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Robin Dransfield/A Lighter Touch/2008 Hux Records Ltd. HUX097



1970年代初頭までにブリティッシュ・フォークロックはレコード会社の中では使い古されていた言葉だった。しかしフォーク・クラブから出てきた多くのアーチストたちは、60年代の‘フォーク・リヴァイヴァル’の向こう見ずな日々からさざ波のように広がっていた。その広大なシーンの中で第一人者だったのが、ヨークシア出身の激しやすいアコースティック兄弟デュオだった。ロビン&バリー・ドランスフィールド―彼らはエヴァリー・ブラザーズのような超人的なコーラス・ハーモニーを持ち、多くの西側のブルーグラス・アーチストたちと兄弟分といえたが、ハイブラウなブリティッシュ・フォーク・シーンで事実上唯一無二の存在であった。

1970年、崇拝されていたトピック/トランスアトランティックのプロデューサーであったビル・リーダー自身のレーベル、トレイラーでレコーディングされた彼らのデビューLP、The Rout Of The Blues―同時にメロディ・メーカー紙のフォーク・アルバム・オブ・ジ・イヤーという称号も与えられた―は素晴らしい声明であり、風格あるアレンジメントにあふれ、独特のハーモニー・シンギング、そしてそれらの統合はそれぞれの要素を単に結合させたものよりはるかに素晴らしいものであった。しかし個々のパーツも確かにとても優れていた。彼らは、元フェアポート・コンヴェンションの先見者アシュリー・ハッチングスによる彼のニュー・バンド、スティーライ・スパンの創立メンバーとしての参加の申し出を断るほど、間違いなく自分たち自身に十分自信を持っていた。翌年までにセカンド・アルバムLord Of All I Beholdがリリースされ、二人はジョン・ピールのラジオ・ワンのショー、Top Gearのセッションを行い、ペンタングルの黒幕ジョー・ラスティグとマネジメント契約を結び、ワーナー/リプリーズからアメリカ・ツアー含むメジャー・レコード契約のオファーを受けるなどどんどんと躍進していった。

しかし当時バリーにとってこのことは興味の対象とはならず、納得しなかった彼は、その頂点において活動を分裂させた―“ああ、誰も何が起ころうとしているのか分からなかったのかもしれないね。”ロビンとバリーの二人が次にしたこと―言うまでもなく翌年から何年か―クラブ出演に戻り(ソロとして)BBCの番組に出たり、バリーの場合は、ある伝説的な人目につかないソロ・アルバム―ポリドール傘下のフォークミル・レーベルから1972年にBarry Dransfieldをリリースした。これはごく最近CDでリイシューされ(訳注:LPでも再発された)、失われた幻の名盤として広く称賛されることになった。

世に知れず制作されたバリーのソロ・アルバムは別として、彼はアシュリー・ハッチングスの1971年のMorris Onへ参加したが、兄ロビンは振り返ってみるとフォークロック時代の最後尾に当たるレコードで復活するまで全くレコード上に姿を現さなかったのである―復活を遂げたアルバム、それは彼らが創造性を持って取り組んだ、言語によるコミュニケーションの本質をテーマに、グループを再編、ベースとドラムスを加えレコーディングした作品であった―トランスアトランティックからDransdfield名義で制作したコンセプト・アルバムThe Fiddler’s Dream―華麗に表現された大作であり、予算はおよそ60ポンドであったことを考えればなおさら驚くべき作品だ。経済的側面によりツアー・バンドとしては終わることになったが、ニール・ウェインのフリー・リードからPopular To Contrary Beliefを1977年にリリースした時までに、兄弟はデュオとしての活動に戻った。1978年にバリーはトピックからもう1枚のアルバム、Bowin’ And Scrapin’をリリースした。一方ロビンの最初の(そして今のところラスト)ソロ・アルバム、Tidewaveは1980年に同レーベルからリリースされた。

デュオは80年代初めにかけて活動していたが、他の関心事とチャンスが面前にあらわれた―バリーはテレビと映画の仕事、そして後にはヴァイオリン製作とその修復、ロビンも同様にヴァイオリンの仕事についた。二人は80年代半ばには事実上ライヴとレコーディング活動からは引退した。とはいえバリーは90年代半ばに再び現れ、一時期ライヴ・ワークをこなし、今日まで3枚のアルバムをリリースしている―ロビンは沈黙を守り続け、コーンウォールに引っ込み、ノミを使い全く文字通りヴァイオリン・ビジネスを快く営んだ。

