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The Prisoners/A Taste Of Pink!/2003 Ace Records Ltd CDWIKM 222



そこに何か興味をそそるロックンロール・バンドがいるとする。ちょっとだけの努力とギターがあれば我々は誰でもそのバンドに入るかそんなバンドを組むことができた。こういった“do it yourself”精神がギター・バンドの人気を持続させ、世間の注目がどこか他へ移っていったとしてもバンドはなおも生まれてくるのである。その頃、デトロイトや同地域出身のWhite StripesのようなUSバンドたちによる古典的なガレージ・バンド・サウンドは、全く過去の流行りとなっていた。それらバンド、メンバーたちはほとんど世に知られることもなくプレイし続けていたし、彼らは成功に頓着なく活動を続けていた。これと似た状況がロンドン郊外のメドウェイ・タウンに存在し、80年代初頭多くのバンドが生まれた。中でも有名なのがリーダー、Billy Childish率いるthe Milkshakesであったが、粗野な60sサイケとガレージ・サウンドのthe Prisonersもまた80年代の偉大な“失われた”バンドの一つであった。追加トラックの入ったこのユニークな彼らのデビュー・アルバム“A Taste Of Pink!”のリイシューは、最初期のデモ録音からより幅広いリスナーに向けてローカル・エリアから出るまでのバンドの発展を見せてくれる。

プリズナーズは1980年、アラン・クロックフォード、グレアム・デイ、そしてジョニー・シモンズがロチェスターで結成したスクール・バンドに端を発する。それはきわめてベーシックな編成であった―グレアムがギター、アランがベース、ジョニーがドラムスを担当し、パンクと60sミュージックをミックスさせ、自分たちの家でリハーサルを行ない、その間にわずかにギグもやったかもしれない。1981年、バンドはより真剣さを増しミルクシェイクスからセカンド・ギタリストとしてブルース・ブランドを加え、4人編成となった。その結果よりR&Bフレイヴァーあふれるバンドとなった。この編成は長くは続かなかったが、その年重要な発見があった。ソングライター、グレアムの声だ。

1981年暮れ(アランは11月と考えている)、バンドは3曲のデモ・レコーディングを行なった。それはこのCDに今回初めて収めることができた興味深いドキュメントだ。聴いてわかるとおり、やや荒っぽい激しさはあるもののバンドはトリオとしてタイトでパワフルな演奏をすでに披露している。未発表曲であった‘Talking Bout My Baby’は当時グレアムが最も大きく影響を受けたPretty Thingsを強く喚起させる。他の2曲、‘Don’t Call My Name’と‘Say Your Prayers’は“A Taste Of Pink!”で再録されることになる。もう1曲、初期のステージでのお気に入りナンバーで、今でもアランとグレアムが好きだという‘Lilac Reflections’はちょっとした発見だ。これは初期のギグを知らない者にとっては今回初めて聴くナンバーだろう。これらデモ音源はミルクシェイクスを思わせるところがあるが、そのバンドのラッセル・ウィルキンスがレコーディングに参加していたのである―彼はプリズナーズのキャリア全体に渡って時折関わっていたようだ。

1982年初め、プリズナーズはオルガンにジェイミー・テイラーを加え4人編成となった。ジェイムスも他のメンバーと同じくロチェスターの理数系学校出身で、ジョニー・シモンズとは特に仲が良かった。元々彼は現代的なカシオのキーボードを弾いていたが、それは真空管アンプを通したラウドで特徴的なオルガン・サウンドに取って代わられることになった。オルガンとグレアムの曲はプリズナーズに独特なサウンドを与え、ローカル・シーンの中で彼らを需要のあるバンドへと推し進めることになった。1982年の前半、彼らは地方の会場でのみギグを行なった。最も有名なところでメドウェイ・インディアン・クラブ(MIC)であったが、そこでのミルクシェイクスとのライヴがのちにライヴ・アルバムとなった。

