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Quiet Elegance/The Complete Quiet Elegance on Hi Records / 2001 Cream/Hi Records Inc. HILO 185



“失ってみて初めて気がつく”と、かつてある詩人は言ったが、ことクワエット・エレガンスの場合その原則は当てはまらない。傑出したレーベル仲間であったアル・グリーンとアン・ピーブルズの影に隠れてはいたが、音楽界のベテランであったこのメンフィス産の熟達した4人組は、今日、純粋なソウル・ミュージックとして咲いた最後の花のひとつとして数えられている。

グループの心と魂であるフランシス・イヴォンヌ・ギアリング(以降フランキー)は1944年12月17日、フロリダ、デイトナ・ビーチで生まれた。彼女が最初ショービジネス界へ興味を持ったのはハイスクール時代のグループ、ザ・コーエッズのシンガーを務めてからだった。ニューヨーク育ちだったフランキーは1962年、男ばかりのラディンズに参加した。グループはプロデューサー、ボブ・ヨーレイが自分のアンジー&バーデル社のためにレコーディングする前に、Grooveから唯一のシングルをリリースした。ラディンズは分裂し、フランキーと大部分の男性メンバーと共にステインウェイズと名乗り、1966年サンディ・リンザー&デニー・ランデルズ・オリヴァー・ロゴで2枚の洗練されたシングルを発表した。

ミルドレッド・ヴァニーは1947年3月4日、ジョージア、サヴァンナに生まれ、世俗音楽であるジャズグループ、ボビー・ディルウォース&ザ・ブレイザーズの前はピルグリム・フィーメイル・ゴスペル・シンガーズとザ・サーモネッツに在籍していた。ミルドレッドはフランキーと会うまでは、CMソングやデモでどうにか食べていたニューヨークのセッション・シーンに身を置いていた。この若い2人の女性はかつてフランキーの仲間であったベティ・ストークスを加えてトリオになった。ストークスはアンジー・レコードのグループ、シャーレッツを抜けた後だった。そして彼女の同郷者がザ・トイズとしてチャートのトップを飾るのを見ていたのだった。

ボブ・ヨーレイが再び手を貸し、3人組はコロンビア・レコードとの契約を勝ち取った。グローリーズの誕生である。傘下レーベルのデイトと契約し、デビュー曲“I Stand Accused(Of Loving You)”は1967年夏、ポップチャートでヒットし、続いてR&Bナンバーをリリースした。とげとげしく猛烈でかつメロディックなグローリーズのデビュー時のトーンは、1969年デイトから解雇されるまで、8枚のシングルを通して次第にソウルフルになっていった。

それは彼女たちが音楽を続ける大きな自信となった。1971年アルトのベティの替わりにデロリス・ブラウンが加入したが、それはリタ・ハーヴェイに従っての事だった。グローリーズはアポロでテンプテーションズの前座を務めた。これはテンプスの創立メンバーであったメルヴィン・フランクリンとオーティス・ウィリアムズの誘いで実現したものだった。そしてグループは活性化すべくデトロイトへ移ることを決意した。そこで1971年ボクシング・デイにクワイエット・エレガンスが結成された。

テンプスはCoboホールでのコンサートでは、マーサ&ザ・ヴァンデラスと一緒にポスターに写っていた。ヴァンデラスは会社によってますます脇へ追いやられて、最後のトップ40ヒットは1967年の“Honey Chile”となっていた。モータウンの方針はマーサ・リーヴスをソロとしてデビューさせることだった。その晩のフランキーとミルドレッドは再びアルト・パートなしであった。それはちょうどヴァンデラスのロイスが自分の仕事を失ったのと同時であった。

サンドラ・デロリス・リーヴスはデトロイト育ちで1948年に生まれている。姉のマーサに1967年、ベティ・ケリーの代わりにヴァンデラス4番目のメンバーになるよう強要された時、ショウビジネスの経験は皆無だった。そして今、ロイスは他の2人と運命を共にすることにした。グローリーズの続編としてではなく、彼女たちは新たな出発を決心した。ロイスはフランキーとウィリアムスからマネジメント任務を引き受け、ここに高貴な若いシンガーたちを名乗るに相応しい名前としてのクワイエット・エレガンスが誕生した。

