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Reg King/Reg King/2006 Circle Records Ltd./CPW C106



My Mind's in a Peculiar Shape―The Story of Reg King's Album

1967年、ジ・アクションはFabマガジンで丸々1ページ、フルカラー・ポスターとして登場した。どこからどこまでモッド・サイケのピンナップ・ポップ・グループという出で立ちであった。その真ん中には、ブロンド・ヘアにピカピカの19世紀摂政時代風のジャケットに身を固めたレジー・キングが堂々とひざまずいていた。彼の仲間、同世代のミュージシャンからは、当時最高の声と称賛を受けたが、彼及び彼のグループの名声はもちろんその時点での話だ。

しかしただそれだけでは終わらなかった。レグがもう1枚のレコードを発表するまでに、4年の歳月が流れた。今回リリースの彼唯一のアルバムの裏ジャケットには、サイズの大きすぎるコートを着た彼が背を丸めて写っている。1968年レグ・キングがジ・アクションを去った時、彼はソロ・キャリアをスタートさせるつもりではなかった。グループはその頃いくつかの苦難に耐えていた:ジョージ・マーチンは次のシングルになる予定であった“Come Around”のリリースの前は、グループを自身のAir Productionsからリリースしていた。

ジョージオ・ゴメルスキーは、彼のマーマレイド・レーベルに吹き込まれたアーティストのアルバムに、ヒット・シングルになりそうな曲を収録できずにいた。ゴメルスキーは、ジ・アクション脱退後行き場を失っていたレグに、自分のプロダクションに来るように勧め、ソングライターとして腕を磨くよう提言した。この時ジ・アクションは、1963年ザ・ボーイズとしてスタートした頃とは、かなりかけ離れたバンドになっていた。サンドラ・バリーのバッキングを務めるフレッシュなビート・コンボに始まり、街を代表するモッド・ソウル・バンドとなり、サイケデリックへと向かった5年間であった。この頃の激しい変化の様子は、2004年Circleから出されたコンピレーション‘The Action Uptight and Outasight’によく顕れている。

グループは1967年3月の時点で、以前のモータウン・カラーを排除しようとしていた。その年の7月までに、グループはジョン・コルトレーンの“India”のようなフリースタイルのジャズ指向へと変化していた。この向上心に燃えるモッズたちにとって、この急激な変化―急な拍子チェンジ―についていくのは困難な状況にあった。ギタリスト、マーティン・ストーンとマルチ・プレーヤーのイアン・ホワイトマンの加入によって、ジ・アクションの演奏スタイルははるかに自由度の高いものとなり、2人のアイデアは大きな影響を与え、グループは団結して新しい音楽に取り組むようになった。しかしこれはレグにとっては、今までのグループ内での彼の地位を脅かすものとなった。もちろんメンバー全員が、バンド・サウンドの確立に取り組んでいたが、それはレグがメンバーを先導し曲を作り上げることであった。時代の傾向として、グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン、ザ・バンドのようなアメリカのバンドの出現によって、信条、哲学、神秘主義がバンドにとって興味の対象となっていた。

ホワイトマンはグループに新しい音楽的アイデアと、多様性を持ち込みストーンはその触媒となって、グループの新しい興味を具現化したのである。メロディメーカーの記者ニック・ジョーンズは、チェルシーの49 Lots Roadにあったメンバーのフラットに住んでいた(レグとアクションの“Something Has Hit Me”を共作した)。彼はストーンのことを思い出す。“彼はコートを着て、スカルキャップを被ってたよ。誰もあんな変な奴と会ったことはなかったね。‘奴は宙に浮かびながら部屋に入ってきたのか?’って思うほどだったよ。僕らにとってはグル(尊師)のような存在で、魔術と精神修行を教わったよ。”しかし皮肉屋レグは、他のメンバーのようにそれにハマることはなかった。彼はシンプルな娯楽を好んでいた。後にこう皮肉って言っている。“マーティンはいつも東向きに座禅を組んでたね。殺伐なレコーディング・スタジオにいる時は必ず、東向きに立ってた。”レグは全く対照的に娯楽と酒、ドラッグを楽しんでいた。そして大抵酔っ払っていた。

