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Quicksilver Messenger Service/At The Kabuki Theatre/2007 Licensemusic.com ApS SNAD 556 CD



Quicksilver Messenger Service(QMS)は彼らの仲間であったグレイトフル・デッドとジェファソン・エアプレインらと同等の成功は収められなかったが、サンフランシスコで欠くことのできないバンドのひとつであり、ジョン・シポリナとゲイリー・ダンカンのツイン・ギターによって依然として素晴らしい音楽を創り出していた。のちにはニッキー・ホプキンスによる巧みなピアノも入ることになる。コミューン生活、アシッドを吸い込んだカウボーイ、グレイトフル・デッドと闘うインディアン、ドラッグ所持による収監、長尺なギター・ソロとあの金髪は、その時代精神において確かにカウンター・カルチャーの旗手としての信頼性を獲得していた。事実上、彼らはワイルドなヒッピーとしての地位を確立していた。

QMSはカリスマ的なフォーク・シンガー、ディノ・ヴァレンティを中心に結成された。彼は1964年にエレクトラから素晴らしいシングル、“Birdses”をリリースしていた。そのシングルは確かに時代の最先端を行っていた。そのシュールな言葉遊びとレオン・ラッセルによるバロック風のハープシコードは、原始的なサイケデリック・フィールを有していた。ヴァレンティがのちにヒッピーのアンセムとなる“Get Together”を書いたのはさらに古く、1962年頃のことであった。ヴァレンティはニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジにあったコーヒー・ハウスによく出入りしていたが、そこで彼はフォーク界の大物、フレッド・ニールと親交を深めていた。このことがきっかけとなり、彼はその圧倒的なバリトン・ヴォイスによる定期的なステージ出演を務めるようになった。“Get Together”はのちに開花したヒッピー・バンド、ジェファソン・エアプレインによってカヴァーされ、1967年にはザ・ヤングブラッズのヒットにより、サマー・オブ・ラヴの象徴にさえなった(さらに2年後にはリイシューされ、トップ5になった)。不幸なことに、その曲がカヴァーされる直前にヴァレンティは法的な弁護費用のために、その版権を売り払わねばならなかった。それは結局刑務所送りとなるドラッグ所持の問題によるものだった。当時急速に頭角を現し始めていたThe Byrdsの友人だったヴァレンティは、短期間デヴィッド・クロスビーと共にボートハウスで共同生活をしていた。ジーン・クラークはヴァレンティの奇妙なフォークポップのレコードに魅了され、“Birdses”をもじってグループの風変わりなつづりの名前を発案した。しかしながらヴァレンティはByrds結成時のオリジナル・メンバーとはならなかった。間違いなく歓迎されるはずの人間ではあったのだが。

ギタリストのジョン・シポリナは回想している。“クイックシルヴァーを立ち上げたのはヴァレンティだった。全部覚えてるよ。ディノがこういったんだ。‘オレたちは全員ワイヤレスのギターを持つんだ。そしてそのワイヤレスの楽器をかけられるフックの付いたレザー・ジャケットを着る。リズム・セクションはアメリカン・インディアンのような服装をする。短くて小さな衣装さ。彼らはタンバリンを持つ。そしてタンバリンについているシンバルを銀貨にする。オレは座って成り行きを眺めている。’この男は何かしでかすと思ったね。オレたちは酔っ払いながら世間をあっといわせるつもりだった。”(訳注:うまく訳せなかった・・ぶっ飛んでいることだけは確か)

バンドが正式に結成される前に、シンガーのジム・マレイが抜け、リーダーのヴァレンティは麻薬所持で2年間収監された。シポリナは続ける。“オレはディノに誘われた。多分当時エレクトリック・ギターでリードを弾ける男がオレしかいなかったからだろう・・・オレたちは翌日の晩のリハーサルの計画を話し合ったが、その日は永遠にやって来なかった。翌日ディノがブチこまれてしまったんだ。”

しかし結成の計画は進展した。ヴァレンティの友人でフォーク・ギタリストだったデヴィッド・フライバーグは、ポール・カントナー、デヴィッド・クロスビーと一緒にバンドを組んでいた。彼は別のドラッグ容疑で刑務所から出てきたばかりだった。“オレたちはフライバーグに目を付けていたんだ。”シポリナは回想している。彼らは以前に会ったこともなかったが、フライバーグはグループに加入した。そしてスキップ・スペンスもギターで加入した。バンドはマーティ・ベイリンのクラブ、The Matrixでリハーサルを始めた。ベイリン―彼は自分が結成したバンドのドラマーを探していたが、スペンスを説得しドラムスにスウィッチさせてグループに引き入れた。

