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Robin & Barry Dransfield/even more… Popular to Contrary Belief/2002 Free Reed Records FRRR-07



セクション1

コリン・アーウィン語録―1997年フリー・リード・レーベルよりリリースの“Up to Now”から

多くの河。そしてその上に架かる多くの橋。
あらゆるものを作り上げる我々は一体何者であろうか?

ブリティッシュ・フォーク・リヴァイヴァルは、その初期の段階においては実に奇妙な代物であった。それは一瞬の間吹き荒れた、ヘンテコな、はっきりいってイカレたスキッフル熱―しかし1957年きわめて重大な痕跡を残した―の裏側で、よろよろと進行していた。続く40年間その怪物は成長し、アーティストたちに富をもたらしながら、急速に発展し袋小路に陥るまで、難解な音楽として分類され細分化されていった。

黄金の時代―もし庶民的なフォーク・リヴァイヴァルに、なにか適当で出まかせの言葉を当てはめるとすれば―は、60年代半ば〜後半であった。最高のシンガーとミュージシャンがフォークソングの枠を拡げ、クリエイトすべく、様々な試みをしていた時代であった。マーティン・カーシー、シャーリー・コリンズ、ザ・ウォーターソンズ、ヤング・トラディションズ、そしてイアン・キャンベル・フォーク・グループらは、リヴァイヴァルの子孫として最初の旋風を巻き起こした。そこには、世間ずれした長髪の若者たちの大群が存在し、意気揚々の彼らはその波に乗ろうとしていた。

ロビンとバリーの兄弟がその頂点に立っていた。彼らは見て分かるとおりの独特のふてぶてしさでもって、その旋風に飛び乗った。彼らは、トラディショナル・ソングに対する、その鋭く新鮮なアプローチによって、急速にシーンの主役へと躍り出た。彼らは刺激と尊大さを持って演奏し、詮索好きなフォーク界の聴衆たちを魅了した。その数年間に渡って、ドランスフィールド兄弟は多くの冒険を経験した。彼らは一度たりとも儲けたことはなかったし、ミュージック・ビジネス界においてほとんど無名であった。しかしこの多彩で論争好きな二人のキャラクターは、なにもかもが調和していた。彼らは恐るべき音楽を生み出し、フォーク・リヴァイヴァルの歴史において、魅惑的な彼ら自身の一時代を築き上げた。

ドランスフィールド一家は、品位あるウェストライディングの保養地地区の町、ハロゲット出身であったが、ロビンはリーズ出身だと装っていた。“なぜなら、みなハロゲット出身だと聞くと、鼻持ちならない奴だと考えるからね。実際ハロゲットはひどい街として知られていたから。”

彼らは労働者階級ではなかった。彼らの祖父は一戸建ての家と車を持つ、炭鉱経営者であったし、父親はグラマースクール(大学進学校)へ行き、上級官吏になった。そして母親はピアノを弾いていたが、一方これら権威の証となるものは、兄弟にとっては人間の選択として、とても実行することのできないお粗末なものであった。そういった明らかな思考的分裂は、バリーに大きな困惑をもたらすことになった。しかしその結果、彼はブリテンが持つに至ったフォーク・リヴァイヴァルの歴史に名を刻むこととなったのだった。そしてそのムーヴメントの多くは、中流階級によって始められたものであった。

この特殊なリヴァイヴァルに自分の道を見つけた多くの人たち同様、彼らもスキッフルの影響がきっかけとなっていた。ロビンは自宅でウクレレを使って、ロニー・ドネガンとジョージ・フォーンビーの曲を練習し始めた。そのあと、5弦バンジョーに持ち替え、ピート・シーガーのバンジョー教則によって、熱心に勉強するようになった。彼が16のとき、あるパーティーでカウボーイハットをかぶり、ジョニー・キャッシュを歌う一人の男―ロジャー・ノールズ―に出会った。

ロビンとロジャー・ノールズは、Flatt & Scruggsに対するヨークシアの回答としてコンビを組み、カーター・ファミリーのソングブックを勉強したり、Sing Outマガジンを読んだり、New Lost City Ramblersのような、アメリカから輸入レコードを注文するなど異国のサウンドを吸収していった。

