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Ramones/Rocket To Russia/2001 Warner Bros. Records Inc. & Rhino Entertainment Company WPCR-75062



まさに最初から、CBGB’sにたむろしていたレコード会社の奴らはこういっていた。「そう、ラモーンズはグレイトかもしれない。でも彼らの音をレコードにはできないだろう」 理由は分からないが、彼らはいつもこういったばかげた予測を堂々と公言していた。もちろんラモーンズの最初の2枚のレコード―RamonesとLeave Homeは、彼らが間違っていたことを証明した。そしてRocket To Russiaのリリースは、彼らのノイズの壁が再びレコード盤に反映されたことを証明しただけでなく、ラモーンズが“レコーディング・アーチスト”であることも証明してみせたのである。

早い時期から、私とPunkマガジンの友人たち―編集者のジョン・ホームズトロンと出版業者のゲド・ダンは、ラモーンズが大物になることを確信していた。バブルガム・ロックとストゥージズ/MC5を結合させたウォール・オブ・サウンドは、我々にとって究極のロックンロールの輝きを持っていた。のちにジョン・ホームズトロンはこう述べた。「僕はラモーンズが好きだった。なぜなら彼らのサウンドはまるでヘヴィ・メタル・バブルガムみたいだったから・・・でも僕はラモーンズが特別な卓越性と知性を備えているといつも考えていた。それは本物を見極める洗練さを無意識に身につけた彼らの天真爛漫さだった」

とりわけそれを示しているのが、彼らの持つユーモアセンスだ。ラモーンズの音楽は聴いて楽しいものだが、当時CBGB’s上のパレス・ホテルを追い出された飲んだくれたちが整然と正面の歩道で生気もなくたむろする状況を、ラモーンズはこと細かく歌にしていた。彼らだけがそういった状況をビーチ・ボーイズのロックンロール・スタイルの中へ取り入れていたし、それが陽気さをかもし出していた。そして私がRocket To Russiaについて考察するのが、まさにそのことだ。

つまり、ロッカウェイ・ビーチに行ったことがあるかい?ってことだ。

そこは下水地帯だ。私はジョーイ・ラモーンといっしょに一度そこへ行ったが、そこには―断言するが―ビキニ/ハイヒール姿の癖の悪い女の子たちと、茶色の紙袋からビールを飲む背の高い男たちがケンカを始める用意をしていた。みながクエールード(催眠剤)とツイナール(同)でラリっていた。私は30分間に6度の殴り合いを目撃した。女の子たちは互いに容赦のない髪の引っ張り合いコンテストをやり、ハイヒールを砂でいっぱいににし、相手の頭をカチ割るための空のバドワイザーのビンを探していた。これはゴージャス・レイディーズ・オブ・レスリングの優に20年前の話だ!実際のロッカウェイ・ビーチは決して“快活”なところではないし、ラモーンズの歌のように無邪気でもない。こういった薄汚いところをロマン化するのは、スパーン・ランチ(Spahn Ranch:スパーン牧場 チャールズ・マンソンの拠点)で真の愛を見つける歌を書くのと同じようなものだ。

しかしそれがまさにクールなことだったし、革命的だった。ホームズトロンのいった見極める洗練さを伴った天真爛漫さがこれだった―俺たちにつきまとう不幸もうんざりすることもみんなまとめて祝ってやろうじゃないか!

最初の2枚のアルバムはこういった考察に基づいていたが、ファースト、RamonesのアイロニーはRocket To Russiaで見事に結晶化された。彼らはまずレコーディングできることを証明した。そして今や素晴らしい才能を発揮し始めていた―そして彼らはやり遂げてしまった。

アルバムからの最初のシングル・カット、“Cretin Hop”は、明らかにCBGB’sの初期のファンたちについてだ―当時そこにいた順応できないパッとしない一団のことだ。つまり、いいかげんにしろ、誰が歩道に唾を吐く連中やクラブのフロアにクソをたれるヒリー・クリスタル(CBGB’s創設者)の犬や、シーンで誰が一番クソッタレかを決めるヒット・チャートに我慢できるかってことだ。これで十分でなければまだある。当時そこにいたディー・ディーのガールフレンド、コニー・ラモーンは、彼女の男に憧れを持った女たちをめちゃくちゃに叩きのめしていた。当時CBGB’sは本当におっかないところだったはずだ。中に入っていくファンたちは、まるでベルヴュー病院の拘束帯を着ているかのように見えた。