他のメンバーはアルコールを避けるようになり、ティモシー・リアリーを読み、快楽主義的娯楽よりも悟りを追求するために、アシッドをやるようになった。そしてバンドはふと気がつくと、経済的危機に陥っていることを知った。レグによると、“僕らはツアーに出たり、リハーサルしたりの忙しい日々を送っていたから、税金だとかそういう面倒な手続きを考える時間なんてなかったよ。最後には僕らにどっさりと請求書の山が降りかかってきた。”バンドの山のような借金、レコーディング契約の破棄、長年の辛いハードな仕事による疲れ、バンド内の口論の中で、レグは打開策を与えられ感謝していた。“ジョージオ・ゴメルスキーから、彼のマーマレイド・レーベルに来ないかと誘われたんだ。ゲイリー・ファーのプロデュースを、ストラトフォード・パレスにある古い4トラック・スタジオですることもね。

ジ・アクションはどうにもならない状態だった。最後に僕はメンバーに、残りの契約を全うしたら、バンドを抜けると言ったんだ。みんな了解してくれたよ。もし僕がバンドに残っていたとしても、そう長くは続かなかったと思う。彼らはマイティ・ベイビーとしてバンドを再編したんだけど、その後は長い間彼らとは連絡を取らなかったな。”これは彼のソロLP含めた数々のプロジェクトで、メンバーたちと一緒に仕事を続けていたその後の数年間に関する限りでは、いくらか的を得てはいないコメントだ。彼らと袖を分かつことは難しいことではなかった。なぜなら他のメンバーはいつも一緒にいたし、彼らの中でアイデアを出し合ってジャムを続けていたからだ。サイケ・フォーク・バンドのファミリーは、目と鼻の先に住んでいたし、ブロッサム・トゥーズはゴメルスキーのマーマレイドと契約していた。

ジ・アクションのメンバーはマイティ・ベイビーとして、遥か‘東方’へと興味を広げ、その音楽的、精神的野心を燃やし続けた。ベーシストのマイク・エヴァンスは思い出す。“僕らはバンドというより、移動式研究グループだったな殆んど。”彼らの読書量は大変なものだったようだ。アリスター・クローリーに始まって、ギーター、グルジェフ、ウスペンスキーなどへ拡大していった。レグとゲイリー・ファー(T-Bonesというバンドの後に取りかかった)によるコラボレーションの最初の成果は、1968年のシングル、“Everyday”であった。B面は素晴らしい出来の“Green”で、ファーとケヴィン・ウェストレイクのペンによるものだ。ウェストレイクはその頃、ブロッサム・トゥーズを脱退したドラマーで、北ロンドン、ミルヒルのレグの新しい広々とした部屋に出入りしていた。ジ・アクションの古いチェルシーのフラットは、今では吹きさらしの状態だった。そこはくつろぐにはいい場所だったが、住むには適さなかった。真夜中アシッドでトリップした時に、外にあるトイレに行くのは危険な行為だった。結局ミルク瓶が一杯になる有様だった。加えてロード・マネージャーの犬が部屋をめちゃめちゃにしていた。一度そこを見れば、徐々に人が寄りつかなくなったわけがすぐに分かるだろう。

1969年のファーのアルバム、‘Take Something With You’は、マイティ・ベイビーからマイク・エヴァンス、ロジャー・パウエル、イアン・ホワイトマン、マーティン・ストーン、それプラス、コンガにニック・ジョーンズ、ブロッサム・トゥーズのベーシスト、ブライアン・ベルショウその他がフィーチャーされていた。マイティ・ベイビーは自身のLPも同年念入りに多くのダビングが重ねられ、濃厚なジャズの影響を受けたサイケデリックな作品に仕上げられた。ファーはT-Bones以前の彼に与えた影響へとさかのぼり、大部分は穏やかな英国フォークである。美しい“Don't Know Why You Bother, Child”も含まれている。レグによるプロダクションは全体に完璧だが、LPの中で最も抜きん出ているのは、“Time Machine”だろう。ファーはスリーヴノーツでレグに感謝の言葉を送っている。“多くの人々に感謝する。とりわけレジー・キングには…”などだ。ファーとのセッションはスムースに完成され、レグは自身の作品に集中するようになった。彼はミルヒルでデモテープ作成のため、再びアクションのメンバーを招集する前に、ウェストレイク、ファー、ジョーンズ、友人のピーター・デイルと仕事を続けていた。

いくつかの曲(“Down The Drain”“You Go Have Yourself A Good Time”)は、レグのアルバムに採用されたが、多くはお蔵入りとなった。LPと比べてデモの多くは、勢いがあって軽快なフィーリングがある。“Let Me See Some Love”と“You Gotta Believe Me”のようなトラックは、アクションのシングル“Never Ever”のような響きがあるし、アソシエイションのようなグループに近いものがある。