三つ年下の弟バリーは、兄たちのグループを身近で観察していた。彼もまた5弦バンジョーを弾き、続いて取り組んだギターの腕前も確かなものであった。バリーが15歳のとき、兄ロビンとロジャー・ノールズは、グループを北イングランドのNew Lost City Ramblersにすべく、バリーを引きずりこんだ。そしてCrimple Mountain Boysが誕生した。そのグループには、薬剤師として成功していたデイヴというフィドル・プレイヤーと、“奇人”のピートというダブル・ベース・プレイヤーがいた。運のよいことに、彼ら独特のヨークシア産ブルーグラスは、大きな人気を集めることとなった。

“そこで僕たちはパーフォーマーとして経験を積んだんだ。”バリーは言う。“今に至るまで僕はステージではあがってしまうよ。あの頃は楽しかった。いくらかのお金も稼いだよ。デイヴは少しクラシックの素養があって、Eine Kleine Nacht Musik(モーツァルト:‘小さい夜曲’)を少し弾くことができて、僕らはそれをスピードアップさせて演奏してた。それは僕らの18番で、‘モーツァルトの神経衰弱(Mozart’s Nervous Breakdown)’と名付けてたけど、評判はよかったね。その時に何でもありだと悟ったよ。”

The Crimple Mountain Boysのメンバーは、少しの間ロビンがウースターの教師育成学校に通うため抜けた以外は、3年間共に活動し、技術的には未完成であったが、北イングランドで名声をうちたてていった。ウースターでは、彼らのことは誰も知らなかったようだ。

ロビンとバリーは、ずっとブルーグラス・バンドの中でプレイしているだけではなかった。彼らはまた、ハロゲットのフォーク・クラブのレギュラーにもなった。そこはアーニー・グリーンによって経営され、フォーク・リヴァイヴァルの中心的クラブであった。才能あるシンガー、ミュージシャンを数多く輩出し、例えばルイス・キレン、イワン・マッコール&ペギー・シーガー、ザ・ウォーターソンズ、マーガレット・バリー&マイケル・ゴーマン、そしてマーティン・カーシーなどであった。少なくともCrimple Mountain Boysのうちの二人のメンバーは、そういったミュージシャンたちに大きな衝撃を受けていた。

“カーシーは素晴らしかったよ。彼には完全に魅せられたね。”バリーは言う。“僕らは全てをカーシーから直接、間接的に学んだ。”

“ハロゲット・フォーク・クラブは、僕らに大きな影響を与えた。”ロビンは言う。“出演していたのは驚くべき人たちばかりだった。クラブはYoung Communists Leagueの援助を受けて創設されたんだけど、CNDとアーニー・グリーンはスターだったよ。”彼は僕らの叔父みたいなものだった。彼はこのグラマースクールの二人の少年が演奏する、ブルーグラスまがいの戯言をずっと我慢強く座って聴いていなきゃならなかったよ・・・“

1965年までに、ロビンはウースターで自身のフォーク・クラブを経営するようになり、バリーは地方を回るソロ・ギグを行っていた。そして重要なのは、ここで彼がフィドルを取り上げたことだ。“昔懐かしい音楽をプレイしたあと、僕は徐々に悟っていったんだ。マイク・シーガーから習った、胸にフィドルを当てて弾く方法でイングリッシュ・ミュージックを演ることをね。おそらくそれが功を奏したんだと思う。自分がマーティン・カーシーじゃなければ、ギターを持ってもちょっと冴えないプレイヤーになっていただろう。でもフィドルで同様のことがプレイできれば、かなりおもしろくなるだろうと思ったね。”

彼の選択はまったく正しかった。しかし彼らの気持ちとしては、プロフェッショナルとしてのキャリアには程遠かった。ロビンは教師として学校を卒業し、シュロップシアの学校で教壇に立ち、バリーはロンドンで、ハープ職人のウィルフレッド・スミスのところで働いていた。しかしロビンはすぐに教師としての職がつまらなくなり、そしてバリーも仕事台での労働を終りにし、ノイローゼにかかってしまいハロゲットに戻ってしまった。ある日ロビンは、どうしても我慢ならなくなり、いちかばちかと教師を辞め、バリーも落ち着きを取り戻したあと、ドランスフィールド兄弟はプロフェッショナルなデュオ・ミュージシャンとして、冗談交じりに宣言したのだった。

