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The Prisoners/In From The Cold/2002 Ace Records Ltd CDWIKM 221



1985年暮れ、プリズナーズがカウントダウン・レコーズと契約するまでに、彼らはおよそ5年間の活動と3枚のアルバム、そして一握りのシングルとEPをリリースしていた。彼らはカルト的な支持者を生み出し、今日その支持者たちが母体となってチャート上に現れるようになったのである。彼らの起こした現象―ぎゅうぎゅう詰めのギグはのちに続く多くのミュージシャンたちをインスパイアした。例えばシャーラタンズのティム・バージェスが2001年初め私に語ったのは、彼が1980年代にハマったバンドはたったの二つであり、それがNew Orderとこのthe Prisonersだったそうだ。エド・ピラーもこの二つは典型的なグループではなかったと似たようなことをいっている。ラジオ1のDJ、Steve Lamacqは彼の執筆した音楽書“Going Deaf For A Living”の中で、1章をプリズナーズに割いている。

しかしながらグループは全くのインデペンデントであったし、80年代はメインストリームに行かずとも十分活動を持続できる時代であった。ベーシストのアラン・クロックフォードがいうには、それくらいのレベルでこそ彼らは完全に活動をコントロールできたし、それ以上のレベルになると自由を奪われていただろうということだ。そう、1985年までは前進するか全くストップするかのどちらかであった。

カウントダウン・レコーズはエド・ピラーとマキシン・コンロイ(現在はフォレスト)が長年の仲間だったテリー・ロウリングスの助けを借りて経営していたレーベルであった。ピラー―彼は続いてAcid Jazz Recordsを経営した。1990年代において最も重要な独立レーベルのうちの一つだ。彼はプリズナーズの長年のファンであり、彼らのギグには必ず顔を出していた。この追っかけはメンバーと友人同士になり、そして自分のいったことに対し実際に行動する人間であった。スティッフ・レコーズが資金を出し、時のインデペンデント・レーベルとなったカウントダウンはプリズナーズにとってさらなる飛躍となるに相応しかったはずだった。

しかしもちろんそうではなかった。それは全く単純なことであった。ザ・プリズナーズは断じて妥協を許さないバンドだった。それまでの2年間、彼らはAce傘下のBig Beatレーベルと契約していた。アランによればビッグ・ビートがプロデューサーを用意するなどのやり方をバンドは気に入らなかったらしい。そしてカウントダウンのやり方もそういった古くさい手法によってヒットを出そうとしていたレーベルであった。あるいはビッグ・ビートよりもっとその傾向が強かったのかもしれない。

スティッフのオーナー、デイヴ・ロビンソンの提案を受け入れたプリズナーズは、プロデューサーのトロイ・テイトと組むことになった。彼らは自らプロデュースした前作“The Last Fourfathers”(訳注:厳密にはプロデュースしたのはミルクシェイクスの旧友ラス・ウィルキンス)に入っていた‘Whenever I’m Gone’を再レコーディングするためにスタジオ入りした。このヴァージョンは生のバンド・サウンドが捉えられ、ラジオでかかりやすくするためにテイトはホーンを加え、よりサウンドに厚みを出した。バンドは自分たちが違う領域に入っていたことを感じていた。“嫌なことを受け入れる必要もあったけど一方では‘なんてこった、これはオレたちじゃない’ってちょっと思ってたね。”クロックフォードは回想する。

ここで我々は一つの大きな問題に突き当たる。バンドは自分たちが気に食わないレコードを作り始めていたということだ。今でもなおグレアムとアランはラフで手早くてライヴなレコーディングを好んでいる。彼らがそういったやり方でない方法でレコーディングした時―ビッグ・ビートのアルバム(“The WiserMiserDemelza”)、グレアムが90年代半ばにやっていたバンド、Planetのアルバム、そしてあるいはこのレコードが最も顕著なのかもしれないが、バンドはこれらのレコードは自分たちの作品とはいえないと主張する傾向にある。しかしながら実際このレコードは、当時展開されていた60sポップの80年代的解釈であった。他のUKあるいはUSバンドが同じようなことに挑戦し、大量に作り出されていた作品と同じくらいよい出来だ。もし例えばプライマル・スクリームのデビューLPと比べるなら、彼らはそこでバーズかラヴを目指していたし、ロング・ライダーズも同様だ。楽曲のクォリティとスティーヴ・マリオットに影響を受けたグレアムの高揚するようなヴォーカルは受け継がれていったのだ。