続いて、再生したフリー・リード・レーベルの素晴らしい2枚組CD、兄弟の歴史を追ったUp To Nowが1997年にリリースされた。それにはコリン・アーウィンによる完璧なライナーノーツ、素晴らしい追加トラックが挟み込まれていた。サンクチュアリからは2枚組に拡大されたThe Fiddler’s Dream、2003年にはスピニーからバリーのソロ・デビュー作がリイシューされ、フリー・リードからはPopular To Contrary BeliefのCDがリイシューされようとしていた。しかしながら70年代初頭―ドランスフィールド兄弟のパワーが個人的にもデュオとしても最も活発だった頃、彼らの名声がどんどん高まっていたことは、これまでほとんど伝えられてこなかったのである。トレイラーに残した2枚の重要なアルバムは意義あるCD化がなされずにいる(現在これらのアルバム所有者によって高価なCDRが需要に応じて出回っていることは、人をばかにした行為であり異議を申し立てるものである)。そういった空虚な状況の中でも、クラブのオーガナイザーによるアマチュア・レコーディングや当時のBBCエンジニア、ジェフ・ハーデンらによって彼らのライヴは楽しまれていた。

ジェフは2006年に亡くなったが、彼はセント・アンドリュースでの学生時代、1963年以来フォーク・クラブでアーチストの録音を続け、多くのレコーディング音源を残していた―1966年の二つのシャーリー・コリンズ音源は例えば、Fledg’lingのWithin Soundボックス・セット(Rollercoasterレーベルから)、そして1973年のジョン・マーチンの熱いライヴはHuxからのリリースだ―これらは全てCD化された。今回のリリースによって、ロビンの世に知られない1980年の過小評価アルバムTidewaveと1972年11月14日、ケントにあるジェフのフォーク・クラブ‘Medway Folk Center’で行われた彼の生き生きとしたソロ・コンサートの二つが新たにリストに加えられた。ロビンの現在入手可能なディスコグラフィの中へとその隙間を埋めたことはさておき、この音源は象徴的でユーモアにあふれ、熟達したパフォーマンスであり、その世界で形成されたシーンをリードするまばゆい光が目一杯散りばめられている。そしてリチャード&リンダ・トンプソン、ジョン・マーチン、アル・スチュワートら―みなそれぞれが腕を磨き、のちにほとんどアンダーグラウンドで究極的なイングランド・シーンの中でより大きなステージへと登りつめた。まるでそれは巨大なファミリーであるかのように感じられるに違いない。

1971年1月から75年4月までのクラブ出演の期間(117のコンサートは全て録音されたが、オープンリールテープによって最初はモノラル、のちにステレオで行われた)、兄弟は定期的に活動していた。彼らが最初にデュオとしてライヴを行ったのは1971年12月だったが、それが解散前の最後のショーのうちの一つであったことは間違いない。彼らは1975年1月、再びデュオを組んだ。バリーは1973年5月に素晴らしいソロ・コンサートを行なっていた。一方ロビンは1972年11月にメイン・ゲストとして出演し、続いて1974年6月、数曲を携えてまたひょっこりと現れた。以上述べたクラブは全てThe Old Ash Treeであった。今回のリリースでモノ・レコーディングで収録された唯一のコンサートが、短期間出演していたGhuznee Fortのクラブで行なわれたものだ。

プレイされた数曲は、バリーと共に作ったトレイラーでの2枚のLPからだ。またいくつかは8年後のTidewaveに収録された。その頃Top GearとFolk Onの2つのセッションでプレイされたにもかかわらず、いくつかはそのまま取り残されることになったか、さもなくばレコーディングされなかった。行き過ぎたチューニングは編集によって注意深く体裁を整えられたが、冗談や悪ふざけの部分はそのまま残されている。それはリスナーにとって当時のショーそのままを体験できるような作り、あるいはイントロのおしゃべりを聞いてもらうような選択ができるようになっている。この1972年の未発表ライヴは、魅力的な話し手としての彼が、1980年のスタジオ・アルバムによってソロ・アーチストとして事実上スタートに立つことを素晴らしく納得させるものだ。テクニカル・ノートとしては、ライヴのスタート部分の音質が一番悪く、これについてはマスタリング技術によって音量の急激な低下のあるところを補正する必要があった―この特別な夜において―マイクのコードとコンセントの機嫌がいまいちよくなかった部分だ。しかし後半についてはよりよい音質で録られており、それはその晩の荒削りな美しさと生の悦びを今もって生き生きと我々に伝えている。

うまくいけばロビンとバリー両者にも加わってもらって、ジェフのコレクションから他のドランスフィールド・レコーディングがこれから日の目を見ることになるだろう。二人であれソロであれ、その抗し難い魅力は今日まで輝き続けているのだから―あなたが当時そこにいようといなかろうと。彼らは一時メインストリームを、彼らの見てきたあらゆるキングたちを完全に超越していた。誰も彼らが当時したことをできなかったのである。そして間違いなく私はそれ以来、彼らの域に到達した音楽を聴いたことがないのだ。