彼らは1969年7月、最初のギグを敢行し、世間をあっといわせたのだった。
ドランスフィールド兄弟は、いつも何とかして他と差別化をはかっていた。彼らは、若さ、新鮮さ、豊かさ、傲慢さ、思いつきのみすぼらしさ、イカしたヘアスタイル、それ以前、以後にもなかったような多くのものを撒き散らしていった。彼らはハロゲット・フォーク・クラブやその周辺で収集した、素晴らしいトラディショナル・ソングで武装した。Crimple Mountain時代に完璧に身につけたFlatt and Scruggsのパートから少しステップアップした、豪華なハーモニーを自分たちに注入した。中でも最高のものは、バリーが胸に当てて弾くフィドルで、これにより彼はフィドルを弾きながら、同時に歌うことができたわけである。

バリーはいつもムーディーでミステリアスで、後ろで睨みつけているように見えた。オーディエンスとめったに目を合わそうとはせず、会話をすることもなかった。一方で人懐っこいロビンは、評判もよく、活発な冗談で観客を魅了していた。彼らはお互い素晴らしい好対照を見せていたが、バリーによれば、これは狙ったイメージ戦略ではなく、フィドルを弾きながら歌うために必要な集中力を要したためだという。彼にとってこの楽器は、初期のステージにおいてはまだ訓練中だったそうだ。

“僕たちは、周りの人たちとはかなり違うと感じていたよ。”ロビンは言う。“僕らは自分たちの素材を、カントリー&ノース・イースタンに見立てて、冗談でからかってたようなもんだった。ハーモニーは全てブルーグラスからだった。”

彼らはまた、歌い方に対する考え方と、彼らが持つフォークソングに対する正真正銘の使命について、多くを語っている。使命とは、とりわけアメリカナイズされること、それに支配されることを拒否することである。

バリー:“僕らのメッセージは、フィドルとギターさえあればできるこういった自分たち自身の美しい歌を歌わないのなら、イングランド中のパブは、ジュークボックスでいっぱいになってしまうよってことだった。僕らは正しかったと思うね。要するにそれはアンチ資本主義、アンチ・アメリカだったな。僕は初期のロック・ミュージックが大嫌いだし、今でも熱心にエルヴィス・プレスリーを憎悪している。”

彼らは1969年、ラフバラ・フェスティヴァルでビル・リーダーに出会った。彼は広く名声を集めるプロデューサーで、自身の経営するトレイラー・レーベルから兄弟がレコードを出すことをすすめた。その頃フォーク・ミュージックの熱心なファンは、ドランスフィールド兄弟がどこかでライヴをやってもどこ吹く風であったが、デビュー・アルバムRout Of The Bluesがリリースされるや、彼らを一斉に振り向かせることとなった。そこには主にハロゲット時代からの素材と、ほとんど知られていないヴァージョンで、Scarborough Fair, Who’s The Fool Now, The Trees They Do Grow High, そしてタイトル・トラック(セシル・シャープ・ハウスのアーカイヴからこつこつ集めたヴァージョン含む)が、フィーチャーされていた。Rout Of The Bluesは、全てのフォーク・ファンから称賛され、メロディ・メーカーの‘フォーク・アルバム・オブ・ジ・イヤー’に輝いた。このレコードは今なお彼らのベスト・セラーだ。

さらに最良の時は続き、しばらくの間デュオは印象的なアクトとして、その頂点に立っていた。彼らはさらに多くのギグをこなし(実際2年間ひと月25回のショーをこなした)、その間多くのファンの獲得を成し遂げ、信頼を受け続けていった。70年代という時代の変わり目において、彼らとフォーク・ミュージックは目まぐるしく動いていった。

彼らのセカンド・アルバム、Lord Of All I Beholdは1971年にリリースされた。タイトル・トラックは初の彼らのオリジナルであった。アルバムは、彼らがよりコンテンポラリーなスタイルへ移行していったことが反映されていた。このことは全てのファンを満足させるには至らなかった―1年後彼らは、自作曲を保留することに決めた―しかしそれは逆に大きな事件を引き起こすきっかけとなった。アシュリー・ハッチングスが、スティーライ・スパン結成のために彼らに声をかけたが、彼らは言い訳をして断わってしまった(‘多くはエゴであったのだが・・・’)。そしてティム・ハートとマディ・プライアが代わりにスティーライに加入することになった。その代わり彼らは、アメリカ人で大メジャー・レーベル、ワーナー・ブラザースの大物プロデューサー、ジョー・ラスティグと契約することになった。そしてラルフ・マクテルのサポート・アクトとして、大きなコンサート・ツアーに参加することになり、周囲の関係者はみな賛成したのだった。それは次に訪れる大事件の序曲であった。いや実はそれは正しくないのだが・・・

