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Procol Harum/A Salty Dog/2009 Onward Music Ltd/Union Square Music Ltd. SALVOCD 020



概略

「プロコル・ハルムのゲイリー・ブルッカーとキース・リードは唯一僕たちに並ぶコンビさ!」

エルトン・ジョン&バーニー・トーピン

「プロコル・ハルムはすごくクールだった。ゲイリー・ブルッカーはグレイト・シンガーだ!」

ジミー・ペイジ


バーミーズ・ブルー・キャットという名に基づいてつけられたあだ名だったプロコル・ハルムは、傑作となったデビュー曲、“A Whiter Shade Of Pale”によって、永遠に刻まれるだろう。これは英国のフォノグラフィック・パフォーマンス社によれば、英国でもっとも多くエアプレイされた‘いまだかつて例のない曲’として公式に認められている。

彼らの音楽は、とりわけ荘厳なミクスチャーだ。キース・リードによる壮大で映画風な歌詞は、すぐにそれとわかるサウンドを装飾した。大きく影響を受けたリズム&ブルースは、クラシック音楽の旋律と合体させられた。ブルー・アイド・ソウルとしてのゲイリー・ブルッカーの歌声は、プロコルの特徴である2つのキーボード・サウンド(スタインウェイ社製のグランド・ピアノとハモンド・オルガン)、ブルージーなギター・プレイ、ロックなパーカッション、そしてメロディックなベース・ラインに支えられ、それは唯一無二のブリティッシュ・アンサンブルの真髄を形成した。

プロコルはメンバーそれぞれが別々の道を歩むまで、1967〜1977年の間に10枚の傑出したアルバムを制作した。彼らは1991年に活動を再開し、以来その間に多くの国際ツアーを行ない、評価の高い2枚のアルバムを生み出した。彼らは2007年に行なわれたいくつかのコンサートで自ら40周年を祝った。

サルヴォ・レコードと提携したフライ・レコードは、細部までこだわった彼らの40周年シリーズの一環としてリリースする初期のアルバム群のために、ゲイリー・ブルッカーとキース・リードの協力を求めた。プロコルの傑作レコーディングは、未リリース・マスターとともに初めて年代順に集められ、分析された。

根気強いツアー・スケジュールのおかげで、プロコル・ハルムはライヴ・アクトとして1968年までにアメリカで高く評価されていた。ゲイリー・ブルッカーは証言する―「僕たちはかなり長い時間をツアーに費やした。続けて何ヶ月間ってこともよくあったね」 その結果、プロコルはサード・アルバムのレコーディングをLAのA&Mスタジオで行なうことに決めた。彼らはソングライティングとプロデュースにもっと深くかかわることに興味を示し、オルガン奏者のマシュー・フィッシャーが『A Salty Dog』のプロデューサーとなる機会を与えられた。

A&Mスタジオでのレコーディングはエンジニアとしてウォリー・ヘイダーが参加し、おそらく1968年の初秋に始まり、その時は3曲が試みられた。“Pilgrim's Progress”(のちに破棄された)、“Long Gone Geek”(スタジオでのライヴ・デモとしてモノ録音され、のちに“A Salty Dog”のシングルB面になった)、そして“Stoke Poges”(これも破棄された)と名付けられたマシュー・フィッシャー作の無名インストゥルメンタルだ。

それからホリーズのプロデューサーだったロン・リチャーズ(ブルッカーにとってはザ・パラマウンツ時代のプロデューサー)が、プロコル・ハルムにEMIのアビー・ロード・スタジオで最新の8トラック・テクノロジーを使って、彼らのサード・アルバムを制作する機会をオファーした。その結果、バンドはそこで『A Salty Dog』のレコーディングを続けることを採択した。

フィッシャーが指揮をとり、アビー・ロードの伝説的エンジニア、ケン・スコットが巧みに援助にまわった『A Salty Dog』のセッションは、1969年1月に本格的に始まった。