コリン・ハーパー、2008年2月


ザ・ロビン・ドランスフィールド・ストーリー
by Robin Dransfield

最初の頃、僕は教会の聖歌隊で歌っていたんだ。でも歌自体とハーモニーは好きだったけど宗教はちょっと好きになれなかったな。ジョージ・フォーンビィ(英国のコメディアン 1904-61)と共に全ては始まったね。50年代半ば、ハロゲイトの少年だった僕は、毎週土曜の午前中に王立の映画館に通っていた。ABC(ロンドンの映画館チェーン)に通う少年だった僕はこう歌ったもんだった。

‘僕らはABC少年少女団
毎週土曜は並びに来るんだ
好きな映画を観てグリーを歌って大騒ぎするために’

※グリー(glee):特に18世紀英国の無伴奏による男声合唱曲

シアターの素晴らしいウーリッツァ・オルガンがステージから聞こえてくるんだ。それは地元のレグ・ディクソンとラリー・‘バスター’クラブが演奏した連載SF漫画Flash Gordonのテーマだった。でも中でも最高だったのはジョージョ・フォーンビィの一連の映画だったね。Riding In The TT Races, It’s In The Air, Turned Out Out Nice Againなどだ。僕はたくさんの巨匠たちのウクレレ−バンジョー・プレイにまいってしまって、ついにはJock’s Junk Shopでバンジョーを買ったんだ。1955年ロイヤル・ホールでクリス・バーバー・ジャズ・バンドのロニー・ドネガン・スキッフル・グループを見たとき、僕は彼のバンジョー・プレイに魅了されてしまって、続く数年間はもっとバンジョーを求めてJock’sとJoe Nicholson’s Music Centreに通うことになった。僕はむさぼるようにラジオでスキッフルを楽しんだ。とりわけWally WhytonのThe VipersとChas McDevitt Skiffle Groupだ。

1961年、女の子に興味を持った僕はあるパーティーに行ったんだけど、そこでたまたまRoger Knowlesが古いアーチ・トップのギターを持ってジョニー・キャッシュの曲を歌っているのに出くわした。彼はEarl Scruggsの‘Foggy Mountain Breakdown’のオリジナル・レコーディング含むアメリカのカントリーとブルーグラスのLPを掘り下げていたんだ。‘Foggy〜’は今でも僕に刺激を与えてくれるね。当時を振り返ってみると、これはバンジョーへの回心の道で、そこから僕の人生は全く変わってしまったよ。Pete Seeger Banjo Tutorの助けを借りて僕は5弦ブルーグラスと昔懐かしいピッキングとその魅力を学んだ。Flatt & Scruggs, Stanley Brothers, Grandpa Jonesなんかを聴いたりしながらね。僕らはデュオとしてギグをやり始めて、元少年聖歌隊の僕がハーモニー・ヴォーカルを取った。これが後になってドランスフィールド兄弟のトレード・マークになった‘カントリー&ノース・イースタン’サウンドに発展していったんだ。僕らはハロゲイト青年保守協会の集会で最初のギグをして、1ポンド(今だと15ポンドの価値だ)を受け取った。僕は半ペニーで自分のクリフォード・エセックスのバンジョーのためにストラップを買った。でも僕らの最大の興味はエンプレス・ホテルにあった当時まだ知られていなかったハロゲイトのフォーク・クラブ、Saturdaysだったんだ。で、すぐにそこでレギュラーとして出演するようになった。

ハロゲイトみたいな保守的な町ってのは、地元の核兵器廃絶運動団体(CND)や青年共産主義同盟の生き残りがスタートさせたフォーク・クラブを育むようなところじゃないから事件だったね。僕はAレベルやら大学の授業なんてどうでもよかった。僕にとって本当の教育の場だったのがフォーク・クラブだ。この国の中で最も右寄りの町の一つにいた地元の過激な連中による素晴らしく異質なバンド、アート科の学生、一匹狼の左翼が集まっていた。Owen StanleyっていうCND信者がいて、いつも彼は喜んで歌っていた。物腰の柔らかいアイルランド人のJohn Sheridanも同様だった。僕は彼から素晴らしいヴァージョンのScarborough Fairを学んだ。のちにレコーディングしたヴァージョンだ。でも本当に重要人物だったのは、地元の新聞企業グループで印刷工と店員をやっていたErnie Greenだ。彼は英国のシンガーや歌同様、カーター・ファミリー、ウディ・ガスリー、ピート・シーガーそしてランブリン・ジャック・エリオットらの10インチのTopicのLP、Jack Takes The Floorのことも知っていた。僕らはそれを飽きるほど繰り返しプレイしたね。僕はジャックはいいアルバムは残さなかったと思ってるけど。アーニーは果てしなく励ましてくれたから、多分彼が思ってるよりずっと大きな影響を僕に与えたよ。彼はまた、続く数年間のクラブでは、素敵なゲストをブッキングする一番のやり手だった―フォーク・ミュージックの世界で学位を取るようなものだった。Louis Killen, Martin Carthy, Johnny Handle, High Level Ranters, Matt McGinn, Pete Stanley & Wizz Jones, Shirley Collins, Watersons, McPeake Family, Ewan MacColl & Pete Seeger他にももっとね。途方もなく頑固な才能ばかりだ。