“Rockaway Beach”は非行少年少女たちみなに向けた究極の夏のビーチ・パーティー・アンセムだ。数あるロックンロール・ソングの中で、私のお気に入りの歌詞のひとつ―“風船ガムをくちゃくちゃ噛んで/陽気な日にはうずうずするぜ/あそこはもうすぐそこさ/ダチの車に乗ってロッカウェイ・ビーチに直行”―これを聞くと、私は今でもビキニとハイヒールとブルーのアイ・シャドウの女の子たちが、メンソールのたばこを吸いながら、どぎついニューヨーク・アクセントで“イエー、アンタもクソッタレよ!”と叫ぶのが目に浮かぶ。

次の2曲、“Here Today, Gone Tomorrow”“Locket Love”は、いずれもピュアなラモーンズだ。それは私がいつも信じていたこと―本当の愛はトミー・ジェイムズやハーマンズ・ハーミッツ・ソングの中にあることを彼らが表明したナンバーだ。一方で私はディー・ディーが手助けしたと確信しているが、ジョーイは自らのバブルガム・ロックのルーツに根ざし、死に物狂いでトップ40ラジオのプレイリストへとラモーンズを導こうとした一人のラモーンだった。

常にシングルに重点が置かれていたことは覚えておくべきだ。もちろん“ヒット・シングルズ”についての話だ。思い違っちゃいけない。ラモーンズが一番ヒップでクールだったし、彼らが本当にパンク・ロックを始めたのに、彼らはいつも達成困難なトップ10を追い求めていた。

しかし私がいつも気づかされていたのは、ジョーイがあのラヴソングを愛していたもうひとつの理由が、自分の際立った声をフィーチャーしていたからであり、最終的に彼のすさまじい経験を反映することになったからであったということだ。ジョーイの歌の中には、ロックンロールを素晴らしくわがままに見せる悲嘆、あこがれ、十代の自己憐憫(じこれんびん:自己に対するあわれみ)そして失恋が入っていた。それらは全てジョーイが注ぎ込んだものだ。

まさにそのことが、私がジョーイを最高のロックンロール・ヴォイスの1人として考えていた理由だ。エモーションとは何か?彼に聞いてみてくれ。彼はそれを歌っているのであり、ある意味、歌うこと自体がエモーションだろう。“53rd & 3rd”から、フィル・スペクターの“Baby, I Love You”まで、私はジョーイがどんなロックンロール・ソングでもうまくやってのけると思っている。5枚目のシングル・カット、“I Don’t Care”の彼の声にはその激しさを聞き取ることができる。私はこれが“I don’t…”で始まる彼の歌の最高点だと考えている。

リチャード・ヘルは1975年のHit Parade誌のラモーンズの記事で、曲作りについておもしろい話を聞かせてくれた。それは全国誌に載った彼らの最初のプロフィールの一つだ―「彼らの曲はみんな2分台だった。俺は彼らに曲のタイトルのことを聞いたんだ。その時、彼らは5曲か6曲のオリジナルを持っていた。‘I Don’t Wanna Go Down To The Basement’、‘I Don’t Wanna Walk Around With You’、‘I Don’t Wanna Be Learned/I Don’t Wanna Be Tamed’、それから‘I Don’t Wannaなんとか’だった。で、ディー・ディーはこういった。‘オレたちは“Now I Wanna Sniff Some Glue(接着剤を嗅ぎたい)”まではポジティヴな曲を書かなかったんだ。’ 奴らは完璧だった、だろ?」

“I Don’t Care”がついにそれをまとめ上げてしまった。なぜそんなことにこだわったのかって?全てを吐き出したかっただけだ。ジョーイの声は十代のニヒリズムの化身だったからだ。

その他のメンバーについてラモーンズの音楽性は次のように分析できる。ジョニー―ビートルズとエルヴィス; ディー・ディー―ベイ・シティ・ローラーズ、ストーンズ、ニューヨーク・ドールズ、ストゥージズ; トミー―ヘンドリクス、マウンテン、ストゥージズ、ドールズ。そしてジョーイはもちろんハーマンズ・ハーミッツ、1910フルーツガム・カンパニー、スウィート、マーク・ボラン、ニューヨーク・ドールズ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ストゥージズだ。

それら全ての要素がラモーンズ最大の成功となったクラシック・ナンバー、“Sheena Is A Punk Rocker”で結実した。元々“Sheena”の今ひとつインパクトに欠けるヴァージョンは、セカンド・アルバムのLeave Homeでリリースされたが、このRocket To Russiaのヴァージョンが私にとって永遠のものだ。

