全くウケなかったね。’ロジャーは思い出す。‘アルバムのプロモーションも全くされなかった。’しかしながら彼が嬉しかったのは、2人の偉大なソングライターの注目を受けたことだった。‘リーバー&ストーラーがカーリン・ミュージックといくらかコネクションを持っていたんだ。彼らは僕のレコードを聴いてとても気に入ってくれた。それは驚いたよ。ただそれ以上のことは何も起こらなかったな。’‘全く何にもリアクションはなかったよ。一緒にやっていたバンドは、数年間は続いたけどそこまでだったね・・・バンドとして活発な動きを続けることができなくなってしまった。’

カーサル・フライヤーズとザ・レコーズに在籍し、成功を目論むことになるウィル・バーチは、実際ロジャーのバンドのオーディションを受けたことがあった。‘たしか1972年頃、彼のLPが出てすぐメロディ・メーカーのメンバー募集に応募したんだ。僕はとてもヒップな存在だったからね。へたっぴドラマーだったけど。ロジャーがこだわってたザ・バンドの話ならいくらでもできたしね。僕がロジャーのバンドでドラムを叩くまでに、僕ほど彼と波長の合う人間はいなかったと思う。オーディションでは、ザ・バンドのBig Pinkに入っている“We Can Talk”を叩くように言われたよ。そこはイズリントンのパイドブル(パブ)だった。で、リー・ブリロー(Dr. Feelgood)が僕をフィールグッドのヴァンまで連れて行ったんだ。もちろんオーディションはダメだったよ。そんなもの凄い人と会った後で気が動転しちゃってね。’

1980年モリスはついに、かつてチャック・ベリーが‘約束の地’と呼んだところに辿り着いた―‘数ヶ月間ニューヨークに住んで、路上や小さなパブで歌っていたよ。ドクター・ジョンなんかの僕の見たかったミュージシャンをたくさん観に行ったね。で僕のお気に入りのソングライター、ジェシ・ウィンチェスターのギグに行った時、彼から彼の所属するレコード会社だった、ニューヨークのウッドストック近くにある、アルバート・グロスマンのベアズヴィル・レコーズに電話して行くように勧められたんだ。ベアズヴィルは僕とソングライティング契約を結んでくれた。またしてもモノにならなかったけど、僕はソロになる前にいくつかの短命に終わったバンドで活動したな。’やがてロジャーは結婚し、キャッツキル(NY)に落ち着き、1990年以降ソロとして活動を続けてきた―そして21世紀に入り、彼は2枚の素晴らしいCDをリリースした。Light up the Road(2001)とBeholder(2004)である。そしてそれはまさに、長らく待たれていたFirst Albumの再リリース時であった。ついに彼の名と才能を望むリスナーに届けられることとなった―この知性溢れる素晴らしい作品は、1972年当時よりもはるかに価値あるレコードとして、‘アメリカ文化’を表現し、受け入れられるようになったのだ。このアルバムは今も再評価と称賛に値する作品なのである。

ナイジェル・クロス 2005年5月

以下の方々に感謝する:ロジャー・モリス、ウィル・バーチ、ドクター・ブライアン・ヒントン、マルコム・フォレスター、キース・ウェスト、グレン・キャンベル、フィル・サワードとパトリシア・マリア・ボーランド


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