ロイスにとって新しい仲間によって、主役から脇役へ回ることは問題にはならなかった。“ミルドレッド・ヴァニーとフランキー・ギアリングと仕事をするのは楽しかったわ。”元ヴァンデラスは言う。“クワイエット・エレガンスへの移行は一度では難しかった。でも彼女たちは私にとってやり易かったわ。ミルドレッドとフランキーは我慢強く励ましてくれて私に愛情を持ってくれてた。マーサと私の経験した寂しい思い出があったから。でもミルドレッドとフランキーは私をのけ者にしなかったわ。私はメンバーで一番小さくて5フィート1インチしかなかったの。彼女たちは私に愛情を込めてピィーウィーって呼んでた。私はもっと待遇を良くしてくれなんて言えなかったわ。彼女たちはただ私のことを愛してくれていたから。私たちはグループに関してそれぞれ割り当てを持ってた。ミルドレッドはいつもファッション面に気を使っていて、コスチューム担当だった。フランキーはほとんどの曲のリードヴォーカルを取っていたから選曲担当だったわ。私はビジネスの経験があったから契約交渉と出演交渉を担当したわ。あとはホテル予約と旅行の準備とその管理ね。”

3ヶ月以内のスピナーズ、テンプテーションズとのツアーで、メンフィスでの公演中プロデューサー、ウィリー・ミッチェルの目に留まりハイと契約することになった。1972年6月1日のことであった。最初のシングルはその8月に電波に乗ることになった。

ハイのバンドリーダー、ティーニー・ホッジスのギターがオープニングからエンディングまで聞ける“I’m Afraid Of Losing You”は、小躍りするような完璧なナンバーだ。ウィリー・ミッチェルの典型的なサウンド―トレードマークのタイトなスネア、控えめなメンフィス・ホーンズ、さまようようなストリングスはフランキーの生で情熱的なヴォーカルを引き立たせるがごとく、魅惑的なバックを形作っている。真の緊張感、シングルコード、メジャーラインに乗ったマイナーメロディ、そしてギターとリードヴォーカルは最後まで親密に絡み合っている。ミルドレッドとロイスはコーラス導入部で、はかない3つのパートを分け合っている。それは巧みに、決め手である“I’m afraid of losing you”という歌詞の不安定さを補強している。泣くようなユニゾンのストリングスが、下降することによってさらに感情を盛り立てているかのように響いている。中間部分の欠落はセカンドコーラスが消えていることによって、リスナーの欲求を置き去りにしているかのようだ。このトラックは同じく素晴しい“Do You Love Me”とのカップリングだ。この曲の価値はそのセールスの成績よりもクワイエット・エレガンスが独自の特徴を確立させたところにあるだろう。

“ヴァンデラスやモータウンのサウンドは全く違っていた。クワイエット・エレガンスはもっとゴスペル色強くてソウルフルなサウンドを作り上げたわ。”ロイスは言う。“メンフィスのミュージシャンとの経験はより親密だったわ。モータウンではストリングスかホーン抜きの最終トラックに歌を入れるの。ベーシックトラックは私たちがスタジオに着く前に完成していた。ミュージシャンが自分のパートをダビングする時だけ彼らに会うことが出来た。ハイ・レコーディング・スタジオは正反対だった。ミュージシャンたちは私たちが歌っている間に曲を仕上げていったわ。私たちは時々実際にリードヴォーカルと同時にリズムトラックをレコーディングした。私たちはハイのミュージシャンと相互作用があって、彼らは私たちのヴォーカルスタイルとその特徴をわかっていたわ。それはコンサートで勝ち取ったものね。ウィリー・ミッチェルは私たちの提案を要求して私たちに曲を最後にどうするかの機会を与えてくれた。ウィリーは私たちをライター同様に何かフレーズや詞が浮かんだらそれを積極的に採用するような姿勢だった。モータウンとは正反対ね。”

