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The Pretty Things/S.F. Sorrow/2002 Repertoire Records REP 4930



これはロック・ミュージックの短い歴史の中で、注目すべき時代に作られた注目すべきレコードのストーリーであり、今日に至るまで1960年代の隠れた真実を最良に保持するものである。

もしUSAが50年代を代表するなら―エルヴィス、マリリン、ひれのついたキャディラック、そしてアメリカン・ドリーム―1960年代はもっぱらオールド・イングランドの時代だった。“E”タイプのミニ・クーパー、ミニスカート、“スウィンギン”ロンドン、赤レンガ、そして世界を先導した“The Beatles”

ユース・カルチャーとそのトレンドはニュー・メディアによって完全に支配され、10代の若者たちにインスパイアされていた。それは“The Beatles”によって導かれ―“The Stones”によって駆り立てられていたが、かなり純真なものであった―これは即座に思い通りにできる“pop”カルチャーを創造した一般的雰囲気であった。

60年代初頭は全てが違っていた・・・カラーTVはなかった。チャンネルは二つのみだった。衛星放送がなかった。ビデオもなかった。コンピューターもなかった。音楽ラジオもなかった。スポーツは学校で週1回にやるものだった。金は重要じゃなかった。スニーカーさえ発明されていなかった―ナイキ(Nike)はちょっと綴りを変えればナイス(nice)だったが。

ロリータの時代であった―あどけないが利口―自信はないが貪欲―まだヴァージンであったが“クロム合金”のセクシーさがあった。知覚の爆発、テクノロジーの発達、そして限りないコミュニケーションの拡大―その頂点にあったものが・・・音楽であった。

1965年における音楽の1年間は完全なる生存期間であった。一つの新しいバンドの見積もられた寿命―それは3ヶ月、あるいは半年だった。一つのヒット、多くて二つのヒット、それからさらにどえらいことへ。これは1960年代初頭から半ばにかけて普及した風潮だった。そしてその本質は―供給すること、育てること、その興奮状態、貪欲さを持続させることだった。無慈悲な“スウィンギン・シーン”は安っぽく簡単で、みなの新しいドラッグだった・・・1枚の小さな黒いヴィニール盤、簡単に作ることができ、簡単に買うことができ、魅力的で使い捨てで、完全に、絶対的に中毒性あるものだった。

我々は7インチ・シングルに60年代の全てを打ち立てた。1963年から1967年まで我々が“The Swinging Sixties”として覚えている時代のサウンドトラックは、これら容易に手に入る小さなプラスチック盤によって奏でられた。我々自身の生活のバッキング・トラック―指紋と同じそれぞれ違った個人の―は、それらによって定義づけられた。我々全てが中毒者だった―ニューモールデンからニュージャージーまで―同じ兆し、同じ病気だった。彼らは今なお治療法を見つけていない。

私にとってそれがピークに達したのは、“Good Vibrations”の1966年だった―そこから先、我々が小さな7インチのプラスチック盤を手に入れられる場所はなくなってしまった―OK, あるいは1967年の“A Whiter Shade of Pale”のきらめく白熱光がシングルにとっての最後の“決着”(“throw of the dice”)だったのかもしれない。しかし実際、我々は先に進まねばならなかった―そして我々は‘我々を導く神々’に視線を向けることになった。
以下がこれから我々が入り込むところだ。

それは1966年である。
“The Beatles”はお決まりのパターンの7インチ・シングルに飽き飽きし始めた。彼らは7インチ・シングルよりも長い音楽を欲しがっている。彼らは変革する力を持っている。彼らは境界線を探求する自由を持っている。

この年の終わりまでに、7インチ・シングルは死んでしまうだろう。

1967年に入る。
EMIは世界で最も強力で最も草分け的レコード会社だ。彼らはイングランドでは“The Beatles”を保有し、アメリカでは“The Beach Boys”を保有している。彼らはアビー・ロードを持っている。彼らはジョージ・マーチンを持っている。彼らは全ての人々の判断基準だ。そして彼らは今、注意を向けている。

