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The Prisoners/The Last Fourfathers/2003 Ace Records Ltd CDWIKM 223



UKと聞いて連想させるものといえば熱さに欠けるということだ。熱気を求めるならスペインがいい。しかしもちろん、オックスフォード・ストリートに50年以上も居座っている100クラブに関してはこれは当てはまらない。12月に行なわれるギグの熱気は、さながらもがきながら外に出て通りの空気を吸いたくなるほどだ。1986年のうららかな夏、満員の聴衆がプリズナーズの圧倒的なパワーを観るために100クラブに詰めかけ、そこは少し不快な場所となっていた。しかしグループの最新アルバム、“The Last Fourfathers”は聴衆の心をつかみ、もうすぐ次のアルバムが出ようとしていた。不平は言えまい。それどころかみな熱気とビールを吸い込みバンドの脈打つサウンドとグレアム・デイの強力なヴォーカルを今か今かと待っていた。ロンドンで何か若さと音楽に触れようと思うならこういうイヴェントこそ相応しいだろう。

80年代初頭はUKインデペンデント・シーンにとってぞくぞくするような時期であった。多くのレーベルが生まれ70年代終りのパンク/ニュー・ウェイヴ旋風のもとで存分に活動していた。セールス的にはもはや微々たるものであったが、依然そこには力強いインデペンデントの基盤が存在していた。メーカーのMaykingと配給会社のラフ・トレードはプリズナーズのデビュー・アルバム、“A Taste Of Pink”を500枚の自主制作盤から完璧なカルト・アイテムへと押し上げていた。ラフ・トレードは彼らのレコーディングと次作のリリースに関わったレーベルのうちの一つだった。

“A Taste Of Pink”は学校に通っていた仲間たちが作ったどたん場の1枚であった。バンドはキーボード・プレーヤー、ジェイミー・テイラーの大学進学によって見る影もなく消え去ろうとしていた。ところがジェイミーは1週間以内に学校をやめ再びバンドに戻り、1982年の秋にはメドウェイ地区でギグを再開していた。翌年の初め“A Taste Of Pink”の成功とバラクーダス、ミルクシェイクス両バンドの寛大な計らいによって、彼らは初のロンドンでのショーを行なった。ミルクシェイクスはイズリントンのパブ、Hope & Anchorのレギュラー・バンドであったが、プリズナーズがこの旧友たちのサポート・アクトを務めていた時にパブのオーナー、“Big John”が彼らを気に入りレギュラーとして出演しないかとオファーを申し出た。これがきっかけとなりプリズナーズはステージと聴衆両面においてさらに発展していくことになった。

およそこの頃―これに関してはみなの記憶はあやふやなのだが―バンドはBig Beatレコーズの目に留まった。ビッグ・ビートはChiswickレコーズを設立した青年たちが別に始めた新しいレーベルであった。この時にはチズウィックはAceレコーズ傘下に入っていた。レーベル・ディレクターのテッド・キャロルとロジャー・アームストロングはなおも新しいバンドのレコード・リリースが必要だと感じていた。しかし彼らはまたメインストリームでの活動はチズウィックでやり遂げていたとも感じていた。率直にいえば彼らはそれ以上の活動は必要としていなかったのである。ビッグ・ビートはプリズナーズと一回限りのシングルとアルバムもしくはEPの契約を交わす用意があったが、その主旨はロックンロール・スピリットであり、つまらないミュージック・ビジネスの中で動きがとれなくなるような音楽ではなかった。ビッグ・ビートが彼らと契約したのはおそらくプリズナーズがそのレーベルと深いつながりのあったミルクシェイクスとすでに交流があったため注意をひきつけたからだろう。

その年の終わりまでにセカンド・アルバム、“The Wisermiserdemelza”とその収録曲でもあったシングル‘Hurricane’がリリースされた。ビッグ・ビートはバンドのためにプロデューサーといくつかのプロモーションを兼ねて契約した。後者についてはバンドに歓迎されたが前者はそうでもなかったのだが。この過程でバンドはPhil Chevronの参加についてはかなり冷静な態度をとっていた。この時彼らはフィルはバンド・サウンドをうまく引き出せず洗練させてしまったと感じていた。しかしながら難解な耳を持っていない限り、レコードから飛び出してくるサウンドには活気と多くの魅力的なフレーズが詰まっていた。それはとりわけ強力なシングル、‘Somewhere’についてよく当てはまる。