うねるような“Mama Said”はスタックスの出版カタログからのナンバーで、1973年クワイエット・エレガンスがよりアップテンポなグルーヴを歌いこなすギアリングのヴォーカルをフィーチャーしたよい見本となっていることを示していた。もう片方の“I Need Love”は、ブルージーでスローなナンバーだ。典型的なハイサウンドだ。グローリーズ最後のシングル“The Dark End Of The Street”は今やジェイムス・カーのバックカタログとしてクワイエット・エレガンスに大きな実績を提供した。彼女たちの情熱的なカヴァー、偉大なソウルマン(カー)の“You’ve Got My Mind Messed Up”は、ビルボードのソウルトップ100を1973年7月から8週間とどまりわずかに54位まで上がった。多分ハイのプロモーション担当連中は会社のドル箱スター、つまりアル・グリーンとアン・ピーブルズの宣伝に躍起になっていたのであろう。ミッチェル印のハイサウンドが支配する“Love Will Make You Feel Better”、とそのB面カントリー風の“Will You Be My Man(In The Morning)?”はフランキーの珍しいヴォーカルスタイルが聞ける。これはA面の価値もあるナンバーだ。この2曲はグループの1974年唯一のリリースだった。

ヒットに恵まれずグループは充分に自分たちをアピールできず、契約の履行を堂々と示すことが出来なかった。彼女たちはエンゲルバート・フンパーディンクをバックシンガーとしてレノ、ラスベガス、パーム・スプリングス、アトランティック・シティなどの高級リゾート地で仕事をする機会を持った。フンパーディンクと仕事をしたロイス・リーヴスは、“私の中で最良の時だったわ。エンゲルバートはどこでやろうと最高の歓迎を受けたし、完璧にリハーサルされた完璧なショーをしたわ。彼はバンドメンバー、彼のバックシンガー、裏方の人たち全員に敬意を払っていたわ。彼は完全なエンターテイナーで私たちをすごくもてなしてくれた。彼は世界的スターでありながら、私に全面的に協力して私がかつて経験した事が無いような好意を持ってくれた。私は世界的な人物と名声に出会う機会が与えられたってわけ。”

テーブルに並べられた様々なパンのうち、ソウル界でクワイエット・エレガンスという名のパンに脚光が浴びせられることはなかった。グループのリリースが波紋を投げかけることは稀だった。1975年2月グループは宝石といえるようなシングルを発表した。ロイス、ミルドレッド、フランキーのなめらかで、うっとりさせるようなハーモニーに委ねられたレイドバックしたナンバー、2年前のアル・グリーンのアルバムに入っていた“Have You Been Making Out OK?”は最高級品に違いないだろう。半年後の大きな変化はミルドレッドが魅力的なダンスナンバー“Your Love Is Strange”でリードヴォーカルを担当したことだ。ソフトかつ情熱的なヴォーカルはクワイエット・エレガンス・サウンドのかなめだ。

前年はアル・グリーンのバッキングヴォーカルとしてレンタルされていたグループは今やコネもなく、自らギグを獲得すべくネットワーク広げなければならなかった。次のシングルが出るまでに1年が過ぎていた。仕事の増えたウィリー・ミッチェルはダン・グリアにプロデュースをバトンタッチした。そのグリア作“After You”はグループの魅力を存分に引き出していた。軽やかなストリングスの入った曲で、ハーモニーは以前よりも豊富でフランキーはいつものようにサム・クックの影響を強く受けたダイアモンドのようなヴォーカルを披露していた。

片面の“Something You Got(Sho’ Nuff Makes Me Hot)”は詞において黒人の商業的利用を示していた。これは映画のサウンドトラックから来るカルト的な雰囲気、つまりアイザック・ヘイズ、カーティス・メイフィールドら大物の匂いを漂わせていた。1976年の夏は、彼女たちにとって希望の年に思われた。長らく待たれていたアルバム用のセッションを終え、次のステップに進む事が期待されていた。しかしどういうわけかLPは実現せず、1977年9月に出る次のシングルまで1年以上待たねばならなかった。アレックス・ヘイリー作の素晴らしい重厚な“Roots Of Love”は過去のグループのレコードとは全く違う作りとになっていた。そしてグループがアルバム用に書いた“How’s Your Love Life?”がB面を飾っていた。