スペンス引き抜きを埋め合わせるために、ベイリンは彼らにドラマーのグレッグ・エルモアとギタリスト/シンガーのゲイリー・ダンカンを推薦した。二人は当時素晴らしいガレージ・グループ、The Broguesで一緒にプレイしていた(The Broguesはそのストーンズ風な荒々しいサウンドでローカルでは評判となり、今ではその時代の名バンドのひとつとして記憶されるようになった)。新生バンドは1965年12月に最初のギグを行なった。コメディー一座のThe Committeeのクリスマス・パーティーでのことだった。

おかしなことに彼らはその時点でも依然としてグループ名を持っていなかった。シポリナは回想している。“ジム・マレイとフライバーグが名前を思いついたんだ。オレとフライバーグの誕生日が同じで、ゲイリーとグレッグの誕生日が同じだった。マレイが双子座で、オレたちはみな乙女座だった。乙女座と双子座は水星に支配されている。水星の別名はクイックシルヴァー、クイックシルヴァーは神の使いで(messenger of the Gods)、乙女座はしもべ、それでフライバーグがいった。‘そうだ、Quicksilver Messenger Serviceだ’ってね。”まさにサイケデリックな名前を突いていた。

初期のQMSのラインナップが特別だった点は、シポリナとゲイリー・ダンカンの二人のリード・ギターが共存したことだった。当時フォークのバックグラウンドから出てきた仲間たちとは全く違い、彼らはボ・ディドリーの生なスタイルとブリティッシュ・バンドが応用していたR&Bスタイルを好んでいた。オリジナル・ヴォーカリスト/ハーモニカ・プレイヤーのジム・マレイがバンドを去り、残りのメンバーがヴォーカル・パートを巧みに分け合ったが特にシポリナがそれを担当し、ウェスト・コースト中心に多くのツアーが敢行された。その独特で長いギター・ソロによって彼らはたちまちのうちに名声をつかみ、グループは着々と完成されていった。

QMSは素晴らしいグループであったが、彼らはいくらかサンフラン・ヒッピー・バンドの第一波としては、レコード契約のチャンスを逃し、それは1967年の終わりになるまで達成できなかった。これはかなり残念なことである。もしかすると人気バンドとして登場した1965年12月にデビューを果たしていたかもしれなかった。キャピトルは長髪バンドとしきりに契約を結びたがっていた多くのレコード会社の最初の盛り上がりの中で、サンフランシスコのヒッピー・バンドを発掘することに失敗していた。しかしQMSは何とか交渉を果たした結果、他の多くの仲間のバンドよりはるかにいい条件で契約を結ぶことができた。1968年にリリースされたセルフ・タイトルのデビュー・アルバムは素晴らしい作品となった。レイドバックしたフォークロック(注目すべきはハミルトン・キャンプの“Pride Of Man”における彼らの驚異的な解釈だ)と、広大な“Gold And Silver”、そして“The Fool”などが収録されたアルバムは、サンフラン・サイケデリック・ロック・クラシックとしてのステイタスに相応しいものだ。Happy Trails(翌年3月リリース)ではさらに長尺なインストゥルメンタル・ジャムが強調され、とりわけ片面全てを使った“Who Do You Love”のリアレンジと、シポリナの驚異的なギターが聞ける“Mona”が際立っているが、どちらもボ・ディドリーのナンバーだ。

さらなるドラッグ問題による精神的影響により、Happy Trailsのレコーディングのあとダンカンがグループを去っていった。フライバーグはのちにそれを「バンドの“エンジン”が失われてしまった」と回想している。しかしそれにもかかわらず、ダンカンの代わりに英国人ピアノ職人、ニッキー・ホプキンスが加入した。彼はそれまでローリング・ストーンズ、ザ・フー、そしてスティーヴ・ミラーその他多くのアルバムに参加していた。この編成でQMSは1969年の終わりぎりぎりにShady Groveをリリースした。巨匠ホプキンスのピアノは、シポリナの優れたギターワークに見事な厳粛さを加えている。

そうこうするうちに、ディノ・ヴァレンティが1968年に出所しソロ・キャリアに乗り出した。ボブ・ジョンストン(ボブ・ディランの60年代の作品の多くを手がけたことで最も有名)によりプロデュースされた、手足を思う存分に広げた彼のセルフ・タイトル・アルバムは、その年の暮れにコロムビアからリリースされた。ヴァレンティの意識の流れ、神秘的な黙想はほとんど初めから終わりまで物語の体をなしてはいないが、その繊細な歌は特別な資質を持ち、喚起作用のあるリリシズムが強調されていた。最近になってCDでリイシューされ、そのアルバムは今ではアシッド・フォーク・クラシックとして認知されている。