彼らは今、見聞きし、知ろうとしている。彼らはUFOとミドル・アースに行った。彼らは来たるべき事態を目にし、それを表現するニュー・バンドを発見し契約を交わした。彼らは“The Pink Floyd”と契約した。彼らは“The Pretty Things”と契約した。これら両バンドはブライアン・モリソン・エージェンシーに所属していた。保守的なタレント・スカウト人として成功していたモリソンは、信じられないスピードで変化する空気に順応していた。彼はデンマーク・ストリートの自分のオフィスで、1人の若く攻撃的な男、熱心なチームと働いている。そしてその男は“The Pink Floyd”が擁するシド・バレットとなる―彼らは40分間の歌とステージのライト・ショーを完成させる。

モリソンはこの時までに“The Pretty Things”のめざましい4年間をマネジメントしていた。彼らと共にアート・カレッジでモリソンは、トラブル・メーカーである初期の彼らのR&Bキャリアを取り巻く聴衆の熱狂とパラノイアに何年も身を置いてきた。彼は完全なる天性の“ドラッグ好き(ごろつき)”で気まぐれな奴を目撃していたが、そのヴィヴ・プリンスはお払い箱にした。そして彼は粗暴だがあまり才能のないペンドルトン(リズム・ギター)とスタックス(ベース)の脱退を経験していた。

彼はこのバンドと共にいたが、バンドはすでに飛び立とうとするかのように思われた―イカルスのように墜ちたあと、太陽に向かい始めていた―彼は新しいラインナップと共に断固としてとどまった。それは既存のメイ、テイラーそしてスキップ・アランの編成にポヴェイとウォーラーが加わったラインナップだ。

この編成はザ・プリティ・シングスにとってすでに3度目のものだが状態は安定している。メイとウォーラーは二人が4歳の時からの幼なじみだった。一方ポヴェイはErith(地名?)の青年だ。これら昔から続く郊外出身者同士の関係は強く深い―そして財産である過去のアルバム、The Pretty Things(ファースト・アルバム)が彼らの初期の成功の強固な基盤となっているようである。自然に予想される展開は、成功した初期のR&B路線を拡張させ、ポップ・ミュージックのさらなる“開放”と“イングリッシュネス”主義へと彼らを推し進めることだった。例えば“The Kinks”“The Small Faces”のように。しかしそれはフィル・メイが意図していることではない。

“ザ・サマー・オブ・ラヴ”―そして3つの驚くべきオリジナルでユニークなLPレコードのレコーディングが、EMIのアビー・ロード・スタジオで進行中だ。それらは全てノーマン・スミスの独特なエンジニアリングとプロデュース・ワークを含んでいる。3枚とも広く称賛され、大きく成功し、モダン・ミュージック史上、永遠に議論の余地を挟むことのないところへと創造主たちを導いている。

そのレコードとは: “The Beatles”の“Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band”、“The Pink Floyd”の“Piper At The Gates Of Dawn”そして・・・“The Pretty Things”の“S.F. Sorrow”である。

これはほぼ真実だ。これらのレコードは一つのことを除いて先述した全てを保有している。一つのこと―(商業的)成功である。“S.F. Sorrow”の中で“The Pretty Things”は‘レコード’を作っていた。それは当時制作されたほとんどいかなるレコードと同等のものだった。しかし様々な商業上の理由から、彼らは“Pepper”と“Piper”に与えられた露出、プロモーション、サポートが与えられることがなかった。そして“Sorrow”は予言的なタイトルとなってしまった。ロシアン・ルーレットに興じる永遠の敗者―そこにはいるべき場所がほとんど与えられていない―当時は。

そこで私はその音楽、サウンドに焦点を当て、このアルバムを創り上げた真にオリジナルなコンセプトと今30年を経て“誤解を正す”機会を設けようと思う。

当時の水準からいってもかなり限られた予算においてEMIは“The Pretty Things”に、S.F. Sorrowの全行程である作詞作曲、レコーディング、そしてプロデュース作業を行なうことに同意した。その予算はフィル・メイが回想するところによれば、トータルで3000ポンドだった―これで全てをカヴァーするわけだ。“僕らは全て自分たちでやったよ・・・僕はスリーヴをデザインしたし、ディックは自分の古いペンタックス(彼は今でも持ってる!)で写真撮影を計画した。そしてブライアンが僕らとノーマンのミーティングをセッティングした。僕らはかつて彼とはThe Beatlesのセッションかなんかで1度か2度会ったことがあるけど、本当のミーティングはこれが初めてだったんだ。”

