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Robin Scott/Woman From The Warm Grass/2006 sunbeam records SBRCD5009



僕は1947年4月1日、南ロンドンのクロイドンに生まれた。僕の家系は2世代に渡って、音楽的伝統があったよ。母はバレリーナ、祖父はオペラ・シンガー、祖母はヴァイオリニストだった。僕の周りにはいつも演劇や音楽なんかが溢れてた。すでにアメリカン・フォーク・ムーヴメントは、トム・パクストン、レナード・コーエン、ボブ・ディランなんかの有名な吟遊詩人を生み出していたね。でも僕の最初の興味は絵画で、1967年にクロイドン・アート・カレッジに入学した。そこでは同期生として、マルコム・マクラレン、ジェイミー・リード、ヴィヴィアン・ウェストウッドらと会ったよ。アート・カレッジはミュージシャンを生み出す温床でもあったね。僕はインクレディブル・ストリング・バンド、ティラノザウルス・レックスやなんかを聴いていた。ストラヴィンスキーや前衛音楽のケージやシュトックハウゼンなんかと一緒にね。

アート・スクールを出た後も、ケント州の小さな家で絵画、曲作りを続けていたんだ。そこではイアン・カルーサーズというカナダ人の作詞/作曲家と一緒に住んでたんだ。彼は残念なことに、それから数年後自殺してしまった。今回のリイシューは、彼の思い出に捧げられているんだ。その頃僕はラジオとTVに接触し始めていた。デビューはトップ・ギアとナイト・ライドだったな。雑誌と子供向け番組で、時事的な歌をやるようにもなった。1967年7月のある晩、ジョン・ピールのBBCラジオ・ショーに出演して、BBC2のアーツ・ショーだったレイト・ナイト・ラインナップに出るためそこへ向かったんだ。ホストはジョアン・ベイクウェルだった。で翌日僕は、サンディ・ロバートンから連絡をもらったんだ。彼はアンダーグラウンド・フォークの興行主で、アル・ジョーンズ、シナンセシア、キース・クリスマス、シェラ・マクドナルドなんかのたくさんのアーティストを抱えていた。チェルシーで魅惑的なライフスタイルを実践していて、当に先端を行っていて、魅力ある人間だったね。その彼が僕にマネージメントとプロデュースを申し出てくれたんだ。

一週間後には、キングス・ロードからちょっと離れたサウンド・テクニクスで、彼と一緒にアルバムを作ってたね。彼はセッション・バンドにマイティ・ベイビーを用意した。彼らはその前はジ・アクションというR&Bバンドとして知られていた。彼らとの仕事は短時間だったけど快適だったよ。彼らは凄く直感的というか、ハイというか―多分どっちもだね!よく覚えてるのは、メキシカン風の口髭とウールの帽子を被ったマーティン・ストーンだ。彼は繊細さと、思慮深い物腰を持った革新的なブルース・ギタリストだった。ドラマーのロジャー・パウエルは、椅子の後ろの方に座って、ドッシリとゆったりしたビートを叩き出していた。僕はいつも椅子から落っこっちゃうんじゃないかと思ってたね。ベースのマイク・エヴァンスとキーボードのイアン・ホワイトマンは、僕の曲をメロディックにリズミックにさらに表情をつけてくれたね。セッションでは、隣りのスタジオでレコーディングしてたジミー・ペイジとロイ・ハーパーの協力もあって、実りあるものになったよ。

楽曲は折衷的で、ロマンティックな寓話と、少しの真実とオリジナルなひらめきが奇妙にミックスされていた。いくつかは、イアン・カルーサーズと一緒に書いたよ。多くはその当時のガールフレンド、ペニー・ラムにインスパイアされたね。The Sailorは、シングルとしては最も相応しかった。そしてこれは驚いたことに、昼間のラジオでたくさん流れたんだ。Song of the Sunの散文の部分は、僕の学校の友人だったジョン・ウェストが書いたものだ。それを僕がレナード・コーエンよろしく、ワンルームのアパートで曲をつけたんだ。The Sound of Rainはちょっとした哀歌で、明らかにポール・サイモンの初期に影響を受けてるね。Penelopeで言いたかったのは唯一つ、愛の素晴らしさと、僕らの子孫のためにそれを表現することの素晴らしさだね!