英国の音楽プレスから満場一致の賞賛を受けたのち、ケン・スコットは‘1969年のベスト・スタジオ・エンジニア’として、ミュージック・ウィーク誌によって引合いに出された。そしてこの引用は『A Salty Dog』での彼の仕事に言及していた。

ケン・スコット:「私は『A Salty Dog』に対する賞(ボーナス)は何ももらわなかったんだ。いっておかなくてはならないのは、正当に評価されなかったというわけではないということだ。当時のEMIスタジオは、彼らの作品にエンジニアのクレジット表記を望んでいなかったんだ。よって賞はなしだ。それでもタイトル・トラックのレコーディングは今でも私のお気に入りの1つだし、自分の中ではベストの1曲だ」


その時USAでは


『A Salty Dog』のトラックが初めてライヴで演奏されたのは、1969年4月6日にカリフォルニアで行なわれたパーム・スプリングス・フェスティヴァルでのことだった。その時、彼らはティモシー・リアリー(米心理学者:ヒッピー文化の教祖的人物)によってオーディエンスに紹介された。とりわけオーディエンスが見に来ていたのは、アイク&ティナ・ターナーとジョン・メイオールのブルースブレイカーズだった。ついには警察のヘリコプターと機動隊が動員され、分散させられるほどの手に負えない大観衆だった。

カナダで『A Salty Dog』がデビューを飾ったのは、6月22日のトロント・フェスティヴァルだった。そこでプロコル・ハルムはザ・バンド、チャック・ベリー、ステッペン・ウルフ、そしてブラッド・スウェット&ティアーズとともに、50,000人のオーディエンスの前で演奏した。数日後、プロコルはビル・グレアムのフィルモア・イースト・シアターでザ・バーズを制してヘッドライナーを務め、6月27日と28日のその2バンドのパフォーマンスにおいて、『A Salty Dog』はニューヨークのオーディエンスを熱狂させ、バンドにとってはそれまでの中でいくつかのベスト・レヴューを受けることになった。

8月1日、プロコルはアトランティック・シティ・ポップ・フェスティヴァルで11万人のヒッピーの前でプレイした(ジャニス・ジョプリン、CCR、ザ・バーズ、BBキングなどと共演)。また彼らはウッドストック・フェスティヴァルの8月16日夜の出演を依頼された。もし彼らがそのオファーを受け入れていたら、プロコルはクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングのすぐ前の出演となっていたが、彼らはこの特別な仕事を引き受けないことに決め、イングランドに戻った。ロビン・トロワーの妻アンドレアが8月中旬に出産予定となっていたためだった。あいにく出産は2週間遅れてしまったが。

ロビン・トロワー:「もし僕たちがウッドストックでプレイしていたら、僕たちの人生は全く違ったものになっただろうと思う。世界でもっともビッグなバンドの1つになっていたかもしれないね!」


その時UKでは


英国での『A Salty Dog』のレヴューはどれもが称賛していた。メロディ・メーカーのクリス・ウェルチは「プロコルの黄金時代」と評した。これは初夏の2つの特別なUKギグで、そのことを裏づける力をバンドに与えた。『A Salty Dog』はプロコルがヘッドライナーを務めるロンドンのライシーアム・ボールルームで行なわれた‘ミッドナイト・コート’で初めてプレイされた。またプロコルはハムステッド・ヒースでのカムデン・フリンジ・フリー・フェスティヴァルでも主役を務め、それを目撃したBBCのボブ・ハリスは指摘した―「太陽が沈むある穏やかな日…プロコルはすばらしいニュー・アルバム『A Salty Dog』からの強力なパフォーマンスとともに英国へ凱旋帰国した」

これらギグのあった数週間内に、ハモンド・オルガニストのマシュー・フィッシャーとベーシストのデイヴ・ナイツがプロコル・ハルムを脱退した。フィッシャーは4枚目のアルバム『Home』のレコーディング・セッション(のちに破棄)のために短期間戻ってきたが、今回はプロデューサーのみの担当だった。ナイツはサウスエンドのヴァーティゴ・レーベルのグループで、ミッキー・ジャップをフィーチャーしたレジェンドをマネジメントするために去って行ったが、1971年に永遠に音楽業界から身を引いた。