‘Take Something With You’は大きなヒットとはならず、マーマレイドでの最後のアルバムとなってしまった。そしてこれはレグにとって、このレーベルで自身のアルバムが作れないという事を意味していた。しかしSaharaレコードがすぐに救いの手を差しのべてくれた。これはピーター・スウェールズによって設立された新しいレーベルで、彼はケヴィン・ウェストレイクの地元―北ウェールズ、ハヴァーフォードウェスト―の友人であった。ウェストレイクは再び元ブロッサム・トゥーズのブライアン・ゴディング、ブライアン・ベルショウと組んで、B.B.ブランダーとして活動していた。スウェールズはローリング・ストーンズのPR部門で働いていて、ゴディングによると、“僕らも他のアーティストも、とにかくレコードを出してくれるレーベルが欲しかった。で彼は何とかしてSaharaを設立するために、ストーンズからハッタリでかなりの大金を手に入れたんだ。”

1971年SaharaレコードはB.B.ブランダーと契約し、彼らのアルバム‘Worker's Playtime’を制作し、レグ・キングはここで働くことになった(Sireレコードでレグは、アンディ・レイの‘Magician’にキーボードとして参加し、素晴らしいプレイをしている)。ブランダーはかなり扱いにくいグループであったが、レグの方は他の様々なゲスト・プレイヤーを集めるだけの信頼感があったため、彼の作品のデモやレコーディングのためのセッション・メンバーたちの恩恵を受けることができた。Saharaのレーベル仲間として、ブランダーはレグによく知られていたので、協力メンバーとして自然な選択であった。またマイティ・ベイビーもこの時期多くのアルバムに参加しており、徐々にまたレグと一緒に組むようになっていった。ピーター・スウェールズはレグに、彼のアルバムのアレンジやプロデュースなど、全てのコントロールの権限を与えた。しかしレグの資質、統率力は充分に力を発揮できず、アルバムのセッションは混沌を極めることになってしまった。

レグとB.B.のアルバムの多くは、オリンピック・サウンド・スタジオで録られ、その他はAdvisionかPolydorで録られた。個々のセッションが、多くの時間の浪費となったのは無理もないことであった。場当たり的な寄せ集めのプレイヤーを使ったため、問題を引き起こすになってしまった。ゴディングはその頃、何をレコーディングするのか、誰がプレイするのかも知らないまま、今からスタジオに来るという電話をもらっていたことを覚えている。“いつ誰が来るのかも分からないようなレコーディングの結果、レグの曲は色んなミュージシャンの別ヴァージョンが存在するというマヌケなことになったよ。Saharaにとっては莫大な経費がかかってしまった。レグは楽しんでたけど、同時に酒や他のものをやる環境になってしまって、僕らは多くの時間を浪費してしまった。間違いなく計画倒れだったね。”こういった自然発生的なレコーディングのやり方は、予算をたくさん持っている大きなレコード会社にとっては10年間でももつだろうが、Saharaにはそんな予算があるはずもなかった。ゴディングは付け加える。“こんな酔っ払いのセッションなんかしていたら、ジョージ・マーチン・タイプのプロデューサーだったら、こぶしでバンと机を叩かれていただろうね。”

レグは再びブランダーのアルバム、‘Worker's Playtime’への参加のため戻っていった。“New Day”ではストーンズからミック・テイラーと、ブライアン・オーガー、アニマルズのドラマー、バリー・ジェンキンスが参加している。バリーはレグのミルヒルのフラットに当時住んでいてこの時、以前のアニマルズの同僚、ダニー・マクロウと共に‘Reg King’に急遽参加したのだった。音楽的傾向の一致もあってレグは、しばらくの間B.B.ブランダーに加入して活動した。“レグはブランダーに加入したとも言えるし、僕らがレグに参加したとも言えるね。”ゴディングは笑う。“短命に終わった編成だったけど、自由なアイデアで彼と僕らの音楽を作っていた。曲は色んなもののミクスチャーで、一緒に作ったりしたよ。僕にとってはギターに専念できたし、実際彼は僕なんかより全然素晴らしいシンガーだったからね。”アラン‘Bam’キングが数回ギグに参加したことがあったが、悲惨なものだったらしく、彼は長くは続かなかったようだ。“ずっとリハーサルしてたんだけど、ギグになるとみんな忘れちゃうんだ。Bamは何にも興味がわかなかったらしくて、酷く調子はずれだった。”