フィルは驚いたことに今も全てをはっきりと覚えている。“僕らは1967年にEMIと契約を交わして、すぐさま新しいところへ向かって事を起こすための明確なアイデアを考え出した・・・僕らは全くの新曲をたくさん用意した。僕はしばらくの間、ショート・ストーリーを書いていたんだ―アイデアをひねり出して、それをプレイしてみて、また書き直して―うんざりするほどだったね。思うにもし僕らが1枚のシングルの制約に支配されずにアルバムを作ることができれば、僕らは1曲を1枚のアルバムの長さでレコードが作れるんじゃないかと次第に思い始めていたんだ―つまり曲が交互に混ざり合っているような感じだ―クラシック音楽の世界じゃ当たり前だし、僕らがやってもいいじゃないか?ってね。”

“僕らはDefecting Greyを持ってスタジオに入り、コンソール・ルームのノーマンと共にこれの本当のロング・ヴァージョンをレコーディングした。これは思いがけないことだった―彼はすごくクリエイティヴで、すぐにバンドの‘6人目のメンバー’になったね。彼は実際僕らの背中を押してくれて、僕らはみんな一生懸命曲作りをしたよ。ウォーリーは歌い、曲を書き、ポヴェイは新しいサウンドをうまく表現していた―The Beatlesがセッションで使っていたメロトロンとジョージ(ハリスン)のシタールは、彼らがいない時に僕らが借りたんだ。”“Defecting GreyはS.F. Sorrowのための宣教師になったんだ。僕らはこれの素晴らしい5分か6分のヴァージョン(ここに含まれている)をレコーディングしたんだけど、結局7インチ・シングルとしてカットするには長過ぎたんだ。僕らは結局大幅に編集して短くしたヴァージョンを使った。でも古い12インチのアセテート盤がどこかにあるよ。”

創造的なプロセスに加えて、全くありふれた問題が持ち上がってきていた。バンドは多くのトラックをレコーディングしていたが、実際にアルバムが作られていなかった。しかし2枚のシングルのリリースが1968年暮れのEMIからのS.F. Sorrowの(やっとの)リリースを導くことになった。レコーディングはThe BeatlesThe Pink Floydと並んで、1967年のうちにスタートしていた。その時のラインナップであるメイ、テイラー、ポヴェイ、ウォーラーそしてアランは、先のシングルと“S.F. Sorrow”の最初の数曲を全て完了させていた。アルバムのためのマテリアルは全て書き上げられていて、バンドはセッション中の不足分の収入を補うためにギグをしていた。

この時期、スキップ・アランがヴィヴ・プリンスが残していった狂気と破壊の権威の穴を完全に埋めることになった。そして彼は自分のボロボロになったミニ・クーパーでフランスに向かうことを決め、最終的にビアリッツ(フランス南西部)に落ち着いた。彼はベタ惚れの若いフランス娘を連れて戻ってきた。スキップは絶対的にフランス人的な教養は持っていなかったが、彼らは“ゴシップ”になることに決めた。彼はミーティングのためにブライアン・モリソンを訪ねた時のことを回想する・・・“僕はバンドをやめてその子と普通の生活を送ろうと決めてモリーに会いに行ったんだ(女の子は英語をしゃべらないし、スキップはフランス語の能力に欠けている―象徴的だ!)。僕がバンドを抜けたと言ったら彼は見上げて‘OK, スキップ―じゃあな’って言ったよ。そして自分の客か誰かのところへ戻っていった。僕らと深く関わっていたトニー・ハワード(のちにモリソンのところのもう1人のアーチストであったT.Rexのマネージャーになる)は信じられない様子だった―彼はブライアンにこう嘆願した。‘ブライアン、君は彼をやめさせてはいけないよ。S.F. Sorrowはどうなる?’ってね。かわいそうなトニーは完全に取り乱してしまった。ブライアンは興味を失っていた―彼は見上げてこう言った。‘トニー、彼はすぐ戻ってくるよ’ってね。トニーはオフィスから歩いて出て行ったよ。”
“うん、僕らはS.F. Sorrowの半分をほとんど完了していたし、デモも全てを終えていた。でも僕は彼女にマイってたかなんかで、彼らにひでえことをしてしまった―彼らはあんまりハッピーじゃなかったよ。”