ドランスフィールド/ノウルズはその後5人編成でブルーグラスをやるThe Crimple Mountain Boysになった。その‘昔なつかしい’バンドには、僕の弟バリーがマンドリンと自分で作ったギターで、Dave Brailsfordがフィドルで、Pete Gallagher((山高帽を被った彼はOliver Hardin(米国喜劇俳優)の2倍はあった))がダブルベース(コントラバス)で参加した。バンド名はCrimple Beckから名づけられた。これはハロゲイトに昔あったICI(Imperial Chemical Industries:英国の総合化学会社)の流れなんだ。ICIのCrimplene(クリンプリン=商標:しわになりにくい合成繊維)織り糸ともいった。The Crimple Mountain Boysは3年間イングランド北方全体で活動した。僕らの選曲はNew Lost City RamblersがFolkway Recordsでやっていたファンタスティックで昔懐かしいレパートリーからきていた。ロジャーと僕がバンドでやる曲を探していた頃、僕はあんなグレイトな名前を持ってるんだからいいに違いないと思って、それだけを頼りに聴いたことのなかった2枚のアルバムを買ったんだ。天のお告げだったね。でも僕らの一番重要なナンバーはインストゥルメンタルだった。‘Eine Klein Nachtmusik’をブルーグラス仕立てにして、タイトルを‘モーツァルトの神経衰弱’にした。これはいつもバッチリ決まって最後かアンコールにやってたね。

1965年半ばまでに僕はブルーグラスに飽き飽きして、もっと英国の歌と曲にアイデンティティを求めるようになっていた。もっと広く異種の北方のフォーク・クラブに活路を見出そうとしていたんだ。僕はハーモニー社製のSovereignギター(35ポンドだった)を買って3年間ウスターに習いに行った。一体どうやって修了したのか全く分からないんだけど、僕はかろうじて最小限の大学課程を終えた。自分の時間はほとんど歌を覚えたりギターを弾いて国中のクラブを回ったりするのに使っていたから、すぐにギグで収入を得るようになった。ウスターで僕は一つのローカル・パブの中に、カレッジ・フォーク・クラブをスタートさせて経営していた。Brummie BrianはくずれかけたLamb & Flagのオーナーで、僕らのことを大歓迎してくれた。彼は当時クイーンメリー号就航終了の時のオークションで、巨大なユニオン・ジャック旗を買ってきて居間の後ろの壁に貼り付けたんだ。彼は僕らから一度もお金を取らなかったね。割れた窓ガラスが週末の常連で賑わっていたことを示していたな。

1966年、僕は毎晩フォーク・クラブのギグをやっていた頃のある1週間、自分がサッカーの熱狂(リヴァプール)の真っ只中にいるのに気づいた。ちょうどワールドカップの年で、グッディソン・パーク(リヴァプールのクラブ・チーム、エヴァートンのホーム・スタジアム)では試合があって、ラジオ/TVで報道されていたんだ。おかげでクラブは空っぽになって、僕は試合まで見逃す羽目になってしまった。その年でよかったことは、ケンブリッジ・フォーク・フェスティヴァルで有望なアーチストのコンテストが実施されたことだ。僕はそれに出て優勝して50ポンドの賞金(記憶が正しければ)をもらった。ジャッジしてくれたのはビル・リーダー、エリック・ウィンターそしてカール・ダラスだった。みんなその後の僕のキャリアに重要な存在になった人たちだ。‘Scarborough Fair’と‘Poverty Knock’を歌ったのを覚えている。後者は木工所を定年退職したビル・ダニエルに教わった。彼が書いた曲だった。僕は彼の家を訪れたり、彼をフォーク・クラブに連れ出したりしたもんだった。そこで彼はウクレレ−バンジョーを弾きながら歌ったこともあったね。彼はバトリー(イングランド北部リーズ南南西)のNo 2 YardのNo 3に猫と一緒に住んでいた。彼の猫は食器棚を占領していたな。