しかしながらこれは彼らがロンドンのHoxton SquareにあるBass Clefの地下にあったウェイヴ・スタジオでテイトとレコーディングし始めていた時に意識していたことでは全くない。テイトはプリズナーズが好むやり方とは正反対に、まずバッキング・トラックばかりをレコーディングしていくことにした。アランは完璧なテイクを録るためにとりかかった1週間のドラムのレコーディングを覚えている。バンドが考えていた有機的なレコーディングの仕方と正反対であった。レコーディングの初めに、テイトによってバンドの契約金とレコーディング予算を使ってヴィンテージ機材、ハープシコード、ヴィンテージ・ギター、メロトロンそして2つのレズリー・スピーカー付きのハモンドC3が持ち込まれた。時代物のハープシコードがやってきたが、使われることなく2日間スタジオに置きっぱなしになりレンタル費用はかさむばかりだった。

不思議なことにテイトはアルバムの半数以上を録り終えた時点でも、バンドのライヴを一度も見たことがなかった。彼はバンドのポイントをドラムに置いていた。この時までにプリズナーズとテイトは絶え間ない口論のさなかにあった。‘Mourn My Health’のレコーディングにラッセル・ウィルキンスを共同プロデューサーとして立てることをバンドは主張したが却下されてしまった。彼らはこの曲をアルバム中ベストだと評価していた。ウィルキンスは以前バンドのレコーディングやアルバムのデモ作成で一緒に働いていた(プロデュースを離れても)。

バンドの危惧はあったにもかかわらず、アルバムはそのような情況でうまく進んでいった。プリズナーズはどうやってレコーディングしようと水準以下の音楽を作るには、はるかに良すぎるバンドだった。それ以上にバンドはグレアムというひときわすぐれた絶頂期のソングライターを抱え、‘Mourn My Health’、‘Wish The Rain’そして‘Whenever I’m Gone’はしっかりとファンの心をとらえていた。

アルバムはリリースされ、さらに混沌としていった。バンドはアルバムを失敗作とみなし、あるインタビューではレコードを買わないよう宣伝する始末だった。レーベルのボス、エディ・ピラーは、これはサイコビリー・シーンの最先端にいる異端派としてスタートしたバンドの典型的なリアクションであり、モッド/60sリヴァイヴァルの旗手としてレッテルを貼られることを断固拒否したのだと考えていた。“まるで彼らはファンを憎んでいるかのようだった。”さらに悪いことにその時スティッフ・レコーズが倒産の危機に直面していた。これはアルバムがリリースされて6週間後のことだ。バンドとカウントダウンにいた者たちは、ファースト・プレス分が2週間後に欠乏状態となったが、スティッフの手元にはさらなるプレス分の費用はなかったことを覚えている。

これは事実上プリズナーズの終わりであった。彼らはラモーンズと共にいくつかのギグをツアーして回ったが、アランは今までよりもいいライヴだったと回想している。しかし彼らの最後の賭けはあっけない尻すぼみになるのは明白だった。彼らは店を閉める前にもう一度だけスタジオに戻り、最後の2曲をレコーディングした。アランのいう“自殺表明”である‘Pop Star Party’は、スティッフの状態にあてつけたナンバーであり、‘Happiness For Once’はアランとグレアムの次のバンド、Prime Moversの原型を聴くことができる。‘Pop Star Party’は怒りのエネルギーに満ちた火を吹くようなナンバーだ。これらトラックはカセットからマスタリングされ、最終的にアルバム“Rare and Unissued”に収録されリリースされた。

‘Pop Star Party’にあった欠損部分はエンジニアがなんとか古いリール・テープにリーダー・テープを重ねてマスタリングした。このCDに収録するために、我々はウェイヴ・スタジオに眠っていたマスター・テープを掘り起こした。それは1994年終わりにAcid JazzがBass Clef(Blue Noteナイトクラブに変えるため)を買い上げた時だ。彼らはまた全ての備え付け設備と付属品も含めて買っていた。多くのマスター・テープが箱に投げ込まれ、その年の終わりまで、つまりプリズナーズのリール・テープが発見されバンドに返却されるまでかえりみられることはなかった。そして今回初めて我々はトラックが最初から最後まで完奏された首尾一貫した編集を行なうことができた。

ドラマーのジョニー・シモンズを除き、残りのメンバーは今日も音楽を作り続けている。ジェイムス・テイラーはジャズ、ファンクそして映画音楽に傾倒し自身のカルテットを結成、世界をツアーして回っている。アランはそのジェイムスの元々のカルテットに在籍していた。のちにプライム・ムーヴァーズで共に活動したビリー・チルディッシュとグレアムは、最近ザ・ソーラーフレアーズとして活動している。ソーラーフレアーズはプリズナーズの音楽の拡大版であり再現である。彼らはサード・アルバム“Look What I Made Out Of My Mind”をビッグ・ビート(CDWIKD 220)からリリースしたばかりだ。

Dean Rudland 2002


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