そもそもなぜこれが2枚のアルバムにまたがってしまったのかを、手短に説明しよう。ラモーンズがファースト・アルバムに収録した“Now I Wanna Sniff Some Glue”は、スコットランドの十代の子供たちの間にシンナー遊びを引き起こしてしまった。ファンたちを誤った道へと導いてしまったと感じた彼らは、シンナー遊びに対する興味を一掃しようと、セカンド・アルバム用に“Carbona Not Glue”(Carbona:クリーニング剤製品のこと?)を書いた。つまりいい換えれば、飛行機のプラモデルの接着剤よりCarbonaを嗅ぐほうがハイになれるぜってことだった。

しかし不幸にもCarbonaは総称ではなく、登録商標だった。そして訴訟を避けようと、ラモーンズは“Carbona”の代わりに当時ニュー・シングルとして書いていた“Sheena Is A Punk Rocker”を収録してセカンド・アルバムを出し直したのである。

半分ジョーイのラヴ・ソング、半分ディー・ディーのティーン・アンセムである“Sheena”は、ビルボード・チャートの81位まで上がり、これがラモーンズのヒット・シングルとしては最高だった。数年後には“Sedated”や“Blitzkrieg Bop”のようなナンバーが、ついにラジオでオンエアされるようになり、その価値が認められることとなったが、当時は“Sheena”がラジオでかかるべきグレイト・パンク・ナンバーだった。

ターザンのベティ・ペイジ・ピンナップ版のような初期のアメリカン・コミック、“Sheena, Queen of the Jungle”にジョーイが影響を受けたか、あるいは単に彼がその名前を気に入っていたかどうかは分からない。しかしどちらにしろ、“Sheena”はパンクが商業的魅力を持ちうることを証明しただけでなく、パンクという言葉を大衆に知らしめた最初のナンバーだった。

“We’re A Happy Family”は、なぜバンドができ上がったのかを明らかにした、ロックンロールの偉大なテーマソングであるかのようだ。いいかい?ザ・モンキーズのテーマソングのように、彼らはこう歌っている。“俺たちは新世代、俺たちはいいたいことがあるんだ” これで決まりだ。“We’re A Happy Family”の中で、ラモーンズは私たちにあらゆることがどこからやって来たのか、ちょっとしたヒストリーを説明している。あらゆること―それはシンナー遊び、ヘッドバンギング、電撃ボッピング、ショック療法、それに加えて脳タリン、白痴、変人、怠け者のことだ。パンクの連続ホーム・コメディがついにテレビのネットワークに乗った時、私たちは“We’re A Happy Family”が、そのテーマソングになることを知るだけだ(“まぬけ”役のジェリー・メーザーズ主演)。

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「ロボトミー!ロボトミー!ロボトミー!」 私は当時いつも忘我状態を好んでいた。酒とドラッグに明け暮れていた1977年の私は、いつも虚空状態へと入り込むことになった。私は酔い潰れることを愛していた。それが重要なポイントだった、だろ?つまり誰が付き合いなんて望むかってことだ。まして付き合いの酒なんてまっぴら御免だろ?“Teenage Lobotomy”はそういったことをすぐに思い起こさせてくれるかのようだった。“女の子たちはみんな僕に恋してる/僕はティーンエイジ・ロボトミーさ”(lobotomy:前頭葉切断) これは最悪のホラー・ムーヴィー(すなわちI Was A Teen-age Werewolfのマイケル・ランドだ)、サーカスの奇人、大量殺人、ゾンビ狂の完璧な結合だった―全てはグレイト・ロックンロールに必要な要素だ。

“Do You Wanna Dance?”はボビー・フリーマン、ビーチ・ボーイズ、ベット・ミドラーらがヒットさせたロック・クラシックだ。ラモーンズはいつもアルバムの中に1曲のカヴァーを挟みこんでいた。それによって無知な大衆はグレイトな古いロックンロールと、彼らのグレイトな新しいロックンロールの間の相関関係を体験することになった。

“I Wanna Be Well”“I Can’t Give You Anything”そして“Ramona”は、他の曲での彼らの試みを想像させてくれる。ラモーンズはあるテーマ―精神疾患、ロマンチックな別れ、十代のニヒリズム―を取り上げると、完璧なヴァージョンを創り上げるまで、何度もそのテーマに沿って曲を書く。そこが彼らの可笑しなところだ。