バンドがミルクシェイクスのRussell Wilkinsと共にEP、“Electric Fit”のレコーディングのためにスタジオ入りした時、彼らはよりリラックスした状態で臨んでいた。EP収録の‘Melanie’と‘Last Thing On My Mind’は独特なメドウェイ・ガレージ・ロックの持つ血によって突然変異を起こした古典的な60sサイケ・ロックを喚起させるものがある。ビッグ・ビート時代のバンドはチャンネル4の音楽番組The Tubeに出演したことによって最高点に達していた。その番組で彼らはミルクシェイクス、スティングレイズそしてトール・ボーイズと共に出演し、‘Reaching My Head’を演奏した。これはビッグ・ビートのコンピレーションEP、“Four On 4”によって永遠に残るものとなった。

ほぼ20年間に渡ってみなが共通して感じること―それは(またもや)機を逸したということだ。バンドは次のアルバムを自身のOwn Upレーベルから出すことを決めた。ツアーは継続されていたが、このことはバンドがステージで曲を磨き上げ、一刻も早くスタジオ入りしレコーディングしたいという欲求につながっていった。彼らは再びRussell Wilkinsをプロデューサーに迎え、シアネス(ケント州テムズ河口)のWooleyスタジオでのおよそ60時間のレコーディングに臨んだ。このアルバムでは決定的な変化が起こった。ジェイミーが初めてハモンド・オルガンを使用したのだ。偶然にもスタジオにはもともとハモンド・レズリー・スピーカーが置いてあり、オルガンに使うだけでは満足せず、彼らはこの装置をレコーディング中、様々な楽器、場面で応用し楽しんだのである。

音楽的観点からいってより重要なのはバンドが受けた新しい影響だ。それは明らかに初期のディープ・パープル、アーサー・ブラウン、スモール・フェイシズであり万事間違いなしであった。ビッグ・ビートと契約した頃、グレアムはAdy Croasdell(音楽ジャーナリスト)によって編纂されたKentレーベルのソウルのLPを集めていた。これらのことが次に続く彼らの2枚のアルバムに反映されることになった。

出来上がったアルバムはバンド自身のフェイヴァリットとなった。重要なオープニングはグレアムとビリー・チルディッシュ二人の手による‘Nobody Wants Your Love’だった。アルバムはフリーク・アウトしたインストゥルメンタルといくつか奇妙なエフェクトの中で、今にもバンドのアンセムとなりそうなナンバーが続いていた。‘Whenever I’m Gone’、‘Nobody Wants Your Love’そして‘Who’s Sorry Now’はレコード、ステージでもファンのお気に入りナンバーであった。アルバムは最初から最後まで全開のバンドぶりを伝えていたし、1985年か86年に彼らを観ることのできたファンはラッキーというしかないだろう。

このCDにはその記憶を呼び覚ますような曲目リストがある。我々はこの頃を伝える2曲のライヴ・トラックを見つけ出したのである。どちらも1986年夏100クラブで録音されたものだ。‘Nobody Wants Your Love’は彼らの過激なライヴ・パフォーマンスがよく分かるようなプレイだ。ジョー・サウスのカヴァー、‘Hush’は完全に別物になっているが、私が今まで見た中でベスト・ライヴ・カヴァーのうちのひとつだ。そしてこれはバンドのレパートリーの決定的瞬間でもある。もちろんバンドはサウスのオリジナルをカヴァーしたのではなく、ディープ・パープルのヴァージョンだ―これは1968年USトップ5に入るヒットとなった。しかしプリズナーズのこれは単にライヴを盛り上げるためにプレイされた。正式なリリースはなかったがなかなか素晴らしいヴァージョンだ。もしクーラ・シェイカーのメンバー(90年代半ば彼らは‘Hush’をUKでヒットさせた)がこれを知らなかったとすれば、それは驚くべきことだ。

1985年暮れ、バンドはスティッフ傘下のカウントダウンからのリリースとなるアルバムのためにスタジオ入りした―ここからのストーリーは“In From The Cold”(Big Beat CDWIKM 221)を読んでみてほしい。‘All You Gotta Do Is Say’、‘More I Teach You’そして‘Wish The Rain’がカンタベリーのオークウッド・スタジオでレコーディングされた。残りの曲に関しては、荒っぽいエッジを出すためにベースとドラムスを彼らのリハーサル・スタジオでレコーディングし、最後にRussell Wilkinsと共にWooleyスタジオに戻って仕上げた。そこにはバンドのさらなる前進が見てとれる。新曲はよりタイトに、ザ・プリズナーズは大きな成功を求めて大きな一歩を踏み出そうとしていた。

Dean Rudland, 2003


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