フィルは回想する―“僕らはEMIによって2度以上リリースを差し戻されていたS.F. Sorrowを仕上げるためのスケジュールを組んでいた。それで僕らはずっとシーン周辺にいたトゥインクと提携したんだ。彼は僕が覚えている限りすごく金に執着していたが、僕らは完全に文無しだった―そこで僕らは彼に僕らと一緒にアルバムを完成させる返礼として、アルバムの全ての出版権を彼も共有することに同意したんだ。スキップはEMIと契約していて、すでに多くのトラックのレコーディングを完了していた。これが僕らができる精一杯のことだったんだ。今でも本当に心が痛むね。ここに入っている曲は全て彼がやって来て彼の名前が出る前に書かれたものなんだ―でもそういうことさ。僕らは彼にお返しをするすべがなかったし、それが唯一僕らが提供できることだったから。彼はほんの数曲のクレジットに取りかかったんだけど、結局全ての曲にクレジットされることになった。ブライアンは今日まで出版権を持っている。僕が思うに、何か本当のことがついに明るみに出たらトゥインクは儲かるだろうね。それがロックンロールってやつさ!トゥインクとウォーリーは互いに嫌っていた。それは本当に‘天が仕組んだこと’なんかじゃなかったね。トゥインクが僕らと一緒にいたのは1年にも満たなかった。ある晩ステージでひどい‘殴り合い’が起こって、次のギグにはスキップが戻っていた―彼はそれ以来いることになったよ。”

私の見るところでは、このアルバムの商業的失敗がもたらしたのは唯一つ、あやうくメイとテイラーを苦痛に苛ませるところだったということだ。彼らは二人ともキャリアの中でこれは“至宝”だと思っているし、もし批評家たちの絶賛と仲間のグループへの影響が金になるなら、今ごろ彼らは大金持ちになっていただろう。あなたがこのレコードを聞けば、彼らの考えに容易に共感できるだろう。

S.F. Sorrowは間違いなくレコーディングされリリースされた。初の、そして最も完璧な“Rock Opera”だ。アルバムのコンセプトとプロダクションはTownshend“Tommy”より丸1年さかのぼるし、それが彼の曲作りとレコーディングに“重要な影響”を与えたことを彼が認めていることは広く知れ渡っている。当時タウンシェンドの親しい友人だったアーサー・ブラウン(より重要なのは彼もまたランバートとスタンプと契約していたことだ)は、そのレコードがキット・ランバートに影響を与えたことの方がより核心を突いていると示唆する。“彼はそのアイデアのパワーに打ちのめされて、タウンシェンドに執拗にS.F. Sorrowみたいなオペラを書くよう強調していたんだ。” ブラウンは回想する―“ランバートは本当にクリエイティヴだったし、‘トミー’をアメリカに送り出してザ・フーのキャリアをたくわえた―あるいはS.F. Sorrowと“The Pretty Things”が犠牲を払ったのかもしれないね。”

商業的失敗の理由がどうであれ―そのぬぐうことのできない素晴らしさという真実と草分け的オリジナリティは、誰の目にも明らかだ。ここに聞けるノーマン・スミスのプロダクション、愛情あるリマスタリングは信じられないほどだ。“The Beatles”George Martinとのノンストップの仕事の経験は、スミスの中に独特な才能を創造した。しかしスミスはこのレコードの価値あるプロダクションに対して称賛を受けたことがないのである。レコーディングは全て古い価値基準だった4トラック・マシンで行なわれたのである・・・“僕らはこのいろんなサウンドを一つのマシンからもう一つのマシンにピンポンさせていたんだ。時には何100回っていうオーヴァーダブをしながらね。” テイラーは回想する。“ノーマンはあそこに座ってわずかな調整をしたり、ケン・タウンゼンド(当時のアビー・ロードでのチーフ技術者)を呼んで何か他のことをさせたりしてたな。‘ケン、もう一つ小さなボックスを作ってみたらどう?’―すると1時間か2時間後にケンが驚くべきやつを持って戻ってくるんだ。それはVC10みたいなカズー・サウンドを作り出したね!”