もともとUKでは1969年6月にリリースされた『A Salty Dog』は、初めてUKチャートに入ったバンドのアルバムで、7月に最高位27位に達した。アルバムのモノ・ヴァージョンは、ブラジルといった海外領でリリースされ、大西洋の向こうでは(ステレオ・)アルバムがビルボード・ホット100の32位に達した。

当時のキースの妻ディキンソンによるカヴァー・アートは、英国のタバコ、‘プレイヤーズ・ネイビー・カット’のパッケージのパロディだ。今ではロック史における最高のスリーヴ・デザインの1枚としてみなされ、その手のアルバム・カヴァー集では必ず登場する。


A SALTY DOG:各曲について


この拡大版は1969年のUSツアー中に録音された未発表のライヴ音源をフィーチャーしている。それはこの特別なラインナップによるバンドのライヴ・パフォーマンスのピークを示している。

A SALTY DOG
ロビン・トロワー:「セッションの中で一番記憶に残っているのが、このタイトル・トラックだ。ゲイリー・ブルッカーが作曲とオーケストレーションを担当した。本当にうまくいったね。彼の傑作さ!」

マシュー・フィッシャー:「この曲はすばらしいオーケストレーションをフィーチャーしている。1968年の夏の初めに僕たちはビー・ジーズといっしょにドイツ・ツアーをしていて、彼らはオーケストラをバックに従えていた。僕はゲイリーが“A Salty Dog”を書いていた時に、そこのヴィオラ・プレーヤーが彼に助言していたのを覚えている。結局彼の傑作となった。プロコルの‘市民ケーン’だと思う!」

ケン・スコット:「ストリング・セッションで私が覚えているのは、ゲイリーが指揮棒を振っていたことだ。オーケストラはロックンロール‘ロング・ヘア’に率いられて、すごくあっけにとられていたね」

クラシックの正統教育を全く受けてこなかったのに、ゲイリー・ブルッカーがこのような美しく複雑なスコアを書くことができ、それでいて簡素に組み立て流れるように作ったことを人は驚くだろう。

これはたしかにプロコルの大傑作であり、“A Whiter Shade Of Pale”と同じように、いくつか興味深いカヴァー・ヴァージョンを生み出した。ビリー・ジョエル、サラ・ブライトマン、マーク・アーモンド、そしてヤン・アッカーマン(オランダのグループ、フォーカスのギタリスト)といった多様なアーチストたちが“A Salty Dog”をカヴァーした。レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジもまた大ファンだった―「僕が思うに、“A Salty Dog”はプロコルの最高傑作だ」 彼は2004年2月に私にそう語った。

キース・リードによる歌詞は、オハイオ州クリーヴランドの楽屋に書かれていた落書きからきていた。キースは‘俺たちのGreat God Skip(高飛びの意か??)は座礁した(run aground)’という落書きを見つけ、それが‘僕たちは漂流した(run afloat)’という歌詞につながった。

UKではモノ・シングルとして5月にリリースされたが、44位で止まった。

THE MILK OF HUMAN KINDNESSはホンキー・トンク・スタイルのナンバーとして始まり、ザ・バンドを思わせる。クロウダディ誌のジャーナリスト、ポール・ウィリアムズは、プロコルのセカンド・アルバム『Shine On Brightly』のライナー・ノーツの中で、ザ・バンドのデビュー作『Music From Big Pink』はプロコルのデビュー・アルバムから‘影響を受けた’として言及していた。そういうわけで、これはブルッカーによるザ・バンドへの返礼のように見える(このCDのボーナスとして、この曲のすばらしいテイク1が未加工のまま入っているので聴いてみよう)