しかしながらリリース当時、アルバムは一般的(あるいはメディア)にはほとんど見向きもされなかった。ヴァレンティはソロ・キャリアを諦め、元QMSのゲイリー・ダンカン(この時点で抜けていた)と共に、短命に終わったOutlawsを結成した。しかし結局これも見事な失敗となった。

少しばかり(ドラッグから)身ぎれいになったダンカンは、過去バンドを従えていた創設者(ヴァレンティ)と共にQMSに再加入した。これはグループの新時代の幕開けとなった。これはかなり信じ難いことであり、60年代半ば以来互いに袖を分かち異なる道へと進んできたことを考慮しても、ヴァレンティが再びグループのアーティスティックなリーダーシップを取ることは当然のように思われた。はっきりいえば、ディノの信じ難いエゴと、グループの全くの方向性の欠如の結合のようなものだ。ヴァレンティは続く2枚のアルバムのほとんどの曲を書いた。ハワイでレコーディングされた1970年のJust For Love(ヴァレンティは時々‘Jesse Oris Farrow’と別名でクレジットしている)と次のWhat About Meだ。これら2枚のアルバムはまた、バンド最大のヒット・シングル、ドラッグ賛歌の十八番、“Fresh Air”と“What About Me”含んでいた(どちらもサンタナ風のラテン・ロックだ)。後期のヴァレンティ在籍時のQMSは、1人の誇大妄想的なシンガーソングライターのための創造性のないバックアップ・バンドであったことをいくら考えてみても、このラインナップが最も成功をもたらしたことは否定しようのない事実だった。

残念ながら、グループの名高いアシッド・ロックを決定づけていたダンカンとシポリナの2本のギターの絡みは減少し、ヴァレンティの簡潔でしっかりと構成された楽曲にその地位を譲ることになってしまった。このことはQMSの以前の多くの頑固なファンを失わせる結果となった。にもかかわらず、Just For Loveは良く出来たアルバムであり、QMSの別の一面を見せてくれるし、依然としてヒッピー精神の中心に位置する恍惚感ある様式を保持している。

What About MeはJose Reyes(コンガ、ヴォーカル)の加入により、流行のラテン・ロック・サウンドへと音楽的広がりを見せた。ヴァレンティはあるいはアメリカの最初の天才ヒッピーの一人であったのかもしれないが、依然として“Get Together”の作者として約10年間、人民のための革命家の様なものとして存在していた。また若者の反抗の話題は彼にとって最も大切なことだった―彼が30歳になろうとしていたとしてもだ。アルバムはまた2曲の美しいラヴ・ソング、“Baby, Baby”と“Long Haired Lady”を含んでいた。これらは“All In My Mind”と共に、ヴァレンティの最高のヴォーカルをとらえていた。しかしながらヴァレンティの影響力がどんどんと増していくという問題が生じ始めていた。残念ながらシポリナのナンバーは減らされていった。インストの“Local Colour”は、What About Meの中で唯一の彼のクレジットだった。1971年秋、シポリナはニュー・グループ、初期のQMSサウンドを思わせるCopperheadの結成に動いた―そしてのちに彼は1975年の申し分のないQMS再結成にオリジナル・メンバーとして復帰した。ヴァレンティとダンカンは、解散の前にさらにもう1枚のアルバム(1972年のComin’ Thru)をがんばって発表した。

1971年大晦日のKabuki Theatre(別名Mojo Kabuki)コンサートは、そのエキサイティングなパーティーのギグとして実況録音されたが、ひとつにはWhat About Meのリリース記念として、そしてもうひとつには熱狂的にニュー・イヤーを祝うという絶好の口実があった。コンサートの大半は1970年の2枚のアルバムからと、もうすぐリリースされることになっていた1971年の“名作に近い”Quicksilverのナンバー、そしてがっかりすることになるComin’ Thru(シポリナがグループを去ってからレコーディングされた)からのナンバーがフィーチャーされた。その中で点在しているのが、より古いナンバー(1968年のデビュー作から“Pride Of Man”の素晴らしいプレイが聞ける)と、数曲の象徴的なブルース・ジャムだ。この生き生きとしたライヴは、QMSの2番目のラインナップの最後の姿であった。ヴァレンティ、シポリナ、ダンカン、フライバーグそしてエルモアは、全員最後まで全力のプレイを見せ、この最高に力のこもったショーは、全てのファンたちを満足させるに違いないことを保証するものである。

JON‘MOJO’MILLS



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