スミスはきっと覚えているだろう。1967年を通じてノンストップで働いたこと、我々が“Psychedelia”と“The Summer Of Love”として記憶する“嵐の目”の中で絶対的に焦点を当てられていたこと。彼は“The Beatles”から“The Pretties”へ、“The Floyd”へと動いていった。その年、彼はまさにトップで―しかし動きのとれない―関わり、“The Pretties”“The Floyd”が表明した“サイケデリア”の新しい波の基地にいた唯一の男だった。彼はその3枚のレコードが表現したレンガ建造物の間にある割れ目に入ったモルタルだ―彼らがついに組み立てた全ての建造物の価値は、あまりに明白である。我々はその途中で“S.F. Sorrow”を見失ってしまった。そして今、どういうわけか我々は価値ある成功の断片にも到達しなかった注目すべき草分け的レコードを再発見する機会が与えられたのだ。

ボーナス・セクションには、S.F. Sorrowのプロジェクトのためにバンドがレコーディングした4曲が収録されている。オリジナルで未発表の“Defecting Grey”は“未編集”の5分強ヴァージョンだ。“Mr. Evasion”はリリース・ヴァージョンの“Defecting Grey”のB面だ。驚くべき“Talkin’ About The Good Times”はタイトルを変えて今日Creation Recordsへ送れば、明日のインディ・チャートに入るだろう。オリジナルのB面は“Walking Through My Dreams”だ。

読んで涙を・・・

これは1967年と1968年の“最先端”作品だ。そしてそれはまた今日の“最先端”だ―30年後の。このレコードを作った男たちは、今も共に新しいオリジナル・ミュージックを作っている。しかしもし彼らが他のレコードを作らなかったら、あるいは他の曲をプレイしていなかったら―このアルバムだけが―彼らにふさわしい賛辞を供給しただろう。このレコードは“Sgt. Pepper”及び“Piper”と同じ息吹きの中で語られる価値がある。初めてこの音に触れる人たちへ―あなたは類まれな歓待の中にいるのである―あの年、あのスタジオ、そしてあの瞬間の記憶とマジックが染み込んだものだ・・・

これはS.F. Sorrow、あの長く暑いサマー・オブ・ラヴの中で失われた真の未知の至宝である。

マーク・セント・ジョン、1998年7月ソーホーにて


All Music Guide Review
by Bruce Eder & Richie Unterberger



1965年のプリティ・シングスの最初のレコーディング・セッションのこと―オリジナル・プロデューサーがフラストレーションの中、手を引いてしまったという悲惨な状況で始まった―を考えてみれば、ここまできたのが信じられないほどだ。プリティ・シングス初期のスタジオでは、アンプのヴォリュームは見たところ11まで上げられていたようだが、S.F. Sorrowの多くのナンバーでバンドは7か8、あるいは2、またあるいは全くアンプを通していない(ウォリー・アレンのベースは除いて―もちろんだが)。ここで聴ける様々なフォーク・スタイル・ナンバーはそれでも十分にブルージーで彼らならではであり、パーカッションとコーラスはその中にあって少しの逸脱を伴った神秘的なものだ。ヴォーカル・ハーモニーは気味が悪くトリッピーで、奇妙で愉快でもある。多くの弦楽器の中にはシタールも含まれている。ハードなオルガンはまるでメロトロンのような響きだ。ところどころピンク・フロイドのPiper at the Gates of DawnやA Saucerful of Secretsを思わせるが、他に名をあげることのできるほとんどのアルバムよりもブリティッシュ・ブルースとブリティッシュ・サイケデリアに深く根ざしている。

あまり知られていないこのアルバム“S. F. Sorrow”は、いわば英国の平凡な人間についてのストーリーを伝えている―一生の間、労働者階級であることを喚起させ、もう1枚の不運なアルバム、キンクスのアーサーを思い起こさせる。物語と楽曲は若干陰鬱で、綿密でないところはロック・オペラであるS. F. Sorrowが、結局少し混乱した作品であるという事実を覆い隠すことになった―彼らはミュージシャンであり、作家あるいは劇作家でもなかった。ザ・フーのトミーにインスピレーションを与えたのは事実であるかもしれないが、これは単純にトミーほどの作品ではない。いわばこれは最初の卓越したアイデア作品であり、そういった雰囲気をかもしだした作品であった。またこれはどこか、全体に目標を見失ったローリング・ストーンズのサタニック・マジェスティーズ、“We Love You”や“Child of the Moon”とベガーズ・バンケットの持つブルースとサイケデリアの間の過程をよく示している。〔このSnapperからのリイシューCDは、1967〜1968年にかけての4曲の貴重なシングル(“Defecting Grey”、“Mr. Evasion”、“Talkin’ About the Good Times”、“Walking Through My Dreams”)が追加されている。この“Defecting Grey”が、編集されていないオリジナルの5分ヴァージョンであり、決して見過ごせない重要な事実だ。公式シングルのショート・ヴァージョンよりも優れている。〕


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