1967年夏、僕はスコットランドのクラブをツアーして回った。グラスゴー・フォーク・センターのメイン・アクトはアレックス・キャンベルだったよ。若くてとてつもなく熱狂的なジョン・マーチンは、僕の歌う‘Spencer The Rover’を聴いて、休憩時間に僕にその歌を教えてほしいといってきた。彼の素晴らしいヴァージョンは今でも僕のフェイヴァリットの一つだね。そのあとアレックスのフラットに行って、彼はジョンと僕のために庭を開放してくれた。彼は僕がフルタイムのシンガーになるために大学を辞めるつもりだと言ったら、僕に猛烈に説教した。彼は涙を浮かべながら、万一の時に働くことができる資格をどうやって取るんだと言ったよ。‘俺を見てみろ。俺は42で他に何もできないから路上暮らしなんだ。’ってね。僕は音楽ビジネスの恩師としてのアレックスは認めていたけど、父親的存在としては期待していなかった。でも良くも悪くも彼の助言は聞いていたけど。僕はロンドンに引っ越す前にいやいや最後の1年間を大学で過ごした。

ところで当時のいい儲け口が、ブルース・シンガー/ソングライターのマイケル・チャップマンが‘egg-eating’songsって呼んでたんだけど、6時の全国ニュースのあとに放送されていたローカルTVニュースで歌うことだった。これを最初に始めたのがRobin Hall & Jimmie Macgregorで、彼らは60年代初頭、BBCのTonightで毎晩歌っていたんだ―どんなフォーク・ソングであれ‘2分以内で明るく’ってのがふさわしい時代で、とりわけ時事的でローカルな話題を持つ歌はそうだった。僕は1968年にスタートしたヨークシアのテレビ番組でいくつか仕事をしたけど、初期の頃のいくつかは完全に生だったね。新しいリーズのスタジオではたくさんの技術的問題が起こった。僕はキューが出るまで自分の出番をずっと待たなきゃならなかった。場合によっては20分も早くキューが出たりとかね。僕はO.B.(?)とVCR(ビデオカセット・レコーダーのことか?)間の接続が切れて、中継が途絶えた時のための単なる穴埋めだったから。それはビクビクもんだった。でも楽しかったよ。とりわけ番組の前後では、当時新米だったAustin Mitchell, Sid Wanddell,そしてRichard Whiteleyなんかと談笑したりしてね。

必然的に僕は弟のバリーとデュオを組んで、1969年7月20日にフルタイムのプロ・ミュージシャンになった。Neil ArmstrongとBuzz Aldrinが月面歩行した日と同じ日だった。続く2年半の間、僕らはデュオとして大きく成功して、クラブ、コンサート、番組、レコーディングそしてフェスティヴァルなんかでエキサイティングなキャリアを積んだ。そういうわけでソロとしての活動はしばらく保留になったんだ。

1972年あたまに活動を休止する必要があって、僕はしばらくサリー州にいた旧友のDave & Toni Arthurと共に生きがいを見つけることにした。彼らは大量のギグを予定していた。で、僕はその夏の数ヵ月間、彼らのローディーを務めて、シドマス・フォーク・フェスティヴァルではベース・ギターさえプレイした。これは少数のフォーク純粋主義者たちを戸惑わせることになったね。その時期僕はまた、コンサルティーナ・プレイヤーでシンガーのLea Nicholsonと一緒に短いクラブ・ツアーもやった。のちに僕はこの頃一緒にやっていた曲を3曲ちょうだいして自分のソロ・レパートリーに加えた。彼らはそのレコーディングでフィーチャーされているよ。

1972年の秋までに僕は再びツアーに出る準備が整い、北ロンドンのクレージーな家に戻ることになった。その家で共同生活していたのは、TrevorとAnnie Crozier、スティーライ・スパンのTim Hartだった。僕はそれまでフルタイムのソロ・アーチストだったことがなかったから、その自由に憧れていたね。ここに入っているメドウェイでのギグは11月だから、その直後辺りの時期だ。これは当時のソロ・パフォーマーとしての僕を正確に表していると思う。35年経ってこれを聴くとちょっとシュールな感じがするね。長所も短所も、早口のおしゃべりも全て含めてある部分は今となっては時代遅れに聞こえる。まあ別にいいんだけどね!他の何でもない当時の記録だから―僕は幸福に感じているよ。

1973年はフレンチ・コネクションの年だった。夏の初め、僕はフォーク・バーでギグをするためにブルターニュのクィンパーに到着した。ところが実際行ってみると、何も準備されていなかったんだ。僕は無一文で破産状態で全くもって不満だった。でも失業中の俳優だったRene Guedjから何回か電話をもらって僕は助かった。彼は行楽地近くで働いていた。彼は電話をかけまくって10日間のギグの予定を入れた。僕たちは2週間、僕の古いゼファー6(米国車)でブルターニュ中を回った。その車は元々BBCの撮影車として活躍していたやつだった。ルネが入り口で入場料を受け取って僕が歌い、お金は折半して分け合った。その頃がツアー全盛だったね。ハイクラスなバスキングみたいなもので、今でも心に残ってる。夏の終わりに僕はKertalg Folk Festivalに出るためにブルターニュに戻った。アラン・スティーヴェルによって始められたブルターニュのケルティック・フォーク・リヴァイヴァルで、あの頃はフランスの音楽が最盛期だった。