背信

ツアーは大成功を収めた。聴衆は彼らを絶賛し、アメリカが手招きしていた。そして―新しいマテリアルのオファーなしに―ワーナーは彼らの2枚のアルバムの編集盤を制作し、アメリカでデビューさせることを決定した。ビル・リーダーがこのコンピレーションを監修し、巨額の小切手が大西洋を渡る手筈が整った。ドランスフィールド兄弟は、真に栄光の道を歩んでいた。しかしその時、彼らは解散を決定したのだった。

その決断によって、全ては水の泡になってしまった。バリーはすぐに責任を負う立場となった(“体制に巻き込まれることは僕にとって何の意味もないことだったんだ”)。こういったあまのじゃくな姿勢が、なるほど彼らの栄光の一部でもあったし、彼らの魅力の一部でさえあっただろう。この、世界への切符を拒否した具体的な理由は、長い目で見て、それによって彼らのキャリアへの、取り返しのつかないダメージを引き起こすことにあった。業界には、彼らの“気難しさ”と、大きな“商業的チャンス”は拒否されるという評判がたつことになった。2年後、彼らは一つのプロジェクト(アルバムThe Fiddler’s Dream)を実行したが、これがまさに商業的価値のあるものであった。さらにいっそう彼らは、そういったプレッシャーに対処する精神的強靭さを身に着けていった。

1972年、バリーはポリドールの短命に終わったフォーク・ミル・シリーズで、セルフ・タイトルのソロ・アルバムをレコーディングしている。これもその内容に反し、ほとんど現金の転がり込まない結果となったアルバムだが見事にその時代を捉えたものになった。そのアルバムはその後何10年にも渡って、幻のフォークの名盤として希少価値がついていたが、ついに2003年、喜びのファンファーレと共にCDによるリイシューが実現した(訳注:LPでも再発された)。彼はまた、エレクトリック・フォーク巡業団の一員として、つまりその25年後に登場するRiverdanceへの英国からの回答といえる名作アルバム、Morris Onにおいて、オール・スター・バンドのメンバーとして参加している。そこで彼はThe Cuckoo’s Nestのとりわけ猥褻なヴァージョンを歌ってみせた。

一方ロビンは、しばらくの間全くの引退状態となり、デイヴ・アンド・トニ・アーサーのローディーとして働いていた。その後徐々に、ソロとして再び活動し始めた。彼はまたソングライターとして名曲―It’s Dark In Hereを残している。これは、素晴らしい感受性を持つ盲目をテーマに取り組んだ作品であった。

そのうちにバリーが提案したThe Fiddler’s Dreamによって、彼らは共に再び活動を始めた。アルバムの主題は、コミュニティにおける真のフォーク・ミュージシャンの役割についての考えに基づいていた。そこでは、あるフィドル・プレイヤーが、ある村に辿り着き、コミュニティのために、エンターテイナー及びセラピストとして心からの奉仕を提供するというものである。当時の暗い時代(1976)にあって、これは素晴らしいアイデアであった。ロビンとバリーは、ベース・プレイヤーとしてブライアン・ハリソンを雇い、共に素晴らしい作品を作り上げた。しかしコンセプト・アルバムに対する当時の音楽業界の認識は、大仰なロック産業の一連の無意味な作品と、当時文化的拡がりを見せていたパンク・ムーヴメントによって、遠い過去の遺物となっていた。ドランスフィールド・エレクトリック・フォーク・バンドの構想は、希望の見えない的外れなもののようであった。

多くのキャンセルと拒絶の目に会ったドランスフィールド・バンドは、よろめきながら活動していた。約1,300ポンド(?)という限られた予算で制作されたThe Fiddler’s Dreamは、トランスアトランティックからリリースされたが、たちまち跡形もなく消え去ってしまった。経済的苦境にもかかわらず、バンドはトム・パクストンとの悲惨なコンサート・ツアーが、彼らの意思を砕いてしまうまで活動を続けた。このようなネガティヴなイメージはしかし、The Fiddler’s Dreamの非凡な優れた楽曲群を損なうものではないし、魅力的なオリジナルのコンセプトを損なうものでもない。うまくはいかなかったが、価値ある作品だ。Violinは、バリーの究極的大傑作のひとつとして今なお輝いている。