TOO MUCH BETWEEN USはトロワ―/ブルッカー/リードのコラボレーションによる繊細なアコースティック・ナンバーだ。これはゲイリー・ブルッカーの最高に感受性の鋭い声をフィーチャーし、シンガーとしての彼の多才な面を示している。その歌詞は‘僕たちの間に大きく広がる海’という表現を用いていて、この作品はアルバムの中で海をほのめかす4つの歌のうちの1つである。そのために、ある評論家は誤って『A Salty Dog』を‘海に関するコンセプト・アルバム’と考えた。

THE DEVIL CAME FROM KANSASはこの時期のプロコルのショーで必ずプレイされるようになった。これはブルッカーがウッドストックでホーナー・プラネット・ピアノを使って作曲した。彼は作曲するために、ツアーにそのピアノをもち歩いていた。プロコル通のファン、ローランド・クレアはいう―「ここで聞けるくつろいだスタイルは、プロコルがUSツアー中によくやっていたガース・ハドソン(ザ・バンドのメンバー)の家でのリハーサルに参加していたミュージシャンたちの影響が見えかくれしている。たとえばザ・バンドの他のメンバーやヴァン・モリソンのバンド・メンバーなどだ。このレコーディングではブルッカーの妻のフランキーとキース・リードがバッキング・ヴォーカルでフィーチャーされている」

この歌のいきさつについてキースはいう―「僕はいつでもランディ・ニューマンが好きだったから。“The Beehive State”っていう曲の入った彼のファースト・アルバムを買ったんだ。どこかの堕落した上院議員についての話が入っていた。その歌詞にこの曲は触発された」

BOREDOMはフィッシャー/ブルッカー/リードによるアップテンポ・ナンバーで、マリンバをフィーチャーしている―サウンド・エンジニアのケン・スコットがもちこんだ楽器だ。

ケン・スコット:「EMIにはいつもおもしろいものがそこいらに転がっていた。レコーディング・トラック(チャンネル)の数が増えるにつれて、いろんな実験ができるようになった」

マシュー・フィッシャー:「最初にアビー・ロードに入った時、僕はスタジオ・ワンの押入れの中をガサガサと物色したことを覚えている。僕はマリンバを見つけ出して、これは特定のナンバー(Boredom)に使ってみたらどうだろうかと考えて、試してみようと思ったんだ。このアルバムにはあらゆる楽器編成が存在している」

ケン・スコット:「マシューといっしょに働くのはとても楽だったね。他のメンバーもそうだった。全てにおいてすごく楽しいセッションだった。もっともなことだが、マシューはプロデューサーというより、バンドの一員として自分を見ていた」

最初に“Boredom”をカヴァーしたのは、1969年のカルト・アルバム『The Detroit Memphis Experiment』に収録したミッチ・ライダーだった。そこでライダーはプロコルのヒーローだったスタックス・レコードのブッカーT & The MG'sといっしょにプレイしている。忘れ去られたアーチストたちの中では、たとえばプログレッシヴ・ロックのティー&シンフォニー、フォーク・デュオのティア・ナ・ノグ、そしてアヴァンギャルド・ジャパニーズ・バンドのザ・ビートニクスらが、コンサートでこの歌を披露した。

JUICY JOHN PINKはロンドン、バーモンジーのサザーク・ストリートにあった昔のローリング・ストーンズのリハーサル・ルーム(今その建物はアート・ギャラリーになっている)でレコーディングされた。エンジニアを務めたのは、ローリング・ストーンズのオリジナル・ピアニストだった故イアン・“スチュ”・スチュワートだ。この12小節ブルースは、プロコルでのロビン・トロワー初のオリジナル作品で、彼の生涯のヒーロー、マディ・ウォーターズに触発されていた。のちにプロコルは1969年7月4日と5日に行なわれたミシガンでのソーガタック(Saugatuck)・ミュージック・フェスティヴァルで、ウォーターズと共演した。

