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The Prisoners/TheWiserMiserDemelza & 7/1990 Ace Records Ltd. CDWIKD 937



ザ・プリズナーズの創立メンバー、グレアム・デイ、アラン・クロックフォードそしてジョニー・シモンズ(それぞれギター/ヴォーカル、べース、ドラムス)は、1980年1月全員がナイーヴな16歳の時にバンドを結成した。彼らのレパートリーはほとんどがR&Bとソウルのカヴァー、それにおまけとしてグレアム・デイによるオリジナルが数曲であった。バンドはオルガンのジェイムス・テイラーが加入するまではそれほど本気で活動してはいなかった。彼らは8ヶ月間ホームであるケント州でライヴを続けたが、事はうまく運ばず意気消沈してしまった。1982年8月、彼らは自分たち自身でケント州Herne Bayのオークウッド・スタジオを1日半押さえた。それは彼らの熱心なファンと彼ら自身への別れのレコードであり、記念品としてであった。完成したアルバム“A Taste Of Pink!”は、1982年9月彼ら自身のレーベルであるOwn Upレコーズからリリースされた。バンドはレコードのプロモーションのためにいくつかのライヴを敢行したのち解散することにした。

ところがレコードはどんどんと売れ始め、ライヴのオファーが次々と舞い込んでくるようになった。彼らはロンドンのライヴ・ハウスへ進出し、仲間のメドウェイ出身グループ、ミルクシェイクスのサポート・アクトとして一連のライヴを行なった。そしてすぐに自らもヘッドライナーとしてそれぞれの会場と出演契約を結んだ。そのうちの一つ、イズリントンのThe Hope & Anchorにおいて、彼らはフランスのレーベル、Skydogにアプローチを受けた。そのレーベルは今までオファーした2回の契約内容よりもよい条件を提示してきた(今回で3度目のオファー)。新しくレコーディングされたシングル、“There’s A Time”/“Return Of The Cybermen”は1983年3月にリリースされた。同時にグループはヨーロッパ・ツアーを開始し、本国ではレコード契約がないにもかかわらずヨーロッパでは大きな成功を収めた―本国で“A Taste Of Pink!”がよく売れたことを考えればこのことはとても奇妙な現象に思える。

ビッグ・ビート・レコーズのロジャー・アームストロングは82年の暮れに彼らがミルクシェイクスとライヴをした時に観ていたが、しばらくの間プリズナーズを見守っていた。彼はバンドが進歩するのを待っていたのだ。そしてついに彼は83年の秋に動き出し、プリズナーズと短期間契約を交わしたのである。バンドはすぐにプロデューサーのPhilip Chevron(のちにポーグスに加入)を迎え、イーストボーン(イングランド南東部)のI.C.C.スタジオを押さえた。レコーディングされたのはセカンド・アルバムとなる“The WiserMiserDemelza”とニュー・シングルの“Hurricane”/“Tomorrow She Said”で、これらは1983年8月にリリースされた(訳注:おそらく契約を交わしたのは82年秋の間違い)。

メロディ・メーカーはアルバムをこう評した。‘煮えたぎった聴衆の中で踊るのに最高に猛烈で独創的な音楽である。’評論家はみな“Hurricane”とブラス入りの“Tonight”を傑出したトラックとして絶賛した。バンドはさらにヨーロッパのほとんどをツアーして回り、続いてビッグ・ビートからのEP、“Electric Fit”のレコーディングとリリースとなった。プロデュースを担当したのはミルクシェイクスのベーシスト、Russ Wilkinsだった。彼は洗練されたChevronのサウンドよりももっと生で力強いサウンドに仕上げた―これは前進か後退かの様々な意見を生んだ。もちろんファンはリリースと同時に買ったわけだが。誰が“Melanie”のレコードを買わずにいられようか?