結局ロビンとバリーは、1977年のアルバム、Popular To Contrary Beliefで基本に戻ることとなった。これは当時、多くの想像力に富んだフォーク・アルバムをリリースしていたFree Reedレーベルを経営していた、Uncle Neil Wayneの援助によって発表されたアルバムである。いくつもの嵐が去った後のような、歓迎すべき落ち着きを取り戻したトラディショナル・ソングの数々で、一曲目はセシル・シャープが、庭師のジョン・イングランドから教わった美しいSeeds Of Love、バリーの素晴らしいアカペラが聞けるPeggy Gordon, Bogie’s Bonnie Bell, そしてBanks Of The Sweet Dundeeが含まれている。レコーディングとミックスで、わずか14時間、ほとんどがファースト・テイクである。この作品は彼らのお気に入りだ。

しかしながらこの頃までにフォーク・ミュージックは、グリーンランドのアイス・ティーのようなファッショナブルな存在となっていた。バリーはトピック・レーベルにソロ・アルバム、Bowin’ And Scrapin’を吹き込んだ。そこにはこの偉大な男の・・・えーと・・・bowin’ and scrapin’が数多くフィーチャーされている。一方ロビンはついにファースト・ソロ・アルバム、Tidewaveを制作した。これもトピックからで、1980年リリースだ。どちらのアルバムも素晴らしい楽曲揃いだ。

活動期間が10年を超えた頃が最後の華やかなりし日々だったかもしれない。彼らのギグはしだいに減っていき、ついにはロンドンを離れることになった。バリーはサセックスのヘイスティングスに再び移り、フィドルの修理を目的とした仕事を始めた。ロビンも結局コーンウォールで似たような仕事を始めた。

しかし1984年、予期せぬエキサイティングな事件が起こった。その時バリーは、(旅先の)タヒチで酒を飲んでいたのだが、偶然、アンソニー・ホプキンス、ダニエル・デイ・ルイス、そしてメル・ギブソンらが、映画The Bountyのロケで、盲目のアイリッシュ・フィドル・プレイヤー、ブラインド・バーンが演奏するシーンに居合わせたのだった。そこには、配役のためのオーディションを受けた、様々なクラシック・ヴァイオリンの名手たちがいた。バリーは自分の使い古したチャイニーズ・ヴァイオリンが彼らの目に入るのが恥ずかしくて、彼らの注意を楽器からそらすために、歌い弾きながら部屋に乱入したのだった。彼のインパクトは相当なものだったらしく、30秒以内の演奏を映画のために提供してほしいと頼まれたのであった。彼の映画への音楽的貢献は、メル・ギブソンによって効果的にプロデュースされ、リラックスした軽い仕事としてフィルムに収められることになった。バリーは、この南国の島での数ヶ月間を、過去イングランドのフォーク・クラブ周辺で遭遇した、様々な苦難や険しい道のりに対するちょっとした報酬だと考えている。

全く不思議なことだが、ハリウッドからの再度の要請は届かず、バリーは仕事場へ戻ることになった。健康問題がさらに彼のシーンからの消滅を促した。治療法として彼は、フィドルとチェロの演奏に戻り、ほとんど知られてはいないが、フォーク・ストリング・カルテットによるリラックスした1枚のアルバムを制作した。94年、彼はそのアルバム、Be Your Own Manをレコーディングした。そこには、トラディショナルとコンテンポラリー・ソングが同時に並び、2曲のオリジナルも含まれていた。それは、彼からフォーク・ミュージックのソウルである繊細な感覚が、何ら失われていないことを証明するものであった。彼は現場への復帰さえ果たし、スティーライ・スパンとツアーに出かけ、96年にはWings Of The Sphinxがリリースされた。彼のソロ・アーチストとしての恐るべき才能が戻っていることが確認できる。彼はその後ついに引退し、サセックスでフィドル修理屋としての仕事に戻ったが、2005年、アルバム、Unrulyで再び戻ってきた。そこには聖歌同様、古典的なトラディショナル・マテリアルが含まれていたが、ヘンデルの大作、Grand Conversation On Napoleonはもしかすると決定的ヴァージョンかもしれない。これは2006年のBBC Folk Awardsのベスト・トラディショナル・トラックとしてノミネートされた。