WRECK OF THE HESPERUSはフィッシャー/リード作でマシュー・フィッシャーがリード・ヴォーカルだ。これはフル・オーケストラをフィーチャーした2番目のプロコル・ナンバーで、初披露は1969年7月6日のカナダ、オンタリオでのストラトフォード・フェスティヴァルだった。結果的に、プロコルがストラトフォード・フェスティヴァル・オーケストラといっしょにこれをプレイした時に、彼らはオーケストラといっしょにプレイした初のロック・バンドとなった。ディープ・パープルはその年暮れのアルバート・ホールでの壮大なショーによって、オーケストラと共演した2番目のロック・バンドとなった(脚注参照)。

ALL THIS & MOREは1971年に再録音され、翌年リリースされた『Live In Concert With The Edmonton Symphony Orchestra』に収められたブルッカー/リード作の古典だ(脚注参照)。

ジョージ・ハリソンは“All This & More”のゲイリー・ブルッカーの作曲能力と、特に彼のピアノに感銘を受けた。ハリソンはビートルズの1965年12月の最後のUKツアーで、10代だったブルッカーのバンド、ザ・パラマウンツがビラの一番最後に載っていたことを覚えていた。ハリソンは『A Salty Dog』リリース直後、彼のアルバム『All Things Must Pass』でピアノを弾いてもらえないかとゲイリー・ブルッカーに依頼した。

CRUCIFICTION LANEはことばによる巧みなプレイだ。タイトルは前述のサザーク・ストリートに隣接するクルーサフィクス・レーンといわれるバーモンジーの道からきている(“Juicy John Pink”参照)。トロワ―による初のヴォーカルは‘そしてもし海がそんなに塩辛くなかったら’という歌詞で海に言及している―英国と米国が混じり合ったスタイルの非常にブルージーな表現だ。

PILGRIM'S PROGRESSはフィッシャー/リード作で、忘れられない讃美歌のような雰囲気がある。最後のフィル・スペクター風のベル含め、ここでは事実上プロコルのオルガニストが歌とプレイ全てを担当している。フィッシャーはのちにコメントしている―「個人的にはこの歌は過大評価されていると思う。メロディに関してはOKだね。音楽的には、ビー・ジーズに影響を受けて書いた(1968年夏にプロコルはいっしょにツアーして回っていた)。

ゲイリー・ブルッカー:「“Pilgrim's Progress”はアルバムの中で一番、レコーディングするのに手間取ってしまった」

プロコルはフィッシャーがバンドを去ってから約3年たった1972年までこれをプレイし続けた。ブルッカーは1971年のクリスマス・イヴに放映されたドイツのTV番組‘ビート・クラブ特別版’で、この歌のすばらしいヴァージョンを披露した。

ボーナス・トラック


LONG GONE GEEKは銃をもったぶちネコについての物語だ。ゲイリー・ブルッカーは終わり近くでオフ・マイク気味に‘プロコル・ハルム!’と叫んでいる―そもそもバンド名にインスピレーションを与えたバーミーズ・ブルー・キャットへの遠回しの言及であることはもちろん、彼は歌詞の中でそのネコへなぞめいた言及を行なっている。

“A Salty Dog”のB面だった“Long Gone Geek”は、1967年秋に初めてアメリカへ旅立つ前のキース・リードの日々を歌っていた。彼はディランの『Highway 61 Revisited』から‘Geek’ということばを見つけた。彼による、独房15号室の囚人のキャラクター‘ピンストライプのスウィート’は、すでにファンによって“A Whiter Shade Of Pale”のB面だった“Lime Street Blues”のブルッカーの最後の叫びでよく知られていた。

マイク・オーバの著書『Then Play On』に載っている1992年のインタビューで、マシュー・フィッシャーはいっている―「音楽的には“Long Gone Geek”はスモール・フェイシズに影響を受けた1曲だった」

GOIN' DOWN SLOW(1969年4月USAライヴ)
ハウリン・ウルフ作の有名なブルース・スタンダードで、1969年のUSツアーでは必ずプレイされた。このヴァージョンはバンドの猛烈なアンサンブルを示している。