プリズナーズは海外ではテレビ出演によって知られていたが、彼らのUKでの初テレビ出演はチャンネル4の‘The Tube’で、そこで彼らは友人バンドのミルクシェイクス、The Sting-raysそしてthe Tall Boysらガレージ・バンドの中のひとコマとして“Reaching My Head”を演奏した。その時に演奏された曲はビッグ・ビートのコンピレーションEP“Four On 4”に収録された。この頃レコード会社はアルバムのマテリアル・ライセンスをアメリカのレーベル、Pink Dust(Enigma傘下)に貸し出していた。そのピンク・ダストが出したLPが“Revenge Of The Prisoners”だ。そこにはEP“Electric Fit”とセカンド・アルバム“WiserMiserDemelza”の収録曲、“Coming Home”(別テイク)と“Love Changes”がフィーチャーされていた。この時までにビッグ・ビートとの契約は終了していたが、バンドがサード・アルバム“The Last Fourfathers”を自身のOwn Upレーベルから出すことには双方同意していた。そのニューLPは再びRuss Wilkinsのプロデュースによって1985年初めにリリースされ、NMEやサウンズ誌に好評裡に迎えられた。彼らは例によってその年の残りをアルバムのプロモーションのためにツアーで過ごした。ヨーロッパ・ツアーに出ていないときは英本国で平日休日関係なく、頼りになるヴァンに乗って英国中を回り、平均週5つのライヴをこなしていた。

この時点でプリズナーズはメジャーな成功を望んでいたが、メンバー間には意見の相違があった。グループの方向性、イメージつまりその懐古嗜好、そして金の問題に関してはひんぱんに議論があった。1986年1月、スティッフ傘下のカウントダウン・レーベルはかなりの契約金でオファーを申し出た。自身のレーベルに満足し、さらにヘヴィな音楽を志向していたグレアムとアランはサインに応じたくなかったが、ジェイムスとジョニーは契約することを主張した。つまるところこれはサインするかバンドが分裂するかの状況だったが、結局彼らはサインした。はっきりいって一か八かであった。

アルバム“In From The Cold”は版権、プロダクションの質、そして再び金の問題で議論になる中、1986年4月にリリースされた。しかしラモーンズのツアーにおいてスペシャル・ゲストとして出演するなど、音楽状況としてはベストな時期であった。またソングライティング面では初期のデイ中心からよりバンドとしてのコラボレーションが見られるようになっていた。

そしてカウントダウンはシングル、“Whenever I’m Gone”をリリースし、それを祝うために我々の大胆不敵なコンボは燃料満タンのヴァンに乗り込みロードに出たのである。しかし今度はギターまたはオルガンのヴォリュームに関して口論はさらに激しくなっていった。あるいは彼らのキャリアのうち最も軟弱なサウンドとなったレコードがそれをさらに悪化させたのかもしれない。1986年9月18日ザ・プリズナーズはオックスフォード・ストリートの100クラブで最後のギグを行なった。彼らは2つの新曲のレコーディングを終えていた。自分たちのレーベルが自腹を切って録音した当てこすり的な“Pop Star Party”と馬鹿げたサイケデリック・チューン“Happiness For Once”で、それらは彼らのベスト・ソングとして歓迎された。その2曲は懐古趣味的なHangman Recordsのアルバム、“The Prisoners−Rare and Unissued”で日の目を見た。

ザ・プリズナーズの終焉は悲しむべきものであった。彼らは間違いなくベストを尽くしたし、いくつかは現在の超ヒップなマンチェスターのグループ含め、明らかに多くのインスピレーションをシーンにもたらした。ジョニー・シモンズは大学で科学技術課程を修了し、現在は石油発掘現場で働いている。ジェイムス・テイラーとアラン・クロックフォードはジェイムス・テイラー・カルテットを結成、1988年1月ジェイムスはポリドールと契約、アランはバンドを去った。ジェイムスは2枚のアルバムで成功を収め、世界中をコンスタントにツアーして回っている。グレアム・デイはザ・マイティ・シーザーズでドラマーとして活動したあと(彼らの多くのレコーディング全てで叩いている)、ザ・ギフト・ホーセズを結成したが大した成果は残せなかった。しかし最近彼は再びザ・ヘッドコーツで活動していたアラン・クロックフォードとともにシーンに戻ってきた。プライム・ムーヴァーズという一見の価値あるバンドを結成するために。

Nick Garrard(March 1990)
グレアム・デイとアラン・クロックフォードへ感謝する


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