人を当惑させるような、そしてその歩みにおいて自らを投げ出すような彼らの物語を知ると、古典的な達成者として彼らを位置づけるには、あまりに魅惑的である。しかしクールで控えめな資質を身に着け、丹精込めた一連の永遠の作品の斬新性は、偉大なるニール・ウェインによって1997年の2枚組CDで見事に組み立てられている。ここでそこから多くがボーナス・トラックとして収められている。本来、彼らの樹立した音楽について、あれこれいうのは、明らかにたわいのないことであろう。芸術的でもなし。個人的でもなし。彼らはしばしばブリティッシュ・フォーク・アクトの新種として独創性に富んだ影響力を持つアーチストとして、勲功者に値すると言われる。少なくとも彼らは新種に見合う有能さを持っていた。しかしながら、ロビンとバリーは常にアウトサイダーであった。音楽ムーヴメントが、常に自らを反体制であると定義づけていた中にあってもそうであった。彼らは今なおフォーク・クラブを愛し、エルヴィスを憎み、過去において彼らを導いた使命を今も信じている。

そう、バリーが言うように: “単なるイデオロギーの問題だよ・・・”

セクション2

1997年リリース“Up to Now”のライナーノーツより。今回二―ル・ウェインにより加筆された。


60年代終わりのバーミンガム・フォーク・リヴィヴァルの最初の思い出といえば、私がバーミンガムのフルーツ・マーケットの下のじめじめした地下室で経営していた‘folk‘n’jazz’クラブ―“The Grotto”と、ザ・キャンベルズの有名なDigbeth Civic Hall Folk Clubのまごつくような床のシミだ。

その時すでにThe Dransfieldsは活況を呈していたシーンの輝くスターのうちの一つであったし、今でもそうであるように彼らの妥協なき判断は、彼らの英国伝統音楽とトラディショナルに根ざした楽曲のクォリティに表れている。

1974年までに私はFree Reed(コンサルティーナ・ファンジン)とFree Reed Mail Order Recordsを立ち上げていた。それはTopicLeaderや他のレーベルのバック・カタログに隠されていた豊富なフォーク・ミュージックのレコードを、広く聴衆に向けて日の目を当てることだった。1年かそれくらいの間に私はFree Reedレーベルをスタートさせ、新しいシンガー、埋もれた才能両方をなだれのようにレコード化していった。

John Kirkpatrick, Peter Bellamy, Tony Hallのフリー・リードのLPとトラディショナル・シンガーとコンサルティーナ・プレーヤーの優れたアルバム同様、私はラッキーなことに1976年、ロビンとバリーの初で最良のアコースティック・アルバムをレコーディングしリリースすることができた。それは1970/1971年の彼らのリーダー/トレイラーからのクラシック作品以来のアルバムだった―それが‘Popular to Contrary Belief’だ。

ドランスフィールズの作品とその影響力は依然として続くフォーク・リヴァイヴァルを通じてまるで金の糸のように存在し続けている。‘Morris On’におけるバリーの仕事―それはフォークとロックをつなぐ初の真剣な試みだった。そしてそれ自体が彼らのレパートリーにおいて、ドランスフィールズのモリス・ミュージック探求によって促されたものだ。それはまた今日の兄弟のセッション・ワーク、レコーディング(少ないが)、時折のライヴもしくは短期間ツアーも同様だ。

今日の兄弟は忙しくはあるが隠遁者であり、楽器修理屋であり、1990年代においては機会があれば少ないライヴをこなしていたが、今ではソロでも二人でもライヴはやっていない。しかしながらSteeleye Spanとのバリーの初期のツアーとRhiannonからの彼の評判のいいCD、これは現在入手不可であるが、ドランスフィールドのマジックはしばらくの間続いていた。
CDの再発がどうかしたかって??―ああ―Tolkienが彼の書いた‘ザ・ロード・オブ・ザ・リング’でこう言った―“口承によって物語は成長してゆく・・”と。時代は下がりフリー・リードはいろいろな意味で初期の二人に栄光を与えることができたのだ。まずそれでは・・・

...1997年の2枚組CD“Up to Now”

1995年、フリー・リードの名作である‘The Tale of Ale’‘The Old Swan Band/Old Swan Brand’のCDでの再リリース後(最初は続きものの2枚組CDというアイデアがあったが、それは後のレーベルの知られるところとなった多くのbox-setsという形に落ち着くことになった)、私は‘Popular to Contrary Belief’の再発を望むけたたましい声を聞くようになっていった。私はまずCDをふさわしい長さで再リリースするためにドランスフィールドのボーナス・トラック分を探し始めた(78分入るCDに38分しか入ってないなんて誰が買うと思う?ってことだ)。