トロワ―のギブソン・ギターは火を噴き、一方でブルッカーは自身のスタインウェイ・グランド・ピアノによるすばらしいブルース・プレイに完璧なヴォーカルを乗せている。

JUICY JOHN PINK(1969年4月USAライヴ)

CRUCIFICTION LANE(1969年4月USAライヴ)

SKIP SOFTLY (MY MOONBEAMS)/ALSO SPRACH ZARATHUSTRA(1969年4月USAライヴ)

これはゲイリー・ブルッカーが60年代後半にプレイした時に、よく遊び半分の実験を試みていた歌だ。現存するライヴ・テープから掘り起こされたこのヴァージョンは、切れ目なくリチャード・シュトラウスの“Also Sprah Zarathustra”に突入する―スタンリー・キューブリックの長編映画『2001年 宇宙の旅』(1968)の‘スター・チャイルド’の場面でかかる有名な終幕テーマだ。またオルガンでプレイされるハチャトゥリヤンの“Sabre Dance(剣の舞)”は、『Shine On Brightly』(SalvoCD018)でリリースされたヴァージョンのエンディングに向けたほのめかしがある。“Sabre Dance”のカヴァー・ヴァージョンは、ギタリストのデイヴ・エドマンズのバンド、ラヴ・スカルプチャーが1968年11月にUKチャートの5位に送り込んだが、プロコルは先手を打ってカヴァーしていた!

THE MILK OF HUMAN KINDNESS(テイク1:バッキング・トラック)

バンドのレコーディング・プロセスを示す好例。テープ・ボックスには1969年1月31日、テイク1と書かれていた。

脚注

オーケストラの試み

1969年にカナダのオンタリオ州で行なわれたストラトフォード・フェスティヴァルで初披露された『A Salty Dog』のオーケストラ起用に続いて、プロコルのオーケストラの試みは1970年代に入ってからも大いに続けられた。プロコルは1971年11月にクリサリス・レコードのアルバム『Live In Concert』のために、初めてエドモントン・シンフォニー・オーケストラとともにライヴ録音された。プロデューサーはクリス・トーマス、エンジニアはウォリー・ヘイダーだった。また彼らは1973年にアメリカでネットワーク放送された‘キング・ビスケット・フラワー・アワー’のためにライヴを行なった。その時グループは、ロサンジェルス・フィルハーモニック・オーケストラとともにハリウッド・ボウルで実況録音された。彼らは以前、ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ及びロンドン・コラールとともに、1972年9月22日にロンドンのレインボー・シアターでプレイしていた。その後、1972年暮れにDas Orchester Der MuencherとDer Toelzer Knabenchorとともにドイツ・ツアーを行なった。

以来、プロコル・ハルムは多くの名高いオーケストラとともにプレイしてきた(1992〜2006年)。注目すべきショーが、エドモントン・シンフォニー・オーケストラとの1992年の再共演だった―これはテレビ放送された。もうひとつが1996年2月8日、ロンドンのバービカン・シアターでのロンドン・シンフォニー・オーケストラとの初共演だ。バービカン・ショーは後世に伝えるべく録音され、以来バービカンの保管室に収まっている。

バービカン・ショーは私自身の努力の直接の結果として実現したものだった。私はLSO(London Symphony Orchestra)の(当時の)責任者はもちろん、(当時の)バービカンの管理人グレアム・シェフィールドと連絡をつけた。LSOの責任者はもともと、プロコルが1972年のレインボウ・シアターで初めてロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラと共演した時のリード・ヴァイオリン・プレーヤーだった。


ヘンリー・スコット‐アーヴィン 2009年1月16日

ヘンリー・スコット-アーヴィンはまだリリースされていないDVDドキュメンタリー『プロコル・ハルム・アンソロジー』の監督/プロデューサーである。このライナー・ノーツに使われた全ての引用は彼の著作権に準拠し、彼の承認表明なしに転載することはできない。


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