ミルクシェイクスは、プリズナーズのバンドとしての姿勢に明らかに影響を与えていた。それは“自ら進んでことを成し遂げる”精神をバンドに植え付け、それによって彼らは精力的にギグを行ないレコードを作っていくようになったのだ。ギグによって金をため―アランのガールフレンドが管理をしていた―が、ジェイミーがニューカッスルの大学へ通うためバンドを去ることになり、拍車がかかったバンドは“A Taste Of Pink!”をレコーディングした。アルバムはハーンベイ(Herne Bay:ケント州)のスタジオで二日間で録音された。初日―日曜日―はバッキング・トラックとガイド・ヴォーカルの一発録りであった。翌日はリード・ヴォーカルと全てのリード・パートがオーヴァーダブされた。エンジニアに子供が生まれるという差し迫った状況の中で、全ては1時間以内にミックス・ダウンされた。

このアルバムによってバンドがメドウェイから飛び出すことが告げられた。アルバムは前日の夜、アランとグレアムがグレアムのキッチン・テーブルでジャケットを作り、西ロンドンのポートベロー・ロードにあるMaykingレコーズでプレスされた。彼らは500枚のプレスのための金をなんとかかき集めた―そしてそれ以上売れるとは思ってはいなかった。彼らにはジェイミーが抜けるまで2,3週間しかアルバムを売る期間がなかったし、みなそうなるであろうと思っていたのである。

しかし二つの事件が起こった。最初はジェイムスの大学生活がたったの三日間しか続かず、彼がバンドに戻ってきたこと、もう一つはアルバムがその60sに影響を受けた生きいきとしたガレージ・ロックのブレンドとして、熱心な支持者を生み出し始めたことだ。おそろしく原始的なレコーディングであったかもしれないが、オープニングの強烈な‘Better In Black’から剥き出しの怒鳴り声が聞ける‘Don’t Call My Name’までわずか30分ちょっと、ダーティーでアドレナリンの出るようなギター・ミュージック、簡潔でシャープで殺人的に焦点が定まっていた。ジョン・ピールは‘Better In Black’をラジオで流し、ラフ・トレードはアルバムを200枚オーダーしてきた。プリズナーズは大きく羽ばたき始めていた。200枚はソールド・アウトとなりラフ・トレードはさらに500枚をオーダーした。この現象は続く数年間にも同様に繰り返されたのだ。

我々はこのCDのためにアーカイヴ・テープをくまなく探した結果、いくつかの理由からアルバムに収録されなかったあるトラックを発見した。バンドが当時あまりにザ・ジャムに似ていると判断したからかもしれないとアランは考えている。今日、強烈なエネルギーを持ったその‘Baby Come Alive’は、素晴らしい追加トラックとなった。ミックス・マスターが手に入らなかったため、ここではグレアムのガイド・ヴォーカル入りのモニター・ミックスが使用された。

次の2曲はどちらもスタジオ内でのライヴ・レコーディングだ。‘There’s A Time’は1983年にスカイドッグ・レーベルからリリースされたフランス盤シングルだ。ここでのヴァージョンは、オークウッド・スタジオでミルクシェイクスとレコーディングしたスプリット・アルバムのアウトテイクである。‘Pretend’はベルギーのラジオ・ショーからで、この時バンドは‘One Mint Julep’とスモール・フェイシズの‘Grow Your Own’もプレイしている。セッション最後にジョニー・シモンズがスピーカーを押し倒してしまい(プリズナーズはミルクシェイクスと出演していた)、それはバンドが弁償した。

ジェイミー・テイラーが再加入してからもバンドはケント州でギグを続けた。バンドは1983年の1月までロンドンでギグはやらなかった。初のロンドンはBarracudasとのハムステッド、ムーンライト・クラブにおいてであった。その同じ日の夜には、BBCラジオ・ケントが局のスタジオで録ったバンドのセッションをオンエアした。このセッションから我々はセカンド・アルバム“Wisermiserdemelza”に収録されることになるこの時点での新曲、‘Somewhere’を収録した。1983年1月、カンタベリー、Quinesのギグで演奏された‘Love Changes’の初期ヴァージョンも収録した。その問題の夜というのは、ひどい大雪の天候でほとんど空っぽ状態であったことだ。

1983年のライヴ・ワークと“A Taste Of Pink!”にハマった熱心なファンたちが、バンドにとって上向きに急カーヴしていることを象徴していた。これが翌年のビッグ・ビート・レーベルとの契約と全国TVへの出演へとつながっていったのである。エキサイティングなバンドのエキサイティングな時であった。
Dean Rudland, 2003


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