5年間で13枚のリリースは乏しいものであるが、幸運なことに3曲の未発表がダン・グリアとのセッションから発掘された。クワイエット・エレガンスのアンソロジーが編集された10年前のことである。騒々しく荒っぽい“Set The Record Straight”はヒットグループ、ニューヨーク・シティのナンバーで、シンガーのティム・マックィーン作である。アップテンポの“You Brought The Sun Back Into My Life”は、パートナーのダン・グリアをフィーチャーしている。そして宝石中の宝石、アル・グリーンの秀逸なカヴァー、“Tired Of Being Alone”だ。これはアルバムの目玉となるはずだったが、アルの成功によってシングルとしては無意味なものになってしまった。

さらにボツになっていた5曲があった。最良のものはバッキングヴォーカルとストリングスがかぶされる前の初期ミックスである“After You”だろう。これは最終ミックス同様、ソウルフルなヴァージョンだ。同様にオーヴァーダブ前の“Something You Got(Sho’ Nuff Makes Me Hot)”“Roots Of Love”そして“Set The Record Straight”もまだ甘みを加えられていない分リスナーにとって、いかに聞こえるかが興味深いナンバーだ。“You Brought The Sun Back Into My Life”は、ダン・グリアのヴォーカルが加えられていないヴァージョンである。グループはハイでのリリースが途切れ、ついに解散してしまった。ロイスはショウビジネスの世界から足を洗ってしまったが、時折姉(マーサ・リーヴス)のツアーに同行している。90年代初め、彼女は英国拠点のモーターシティ・レーベルからソロデビューを果たした。彼女はヴァンデラスのうちの一人だったので、マーサ・リーズスと共に1993年ハリウッドのリズム&ブルース・ファウンデーション・パイオニア・アワードを受取るために出演した。その後デトロイト・シンフォニーで少しの間働いた後、ロイスは現在NAACP(有色人種のための地位向上委員会)のシニア・セクレタリーとなっている。

ロイス同様、ミルドレッドもデトロイトへ戻り、そこでJ.J. As Cut Glassのオセイア・バーンズとデュオを組み、1980年、20thセンチュリーから2枚のシングルをリリースした。再度シンガー、ミリー・スコットとして1986年、ついに大きな成功を収め、4th&ブロードウェイから出た4枚のレコードはソウルチャートを駆け上がった。“Every Little Bit”は、1987年初め11位にまで上がるヒットになった。ミリーは英国でも歓迎されプロモーションのために渡英したが、次第に失速していった。

フランキー・ギアリングは1980年ビール・ストリート・レーベルから“Just Frankie Gearing”というアルバムを発表したが、これはずっとアンダーグラウンドシーンでクワイエット・エレガンスが根強い人気のあった日本でのリリースであった。これは今や入手困難となっているアルバムで、100ポンドの値が付いている。同様にトップランキング・インターナショナルやバウンド・サウンドらのレーベルから出たシングルも高値が付いている。しかし小さな南部の独立系レーベルの作品はその黄金時代と共に忘れ去られていった。フランキー・ギアリングの名は現在ではドリス・デュークやジュディ・クレイらその道の巨匠によって語り継がれている。

“ミルドレッドと私は今でもお互い連絡を取り合ってるわ。”ロイスは言う。“彼女はアレサ・フランクリン、シェレール、その他のバックヴォーカルとしてクワイエット・エレガンス解散以降もツアーをしていたわ。お互いよく会うし。フランキーと私は彼女がフロリダに残ると決めて以来、よく電話で話すしね。”

あと知恵をもってすれば、スターの宝庫であったハイ・レコーズの中で彼女たちの名前を見つけるのは難しいことかもしれない。クワイエット・エレガンスは確かに大物となる機会を逃したのは事実であるが、彼女たちの才能を持ってすれば何ら恥じ入る必要は全くないのである。彼女たちは素晴らしいグループであったのは疑いようのない事実なのだから。

マルコム・ボウムガード&ミック・パトリック、2001年8月
デヴィッド・コールとフィル・チャップマンに感謝する



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