The Day Beginsは暗くて不調和だ―青年特有の苦痛と不安がむき出しになっている。Woman From The Warm Grassは、どうやって出来たのかはわからないな。でも多分ドラッグというよりセックスについての歌だと思う。その時はまだドラッグには手を出していなかったからね。リッチー・ヘヴンスがシリアスなイメージを作り出していた頃で、高揚したような自由な連想の詩の世界も魅力的だったな。I Am Your Suitcase Loverは、娼婦との偶然の出会いを歌った空想の物語だ。多分僕の中に、ジョニー・キャッシュやナッシュヴィル・スカイラインのイメージがあったんだと思う。ゴードン・ハントリーの超一流のスティール・ギター(ウッドストックのイカしたフレーズ)によって、完璧に仕上げられているね。ロジャー・パウエルのバーの喧騒のようなドラムが、最高のリズムを刻んでいる。

Mara's Supperは、僕が遊び半分にギターの演奏をした夕食時のことを書いた曲だ。イアンがウィリアム・ブレイクの詩を読みながら、マッシュルームとハッパをやってるなんてほとんど知らずにね!Point of Leavingは、リアリスティックなドラマだ。心の中で一瞬出くわしたものを題材にした―もの悲しい白黒TVのイメージと、十代のダーク・サイドである性的不安だ。アルバムはイアンの風格ある詩と、ちょっとディランぽいロックンロールの結合といったようなThe Purple Cadgerで終わる。

僕はレコーディングを充分楽しんだんだけど、実はバンドのリハーサルなしでたったの1日しか用意されなかったんだ。曲は念入りに仕上げられてなかったし、ライヴでも演っていなかったんだ。サンディがそういった状況を僕に伝えた時、僕は彼の目の届くところにはいなかったんだけど、とにかくその日は逃すことのできないチャンスだったんだ。サンディはレコード会社を探し回ってくれて、ヘッド・レコーズという独立レーベルと契約を結んでくれた。そこはジョン・カードというヒッピーの男によって運営されていた。僕とは全く関係なくて、125ポンドのエレクトリック・ギターを除いては、全くお金は入らなかったな。でもとりあえずこれが僕のファースト・アルバムだったし、期待はしていなかったけど、活動を始められることが嬉しかったね。レコードは1969年11月にリリースされて、評判もすごく良かった―ローリング・ストーン紙は、‘優しくて甘くて時に情熱的なアルバム’と評して、曲のことを‘儚いムードが漂い、広大な陸地を思わせ、寂しさと悲しげな孤独感に覆われた海岸、海の風景が見える’とレビューしてた。

唯一残念だったのは、ジャケットのアート・ワークを手掛けられなかった事だね―画家としてはっきりとしたイメージを僕は持ってたんだけど、ジャケについてアーティストには権限が与えられなかったんだ。リリース時にはサンディの計らいで、ジョン・マーティン、シェラ・マクドナルド、フォレストらと一緒にライヴをしたよ。僕はマイティ・ベイビーをバックにプレイしたかったんだけど、彼らは自分たちのアルバムのプロモーションに忙しくて実現しなかったな。

そうこうするうち僕の知らない間に、ジョン・カード(ヘッド・レコーズ社長)は破産してヤク漬けになってしまった。ヘッド・レコーズは消滅してしまって、アルバムはレコード店から姿を消してしまった。僕はそれにもかかわらず、ラジオ・セッションを続けていたし、レコードが出た後には、ジョン・ピール・セッションでTattooed Lady(このCDのボーナス・トラック)をレコーディングしていた。物語になっている詩はイアンによるもので、リード・ヴォーカルは、ペニー(Woman From The Warm Grassの彼女だ)とジョン・ルイスだ。ジョンは10年後の‘M’の彼だよ。僕はギターとヴォーカル・ハーモニーをつけた。

今このアルバムを聴くと、その奇抜さも感じるけど、いくつかの曲に関しては何て暗いんだろうと思うね。でも当時のアンダーグラウンド・フォークを見事に反映しているね。僕が取り組んだ折衷的な音楽スタイルが今でも有効であれば嬉しいね。

ロビン・スコット―2006年1月


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