しかし最初から私は失敗してしまった。彼らのフォークロックの名作‘The Fiddler's Dream’はアメリカの会社と‘一回限りのリリース’として提携したものだった。Leader/TrailorのLPは埃まみれ倉庫の中で失われてしまった。彼らのソロLP群は長らく廃盤、BBCテープは全てが破棄されたと聞いていた。 しかしながら、真の宝の山を発掘するという‘フォーク考古学’の1年間が始まった。Barryは1970年代の‘John Peel’ショーのリハーサルと様々なコンサートでのレコーディング(音飛びもないこれは故John Waltersによってバリーに寄付された)のアウトテイクを提供した。Polydorはバリーの幻のソロLPのマスターのありかを突き止めた。そしてGeoff Wall Archiveは、ドランスフィールズのフォークロック・バンドとしてのセッション・レコーディングといくつかのレアなソロ・セッションを提供した。

それからBulmer/Sharpley Leader Archiveが活気あふれるLeaderのトラックをいくつか差し出し、Island‘Morris On’からバリーのトラックを提供した。Topicは兄弟のソロLPからマスター・トラックを提供した―そして我々はBBCのまさに最初のフォーク番組‘Folk on Friday’での彼らのまさに最初のレコーディングさえ見つけることができた!

全体で我々は11曲の新しいトラックと未発表ライヴ(BBCワールドワイドの‘Peel Session’にも残っていなかった素晴らしいトラック含む)を発見し、ついにCastleの1997年の再リリース‘Fiddler’s Dream’から2曲のトラックとバリーの最近のRhiannonからのCDのトラックを使うことを許可された―まさに‘up to now’というタイトルはふさわしいものとなった!

これら全ての至宝をもってこの1997年のプロジェクトは2枚組CDへと膨れ上がり、完璧で余すところのないブックレットが付けられることとなった。最高の2時間半以上を提供したのである―さらには最もレアでもある―ドランスフィールドの音楽が集められた―Up to Nowに!!しかし時は移る・・・

・・・そしてUp to Nowは回収されねばならなかった・・・

不運にも Bulmer/Sharpley Leader Archive のポリシーが変わったことにより、Up to Nowでのロビンとバリーの4曲のトレイラーLP収録曲が突然差し止められてしまった。そしてそれと同時に1977年のフリー・リードLP‘Popular to Contrary Belief’の完全な再発を望む声が高まっていった―もちろん‘Free Reed’のレコード・アーカイヴの真の至宝のことだ。というわけでNigel Schofieldの見事な選曲、Geoff Wall Archiveからのグレイトなトラックの使用、バリーのアーカイヴ、そして故John Walters(John Peelのプロデューサー)からバリーに新たに渡されたトラックによってわれわれは1976年から名作LPに収録されている曲を再リリースすることができたのである。この素晴らしい追加トラックを伴って。それが・・・

…even more-Popular to Contrary Belief-Free Reed Revival re : Masters CD FRRR 07

これは完全なオリジナルLPプラスLivingston Studioセッション、John Waltersのアウトテイク、ロビンとバリーのアーカイヴ、そしてDransfield―彼らの短命に終わったフォークロック・バンドからの曲だ。伝説的なフォーク・ライター、Colin Irwinによる改訂版ライナーノーツが付き、この名デュオの素晴らしい音楽が再び入手可能となった。

さらにもうひとつ―

もうひとつの‘金の糸’がこのプロジェクトを通り抜けている。一般にブリティッシュ・フォーク・リヴァイヴァルを通して、故Nic Kinseyの極めて貴重な貢献がある―レコード・プロデューサー、マスター・エンジニア、酒好き、スタジオ建設者―そして過去45年間以上に渡って何千ものフォークとフォークロック・ミュージシャンの友人であり、良き指導者であった。

このCDのレコーディング作品にクレジットされている、あるいは他の多くのブリティッシュ・フォークのレコード、Leader, Topic, Free Reedあるいは多くの‘ビッグ・ネーム’のレコードにクレジットされている‘細字の印刷’をちょっと読むと、ニックの名は十中八九そこに載っているのである。

最良のフォーク・ミュージック時代のプロデューサーとして、エンジニアとして、救済者として、形成者そしてクリエイターとして。彼に肩を並べる者など単にどこにもいなかったのだ。ありがとう、ニック。


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