僕はGabriel Yacoubと親しくなった。彼は自身のバンド、Malicorneのためにスティーヴェルの下を去ろうとしていた。秋には僕は彼らの最初のフランス・ツアーのサポート・メンバーとしてプレイして、Malicorneの大ファンになってしまったね。翌年もサポートした僕は、彼らをジョン・ピール・ショー出演とツアーのために英国に連れて行ったんだ。でも僕のコネクションをもってしても1974年のツアーは短期間に終わってしまった。オーガナイザーはたとえ個人的に親しい僕の推薦であっても、フランス語で歌う聴いたこともないバンドのブッキングをするのは気が進まないようだった。以来‘ワールド・ミュージック’が広まったことで、この2008年に何か問題があるとは僕は思わないね。僕のMalicorneとの関係は重要な副産物を産むことになった。バンドのベース・プレーヤー、Hughes de Coursonが僕にフランスでソロ・アルバムをレコーディングしないかと話を持ちかけたんだ。それで僕は旧友のニック・キンゼイをエンジニアとしてパリに呼んで、共同プロデューサーとしてヒューも参加することになった。でもみんなの仕事の都合でレコーディングは途中で頓挫してしまって、結局ロンドンで完成してトピック・レコードからTidewaveとしてリリースされた。それでもヒューとニックの関係はそれからも発展して、彼らは1980年代を通して何枚かMalicorneの素晴らしいアルバムをプロデュースしたよ。

僕のソロ活動は1974年からヨーロッパ中で続いていたけど、それより弟バリーとの活動と不幸にも短命に終わったドランスフィールド・バンドの活動がその間に多く散在していた。1980年半ばまでにフォーク・シーンは2,3の呼び物を除いては低迷していた。フォーク・クラブのベテラン/吟遊詩人たちは、少数のオーディエンスに向けてプレイしていた。これはアート・センター会場と数多くの巨大なフォーク・フェスティヴァルが出現するようになる前のことだ。いいギグは英国では限られていたね。そしてもっと重要なのは、僕は音楽的、アーチスト的に分岐点に差し掛かっていたってことだ。つまり僕は‘自分の居場所’を考えるようになったんだ。

1986年、僕はデヴォン(イングランド南西部)その後コーンウォール(同)でヴァイオリン業を営むために、まだその頃若かった家族と共にロンドンを引き払った。今でもそうしてよかったと思っている。たまにバリーとギグをやる以外は、僕はもう再びパートタイマーになりたいとは思わないね。僕は1990年、ジョン・レンボーンとのTavistock Town Hallのグリーンピース慈善コンサートを最後にミュージシャンとしての幕を下ろした。一方で僕は長い骨休めをしているように感じることもある。ひょっとしたらね。

時折僕はBodmin Folk Club近くでオーディエンスに混じって現れたりしているよ。そこではいつもVic Leggの素晴らしい歌が聴けるんだ。そして去年、僕はルイス・キレンやマイク・ウォーターソンを聴くかのようなもてなしを受けた―トップの人たちだ。それはほとんど円の完成でもあり、1962年のハロゲイト・フォーク・クラブへの回帰でもあった・・・

Robin Dransfield
2008年2月、コーンウォールにて


RECORDING TIDEWAVE

1974年、Malicorneがフランス・ツアーを開始して、サポート・アクトとしてライヴをした後、バンドのベーシストだったHughes de Coursonが僕にソロ・アルバムを作ることを提案した。彼はすでにフランスのレコード会社とトップ・レコーディング・スタジオのStudio Acoustiといい関係を持っていた。僕はロンドンのLivingston Studioにいた旧友のニック・キンゼイを誘った。彼はバリーと僕が2枚のリーダー/トレイラーのアルバムを作った時に一緒に働いたエンジニアだった。あと共同プロデューサーとしてヒューもね。僕たちはパリに何回か飛んだけど、いざという時の費用をうかせるために真夜中にAcoustiの中断時間を狙って実際ただでレコーディングしたりした―あらゆる経費を節約したね。僕たちはいつも朝7時に家を出てWimpy Bar近くで朝食をとった。そこでニックはいつも‘Wimfish’っていうヘンテコなものを食べていたな。あとチップスも。

当時プロコル・ハルムのオルガン/ベーシストだったChris Coppingがフォーク・ファンで、彼とは僕が彼の地元のSouthend Folk Clubでギグをした時に仲良くなったんだ。それで彼はAcoustiのセッションでフレットレス・ベースとフロイド・クレーマー・スタイルのピアノを弾いてくれた。もう一人のセッション・ミュージシャンがフランス人で才能ある若いハーディー・ガーディー・プレーヤー、Christian‘Le Roi’Gourhanだった。彼とは前年にフランス中部で行なわれたフェスティヴァルで知り合った。彼は酔っ払っていて、僕の‘Cutty Wren’のレコーディングに参加する前に僕らはジャムって遊んでいた。ニックは後からこのトラックに妖精のような神秘的な効果を加えた。