私はラモーンズが“Surfin’ Bird”をカヴァーしたのは、CBGB’sで最初にクランプスが自分たちのヴァージョンで取り上げていたし、その曲はクランプス・ソングというよりもラモーンズ・ソングといった方がふさわしいからだと考えていた。私にとって1964年のトラッシュメンのヒットは、ラモーンズがいなかったはるか昔のラモーンズ・ソングのように感じられた。要するに、彼らがそれを書いていたとしてもおかしくないってことだ、だろ?しかし私はクランプスのヴァージョンを愛する一方で、ジョーイ・ラモーンの“poppa-oh-mow-mow”より上手く歌える者はいないと断言する―その曲のフックとしての悪徳の喉を聞かせられる者は他にいないのと同様に。

“Why Is It Always This Way”はRocket To Russiaへと続く予言的なエンディングだ。ラモーンズにとっては不幸なことに、1977年11月にリリースされたレコードは、第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンによって葬り去られようとしていた。Rocket To Russiaは彼らの目標を達成すると考えられていた。サイアー・レコーズはメジャー・レーベルの影響力をフルに活用しようと、ワーナー・ブラザーズと配給契約を結んでいた。しかしラモーンズがその壮大な計画に取りかかろうとしていたちょうどその時、2つの事件が起こった。

まずジョーイがパセーイク(Passaic:ニュージャージー州北東部)のキャピタル・シアターでのコンサートへ向かう前に、やかんで火傷を負ってしまった。ジョーイは歌う前に、鼻腔と喉の通りをよくするためにやかんの蒸気を吸入していた。不幸なことに手元が狂ったジョーイは二度か三度の火傷を負い、すぐに病院へ担ぎこまれ、ツアーはキャンセルせざるを得なくなってしまった。

加えてジョーイが入院中に、セックス・ピストルズが登場し、究極のパンク・ロック・バンドとして世界中の話題をさらってしまった。ラモーンズとは何の関係もない安全ピン、剃刀、短く刈り込んだ頭髪、ののしり、嘔吐が突如として流行りだし、それはRocket To Russiaのラジオでのオンエアのチャンスを奪い去ってしまった。

サイアー・レコーズの社長セイモア・ステインは次のように語った。「ワーナー・ブラザーズは全部門を強化していたが、Rocket To Russiaがみなの期待に応えられなかった時に、ラモーンズはみんなの心の中に永久に消すことのできないある存在として刻みつけられてしまったようだった・・・一部の人間のためのカルト・バンドとしてね」

元々のマネージャーだったダニー・フィールズはこういった。「とても悲しかったな。彼らに必要なのはたった1曲の大ヒットだけだった。彼らはアルバムを200万枚売っていたかもしれなかった。‘Sheena’がそれを達成していたかもしれない。ひょっとしたらフォリナーでもケニー・ロギンスでもなく、彼らだったのかもしれない。決して誇張じゃないよ」

ただし20年後、ついにパンクがメインストリームへと躍り出た時、シーンにいるあらゆるバンドはロックンロールを救ったバンドとして、他の誰でもなくラモーンズに謝意を示したのだ。

―レグズ・マクニール
Please Kill Me:The Uncensored Oral History of Punkの共著者


オレは働きたい。仕事は素晴らしい。
もちろんオレにとっちゃ当たり前のことだ―27年間、ラモーンズと共に、ラモーンズのために働いてきたってことはね。仕事に対するグレイトな価値観を持ったバンドさ。特にジョーイといっしょに働くのは素晴らしかった。彼の取り組み方はいつも愉快で、何の心配も要らなかったね。もしかすると、それはまさに初期の頃から彼の身に起こった困難によって、生き残りを賭けた彼の感性が信じられないほどに磨かれたからかもしれない。勝ち目のない勝負に対抗して自分を超クールに見せる本能もね。あのへっちゃらに見えるような彼のそぶりはナルシシズムなんかじゃなかったんだ―それは純粋にサヴァイヴァルを意味していた。彼は消極的になることは命取りだと分かっていたし、彼には攻撃したり敵意を持ったりする時間なんてなかったよ。音楽は彼のパッションだったし、彼の人生は全てが歌に注ぎ込まれていた。最後の数ヶ月間のもがきでさえ、インスピレーションを与えていたなんて想像もつかないことだ―オレたちは偉大な才能を失ってしまったんだ。

なあジョーイ、君はオレたちの人生をハッピーにしてくれるグレイトな音楽をたくさん残して去って行ったよな。オレは君から多くのことを学んだ。君が望んでいることは分かっている―悲しまないでほしいってことだろ。でもオレたちは悲しい、とても悲しい。

―Arturo Vega, April 25, 2001
(ラモーンズ・バナーを描いていたスタッフ)


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