1971年7月2日ついにレグ・キングのデビューアルバムが店頭へ…

うねるようなオルガン、ファンク・グルーヴを持ったベース・ラインの“Must Be Something Else Around”でアルバムは素晴らしい幕開けだ。このトラックは何度も録り直されたが、これが最終ヴァージョンだ。ブライアン・ゴディングのアコースティック・ギターによって装飾が施され、マイク・エヴァンスとロジャー・パウエルのタイトなリズム・セクションが最高のノリを出している。注目すべきうちの1曲が“You Got Have Yourself A Good Time”で、アクション時代の仲間ドリス・トロイがソウルフルな雰囲気を加えている。これは彼が時間をかけてレコーディングした曲で、シングル・リリースに相応しい特徴を持っている(シングル・ヴァージョンはB.B.ブランダーと共にレコーディングされ、B面の“Nobody Knows Where We Are”も同様であったが、これのLPヴァージョンは消されてしまった)。しかしシングルにならなかったのは大変残念だ。なぜなら彼の最高傑作の1曲であり、レグにとって本当に会心の1曲だからだ。ノリのよい曲でありながら、恋人に別れを告げる悲しい内容で、品位を保ちながらもベストを尽くすことを願うものだ。レグの歌唱はファンタスティックかつ安定していて、心をうずかせるような傷ついた誇りを表現している。

LP全体を通して彼のアーシーなヴォーカルはザラついていて、旧友のロッド・スチュワートと似たところがある。アクションでは見られなかったもので、特にここだけに見られる特徴だろう。“That Ain't Living”は、マーティン・ストーンとブライアン・ゴディングの凄まじいギターを伴ったロックサウンドだが、レグはハードなレコーディングのためか、少々バックについていくのがキツそうで、もがき苦しんでいるかのようだ。ジ・アクションのファンにとって興味深い2曲が、“Little Boy”と“In My Dreams”だろう。この2曲は1967〜68年にかけて、マーマレイドでデモ録音され、1990年代後半に出た‘Rolled Gold’で聴くことができるが、ここでは興味深い収録となった。オフィシャルにリリースされたヴァージョンよりも、初期ヴァージョンとしてここでは珍しい収録となっている。これらの曲はレグにとっては、新しく書かれた多くの曲の中にあって、大変印象深いナンバーとなった。

“Little Boy”も“In My Dreams”も、アクションのデモと比べて大きくは違わない。‘Reg King’からの唯一のシングル“Little Boy”は、少年に向かって、‘焦らずにゆっくり自分の人生を生きていくんだ’というメッセージが込められている。ここでの演奏(B.B.ブランダー)は、初期のジ・アクション・ヴァージョンよりも手堅く作られていて、歌の構成もシンプルだ。‘Rolled Gold’での“In My Dreams”はその中にあって、最も激しい部分を表出していたが、ここではより自信をつけたかのような高みに達している。

1967年という時代には、ヴィジョンにけばけばしさがうかがえるようなスリルを感じることができるが、1971年という時代は、このジャケットにあるような悪夢のようなイメージを思い浮かべることができるだろう。ゴディングはLPのタイトルが‘ホラー・ムーヴィー’になりはしないかと危惧していたが、幸いアルバムがプレスされる前にそういったタイトルは却下されることになった。複雑なレコーディングに耐えた1曲が“10,000 Miles”で、B.B.ブランダーがマイティ・ベイビーに代わってここでは主役となっている。これはシングル“Little Boy”のB面にもなった。“Down The Drain”のデモは、イアン・ホワイトマンによるジャジーなピアノと、軽快なフルートが加えられている。最終ヴァージョンの“Down The Drain”は、元々のヴァージョンにあった、繊細さを伴ったブルース調に代わって、よりダークなじっと考え込むような詞に対応するような作りになっている。よりスローなテンポは、レグのヴォーカルにさらに拡がりを与え、レコードで最高のパフォーマンスのひとつとなった。ピアノにクレジットされている‘Mystery Man’は、実はスティーヴ・ウィンウッドであったことが判明している。