その頃ニックと僕とMalicorneはしばらくの間、他のところのレコーディングに忙しくなって、僕がトピック・レーベルのTony Engleのレコーディングに出向いた時、つまり1979年までに僕のソロ・レコーディングは中断されることになった。事がすむと僕はバーネットにあったニックのLivingston Studioに向かった。ニックはパリで録ったオリジナル・マスター・テープを持ってきていた。Lea Nicholson(コンサルティーナ)、弟バリー(チェロ)そして元Crazy World Of Arthur Brownのベーシスト、Nick Greenwoodの助けを借りた。僕らは当時近くに住んでいたんだ。僕は‘Spencer The Rover’にブラス・バンドを加えたいとずっと思っていた。でもバリーがブラスをプレイする友人、Bob Whiteを見つけるまではそれはちょっと大それた考えだったんだ。Bobはいくつかのパートを書いて、仲間のChris Steamと共に彼らはThe Shield Brass Ensembleになった。彼らは一回のセッションで六つのパートを手早く片付けたね。White Shieldは彼らお気に入りのワージントンの強いビールのことだった。今から思うとレコーディング費用の一部は木枠の中に消えたようだね(ビール代のこと)。

バッキング・トラックにヴォーカルを入れる段階になって、僕はそのトラックのキーが僕にとってちょっと低すぎることに気づいた。ニックがミキシング・ルームでトラックのキーを半音上げてくれたのにもかかわらずね。で、もう一つの計画が必要になった。僕はブランデーを飲んで、あんまり寝ないで声をガラガラにして、次の日の朝早くにスタジオに向かった。2テイク録って何とか切り抜けたよ。

ニックとは80年代初頭、さらにドランスフィールドの曲とアルバムTale Of Aleのために3曲をレコーディングした。彼とは15年間一緒に働いたけど、彼の技術的な熟練の技、根気そして頑固さはあらゆる問題を解決してきたし、あのイマジネーションと音楽的資質を持った彼は偉大なエンジニアってだけでなく、過小評価された偉大なレコード・プロデューサーでもあったんだ。彼は若くして1993年に死んでしまった。彼がいなくなって寂しいよ。

The Cutty Wren 最も古く神秘的的な歌の一つ。鳥類の王としてのミソサザイ(wren)の言い伝えの一部だ。ここでwrenは圧制者と彼の運命そして財産の象徴として描かれている。寓話としてイメージすることもできるだろう。Christian Gourhanがハーディー・ガーディーで不気味さを醸し出している。

The Barley & The Rye これはよくある夫婦間の難しい問題からくる欺きやずる賢さなんかの人生観を扱った曲。ここでのアレンジはLea Nicholsonと僕が1972年にやったいくつかのライヴからのものだ。

Fair Maid Of February これはマツユキソウ(ヒガンバナ)に対する田舎の古い言い回し。とりわけここで問題になっているマツユキソウは、僕の北ロンドン集合住宅地域では困難な環境に勇気を持って身を置くってことを意味している。花を咲かせずに葉っぱだけを残すってことでね。こういうことが北ロンドンの人間にとってはよくあることなんだ。歌のアイデアはトム・フォレストのThe Archers(アーチャー一家:英国のラジオドラマ)から来ている。このカリスマ的な花の田舎的な愛称の付け方にすごく印象付けられたんだ。一番下の弟Bazzaが詞を手伝ってくれた。

When It’s Night-Time In Italy, It’s Wednesday Over Here これは母に教えてもらった曲で、単純に楽しんでいた曲。僕が最初にバンジョーに魅了された曲。詞はJohn‘Broadsheet King’Foremanに加えてもらって僕が書き直した。遠い昔のミュージック・ホールの記憶を呼び起こしてくれるね。

The Rigs O’Rye 偉大なメロディを持つ涙が出てくるようなスコティッシュ・トラディショナル・ソング。こういうのはずっと好まれるものだ。

Spencer The Rover 僕の故郷ヨークシア起源で、僕が伝承歌に興味を持って以来ずっとお気に入りの1曲。僕はこれを常々ブラス・バンド付きで歌いたいと思っていた―ちょっとトリッキーなね―で、Bob Whiteがアレンジを書いてChris Stearnがそれを具現化したんだ。

Tidewave 孤独と無名を好むAnne Briggsによる曲。ジョニー・モイニハンのために書いた曲だと思う。当時お互いが違うものを見ていたことがよく分かって同情を誘う。特に僕にとっては言葉では言い表せないほどたくさんの辛い時期があったように思える。

The Cadgwith Anthem 今も歌われているコーンウォールの素晴らしい曲。Cadgwithの漁師によって歌い継がれてきたと確信している。Dick Gaughanがデヴォン近くに住んでいた頃聞いた歌で、僕は数年前に彼に教えてもらった。

I Once Had A Dog これはシンガー/ソングライターのPaul Parrishによって数年前に書かれた歌。彼は珍しい存在だ―ヨーロッパのソングライティング・スタイルを持つアメリカ人としてね。

The Three Muscadets くつろぎながらちょっとしたギター・チューンとして始めたんだけど、結局古い友人3人との飲み騒ぎ用の歌になっちゃったんだ。タイトルは当時僕らが飲んでいたミュスカデ(辛口白ワイン)からきている。そんなにシリアスにとるような曲じゃないよ。

Mother Nature これは快いフォークロックの日々から付き合いのあるSteve Sproxtonていう古い友人が書いた曲。すごく気に入っている。母なる自然と時の翁(おきな)の永遠の営みを表している。彼らは最後には僕らを手に入れるわけだ。人間はただ成り行きを見守るしかないってわけだよ。

Tapestry これは元々60年代中頃に、リュート・チューニングにしたギターで試して僕が書いたまがいもの中世ソング。後になってバリーがこの曲を加えて、僕らの最初のデュオ・アルバムでいろんな楽器を使ってレコーディングした。ここでのチューニングはEB♭DGB♭E。

Bogie’s Bonnie Belle スコットランドの農家によって広く歌われ、いろんな形に変容してきた素晴らしい曲。60年代初頭から多くのシンガーたちが歌うのを聴いてきたよ。Belle Stewartとかね。ここではいくつかのヴァージョンをつなぎ合わせた。

Faithful Johnny これは高名なJohnny Handleから教わった曲で、彼はニューカッスルで教えている時に古い音楽教科書の中でこれを見つけたんだ。彼は僕らのデュオ・スタイルにピッタリだと考えてバリーと僕に教えてくれた。以来これは僕らのスタンダード・レパートリーになった。

Cold Blow & A Rainy Night これはソロ・ライヴを始めた頃からずっと歌っている陽気なトラディショナル・ソングだけど、どこで教わったか全然分からないんだ。きっと自然に覚えたに違いないね。

Still He Sings デュオ初期からの曲で、作ったのはシンガー/ソングライターのAllan Taylor。彼から直接教わった。

Scarborough Fair レパートリーの中で気に入っている曲。イングランドの謎めいた偉大な伝承歌のうちの一つ。Lucy Broadwoodの1893年の書物English County Songsで出版されたウィットビー(イングランド北東部)のWilliam Moatのヴァージョン。僕はアイルランド人のJohn Sheridanから教わった。彼は1962年のハロゲイト・フォーク・クラブのレギュラー・シンガーだった。僕は他の人がこのヴァージョンで歌うのを聴いたことがないんだ。

Adam & The Beasts これはシンガー/作家/学者だった故Alasdair Clayreによる、人間の本質を扱ったグレイト・ソング。1969年の彼のコンピレーション、100 Folksongs Old & Newで知った。僕は楽譜を読まなかったから、Tony Roseがコンサルティーナで教えてくれた。

Be My Friend マーチン・カーシーや他の多くの人たちと共に、僕はアメリカのシンガー/ソングライター、David Acklesの大ファンになった。彼の独創的な1968年のアルバムThe Road To Cairoに出会ってからね。これはすぐにカルト・アイテムになった。この曲はほとんど暗い曲ばかりのアルバムの中では明るいうちの1曲。

Lazy Afternoon 60年代終わりから70年代前半にかけてLea Nicholsonと仕事をした‘Black Stan’Ellisonによる素晴らしい曲のうちの一つ。1972年にLeaとギグをした時教わって、すぐに僕のソロ・レパートリーになった。


感謝の言葉

ここに収録したレコーディングの数々はNic Kinseyの思い出に捧げられる

以下の人々に感謝する:今回のプロジェクトに導いてくれたColin Harper、Topic RecordsのTony Engle、がんばってくれたHux RecordsのBrian O’Reilly、CDのタイトルを付けてくれたKerry Barnes、TidewaveとA Lighter Touchのオリジナル・ジャケットとブックレットの写真を撮ってくれたToni Arthur

あと、Sue & Ben Dransfieldとインスパイアを与えてくれ、助けてくれ、我慢して僕の言うことを聞いてくれた全ての人たち

特にGillとboys

KitとLuieへ―僕同様、自分自身の音楽を楽しむことを願っている。失敗した時は忘れないように―バッハはいつも失敗してたってことを!

email:robindransfield@hotomail.com


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