“Savannah”は、何のことを歌っているのかを知ることがなかなか困難な曲だ。10分を超えるこのヴァージョンは、‘楽曲’というよりは‘ファンキー・ジャム’と言え、なかなかに魅力的だ。ブライアン・オーガーによるオルガンは、グルーヴィーにミック・テイラーのギターとバトルを繰り広げている。オーガーはこの曲について、断固として自分は参加していないと主張するが、ここでのプレイは彼そのものだ。しかも後に彼が自分の娘にSavannahと名付けたのは、あまりに出来過ぎた偶然の一致である。コンガをプレイしたニック・ジョーンズは、当時のありのままを覚えている。“Advisionの大きなレコーディング・ルームで大勢がコンガを叩いていたよ。”最もソウルフルで情熱的なのが、ラストの“Gone Away”だ―レグの最高傑作だろう。この曲がいかに心を打つのかを聞いてみると、レグの声が出だし付近で割れているのが分かる。この素晴らしい胸を打つトラックは、“You Go Have Yourself A Good Time”に通じる不幸なテーマを持っている。トラックの多くは過去の出来事を反映している―過去を振り返って思いに耽っているかのようだ。

多くの曲には、明らかに落胆と当惑が存在する。そこには楽観的要素は殆んど見当たらない。タイトルだけを見てもそれは明らかだ:“Must Be Something Else Around”、“Down The Drain”、“That Ain't Living”、“Gone Away”などなど。実際“You Go Have Yourself A Good Time”には、“僕の精神は歪んでいる”といった詞がフィーチャーされている。

若いミュージシャン3人によるホーンは、それぞれエルトン・ディーン(ソフト・マシンで有名だ)、ニック・エヴァンスとマーク・チャリグは、ブライアン・ゴディングの義兄であるキース・ティペットのレコーディング経由で参加した。曲を聞く限りはそのミックス上、彼らを聞き取るのは難しい。ユナイテッド・アーティスト・レーベルは2枚組のサンプラー・アルバム‘All Good Clean Fun’をリリースした。そこにはB.B.ブランダー、エリック・バードン、Saharaレーベル仲間Gypsyらが含まれていた。レグは“Gone Away”を提供し、アルバムに付けられたブックレットの小屋はレグによるアイデアであった。“レグはユニークな声と技術を持っている。彼の場合‘歌を歌う’というより、‘歌を解釈する’。言葉と音符を両方同時に発音したり止めたりする。パワフルでソウルフルな声だ。しかし彼はソロシンガーとして、前面に立つことは好きではなかった。彼は‘グループのコーラス・サウンド’の一部となることを好み、それが彼のパフォーミング、レコーディング、作曲のスタイルだった。”

並外れたリード・シンガー、とりわけレグほどの才能に恵まれたシンガーであれば、他のシンガーをじゃまに思うのが普通だろう。もしレグの側に何か問題があるとすれば、それはいるべき場所が間違っていたということになるだろう。過去のようなスタイルの彼のレコードを欲しいと思った人々は、事実上リリースを無視されたこのレコードを聴いて、失望させられることになった。1967年的楽観指向を伴った音楽的、文化的背景は、そこには認められない。アルバム‘Reg King’はレジー・キングにとって、あまりに希薄でリリースが遅すぎた。アルバムの内容は、当時の傾向をよく嗅ぎ取ってはいる。ブライアン・ゴディングは、よりジャズ・シーンへと接近していた。

マイティ・ベイビーは、バンド内での個人的、精神的目標に折り合いがつかなくなり解散してしまった。マーマレイドも倒産してしまっていた。Saharaは、レコーディングに金をかけすぎたおかげで、アルバムをプロモーションする経済的余裕がなくなっていた。加えてレグの精神状態も疲れ果て、行動も常軌を逸するようになっていた。レグは思い出す。“僕はしばらくの間、バンドとツアーに出ていたんだけど、すぐに長い長い休日を取ったんだ。本当に気の遠くなるような休日をね!僕はバンドを抜け、その現実からさっさと立ち去った。‘ロックンロールの世界’からね。もうたくさんだった。頭がおかしくはなってなかったし、気が狂ってもいなかった。で思ったね。‘これはお前の運命だ’ってね。この世界で身ぐるみ剥がされて、傷つけられて、最悪の気分になっても自分自身で解決しなきゃなんないってね。”

1971年を振り返ってみると、タイミングが悪かったのかもしれない。しかし今日、この‘Reg King’は失われた古典だ。そこには、不器用なプログレッシヴ的手法や、当時多く存在した酷いブルースロックを避けながら、究極的に最良の形へと発展させていく試みが見て取れる。そしてマイティ・ベイビーのシュールな詞とは対照的にレグの詞は、個人的でダイレクトであった。レグはソウルを持っていたし、同様にロックでもあった。このLPの最初のリリースから35年経った現在、再び入手できるのはファンタスティックな事件である。そしてかつてよりも輝いて聞こえるのである。

Thank you Reg
マーク・ルイソン 2006年1月


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